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次の一手編

勝利するのは「思考力の勝る者」か「記憶力の優る者」か

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 京子が広島で中学最後のバスケ部の大会を終えた日、囲碁部部長の石坂嘉正も岡山で中学生最後の大会を向かえていた。


 洋峰学園囲碁部一行は会場に入ると、顧問の井崎が受付を済ませた。初日の今日は個人戦、団体戦は明日行われる。

 体育館入り口に張り出された個人戦のトーナメント表の前に人集りが出来ている。公平を期すために、組み合わせは事前に知らされていない。今ここで初めて自分の対戦相手を知る事になる。

 三年生になっても一向に身体の成長の兆しが見えない嘉正は、人混みを掻き分け、なんとかトーナメント表の真ん前に辿り着く。ずり落ちたメガネを上げ、自分の名前を探す。背は低い、目は悪い嘉正にとって、表から自分の名前を探すのは毎回一苦労だ。いつものように、第一ブロックから丁寧に探す。だが、今回はすぐに自分の名前が見つかった。

「第一シードの下……!」

 第一シード、つまり優勝候補の下に嘉正の名はあった。一回戦を勝ち上がると、二回戦でこの優勝候補と戦う事になる。中学生最後の大会だから少しは良い成績で終わりたかったのに、この組み合わせは残酷だ。

「部長、ドンマイ」

 そう声をかけたのは、一年生の池田卓弥たくやだった。部活の勧誘で京子に目をつけ、「本当にこの前まで小学生だったのか?」と疑うほど人目を憚らず自分より2歳年上で20㌢は背の高い京子を口説いている、京子目当ての新入生だ。京子も慣れたもので、「自分より碁の強い人じゃなきゃ嫌だ」と適当にあしらっているが、どうやら池田の方は本気らしく、入部してから3ヶ月あまりで、8級程度の実力をつけている。

 嘉正はこの池田が嫌いだ。京子と同じクラスということもあり、何かにつけ絡んでくる。今も「ドンマイ」などと言ってはいるが、心ではそうは思っていないのが顔を見れば犇々と伝わってくる。


 嘉正は池田の心のこもっていない励ましを無視して、部長の仕事を優先させる。

「みんな、自分の名前は見つけた?」

 個人戦に出場するメンバーが頷く。と言っても出場するのは三人だけだが。西東京地区大会には、将棋部部員も何人か出場したが、全国大会に駒を進める事が出来たのは、三人だけだった。

「じゃあ、とにかく練習しよう」

 みんなで体育館を見渡し、空席を探す。試合前、会場の下見を兼ねた練習手合を打つためだ。一年生とさして身長の変わらない嘉正が先頭になり部員を引き連れて歩くさまは、他校から奇妙に映ったらしく、「あの学校、一年生が部長なんだ」と誤解されていた。

 体育館にぎっしりと並べられた布盤に碁石。エアコンの効いた体育館で、快適に碁を打てそうだ。

 しかし、いつもなら碁石の音しか聞こえないこの場に、話し声が聞こえてくる。

「すげーよな。タイトル戦初戦でいきなり初手天元!」
「しかもその天元の石を捨て石にするって」
「豪胆だよな!」
「昨日の第ニ局、二手目天元打つかと思ったけど」
「さすがにそれはないだろ」
「でも、昨日の碁もすごかったよなー!」

 会場内は真珠戦挑戦手合の話題で持ちきりだった。現在、紅玉ルビー戦挑戦手合も行われているのだが、やはり同年代の京子の碁の方が気になるようだ。

「俺、今日初手天元やってみようかな」
「やめとけ。恥かくだけだって」
「やってみなきゃわからないだろ!」
「どうせなら二手目天元、打てよ」

 と、どこを向いても、囲碁棋士・畠山京子の話題だ。

「すごいですね。みんな畠山先輩の噂ばかり」

 嘉正と並んで、空いている席を探す浅野結花が話しかけてきた。この結花も男目当てで入部してきたクチだが、意外にもまだ囲碁を続けている。西木との仲に進展があったようには見えない。かといって囲碁が楽しくて続けているようにも見えない。時間をかけて西木を落とす作戦なんだろうか?結構忍耐力があるなと思う。

 結花が空いている席を見つけた。嘉正と結花、池田と二年生の新谷が組んで練習手合いを打つ。一局打ち終えない所で練習を止めるよう、アナウンスが流れた。いよいよ嘉正の中学生最後の大会が始まる。



