9 / 10
8章
混沌
しおりを挟む
☆※誠視点
誠が麗香の部屋に着くと、消防隊員が窓から麗香の部屋に入り、救出するところだった。風呂場で手首を切ったらしかった。もう少し遅ければどうなったかわからないと言う。沙羅が即座に手配してくれたおかげで助かった。
一緒に病院へと付き添う。
酒と薬で意識が朦朧としていたが、手首の傷はすぐに縫合手術が必要で、麗香の両親もあとから病院に駆け付けた。
「救急車を呼んでくださり、ありがとうございます」
おそらく自分が娘の不倫相手だったと知りながら、母親は礼を言った。父親は、娘の不倫相手と知ると、誠を殴りつけ、看護婦と母親が止めに入った。
人様の大切な娘をもてあそんだ結果、こうなってしまったのだ。殴られても仕方がない。
病室で土下座をして詫びるしかなかった。
自分のしたことで、人の命が失われるところだった。今さらながら罪悪感で押しつぶされそうになる。
「私の落ち度でこの度は申し訳ありませんでした」
「ここまで追い詰められていたなんて……」
罵倒されても仕方がないと思っていたが、怒りより悲しみのほうが大きいようで、母親は麗香の手を握りしめ泣いていた。
「皆川さんからうちのほうに連絡があったんです。もう執拗に追い詰めることはしないからって。あなたの奥さんから連絡があったそうです」
式場のキャンセル代や慰謝料は、麗香の両親が一緒に支払っていくと言う。
「沙羅がそこまで……」
本来なら守るべき妻に、そこまでさせてしまったことに自分のふがいなさを感じる。
麗香に対して複雑な気持ちもあるだろうに、沙羅の芯の強さに驚いた。
──そうだ。沙羅のそういうところに惹かれたんだ。
仕事に忙殺され、ささやかな日常の幸せを忘れて、誘惑に負けて大切なものを失った。迷いなく自分を送り出した沙羅の目を思い出す。
同時に、沙羅の気持ちが1ミリも残っていないのだということを痛感した。麗香への嫉妬や恨みすらもない。沙羅の中では、もう終わったことなのだと。
ずっと心の中にあった未練が、断ち切らなければならないものだとようやく悟る。
自分が気づかなかっただけで、沙羅をたくさん傷つけたのだろう。子供が欲しいというのに、まだ焦る必要はないとろくに話も聞かずに、治療にも協力しなかったこと。
遊びで沙羅を捨てるつもりはないから大事にならないと、高をくくっていたこと。
いつからか沙羅の笑顔がくもっていたことに気づかなかった。
幼少期に沙羅が父親に捨てられた傷をえぐったのは自分にほかならない。
麗香とのことを疑いながら、一緒に暮らすのはどれほど辛かっただろう。自分にとっては軽い気持ちでも、沙羅が辻村とどうにかなるかもしれないと思ったことで初めて気持ちを考えることができた。
大切なものを奪われる屈辱と悲しみは、絶望的に深い。
──こんな想いをずっとさせてたのか……。
沙羅が別の男と恋愛していると思うと、世界が崩れ落ちるような気がした。自分に非があるとわかってはいても、負の感情がこらえきれずひどいことを言ったりもした。
嫉妬に狂い、戸籍で縛り付けようとしたが、もうこれ以上不幸にしたくない。
今も沙羅を失うことを思うと、恐ろしい。
けれどこれ以上自分のエゴで沙羅を縛ってはいけない。自分も変わらなければいけない。
──沙羅を自由にしてやろう。
☆心の荷を下ろして
誠を麗香のもとへ送り出した翌日、沙羅は病院にいる母のもとへ向かった。
見舞いというより、自分が母に会いたくなったのだ。
母の容態は日に日に悪化しているが、精神的には落ち着いていて、そのことが逆に痛ましかった。
「沙羅、誠さんとなにかあったの」
なかなか一緒に病院を訪れないことに疑問を抱いたようだった。
「……なにもないよ。仕事が忙しいだけ」
「嘘おっしゃい。様子を見てたらわかるよ」
余命わずかな母に、本当のことを言っていいのか、わからない。
「沙羅。言いたくないならいいけど、一人で悩んで辛いなら、言いなさい。あなたの心の荷が少しでも下せるなら」
こんな時でも娘を想える強さに、優しい声に、泣いてしまう。
「だいぶ前からもう私たちは駄目なの。こんな時に心配させてごめんなさい」
母を悲しませまいと隠してきた秘密を打ち明けると、心が軽くなる。
「あなたは家のゴタゴタで、苦労させたから、我慢が癖になってしまったのね。我慢ばっかりしてると我慢してることすら気づかなくなってしまうから」
「うん」
「しがみつくより手放すほうが楽なこともあるの。一人でだって生きていけるよ」
失うかもしれない愛情に怯えながら暮らすのはもう嫌だった。
「うん……一人になっても大丈夫なようにちゃんと頑張る」
「どんな時も、沙羅の味方だから。どんな形でもいい。辛かったら逃げても、負けてもいいから楽なほうを選びなさい」
「ありがとう」
泣いている沙羅の手を母の手が優しく包む。
すっかり痩せて細くなった母の手は、ひんやりと冷たく別れの時が近づいていることを知る。
☆
「これ書いたから」
母の病院から帰ると、誠から離婚届を渡された。
「沙羅、本当にごめん。どれほど傷つけたか、今さら気づいても遅いけど謝りたい。沙羅と一緒になれて幸せだった」
「うん。私もごめんなさい。結婚して幸せだった時間も、忘れないで生きていく」
初めてのデートにプロポーズ、結婚式。二人で幸せだった日々は遥か遠い夢のようだけれど、それもまた自分の人生の一部だったのだ。
最後に美しい思い出としてしまっておけるくらいには気持ちが落ち着いている。
「最後に抱きしめても?」
「うん」
多分初めて触れ合った時よりも緊張したと思う。
この温もりを互いに離さない未来ももしかしたらあったのかもしれない。一瞬そんな思いもよぎったけれど、まだこれからの人生のほうが長いのだ。
☆さよならの向こう側
離婚が成立して、数日後。
「私、離婚しましたので苗字が変わります。飯村沙羅になりました」
一応職場の皆に報告すると、パートの一人が明るく声をかけてくれた。
「おめでとうっ!」
あまりに本心からよかったねという言い方で、思わず笑ってしまった。
「おめでとうは不謹慎じゃないですか?」
別のスタッフが眉を顰めたが、沙羅は嬉しかった。
