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3章

秘密

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☆デート

 麗香といるのは、沙羅にはない刺激があって楽しかった。
 二人は全く正反対で、麗香は自分の希望をはっきり言う。沙羅のように黙り込んで不満をためたりしない。そこが楽だった。

 今日は麗香の誕生日だから、土曜日だが思い切って二人で一日過ごすことにした。都合のいい存在でいることに女は敏感だ。
時々は機嫌も取らないと、不倫相手は扱い方を間違うと地雷となりかねないことを同僚などから学んでいた。

「奥さんはいいんですか」
「最近、仕事を始めてね。今日も仕事。なんだか張り切ってて、楽しそうだよ」
「へぇ……気を付けないとですね」
「なにが?」
「パート先で不倫とか。よくあるらしいですよ」
  
 麗香の発言に驚く。沙羅は幼い頃父親の不倫で離婚した関係で、かなり異性関係は潔癖だった。芸能人の不倫のニュースなども信じられないとよく言っていた。
 だからこそ絶対に知られてはならない。
 
 そろそろ麗香とも終わりにしようと思っているところだった。
 結婚生活で失ったときめきや性欲を発散するにはいい相手だったが、自分のせいで婚期を逃すようなことがあっては、気が重い。

「まさか……ないよ。うちの妻はそんなにガツガツしたタイプじゃないしね」
「奥さんがそうじゃなくても相手がガツガツしてくることもありますよ。男の人ってああいう庇護欲そそるタイプ好きじゃないですか」

 あったとしても沙羅はかたくなに断るだろう。絶対にない。

「せっかくの休日なんだ。楽しいことを考えよう」

 麗香の腰を抱き、休日の街を行く。今日は一日麗香のために使うつもりだった。
 知り合いに見つからないように、わざわざ遠くまで来たのだ。楽しんだほうがいい。

 予約していたランチを終え、ぶらぶらと歩いているとスマホの着信音が鳴った。

「奥さんですか?」
「いや、違う。知らない番号だから営業かなんかだろう」
 
 一度きりの人生。貞操観念より、時には楽しさを優先させてもいいだろう。


☆怪我より痛む心


 頭を打ち、割れた破片で庇おうとした右手も切ってしまった。

「旦那さんに連絡しますよ」

 店のスタッフが代わりに誠に電話をしてくれたが、出ないようだ。

「大丈夫。命に関わるような怪我じゃないし」
「俺が車出すよ」
「でも仕事が」
「物事には優先順位があって、間違うと取り返しがつかなくなる」

 今日は雑誌の取材が来ることになっている。店の宣伝にもなるのにキャンセルするようだ。

「ごめんなさい」
「謝るのはこっちのほうだ」

 そのまま辻村の車で病院へ行き、手の傷は縫うことになった。

 もっと早くに気づくべきだった。そうしたら事故にならなかったはずだ。お客さんや他のスタッフにも迷惑をかけて申し訳ない。
 手の傷以上に、心がじくじくと痛む。
 
 ──せっかくうまくいってたのに。久しぶりに自分が認められた気がして浮かれてたんだわ。 

 少し眩暈がするので、念のため頭の検査をして結果を待っていた。

「旦那さんが待合室で心配そうにしていますよ」

 縫合手術を終えると看護婦が辻村を夫と勘違いして声をかけてきた。

「今日は大切な日だったのにごめんなさい」
「うちの店で起きた事故だ。俺に責任があるだろう」
「私が不注意だったんです」

 怪我をせずとも、子供を危険から守る方法もあったはずなのに、できなかった。そのせいでこうして迷惑をかけてしまった。

「旦那さんに連絡はついた?」
「ちょっとスマホのバッテリーを切らしてしまって」

 それもあるが、なんだか最近誠と話すのが憂鬱だった。こんな時でも意地を張っている自分がいる。心に溜まった鬱憤が鉛のように重たい。
 そもそも今日は本当に仕事の付き合いなのだろうか。

「今日は仕事なの?」
「……多分」

 本当に仕事かなんてわからない。あれからクレジットカードの明細もこっそり見たけれど、接待では行かないような店に行っているようだった。
 考えないように、疑わないように、最近では家にいる時も仕事のことばかり考えるようにしている。
 