 ●○●○●○



 一日目の個人戦は、嘉正は予想通りの2回戦負け。池田は3回戦まで進めた。新谷は明日の団体戦のみの出場だ。この三人で団体戦を組む。

 そして女子の部に出場した結花は、なんと準決勝まで駒を進めたのだ。3位決定戦で破れはしたが、洋峰学園女子では初の全国大会での入賞だ。

「浅野さん、入賞おめでとう!」

 宿泊先の食堂で簡素な祝賀会が開かれた。コンビニで購入したスナック菓子とペットボトルのジュースだけだが、即席の祝勝会ならこれで充分だ。

「ありがとうございます。自分でもビックリして……」

 結花は紙コップに注がれた微炭酸のオレンジジュースを両手で持ち、はにかむ。

「運が良かっただけだと思うし……」

 謙虚な人だ。これが畠山さんだったら、こうは言わないだろう。

「運だけじゃ準決勝まで進めないよ。畠山さんも田村先輩も言ってたじゃないか。「力をつけてきてる」って。苦手だった詰碁を頑張ってたじゃないか。ちゃんと実力を伴った結果だよ」

 嘉正が少しでも部長らしい所を見せようと、結花にこう言った。すると結花の顔が急に真っ赤になった。

「あ、ありがとうございます、石坂先輩」

 はにかみながらこう言った結花を、何故か池田と新田、二人がニヤニヤと見つめる。

 (こいつら、変な気を起こさないだろうな?)

 今回の岡山遠征。女子は結花一人だけだ。他の女子、と言っても院生しかいないが、韓国に武者修行に行くとかで不参加。優里亜は受験生ということで、帯同しなかった。

 一応、結花の部屋は何かあってもすぐ逃げられるエレベーターから一番近い部屋にしたが、今のニヤニヤ笑い、心配だ。

 そうだ。こういう時こそ、部長としての威厳を見せなければ。

「浅野さん。夜中に部屋に部員の誰かが来ても、部屋の中に入れないようにね」

 チビで童顔な嘉正に、今の威圧が二人に効いたかどうかは分からない(十中八九効いてない)が、何も言わずにいるよりマシだろう。

「は、はぁ……」

 結花は気の抜けた返事をする。

 (あれ?もしかして、どういう意味か、分かってないのかな?ハッキリ言った方がいいんだろうか?いいや!これ言っちゃうと、下手したら僕がセクハラになるかも!?)


「部長はいいんですか~?」

 池田がニヤニヤとこう言った。新谷もニヤニヤしている。

 二人がなぜニヤニヤしているのか、嘉正は訳がわからず、「もし浅野さんに用事があれば、LINEで連絡するから」と言うと、ニヤニヤしていた二人は何故か面白くなさそうに菓子を口に放り込んでいた。



 ●○●○●○



 大会2日目。今日は団体戦が行われる。

 洋峰学園は、西東京地区予選に3チームエントリーし、そのうち嘉正のチームが全国大会に進出した。

 昨日と同じように、顧問の井崎が受付を済ませ、すぐさま体育館に張り出された団体戦のトーナメント表を確認しに行く。

 洋峰学園はBブロック。めぼしい強豪校はいない。去年の優勝校はAブロックだった。嘉正がほっと一息吐く。少なくとも昨日の嘉正のような、惨めな結果にはならないだろう。


 洋峰学園は一回戦、二回戦ともに順調に勝ち上がった。三回戦、個人戦準優勝者が大将を務める学校と当たり、嘉正が落としたものの、他の二人が辛勝し、洋峰学園は準決勝に駒を進めた。


 準決勝の相手は、昨日嘉正が二回戦で負けた個人戦第一シードで優勝した生徒のいる学校だった。

「昨日はどうも」

 昨日の個人戦優勝者が嘉正に気づいた。嘉正と同じ大将の席に腰掛ける。

 (わざわざ声、かけるなよ。こっちは早く忘れたいのに)

「……どうも」

 嘉正は無視できずに律儀に挨拶する。

「洋峰学園て、畠山京子が通ってる学校なんだってね」

 (個人情報、漏れてるじゃん!)

 いつ、どこで、どうやって漏れたんだろう?有名人だから、ある程度はしょうがないとはいえ、まさか、うちの学校の生徒の誰かがわざと漏らしたんじゃ……。いや、それより、この場はどう答えるのが正解なんだ?「違う」と嘘を吐くのがいいのか、「どこからそんな情報が?」と、とぼけるのがいいのか、素直に認めるのがいいのか。でも認めてしまったら、畠山さんに迷惑が……。

 ……て、待てよ。たしか畠山さん。文化祭の時の写真を『岡本門下』のiTwitterイツイッターアカウントに投稿してたな。

 てことは、個人情報をもらしたのは、畠山さん本人!?