「いえ、再出発なのでおめでとうって言われて嬉しいです」
今時離婚なんて珍しい話でもないが、やはり話すのは勇気がいる。
納得いかない義両親への説明や、金銭面の整理など気が滅入ることが続いた。
誠と暮らしたマンションを出る時、新しい部屋は借りずに母のアパートから病院と職場を行ったり来たりすることにした。
片道電車で2時間かかるので、体力的にはだいぶきついが、一人暮らしだから家事もたいしてすることがないし、しばらくこの暮らしを続けるつもりだった。
「泉さん、じゃなかった飯村さん。ちょっといい」
マネージャーの高梨ナナに、こっそり声をかけられる。仕事のできる美人なキャリアウーマンで、社内では辻村の恋人だとも噂されていた。
「なんでしょう」
「ね、離婚の原因って辻村さんじゃないわよね」
「……違います」
直接の原因ではないけれど、無関係とも言い難い。全て見抜くような目で見られ委縮する。
「そう。プライベートは別に構わないけど、辻村さん今雑誌とかテレビの取材とかも受けていて、まるきり一般人ってわけでもないのよ。だから変な噂が立つのは避けてね」
最近世間で、不倫──特に有名人の不倫は犯罪の如き扱いで、ともすれば全てを失うこともある。一般人の誠や麗香も失ったものは大きかった。
誠も来年から北海道にある支店に左遷されることになった。麗香は心を病んで仕事をやめて実家に帰り療養しているらしい。
「はい。お店や辻村さんにご迷惑をおかけするようなことは決してしません」
来年から海外にも支店を出す関係で、辻村はこれまで以上に多忙になる。母の看護を続けながら、会うのは難しくなる。
沙羅が一人身になったことで、逆に今後は疎遠になるような気がしていた。
[沙羅、会いたい]
最近はイベントで全国を飛び回っている辻村からメッセージが届いた。
辻村とは離婚してからきちんと話していない。
これからどうしたいのか、自分でもわからずにいた。
──またうまくいかなくなったらどうする?
自分との関係は、一時的なもので、いつか彼にふさわしい女性が現れるのではないかという思いもぬぐえずにいた。
自分自身もう結婚なんてこりごりだった。
結局のところ、離婚という大事件で傷ついた心は、回復していなくて、全身ギブスで新しいことに挑戦していいのか。
今年で33歳になる。悩んだり迷ったりしているうちにあっというまに年を取ってしまうものだ。
勢いだけで行動できる年齢でもない。
自分にとっての幸せがもうわからなくなっていた。
☆喪失と自由
離婚して三か月。母の容態が急変した。
仕事を早退し、駆け付け、なんとか看取ることができた。
驚いたのは、お通夜に別れてから会ったことのなかった父親が現れたことだった。すっかり痩せて年齢よりもずっと年を取って見えた。
「一人で大変だったな」
その言葉にひどく感情を乱された。そうさせたのは、父親だ。まだ心の中で処理しきれない苦いものがたくさんあった。
「私の役目ですから」
もう自分の父親ではなく、他人だ。自分の中にいまだに父に捨てられて傷ついた少女がいる。結婚に失敗し、唯一の肉親の母まで喪ってしまった。
「なにもできなくて、悪かった」
そう言って父は香典とは別に沙羅に分厚い封筒を渡し、線香をあげて帰っていった。
見ると中には50万円ほど入っていて、それが今父親にできる精一杯だったのだろうと思うと複雑な想いに駆られた。
あとから親戚に、父が今一人暮らしをしていることを聞いた。詳しい事情はわからないし、聞きたくもないが、あの寂しい背中を見るとなんとも言えない気持ちになった。
お通夜と葬儀を終え、狭いアパートの部屋に一人帰ると、猛烈な孤独に襲われた。
辻村とは、彼の仕事が多忙になったことや母のことで離婚以来ほとんど会っていない。そんな気持ちになれなかったというのも大きい。
また同じ苦しみを繰り返すかもしれないと思うと、もういっそ一人で生きたほうが楽に思えた。
葬儀にかけつけてくれ、そのあと求婚された。来年から仕事でフランスと日本を往復する暮らしになるからついてきてほしいと。
『こんな時に言うことじゃないのはわかってる』
『今はそんなこと考えられません』
『まだ心の整理がつかないのはわかってるけど、待つから』
『私、結婚なんてこりごりです』
『遠回りしたけど、俺は沙羅と一緒に生きていきたい』
『少し時間をください』
母のことで、出社が難しい時は、テレワークでできる仕事を回してくれて、沙羅を支援してくれた。
恋人だからそうしたわけではなくて、普段から従業員の私生活にも極力配慮して経営していた。
そういうことができるのも商才があって、経営資金に余裕があるからだ。
結局、辻村の好意に甘えていた。けれど、もし辻村の愛情を失ったら、どうなってしまうのかと思う。
──これからのことなんて、考えられないよ。
徐々に回復しているように思えても、根っこにある人間不信は簡単にはぬぐえない。
一人ぼっちの部屋は、静かすぎて、怖くなってテレビをつけた。
画面には、ネパールの旅番組が映っている。壮大な山々、雄大な川、青く澄んだ湖、そして広がる緑の森林。
ぼんやりと見つめているうちに画面に引き込まれていく。
学生時代、あちこち飛び回っている辻村が自由でまぶしくて羨ましかったことを思い出す。自分は自由ではないような気がずっとしていた。
けれど、それは本当なのだろうか。自分で自分を縛りつけていただけではないのか。
──私はもう自由なんだ。
夫も母も、もういない。あるのは、落ち込んで元気をなくした心。
──行こうと思えばどこだって行けるんだ。やりなおしたい。リセットしたい。この泥濘から抜け出したい。
沙羅はおもむろに起き上がり、引き出しからパスポートと父親がくれたお金を出す。
「よかった。有効期限切れてない」
仕事は忌引きで一週間休んでいる。今しかない。
スーツケースを取り出し、一心不乱に荷物を詰めていく。スマホから航空券を予約して、空港へと向かった。
☆旅立ちと決意
カトマンズ空港に降り立った瞬間、遠くにあるヒマラヤ山脈の壮大な眺めに心を奪われた。
『まず自分が何者でもないって認めるために、旅に出るんだ』
今の沙羅には家族もいない。