「旦那さんにも謝罪しないとな」
「私がどんくさかっただけです」
「傷、残りそうか?」
「大丈夫です。少しくらい残ったって。嫁入り前の娘でもあるまいし」

 軽く言ったつもりだが、辻村が心底申し訳なさそうな顔をして、言わなければよかったと後悔した。
 でも事実、体に傷ができたところでなんだというのだろう。誰かに見られることもない。誰も沙羅に興味はないだろう。夫の誠さえも。

「できることはさせてほしい」
「私こそ……これからもあのお店で働きたいんです。いいですか?」
「当然だよ。沙羅の評判はもう耳に入ってる」
  
 無意識だろうが、昔のように名前で呼ばれ、どきりとする。

「私、本当に生きがいとかなくて、ここ数年ただ漫然と年を取るのが怖かったんです。でも今は働けて、幸せなんです」
「ありがとう」

 医師には問題なさそうだが、頭を打ったので三日は安静にしたほうがよいと言われた。

「送るよ。本当は旦那さんが来た方がいいんだろうけど」
「一人で帰れます。仕事中だと悪いから、メッセージだけ送りました」

 電話をして、他の誰かといたらと思うと怖かった。既読マークはついていない。

「家族なのに? 仕事より大事だろう」

 その問いに、沙羅が黙り込むと、出すぎたことを言ったと辻村が謝った。

 辻村の車で家に着くと、どっと疲れが出て朝まで眠ってしまった。
 明け方になって誠が帰ってきた気配を感じたけれど、起き上がることもできず、結局昼過ぎまで眠り続けてしまった。



☆その頃、夫は……

 麗香と昼間からデートするのは初めてだった。麗香が好きそうな人気のフレンチを予約し、一緒に食事をする。

「これ、プレゼント」
「あ、これこの前広告で見かけた。部屋にあるだけでテンション上がりそう」

 沙羅ならつけないようなブランドの香水をプレゼントすると麗香は喜んだ。
 評判の店やらブランド物で喜ぶ女はわかりやすくて、扱いやすい。
 少し値が張ったが、沙羅はあまりお金の使い道をうるさくチェックするわけではないし、生活費を多めに渡して残りは自分で管理していたから、ばれることもない。

 未来がない関係だからこそ、互いをいい気分にさせるための努力が苦痛にならない。そういうところが麗香といるメリットだった。

 さりげなく会社でも誠の業績を上げるためのフォローもしてくれる。
 とはいえ、父親の不倫がトラウマの沙羅には絶対知られてはならない。
潮時だと思いつつ、心地よい関係は抜け出すのが難しい。

「今日、土曜日だから、会えないかと思った」
「ま、たまにはね。仕事でも世話になってるし」
「そうそう、この前田中君のミス挽回したの私なんですよ。放っておいたらかなり損害が出たと思うんです」

「麗香ちゃんは優秀だからね。ずっと仕事したほうがいいよ」
「どうしてですか?」
「人には向き不向きがあるんだよ」

麗香が早くいい相手でも見つけてくらたら区切りもつけやすいのだが、なかなか条件に合う男性がいないらしい。

──沙羅は人に条件なんか求めないだろうな。

そんなことを思うが、麗香には麗香のいいところがあった。誠を誉め、認め、立ててくれる。それが一時の打算ゆえであっても、今の自分に必要なものだった。

スマートフォンに沙羅からメッセージが入っている。

[今忙しい?]
[うん。なにかあった? 夜には帰るよ]
[そう。忙しいなら大丈夫]

 大した用事ではないようで、それきりメッセージは来なかった。

 早めに帰るつもりだったが、麗香に部屋に誘われ、誘惑に負けた。
 つい眠ってしまい、気づいたのが午前3時。さすがにまずいとタクシーで家路に急いだが、沙羅は寝ていた。
 珍しく部屋が雑然としているから疲れているのかもしれない。几帳面な性格で、やり残した家事があると落ち着かないらしく、いつも家は整然としていて心地よかった。

 ──もう少しあっちでゆっくりしてもよかったかな。
 
 連絡なく午前様になることはこれまでもあったが、沙羅は特段不満を言わなかった。もとから鷹揚な性格で、同僚の妻と比べても誠を信頼し自由にさせてくれる。
 結婚した時は、こんなことをするとは自分でも思わなかった。沙羅を大事に思う気持ちがなくなったわけではない。