 嘉正は個人情報を漏らした犯人に辿り着くと、対戦相手からの先程の質問に正直に「そうだ」と答えた。

「へぇ。そうなんだ」

 何やら含みのある返事をし、ニヤリと口元を歪ませる。

 何が言いたいのか、嘉正にもわかった。「畠山京子から教わっても、その程度なんだ」と。そして「畠山京子って、指導は全然ダメじゃん」と言いたいのだと。

 隣に座る池田も気づいたようで、鼻息を荒くしてる。掴みかかるんじゃないかと思ったが、嘉正が思っていたより池田は大人だった。

 (自分の無能を馬鹿にされるのは構わないけど、お世話になっている人を貶されるのは腹が立つな)

 嘉正は目の前に座る個人戦優勝者に一瞥くれる。昨日の対戦では芽生えなかった闘争心が沸き起こっていた。

 (絶対に勝つ!)

 その時だった。「がんばれー!」という聞き覚えのある、よく通る中性的な声が聞こえてきた。

 嘉正は顔を上げ、声の主を探す。

 敗退した学校の生徒がギャラリーから観戦していた。朝からずっと一人でオペラグラスを片手に応援している結花がいる。その隣に声の主、洋峰学園スクールカラーのバスケ部オリジナルTシャツを着た畠山京子がいた。

 同じ日にバスケ部も広島で大会だと言っていたのを思い出した。バスケ部は試合が終わったらしい。その足で駆け付けてくれたようだ。

「はっ」

 嘉正は思わず大声で名前を呼びそうになり、慌てて口を押さえた。

 (畠山さんがいるって知られたら、絶対大騒ぎになる!)

 が、遅かった。嘉正の視線を追った他校生が、京子に気づいてしまった。

 案の定、騒ぎになってしまった。京子はあっという間に、これから始まる試合の対戦者以上に注目を浴びてしまった。

 が、京子も慣れたもので、全く動じず、手を振って歓声に応えている。

 対戦相手の三人も、初めて生で見る畠山京子に興奮しているようで、鼻息を荒くしていた。

《えー、ギャラリーで観戦されている棋士の方。お静かにお願いします》

 京子が運営から遠回しに注意される。煩くしているのは、ギャラリーの方なのに。

 しかし京子はそんな理不尽も気にならないようで、口先に人差し指を当てて、皆を黙らせていた。

 (すご……。指一本であれだけ騒がしかったギャラリーを黙らせちゃったよ)

 ふと、掌に違和感を覚え、嘉正は手を広げる。掌に爪の痕がついていた。どうやら先程の対戦相手から受けた侮辱で、知らず知らずのうちに力一杯手を握りしめていたようだ。

 嘉正はゆっくり深呼吸する。

 (冷静になれ)

 そうか。あの時、畠山さんが声をかけてくれなかったら、ずっと力みっぱなしだったのか。

 (ありがとう、畠山さん)

 嘉正が真っ直ぐ前を向いた時、ニギリを行うよう、放送が流れた。嘉正は白、池田は黒、新田が白と決まった。

 昨日の個人戦の対戦では、嘉正は黒だった。相手の顔が緩んでいる。黒番で「勝ったも同然」と思っているのだろう、心の声が聞こえてくる。

 (いや、それでいい。畠山さんは「気が緩むと隙が出来る。その隙を絶対見逃すな!」と言っていた)

 むしろ白番で良かったかもしれない。僕が相手の隙さえ見逃さなければ。


 体育館に再びアナウンスが流れ、準決勝が始まる。

「「「お願いします!」」」

 男子の部、女子の部の準決勝4試合が同時に始まった。



 ●○●○●○



 嘉正の相手は、初手天元を打ってきた。

 明らかに畠山京子を意識しての手だ。しかも畠山京子本人が間違いなく見ている。プロ相手にこれ見よがしに打ってくるなんて、相当自信があるらしい。

 嘉正は白石を持つと、左下隅小目に打った。すると相手は三手目を真珠戦第一局と全く同じ、左下隅星に打ってきた。

 嘉正は思わずガッツポーズしそうになる。

 彼は知らない。僕は知っている。

 畠山京子がなぜ初手天元を打ったのかを、三手目星にツケてきたのかを。その謀略を具に、報道されていない部分を本人から直接聞いている。

 そして畠山京子はこうも言っていた。

 『大会では絶対、私の真似をして初手天元を打ってくる人がいると思うんだ。もしかしたら、その後の星ツケまで。だから対策を練っておこう』と。

 (すごい!畠山さんの読み通りだ!)

 嘉正は気持ちを引き締める。

 (こうなったら、僕の記憶力との戦いだ)

 真珠戦第一局後の指導碁の日、部員全員で初手天元対策をしたのだった。京子は考えうる全ての変化を、部員全員に指導していた。あの手筋をどれだけ思い出せるか。

 次の手もその次も、真珠戦第一局と同じ手順に進む。

 (さあ。ここからだ)

 嘉正は覚悟を決めて、次の手を打った。



 ●○●○●○



 結花がオペラグラス越しに、大将嘉正の碁を見つめる。その隣で京子は裸眼で嘉正の盤を見つめ、解説していた。

「うん、いいね。石坂くん、ちゃんと覚えてるみたいだよ。ここまでは何の問題も無い」

 結花は贅沢にもプロからマンツーマンで解説を聞いていた。

 でもそれよりも気にかかる事が結花にはあった。

「畠山先輩、すごいですね。裸眼であんなに遠くの碁盤が見えるなんて」

「うん。ワタシ、ヤマソダチデ、メハイイノー」

 どうしても言いたかったらしい。見た目とは相反して、本人は結構お笑い系だ。

「あ、相手が仕掛けてきたよ」

 京子の解説に、結花が反応する。慌ててオペラグラスを覗き込む。

 左辺で戦いが始まった。でもこれは京子が想定していた数ある中の最上位の手だ。

 これも嘉正は京子の教え通りに捌く。

「すごいですね。ここまで畠山先輩の予想通りに進んでいってる」

「石坂くんもすごいよ。教えた事、ちゃんと覚えてる」

 一度では覚えきれないだろうからと、スマホに撮影して後で復習するようにと、京子は部員全員に言い渡していたのだ。それを嘉正は面倒臭がらずに、ちゃんと言われた通りに一人で復習したのだろう。おそらく何度も、何度も、覚えるまで。

「石坂くんて、努力家だよね。真面目でいつも一生懸命で」

 それは結花も知っている。

「あの、畠山先輩。先輩って、石坂先輩のこと、どう思っ……」

「あ!石坂くんが勝負手打ってきた!」

 結花はまたオペラグラスを覗き込む。上辺に際どい手を打ってきた。ここから先は京子の指導には無い。正真正銘嘉正が考えて打った手だ。

「ここが勝負所だね」

 戦いは上辺から中央、そして下辺へと流れるように戦いの場を変えた。

 そして激しい鬩ぎ合いは嘉正に軍配が上がり、相手は投了した。


 嘉正の対戦相手が悔しそうに顔を上げた。嘉正とは目を合わせ無いようにしていたが、嘉正には、この対戦相手に伝えなければならない事があった。

「畠山さんから伝言です。「私の真似してくれて、ありがとう。棋士プロ冥利につきる」って。もし真珠戦の真似をする人がいたら、こう言っておいて欲しいって」

 伏せていた顔を上げた。嘉正と目が合った。

「まさか真似してお礼を言われるとは思わなかったよ」

 お互い汗だくだった。二人同時にタオルで汗を拭き、照れ臭そうにお互い苦笑いした。




 ●○●○●○



 新学期が始まって数日経った頃、洋峰学園中等部校舎に『祝 囲碁部 男子団体戦 優勝』という垂れ幕が下げられた。垂れ幕はちょうど京子達のクラスの真ん前に下げられ、日除けのようになっている。


「それにしても、石坂くんが準決勝で打った勝負手はスゴかったね!石坂くん、あの一戦でスッゴク成長したよ」

 教室の中から垂れ幕を眺めていた京子が嘉正の方に振り向き、言った。

 京子に見つめられ、嘉正は顔を真っ赤にする。

「あ……ありがとう」

 なんとかお礼の言葉を絞り出したが、それきり言葉が続かない。京子とまともに会話出来るようになったとはいえ、こんな風に正面から褒められると、まだ照れてしまう。

「うん。あれだけ打てるようになったんだから、「畠山京子の弟子」と名乗る事を許そう」

「へっ!?弟子!?」

 突拍子の無い提言に、嘉正は狼狽える。

「何。嫌なの?」

「いいえ!嫌じゃないです!ビックリして……。ほ、本当にいいの?」

「本人が言ってるんだよ。いいに決まってるじゃん」

 京子が偉そうに、ふんぞり返る。

 嘉正がクスッと笑う。

 二人は同時に、また垂れ幕を眺める。 

 その垂れ幕は、文化祭が終わるまで下げられていた。
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