学生時代の辻村の言葉を思い出している。何者でもないというのは、自由で孤独なことなのかもしれなかった。
リュックサックと小さなスーツケースひとつ持って、騒々しくて活気がある街に向かって歩き出す。けたたましい車のクラクションの音。スパイスやお香の香り。ストリートを飾る色とりどりの旗、そして壁画。
全てが鮮烈で、そのまぶしさに目を細めた。
──私が今まで悩んでたことって実は小さいのかも。
突発的に日本を飛び出し、この未知の世界に圧倒され、同時に胸を躍らせている。
にぎやかな街並みを歩く足取りが少しずつ軽くなっていく。
美味しそうなスパイスの香りにつられて、小さな地元の食堂に入る。シンプルな内装で壁には色々な写真が飾られていた。
ネパール語のメニューが読めなくて、適当に注文すると豆のスープと野菜のカレーが運ばれてきた。しっかりスパイスの効いたカレーは、頭をスッキリさせてくれる。
異国の地の日常は、落ち込んで弱り切った心に活気を与えてくれた。
食事を終え、カフェで口コミを見て、女性一人でも安全そうなホテルを探していると、突然日本語で声をかけられた。
「ちょっと! 後ろ!」
「えっ?」
振り向くと、男が沙羅のリュックに手を出していた。慌ててリュックを引き戻すと男は去っていった。
「ぼんやりしてたら盗まれるよ」
「ありがとう」
二十歳くらいのショートカットの女の子で、日焼けしていかにもバックパッカーですといういでたちをしている。
「旅、慣れてないの?」
「あ、うん。実は一人で海外は初めてで。しかも今朝思い立って来たの」
旅の達人のような雰囲気の女の子だから、沙羅が慣れていないこともわかるのだろう。
「どこに行きたいとかも決めてないの?」
「全然。今から考える。ホテルも」
「へぇ。そういう行き当たりばったりの旅をする人に見えないなぁ」
「ふふ。当たってる。ガラにもないことをしてみたくなったの」
人懐っこい女の子はユカと名乗った。バイトでお金を貯めては、旅に出るのだという。そういう行動力が自分にはないし、日本では知り合うことのないタイプだから、面白くて話が弾んだ。
「なんか日本にずっといると、息が詰まっちゃうんだよね」
「若い女の子の一人旅ってご両親心配するんじゃない?」
一回り年下の女の子だから、つい沙羅も心配になる。大人の自分だって心細いけれど。
「うん。でもどんなことしてたって、親は心配するものだよ」
「まぁそうだけど」
「中学から学校行ってなくて、家にずっといた時期もあるから今は好きにさせてくれるんだ」
「へぇ」
皆色々あるのだ。簡単に言えないことを抱えながらも、笑顔でいる人もいる。
「見て。聖地を回ってるの」
ユカは一眼レフを取り出して、今回の旅で撮った写真を見せてくれる。
夕日に染まる寺院が美しい。
「いい写真」
「でしょう。沙羅さんはどんなところへ行きたい?」
「うーん、決めてない。っていうかこの国のこと全然知らない」
「びっくり。むしろどうして来たの?」
「学生の時、好きだった人があちこち旅をしていたのを思い出して、私ならやらなそうなことをしたくなったの」
「ふぅん。そういうのって人生の転機によくあるよ」
「そうかな」
「予定がないなら袖振り合うのも多少の縁で、今日は一緒に回ろうよ。私明日帰国するの。ホテルもまだなら相部屋で安くなって助かるし」
思いがけない出会いだった。自分とは全く別の人生を歩むユカと旅を共にするのはとても魅力的だった。いつもならやりそうにないことがしたい。
「行く」
「決まり。じゃ、今日はパシュパティナート寺院に行こう」
夕闇が迫る中、ユカと古い路地を抜け、目的地へと向かう。
バグマティ川の川岸にある寺院は巡礼者が多く訪れるネパールの聖地だった。日が落ち切ると、ランタンに照らされた寺院は幻想的な美しさで沙羅を魅了した。
中庭から、僧侶たちが祈りの声が聞こえてくる。
沙羅は、その場の雰囲気に圧倒されながら、ユカの隣で静かに目を閉じ、祈りに耳を傾けた。
ふと見ると川でなにかを燃やしている。
「あれは?」
「火葬場があるの。焼いたら川に流すんだ。輪廻転生を信じて」
そう言って一人で川のほうへ歩いて行ってしまう。
ユカが首につけている小さなネックレスを外した。よく見るとガラスの小さな瓶で、中に白い粉が入っている。
蓋を開けて、その中身を川に撒いた。
流れていく川の水をユカは、静かにただじっと見つめている。
なんだか声をかけてはいけない気がして、黙ったまま見守る。
ホテルに戻ったユカがポツリと呟いた。
「さっきの白い粉、元カレの骨なんだ」
「うん」
特段驚かなかった。こういう場所ならなにが起きてもおかしくないようなそんな気がした。
その悲しげな横顔を見守り、ユカはもしかして、誰かに傍にいてほしかったのかもしれないと思った。その誰かになれてよかったと、そう思った。
「私が学校行けなくなった時に、ネットで知り合ってずっと付き合ってたんだけど、病気で死んじゃったんだよね。あんまり寂しくて、火葬場から戻ってきた時に少し失敬したの」
「そう」
「引かないんだね。沙羅さん常識人なのに」
ユカにとって、弔いの旅だったのだ。
「彼は色々な国に行きたがってた」
どうしようもなく不器用で見方によってはグロテスクな行為でも、沙羅は咎める気になれなかった。
「常識的に生きてたら幸せかっていうとまた別だから。そこまでひたむきに愛されて、彼も幸せだったと思う」
それは本心からの言葉だった。ユカの一途な愛に救われることもあっただろう。
「病気がちで、あまり遠くに行ったことがなかったから、どこかへ行きたいっていつも言ってたの」
「ネパールに連れてこれてよかったね」
「そーかな。独りよがりじゃないかって、迷いはあった」
「正しさだけを守って生きるには、私たちの人生は短すぎるのよ」
「ワオ! 大人みたい」
「大人ですから」
そう言って二人で笑った。こんな独特の楽しい夜はなかなかない。
「沙羅さんが旅したきっかけは?」
「夫に不倫されて、自分も不倫して、母が亡くなったの。色々道を踏み外してここにいます」
「はー。人生色々だ」
「まぁでもちっちゃい気もするな。私の悩みなんて」