 ──そろそろ不妊治療も真剣に考えて、沙羅と向き合おう。
 

☆大切なもの

 朝、起きてきた沙羅を見て驚いた。右手に痛々しく包帯が巻かれているし、おでこには湿布が張ってある。

「なにがあった?」
「昨日、ドジしちゃって」

 もしかして、連絡をくれたのは病院からだったのかと思うと、途端に罪悪感の波が押し寄せる。いくらなんでも沙羅を軽んじすぎていた。
 そういえば、帰宅する前、今話せるかとメッセージも来ていた。

「なんで怪我したって言わなかった? すぐに帰ったのに」
「だって、最近忙しいって言うから。それに命に関わる大けがでもなかったし」
「怪我ならちゃんと帰ったよ。次からはちゃんと連絡してくれよ。家族だろう」


「うん。誠も遅くなる時は連絡して。明け方までどこにいたの?」
「24時間営業の居酒屋で飲んでて……」
「本当に?」

 すっと沙羅がこちらをまっすぐに見た。後ろめたい気持ちで目を逸らす。

 初めて沙羅が自分を疑っていることに気づいて、ひやりとした。
 怪しいそぶりを見せただろうか。

「沙羅……心配させて悪かった。今週は早く帰る」
「いいよ、仕事だもの」

 いつにない沙羅の深刻な様子に昨日すぐに帰らなかったことを後悔する。少々調子に乗りすぎていたかもしれない。

「悪かった……今日は家事しなくていいから休んでて」

 沙羅は答えず無言で寝室に行ってしまった。

 ──怪我をしたってちゃんと言ってくれたら帰ったのに。

 沙羅は誠に要求をしたり、わがままを言ったりすることがない。それは昔から変わらない。そういう控え目なところは好きだったが、説明もせず不機嫌になられるのは困る。麗香は不倫という関係でもはっきりとなんでも口に出す。
 短い時間で効率的に楽しむには、麗香のそういうところは気に入っていた。

 ──沙羅もちゃんと話せばいいのに。

 そういえば、最近土日もあまり話せていない。沙羅は土曜日も仕事を入れるようになっていた。今の仕事が楽しいのは伝わってきた。
 沙羅は絶対に自分から離れないという思いから、あまり気を使うこともなくなっていたが、さすがに今日はそういうわけにはいかなそうだった。


☆ 疑惑の芽は育つ

 誠の顔を見たくなくて、惨めな気持ちで一人寝室に戻った。

【浮気 夫】とスマホで検索する。

 そもそも女性が疑いをもった時点で、黒であることが多いのだと言う。
 確かに男性と比べて、女性の勘は鋭いのだろう。だからといって誠が絶対にそうだとは思っていない。ちゃんと否定してくれた。だからただの考えすぎだ。

 自分はなにを夫に求めているのだろう。楽しい会話? 不妊治療への協力? 規則正しいセックス? 
 もうわからない。
 一つだけわかっているのは、誠への信頼と愛情が揺らぎ始めていることだ。

 はっきり問い詰められない不満が自分の中で毒になり自家中毒を起こしている。疑わしいなら聞くべきで、してほしいことがあるなら言うべきだ。

 いつからか、見えない壁のようなものができていて、それが夫婦のコミュニケーションを妨げている。

[怪我の具合はどう?]
 
 寝室で横になっていると、辻村からメッセージが来た。

[大丈夫です。三日休んだら復帰していいですか?]
[傷もあるし、しばらく休んでほしい]

 また家に一人でしばらくいないといけないと思うと、怖くなった。現実に引き戻されたくない。

 ひとしきり泣いたあと、部屋を出ると掃除も洗濯もしてあった。誠は台所で夕飯を作っている。
 沙羅の好きなチキンソテーとコンソメスープ、サラダだった。
 仕事をやめてからは、料理も一人でやっていたが新婚の頃は一緒に作ったりもしたが、誠の仕事が忙しくなるにつれ、一緒に食事をとることも減った。

「美味しそう。ありがとう」
「利き手を怪我したんだから、しばらく夕飯はデリバリーでいいよ。俺も早く帰れる日は作るから」
「うん」

 優しい声で言われると、これ以上不機嫌でいるのもよくないと笑顔をつくろった。
 妙な疑いを持たなければ、また楽しい時間を過ごせるのだろうか。

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