「うんうん。そうだ。人生なんとかなる。私も帰ったら現実に戻る。またぱーっとどっかに行くとは思うけど」
ネパールの旅が終わったら日常に、現実に戻るのだという。将来は不登校や引きこもりの子を支援するNPOで働きたいと言うユカを心から尊敬した。
たくさんのことを話して、おしゃべりしながら眠ってしまった。
翌朝、帰国するというユカにまた日本で会う約束をして別れた。
一人に戻ると少し、いやかなり心細い。知らない場所は苦手だ。
あと二日。どうしても見たいものがあった。
辻村が昔見せてくれた沙羅双樹の花の写真は、散ったあとのものだった。どうしても咲いているところが見たい。季節的にはギリギリ見られそうだった。
けれども、たった一日しか咲かない儚い花。出会えるかどうかは運次第だった。
敢えて調べず自分の足で探し歩く。行き当たりばったりだから当然すぐに見つかるはずもない。やっと見つけても、散ってしまったばかりだったことも何度もあった。
長い石畳を歩き、時には山道を登る。日差しは強く、汗ばむ肌に埃がまとわりつく。でも、そのすべてが、自分に必要なことに思えた。
それでも、諦めずに歩き続けた。市場の喧騒を抜け、静かな寺院の回廊を彷徨いながら、色々なことを思い出す。
両親のこと、誠のこと。そして辻村とのこれから。
──私は一体なにを望んでいるんだろう。
もう少しで自分の心に届きそうな気がした。過去を振り返り自分が本当はなにを望んでいるのか考えた。
それこそ足が棒になるくらい歩き回って、そして考えた。
三日目。日本へ帰る日の朝。
もう駄目だろうなと思いながら、最後にと立ち寄った寺院の片隅にそれはあった。
「咲いてる……」
沙羅は息をのんだ。まるで時が止まったかのようにその場に立ちすくむ。
小さな淡黄色の小さくて可愛らしい花。夕方には散ってしまうのに、そんなことは関係ないとばかりに気高く、美しく咲き誇っていた。
その小さな花びらの一つ一つに、自分の過去の断片でも見ている気持ちになった。
「やっと会えた」
そっとその小さな花弁に手を伸ばす。柔かな手触りに、心に抱えていた葛藤から解放されるような気がした。温かい雫が頬を伝う。
どんな生き物も、植物も終わりがあるからといって生きることを拒んだりしない。皆刹那を精一杯生きている。
自分の名前が嫌いだったこともある。父を憎み、夫の裏切りに気づかないふりをして、辻村の好意に甘えていた日々。
たとえ、終わりがあったとしても、全てが嘘だったわけではない。
人を許すこと。自分を許すこと。信じること。その難しさを知りながら、心の中で決意を固める。
移ろいゆく時を誰かと共にいたいと願い、愛することを諦めたくない。
空港についてから、辻村に電話をかけた。何度かメッセージが来ていたけれど返信できずにいたのだ。きっと心配している。
「もしもし」
「連絡が取れなくて心配してた。どこにいるの」
「ちょっとネパールに」
電話ごしに驚いているのが伝わる。
「ちょっとって距離じゃないでしょう」
「辻村さんも、ちょっとアフリカ行ってくるとか昔言ってましたよ」
「そうだっけ。いつ帰るの。そっちへ行こうか?」
ちょっとの距離じゃないと言いながら、フットワークが軽いのが彼らしい。
「いえ。今から帰ります」
成田空港に到着すると、辻村が迎えに来ていた。沙羅を見ると、駆け寄ってすぐに抱きしめる。
「なんとなく、もう会ってくれないんだと思ったよ」
「少し、考えたくて」
「また裏切られるのが怖い?」
「怖い。でももしあなたがフラフラしてたらちゃんと喧嘩する。ほかの女性に惹かれたら取り戻す」
「変わったな。沙羅」
「もう逃げない。好きな人を手放したくない」
たとえ失ったとしても、この瞬間の気持ちは本物で、嘘になるわけではない。辻村ともどうにもならない別れが来るかもしれない。
ずいぶん遠回りをした。また失敗するかもしれない。それでもいい。
今ならまっすぐな気持ちで言える。
「私にはあなたが必要なの。これからも傍にいてください」
無言のまま強い力で抱きすくめられる。
辻村の肩越しに、空港の外にある空が見えた。
夕焼けの中、飛行機が滑走路から離陸し、空高く上昇していく。オレンジの光を浴びながら、飛行機は自由な空の向こうへと飛んでいった。
誠が麗香の部屋に着くと、消防隊員が窓から麗香の部屋に入り、救出するところだった。風呂場で手首を切ったらしかった。もう少し遅ければどうなったかわからないと言う。沙羅が即座に手配してくれたおかげで助かった。
一緒に病院へと付き添う。
酒と薬で意識が朦朧としていたが、手首の傷はすぐに縫合手術が必要で、麗香の両親もあとから病院に駆け付けた。
「救急車を呼んでくださり、ありがとうございます」
おそらく自分が娘の不倫相手だったと知りながら、母親は礼を言った。父親は、娘の不倫相手と知ると、誠を殴りつけ、看護婦と母親が止めに入った。
人様の大切な娘をもてあそんだ結果、こうなってしまったのだ。殴られても仕方がない。
病室で土下座をして詫びるしかなかった。
自分のしたことで、人の命が失われるところだった。今さらながら罪悪感で押しつぶされそうになる。
「私の落ち度でこの度は申し訳ありませんでした」
「ここまで追い詰められていたなんて……」
罵倒されても仕方がないと思っていたが、怒りより悲しみのほうが大きいようで、母親は麗香の手を握りしめ泣いていた。
「皆川さんからうちのほうに連絡があったんです。もう執拗に追い詰めることはしないからって。あなたの奥さんから連絡があったそうです」
式場のキャンセル代や慰謝料は、麗香の両親が一緒に支払っていくと言う。
「沙羅がそこまで……」
本来なら守るべき妻に、そこまでさせてしまったことに自分のふがいなさを感じる。
麗香に対して複雑な気持ちもあるだろうに、沙羅の芯の強さに驚いた。
──そうだ。沙羅のそういうところに惹かれたんだ。
仕事に忙殺され、ささやかな日常の幸せを忘れて、誘惑に負けて大切なものを失った。迷いなく自分を送り出した沙羅の目を思い出す。
同時に、沙羅の気持ちが1ミリも残っていないのだということを痛感した。麗香への嫉妬や恨みすらもない。沙羅の中では、もう終わったことなのだと。
ずっと心の中にあった未練が、断ち切らなければならないものだとようやく悟る。
自分が気づかなかっただけで、沙羅をたくさん傷つけたのだろう。子供が欲しいというのに、まだ焦る必要はないとろくに話も聞かずに、治療にも協力しなかったこと。
遊びで沙羅を捨てるつもりはないから大事にならないと、高をくくっていたこと。
いつからか沙羅の笑顔がくもっていたことに気づかなかった。
幼少期に沙羅が父親に捨てられた傷をえぐったのは自分にほかならない。
麗香とのことを疑いながら、一緒に暮らすのはどれほど辛かっただろう。自分にとっては軽い気持ちでも、沙羅が辻村とどうにかなるかもしれないと思ったことで初めて気持ちを考えることができた。
大切なものを奪われる屈辱と悲しみは、絶望的に深い。
──こんな想いをずっとさせてたのか……。
沙羅が別の男と恋愛していると思うと、世界が崩れ落ちるような気がした。自分に非があるとわかってはいても、負の感情がこらえきれずひどいことを言ったりもした。
嫉妬に狂い、戸籍で縛り付けようとしたが、もうこれ以上不幸にしたくない。
今も沙羅を失うことを思うと、恐ろしい。
けれどこれ以上自分のエゴで沙羅を縛ってはいけない。自分も変わらなければいけない。
──沙羅を自由にしてやろう。
☆心の荷を下ろして
誠を麗香のもとへ送り出した翌日、沙羅は病院にいる母のもとへ向かった。
見舞いというより、自分が母に会いたくなったのだ。
母の容態は日に日に悪化しているが、精神的には落ち着いていて、そのことが逆に痛ましかった。
「沙羅、誠さんとなにかあったの」
なかなか一緒に病院を訪れないことに疑問を抱いたようだった。
「……なにもないよ。仕事が忙しいだけ」
「嘘おっしゃい。様子を見てたらわかるよ」
余命わずかな母に、本当のことを言っていいのか、わからない。
「沙羅。言いたくないならいいけど、一人で悩んで辛いなら、言いなさい。あなたの心の荷が少しでも下せるなら」
こんな時でも娘を想える強さに、優しい声に、泣いてしまう。
「だいぶ前からもう私たちは駄目なの。こんな時に心配させてごめんなさい」
母を悲しませまいと隠してきた秘密を打ち明けると、心が軽くなる。
「あなたは家のゴタゴタで、苦労させたから、我慢が癖になってしまったのね。我慢ばっかりしてると我慢してることすら気づかなくなってしまうから」
「うん」
「しがみつくより手放すほうが楽なこともあるの。一人でだって生きていけるよ」
失うかもしれない愛情に怯えながら暮らすのはもう嫌だった。
「うん……一人になっても大丈夫なようにちゃんと頑張る」
「どんな時も、沙羅の味方だから。どんな形でもいい。辛かったら逃げても、負けてもいいから楽なほうを選びなさい」
「ありがとう」
泣いている沙羅の手を母の手が優しく包む。
すっかり痩せて細くなった母の手は、ひんやりと冷たく別れの時が近づいていることを知る。
☆
「これ書いたから」
母の病院から帰ると、誠から離婚届を渡された。
「沙羅、本当にごめん。どれほど傷つけたか、今さら気づいても遅いけど謝りたい。沙羅と一緒になれて幸せだった」
「うん。私もごめんなさい。結婚して幸せだった時間も、忘れないで生きていく」
初めてのデートにプロポーズ、結婚式。二人で幸せだった日々は遥か遠い夢のようだけれど、それもまた自分の人生の一部だったのだ。
最後に美しい思い出としてしまっておけるくらいには気持ちが落ち着いている。
「最後に抱きしめても?」
「うん」
多分初めて触れ合った時よりも緊張したと思う。
この温もりを互いに離さない未来ももしかしたらあったのかもしれない。一瞬そんな思いもよぎったけれど、まだこれからの人生のほうが長いのだ。
☆さよならの向こう側
離婚が成立して、数日後。
「私、離婚しましたので苗字が変わります。飯村沙羅になりました」
一応職場の皆に報告すると、パートの一人が明るく声をかけてくれた。
「おめでとうっ!」
あまりに本心からよかったねという言い方で、思わず笑ってしまった。
「おめでとうは不謹慎じゃないですか?」
別のスタッフが眉を顰めたが、沙羅は嬉しかった。
「いえ、再出発なのでおめでとうって言われて嬉しいです」
今時離婚なんて珍しい話でもないが、やはり話すのは勇気がいる。
納得いかない義両親への説明や、金銭面の整理など気が滅入ることが続いた。
誠と暮らしたマンションを出る時、新しい部屋は借りずに母のアパートから病院と職場を行ったり来たりすることにした。
片道電車で2時間かかるので、体力的にはだいぶきついが、一人暮らしだから家事もたいしてすることがないし、しばらくこの暮らしを続けるつもりだった。
「泉さん、じゃなかった飯村さん。ちょっといい」
マネージャーの高梨ナナに、こっそり声をかけられる。仕事のできる美人なキャリアウーマンで、社内では辻村の恋人だとも噂されていた。
「なんでしょう」
「ね、離婚の原因って辻村さんじゃないわよね」
「……違います」
直接の原因ではないけれど、無関係とも言い難い。全て見抜くような目で見られ委縮する。
「そう。プライベートは別に構わないけど、辻村さん今雑誌とかテレビの取材とかも受けていて、まるきり一般人ってわけでもないのよ。だから変な噂が立つのは避けてね」
最近世間で、不倫──特に有名人の不倫は犯罪の如き扱いで、ともすれば全てを失うこともある。一般人の誠や麗香も失ったものは大きかった。
誠も来年から北海道にある支店に左遷されることになった。麗香は心を病んで仕事をやめて実家に帰り療養しているらしい。
「はい。お店や辻村さんにご迷惑をおかけするようなことは決してしません」
来年から海外にも支店を出す関係で、辻村はこれまで以上に多忙になる。母の看護を続けながら、会うのは難しくなる。
沙羅が一人身になったことで、逆に今後は疎遠になるような気がしていた。
[沙羅、会いたい]
最近はイベントで全国を飛び回っている辻村からメッセージが届いた。
辻村とは離婚してからきちんと話していない。
これからどうしたいのか、自分でもわからずにいた。
──またうまくいかなくなったらどうする?
自分との関係は、一時的なもので、いつか彼にふさわしい女性が現れるのではないかという思いもぬぐえずにいた。
自分自身もう結婚なんてこりごりだった。
結局のところ、離婚という大事件で傷ついた心は、回復していなくて、全身ギブスで新しいことに挑戦していいのか。
今年で33歳になる。悩んだり迷ったりしているうちにあっというまに年を取ってしまうものだ。
勢いだけで行動できる年齢でもない。
自分にとっての幸せがもうわからなくなっていた。
☆喪失と自由
離婚して三か月。母の容態が急変した。
仕事を早退し、駆け付け、なんとか看取ることができた。
驚いたのは、お通夜に別れてから会ったことのなかった父親が現れたことだった。すっかり痩せて年齢よりもずっと年を取って見えた。
「一人で大変だったな」
その言葉にひどく感情を乱された。そうさせたのは、父親だ。まだ心の中で処理しきれない苦いものがたくさんあった。
「私の役目ですから」
もう自分の父親ではなく、他人だ。自分の中にいまだに父に捨てられて傷ついた少女がいる。結婚に失敗し、唯一の肉親の母まで喪ってしまった。
「なにもできなくて、悪かった」
そう言って父は香典とは別に沙羅に分厚い封筒を渡し、線香をあげて帰っていった。
見ると中には50万円ほど入っていて、それが今父親にできる精一杯だったのだろうと思うと複雑な想いに駆られた。
あとから親戚に、父が今一人暮らしをしていることを聞いた。詳しい事情はわからないし、聞きたくもないが、あの寂しい背中を見るとなんとも言えない気持ちになった。
お通夜と葬儀を終え、狭いアパートの部屋に一人帰ると、猛烈な孤独に襲われた。
辻村とは、彼の仕事が多忙になったことや母のことで離婚以来ほとんど会っていない。そんな気持ちになれなかったというのも大きい。
また同じ苦しみを繰り返すかもしれないと思うと、もういっそ一人で生きたほうが楽に思えた。
葬儀にかけつけてくれ、そのあと求婚された。来年から仕事でフランスと日本を往復する暮らしになるからついてきてほしいと。
『こんな時に言うことじゃないのはわかってる』
『今はそんなこと考えられません』
『まだ心の整理がつかないのはわかってるけど、待つから』
『私、結婚なんてこりごりです』
『遠回りしたけど、俺は沙羅と一緒に生きていきたい』
『少し時間をください』
母のことで、出社が難しい時は、テレワークでできる仕事を回してくれて、沙羅を支援してくれた。
恋人だからそうしたわけではなくて、普段から従業員の私生活にも極力配慮して経営していた。
そういうことができるのも商才があって、経営資金に余裕があるからだ。
結局、辻村の好意に甘えていた。けれど、もし辻村の愛情を失ったら、どうなってしまうのかと思う。
──これからのことなんて、考えられないよ。
徐々に回復しているように思えても、根っこにある人間不信は簡単にはぬぐえない。
一人ぼっちの部屋は、静かすぎて、怖くなってテレビをつけた。
画面には、ネパールの旅番組が映っている。壮大な山々、雄大な川、青く澄んだ湖、そして広がる緑の森林。
ぼんやりと見つめているうちに画面に引き込まれていく。
学生時代、あちこち飛び回っている辻村が自由でまぶしくて羨ましかったことを思い出す。自分は自由ではないような気がずっとしていた。
けれど、それは本当なのだろうか。自分で自分を縛りつけていただけではないのか。
──私はもう自由なんだ。
夫も母も、もういない。あるのは、落ち込んで元気をなくした心。
──行こうと思えばどこだって行けるんだ。やりなおしたい。リセットしたい。この泥濘から抜け出したい。
沙羅はおもむろに起き上がり、引き出しからパスポートと父親がくれたお金を出す。
「よかった。有効期限切れてない」
仕事は忌引きで一週間休んでいる。今しかない。
スーツケースを取り出し、一心不乱に荷物を詰めていく。スマホから航空券を予約して、空港へと向かった。
☆旅立ちと決意
カトマンズ空港に降り立った瞬間、遠くにあるヒマラヤ山脈の壮大な眺めに心を奪われた。
『まず自分が何者でもないって認めるために、旅に出るんだ』
今の沙羅には家族もいない。
学生時代の辻村の言葉を思い出している。何者でもないというのは、自由で孤独なことなのかもしれなかった。
リュックサックと小さなスーツケースひとつ持って、騒々しくて活気がある街に向かって歩き出す。けたたましい車のクラクションの音。スパイスやお香の香り。ストリートを飾る色とりどりの旗、そして壁画。
全てが鮮烈で、そのまぶしさに目を細めた。
──私が今まで悩んでたことって実は小さいのかも。
突発的に日本を飛び出し、この未知の世界に圧倒され、同時に胸を躍らせている。
にぎやかな街並みを歩く足取りが少しずつ軽くなっていく。
美味しそうなスパイスの香りにつられて、小さな地元の食堂に入る。シンプルな内装で壁には色々な写真が飾られていた。
ネパール語のメニューが読めなくて、適当に注文すると豆のスープと野菜のカレーが運ばれてきた。しっかりスパイスの効いたカレーは、頭をスッキリさせてくれる。
異国の地の日常は、落ち込んで弱り切った心に活気を与えてくれた。
食事を終え、カフェで口コミを見て、女性一人でも安全そうなホテルを探していると、突然日本語で声をかけられた。
「ちょっと! 後ろ!」
「えっ?」
振り向くと、男が沙羅のリュックに手を出していた。慌ててリュックを引き戻すと男は去っていった。
「ぼんやりしてたら盗まれるよ」
「ありがとう」
二十歳くらいのショートカットの女の子で、日焼けしていかにもバックパッカーですといういでたちをしている。
「旅、慣れてないの?」
「あ、うん。実は一人で海外は初めてで。しかも今朝思い立って来たの」
旅の達人のような雰囲気の女の子だから、沙羅が慣れていないこともわかるのだろう。
「どこに行きたいとかも決めてないの?」
「全然。今から考える。ホテルも」
「へぇ。そういう行き当たりばったりの旅をする人に見えないなぁ」
「ふふ。当たってる。ガラにもないことをしてみたくなったの」
人懐っこい女の子はユカと名乗った。バイトでお金を貯めては、旅に出るのだという。そういう行動力が自分にはないし、日本では知り合うことのないタイプだから、面白くて話が弾んだ。
「なんか日本にずっといると、息が詰まっちゃうんだよね」
「若い女の子の一人旅ってご両親心配するんじゃない?」
一回り年下の女の子だから、つい沙羅も心配になる。大人の自分だって心細いけれど。
「うん。でもどんなことしてたって、親は心配するものだよ」
「まぁそうだけど」
「中学から学校行ってなくて、家にずっといた時期もあるから今は好きにさせてくれるんだ」
「へぇ」
皆色々あるのだ。簡単に言えないことを抱えながらも、笑顔でいる人もいる。
「見て。聖地を回ってるの」
ユカは一眼レフを取り出して、今回の旅で撮った写真を見せてくれる。
夕日に染まる寺院が美しい。
「いい写真」
「でしょう。沙羅さんはどんなところへ行きたい?」
「うーん、決めてない。っていうかこの国のこと全然知らない」
「びっくり。むしろどうして来たの?」
「学生の時、好きだった人があちこち旅をしていたのを思い出して、私ならやらなそうなことをしたくなったの」
「ふぅん。そういうのって人生の転機によくあるよ」
「そうかな」
「予定がないなら袖振り合うのも多少の縁で、今日は一緒に回ろうよ。私明日帰国するの。ホテルもまだなら相部屋で安くなって助かるし」
思いがけない出会いだった。自分とは全く別の人生を歩むユカと旅を共にするのはとても魅力的だった。いつもならやりそうにないことがしたい。
「行く」
「決まり。じゃ、今日はパシュパティナート寺院に行こう」
夕闇が迫る中、ユカと古い路地を抜け、目的地へと向かう。
バグマティ川の川岸にある寺院は巡礼者が多く訪れるネパールの聖地だった。日が落ち切ると、ランタンに照らされた寺院は幻想的な美しさで沙羅を魅了した。
中庭から、僧侶たちが祈りの声が聞こえてくる。
沙羅は、その場の雰囲気に圧倒されながら、ユカの隣で静かに目を閉じ、祈りに耳を傾けた。
ふと見ると川でなにかを燃やしている。
「あれは?」
「火葬場があるの。焼いたら川に流すんだ。輪廻転生を信じて」
そう言って一人で川のほうへ歩いて行ってしまう。
ユカが首につけている小さなネックレスを外した。よく見るとガラスの小さな瓶で、中に白い粉が入っている。
蓋を開けて、その中身を川に撒いた。
流れていく川の水をユカは、静かにただじっと見つめている。
なんだか声をかけてはいけない気がして、黙ったまま見守る。
ホテルに戻ったユカがポツリと呟いた。
「さっきの白い粉、元カレの骨なんだ」
「うん」
特段驚かなかった。こういう場所ならなにが起きてもおかしくないようなそんな気がした。
その悲しげな横顔を見守り、ユカはもしかして、誰かに傍にいてほしかったのかもしれないと思った。その誰かになれてよかったと、そう思った。
「私が学校行けなくなった時に、ネットで知り合ってずっと付き合ってたんだけど、病気で死んじゃったんだよね。あんまり寂しくて、火葬場から戻ってきた時に少し失敬したの」
「そう」
「引かないんだね。沙羅さん常識人なのに」
ユカにとって、弔いの旅だったのだ。
「彼は色々な国に行きたがってた」
どうしようもなく不器用で見方によってはグロテスクな行為でも、沙羅は咎める気になれなかった。
「常識的に生きてたら幸せかっていうとまた別だから。そこまでひたむきに愛されて、彼も幸せだったと思う」
それは本心からの言葉だった。ユカの一途な愛に救われることもあっただろう。
「病気がちで、あまり遠くに行ったことがなかったから、どこかへ行きたいっていつも言ってたの」
「ネパールに連れてこれてよかったね」
「そーかな。独りよがりじゃないかって、迷いはあった」
「正しさだけを守って生きるには、私たちの人生は短すぎるのよ」
「ワオ! 大人みたい」
「大人ですから」
そう言って二人で笑った。こんな独特の楽しい夜はなかなかない。
「沙羅さんが旅したきっかけは?」
「夫に不倫されて、自分も不倫して、母が亡くなったの。色々道を踏み外してここにいます」
「はー。人生色々だ」
「まぁでもちっちゃい気もするな。私の悩みなんて」
「うんうん。そうだ。人生なんとかなる。私も帰ったら現実に戻る。またぱーっとどっかに行くとは思うけど」
ネパールの旅が終わったら日常に、現実に戻るのだという。将来は不登校や引きこもりの子を支援するNPOで働きたいと言うユカを心から尊敬した。
たくさんのことを話して、おしゃべりしながら眠ってしまった。
翌朝、帰国するというユカにまた日本で会う約束をして別れた。
一人に戻ると少し、いやかなり心細い。知らない場所は苦手だ。
あと二日。どうしても見たいものがあった。
辻村が昔見せてくれた沙羅双樹の花の写真は、散ったあとのものだった。どうしても咲いているところが見たい。季節的にはギリギリ見られそうだった。
けれども、たった一日しか咲かない儚い花。出会えるかどうかは運次第だった。
敢えて調べず自分の足で探し歩く。行き当たりばったりだから当然すぐに見つかるはずもない。やっと見つけても、散ってしまったばかりだったことも何度もあった。
長い石畳を歩き、時には山道を登る。日差しは強く、汗ばむ肌に埃がまとわりつく。でも、そのすべてが、自分に必要なことに思えた。
それでも、諦めずに歩き続けた。市場の喧騒を抜け、静かな寺院の回廊を彷徨いながら、色々なことを思い出す。
両親のこと、誠のこと。そして辻村とのこれから。
──私は一体なにを望んでいるんだろう。
もう少しで自分の心に届きそうな気がした。過去を振り返り自分が本当はなにを望んでいるのか考えた。
それこそ足が棒になるくらい歩き回って、そして考えた。
三日目。日本へ帰る日の朝。
もう駄目だろうなと思いながら、最後にと立ち寄った寺院の片隅にそれはあった。
「咲いてる……」
沙羅は息をのんだ。まるで時が止まったかのようにその場に立ちすくむ。
小さな淡黄色の小さくて可愛らしい花。夕方には散ってしまうのに、そんなことは関係ないとばかりに気高く、美しく咲き誇っていた。
その小さな花びらの一つ一つに、自分の過去の断片でも見ている気持ちになった。
「やっと会えた」
そっとその小さな花弁に手を伸ばす。柔かな手触りに、心に抱えていた葛藤から解放されるような気がした。温かい雫が頬を伝う。
どんな生き物も、植物も終わりがあるからといって生きることを拒んだりしない。皆刹那を精一杯生きている。
自分の名前が嫌いだったこともある。父を憎み、夫の裏切りに気づかないふりをして、辻村の好意に甘えていた日々。
たとえ、終わりがあったとしても、全てが嘘だったわけではない。
人を許すこと。自分を許すこと。信じること。その難しさを知りながら、心の中で決意を固める。
移ろいゆく時を誰かと共にいたいと願い、愛することを諦めたくない。
空港についてから、辻村に電話をかけた。何度かメッセージが来ていたけれど返信できずにいたのだ。きっと心配している。
「もしもし」
「連絡が取れなくて心配してた。どこにいるの」
「ちょっとネパールに」
電話ごしに驚いているのが伝わる。
「ちょっとって距離じゃないでしょう」
「辻村さんも、ちょっとアフリカ行ってくるとか昔言ってましたよ」
「そうだっけ。いつ帰るの。そっちへ行こうか?」
ちょっとの距離じゃないと言いながら、フットワークが軽いのが彼らしい。
「いえ。今から帰ります」
成田空港に到着すると、辻村が迎えに来ていた。沙羅を見ると、駆け寄ってすぐに抱きしめる。
「なんとなく、もう会ってくれないんだと思ったよ」
「少し、考えたくて」
「また裏切られるのが怖い?」
「怖い。でももしあなたがフラフラしてたらちゃんと喧嘩する。ほかの女性に惹かれたら取り戻す」
「変わったな。沙羅」
「もう逃げない。好きな人を手放したくない」
たとえ失ったとしても、この瞬間の気持ちは本物で、嘘になるわけではない。辻村ともどうにもならない別れが来るかもしれない。
ずいぶん遠回りをした。また失敗するかもしれない。それでもいい。
今ならまっすぐな気持ちで言える。
「私にはあなたが必要なの。これからも傍にいてください」
無言のまま強い力で抱きすくめられる。
辻村の肩越しに、空港の外にある空が見えた。
夕焼けの中、飛行機が滑走路から離陸し、空高く上昇していく。オレンジの光を浴びながら、飛行機は自由な空の向こうへと飛んでいった。
1
お気に入りに追加
35
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【完結】やさしい嘘のその先に
鷹槻れん
恋愛
妊娠初期でつわり真っ只中の永田美千花(ながたみちか・24歳)は、街で偶然夫の律顕(りつあき・28歳)が、会社の元先輩で律顕の同期の女性・西園稀更(にしぞのきさら・28歳)と仲睦まじくデートしている姿を見かけてしまい。
妊娠してから律顕に冷たくあたっていた自覚があった美千花は、自分に優しく接してくれる律顕に真相を問う事ができなくて、一人悶々と悩みを抱えてしまう。
※30,000字程度で完結します。
(執筆期間:2022/05/03〜05/24)
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
2022/05/30、エタニティブックスにて一位、本当に有難うございます!
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
---------------------
○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。
(作品シェア以外での無断転載など固くお断りします)
○雪さま
(Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21
(pixiv)https://www.pixiv.net/users/2362274
---------------------
ずっと君のこと ──妻の不倫
家紋武範
大衆娯楽
鷹也は妻の彩を愛していた。彼女と一人娘を守るために休日すら出勤して働いた。
余りにも働き過ぎたために会社より長期休暇をもらえることになり、久しぶりの家族団らんを味わおうとするが、そこは非常に味気ないものとなっていた。
しかし、奮起して彩や娘の鈴の歓心を買い、ようやくもとの居場所を確保したと思った束の間。
医師からの検査の結果が「性感染症」。
鷹也には全く身に覚えがなかった。
※1話は約1000文字と少なめです。
※111話、約10万文字で完結します。
アクセサリー
真麻一花
恋愛
キスは挨拶、セックスは遊び……。
そんな男の行動一つに、泣いて浮かれて、バカみたい。
実咲は付き合っている彼の浮気を見てしまった。
もう別れるしかない、そう覚悟を決めるが、雅貴を好きな気持ちが実咲の決心を揺るがせる。
こんな男に振り回されたくない。
別れを切り出した実咲に、雅貴の返した反応は、意外な物だった。
小説家になろうにも投稿してあります。
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
妊娠したのね・・・子供を身篭った私だけど複雑な気持ちに包まれる理由は愛する夫に女の影が見えるから
白崎アイド
大衆娯楽
急に吐き気に包まれた私。
まさかと思い、薬局で妊娠検査薬を買ってきて、自宅のトイレで検査したところ、妊娠していることがわかった。
でも、どこか心から喜べない私・・・ああ、どうしましょう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる