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次の一手編
敵陣に侵入したら「成る」か「荒らす」か
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かつてここを治めるために京の都より遣わされた貴族が、都恋しさに、この地に都に似せた町並みを作った。後にみちのくの小京都と呼ばれる、秋田県角館町の武家屋敷通りの誕生である。
春は桜、秋は紅葉を見に国内外から観光客が訪れる、秋田県内屈指の観光名所である。
その武家屋敷通りの一本川寄りの狭い路地に入った所に畠山京子の母方の祖父が経営する自宅兼碁会所がある。
物珍しさに、土産代わりにと碁を覚えていく外国人観光客が結構数いる。時々碁石や碁盤を買っていく客もいる。そんな観光客に支えられて商っている碁会所だ。
その碁会所の住宅部分の2階で、京子は従兄弟の佐々木翔とその二歳離れた弟・佐々木遒と、炬燵に入りながらテレビを見ていた。兄弟の家はこの碁会所の隣だ。両親と犬1匹、雌の秋田犬と住んでいる。
もう深夜で、祖父と祖母はもう寝ている。
今日元日午前中に秋田こまちテレビで放送された「若者と秋田の未来について考える」と題した秋田の新春ローカル番組を録画しておいたものだ。ちなみに撮影は11月中旬に秋田県庁で行われた。
出演者は秋田県知事、オリンピック出場権を獲得した秋田出身の陸上選手、畠山京子、そして聞き手を務めるアナウンサーだ。
知事の質問に答える女性陸上選手の声が流れてくる。
《秋田県でもバスケットボールやラグビーなら優秀なコーチはいますが、それ以外の種目となると、どうしても東京へ、ということになります。私は出来る事なら秋田で競技を続けたかった。しかしオリンピックに出場レベルとなると、練習施設面からしても、どうしても秋田ではちょっと、となってしまう》
今度は女性アナウンサーの声が流れてくる。
《畠山さんはどうでしょうか。今は内弟子として師匠のお宅で暮らしてらっしゃるというお話ですが》
テレビに振り袖姿の京子の姿が映る。江田の就位式で着ていた振り袖だ。新年らしくていいと、テレビ局側からOKをもらった。
「着物かよ。気合い入ってるな、京子」
京子より一歳年下の遒が京子を呼び捨てにする。兄、翔の影響だ。
「本当に遒は生意気だよね。あ~あ。能代の従弟は「姉ちゃん」って呼んでくれて、かわいいのになぁ~!おんなじ従弟でもこうも違うとはなぁ~」
父方の従弟、京子より二歳年下の畠山大樹と晴登。双子だ。京子は昨日は能代の父の実家にいて、毎年恒例プロレスごっこをして遊んでいた。
「知らんし。会ったこと無いし」
「うん。会わせるつもりは無い。遒に会ったらあの二人が穢れる」
「相変わらずひでぇな!東京に行っても全然変わらないな、京子は」
「そりゃそうだ。そう簡単に人間変わらない」
そう言うと京子は炬燵の上の蜜柑に手を伸ばした。3個目の皮を剥く。
「それより京子。何の用だよ。じいちゃんの家に呼び出して。俺、一応受験生なんだけど」
翔は京子が嫌いだ。年下のくせに一緒に習い始めた柔道も剣道も、翔より先に昇段した。勉強も出来る。正月やお盆に祖父の家に集まってテレビにクイズでも流れてこようものなら、全部先に答えて全然面白くない。
「あんたに受験勉強なんて必要無いでしょ。まぁ、まずこの番組見ようよ」
テレビに映る京子が女性アナウンサーの質問に当たり障り無く、そつなく答える。
そうこうしているうちに30分番組はあっという間に終わってしまった。
「面白くねぇ~」
遒が眠そうに炬燵に突っ伏して愚痴る。
「うん。実はこの後が面白かったんだよねぇ~」
「この後?テレビの収録が終わった後?」
「うん。それでは話してしんぜよう」
「そういうの必要ないから」
◇◇◇◇◇
「はい、オッケーでーす!お疲れ様でしたー!」
県庁の知事室に響くディレクターの掛け声に、出演者も「お疲れ様でした」と声を掛け合う。
県知事も今日の主役のスポーツ選手と京子に声をかけた。
「お忙しい所、今日は貴重なご意見をありがとうございました。今後の県政の参考にさせて頂きます」
現県知事はかつてこの地を納めていた佐竹北家の末裔だ。世が世なら殿様なので、県民は親しみをこめて「殿」と呼んでいる。
「いいえ。こちらこそ普段言えない事を言えてスッキリしました」
スポーツ選手が言った。東京で苦労しているらしい。
着物姿の京子もゆっくり立ち上がり、知事やディレクターに礼をする。
「私もです!今日は楽しかったです!あ。知事、もしよければ握手して下さい!殿と握手したって自慢します!」
知事は豪快に「はっはっ!」と笑うと大きな手を差し出し、握手した。
(さあ。ここからが本番だ)
京子が今日ここに気合いを入れて振り袖で来た本当の理由だ。県庁で撮影すると聞いて、この計画を思い立ち、これから実行に移す。
テレビに映っていたのは4人だけだが、映っていない所には知事の秘書と県職員が数名、地元新聞記者が数名、『あきた轟新聞』の記者・佐藤渉もいた。それと、秋田では有名人の二人を一目見ようと仕事をほったらかして知事室を覗きに来た野次馬も数名いる。
京子はターゲットを決める。ドア近くに立っていた20代後半から30代前半の左手薬指に指輪をしている男性職員がいる。長身で涼しげな目元は、いかにも女性にモテそうだ。
(うん。この人で様子を見よう)
京子は出入り口付近にいる職員の方に向き直り、振り袖の袖を直すフリをして袖に仕込んだmicroSDカードを誰にも気付かれないように右手の人指し指と中指の間に挟む。そしてこう言った。
「皆さんは県庁の職員の方ですか?皆さんも秋田県の将来を担う大事なお仕事をしているんですよね?皆さんも握手して下さい!」
京子は真っ直ぐターゲットに向かい両手を差し出す。狙われた男性職員は女子中学生から握手を求められるとは思わず一瞬驚いた表情をしたが、差し出された京子の手をなんの疑問も持たずに握り握手した。
京子はニッコリと微笑み両手をぎゅっと握りしめる。男は手に固いものが当たる感触を感じたのだろう。無言で京子の手を握り返してきた。そして手を離すと、男は受け取ったものを落とさないように握りしめた。
無事microSDカードの受け渡しを完了した。
(うん。上々!勘の悪い真面目な人間だと「これは何?」と言ってmicroSDカードを公の場にさらしてしまうところだけど)
もしそうなったら、「こんな所にもお仕事道具を持って来てるんですね!」と男の物であるように誤魔化そうと思っていたが。
京子の思った通り、この男はこういうことに慣れている。
そしてこの行為に、明らかに嫉妬心の混じる敵意を持った視線を京子に向ける女がいた。案の定、京子の思惑に乗ってくれた女が。
(おお。いるいる!)
廊下の野次馬と目が合う。
(よし。あの人にしよう)
京子がターゲットにした女は、髪を後ろで纏めている地味で大人しいタイプの女だ。派手な女は駄目だ。騒がれる恐れがある。
「一緒に秋田を元気にしていきましょうね!」
そう言うと京子は端から一人づつ握手していった。誰一人拒む者はいなかった。断れば角が立ち、あらぬ噂を流される。その噂には尾鰭が付く。秋田はそんな狭い世間だ。
ターゲットの女の番になった。また振り袖の袖を直す振りをしてmicroSDカードを指に挟む。
京子が女に両手を差し出すと、女は京子をゴキブリでも見るような目で見る。
(うん。これこれ!)
京子の目に狂いは無かった。
ターゲットの女は京子との握手を拒まなかった。握手する。男と同じ反応だった。この女もこういう秘め事に慣れている。
着物に仕込んだ二つのmicroSDカードを無事渡し、京子は県庁を悠々と見学して東京に帰った。
◇◇◇◇◇
「そのmicroSDカードの中身は?」
翔はテレビを消して京子に聞いた。
「んー。簡単に言うと、秋田をこうして欲しいっていう嘆願書、みたいなもの?」
「嘘吐くなよ。嘆願書ならコソコソする必要ないだろ。堂々と殿に話せばいい」
「まーねー。まぁ簡単に言うなら、布石を打ってきたんだよ」
京子がしれっと言う。
「なんの布石だよ」
翔も碁会所を経営する祖父の孫だ。京子ほどではないが、碁は打てる。
「囲碁棋士が布石を打つって言ったら、そこで有利に戦うために決まってるじゃん」
「なんだよ。県庁で戦うって。ハッキリ言えよ」
京子が溜め息を吐く。これが加賀谷なら言わずとも察してくれるのに。わざわざ皆まで言わなくてはならないとは面倒臭い。
「決まってるじゃん。県庁を私の地にするんだよ。私はね、いつまでも東京に住むつもりは無いんだよ。四十も過ぎれば棋力が落ちてきてタイトル戦に顔を出す機会も減るだろうから、その頃には秋田に帰ってきて秋田を拠点に囲碁棋士の仕事と、『どこでもドア』開発をする。
それまでに秋田を住み良い土地にしておきたい。私の手で。
その為に私の『影武者』を県庁に置いて、私に代わって色んなイベントをやってもらおうと思って」
翔が口をあんぐりと開ける。
そうだ。こいつ、子供の頃から人任せにするのが嫌いだった。こいつに「大人に任せろ」は通用しない。
それに普通の手段を取って嘆願しても、十中八九、生意気な女子中学生の戯れ言、としてあしらわれるだろう。
まだまだ年功序列なんて言葉が跋扈する田舎だ。
本気で県政に手を出そうとするなら、この方法しか無い。
でも。
「だからって今のうちから県政に手を出そうっていうのか?」
「じゃないと間に合わないし」
それはわかる。昨年末発表された人口減少比率は秋田県が47都道府県中最高だった。このままだと京子が40歳になる頃には秋田の人口は最悪半分になっているかもしれない。
「でさ。翔でも遒でもどっちでもいいけどさ。あんた達、県知事にならない?」
翔は目を大きく見開き、眠そうに突っ伏していた遒はガバッと起き上がった。
「殿に謀反!?」
今まで眠そうにしていたとは思えないスピードで、遒が京子にツッこんだ。
「違う!謀反じゃなくて、繋ぎ、だよ!さすがに殿でも30年40年も知事でいられないでしょ。だから若が県政を担うまでの繋ぎ、だよ」
「なんで俺たちが?自分でやればいいだろ」
翔が言った。京子は俺より頭がいいんだ。秋田初の女性県知事になれるだろう。
「女が上に立つとね、色々やっかみを受けるんだよ」
「お前ならそいつを社会的に抹殺できるだろ」
京子はとにかく勝ち気で負けず嫌い。喧嘩相手が2歳も3歳も年上で自分より体が何倍も大きかろうと、相手が「参った」と言うまでネチネチと陰湿な嫌がらせをする、いつまでも根に持つタイプだ。
「残念ながら、私は県知事よりも『どこでもドア』開発の方に力を注ぎたいんだよね」
「だからって人にやらせるとか。つーかなんで県知事なんだよ。お前なら総理大臣とか言いそうなのに」
「まずは簡単な方からでしょ」
「県知事になるのが簡単かよ」
「勝算があるから言ってるんだよ」
「……それが布石か」
「県庁に布石を打ったぐらいじゃ選挙に勝てないよ。まず知事選に立候補して投票してもらえるだけの知名度を上げとかないと」
「……どうやって俺達の知名度を上げる?」
「そこは私が囲碁棋士として頑張る。まだ女性の七大棋戦挑戦者っていないから、私が第一号になって、まずは私の知名度を上げる。そうすれば『女性初七大棋戦挑戦者の従兄弟』として、あんた達の知名度を上げられる」
翔はまた口をあんぐりと開けた。
理屈はわかる。金緑石戦を勝ち、秋田では大々的に報道され、もう既に京子はそこそこ知名度がある。
でもその作戦が上手くいくとは限らない。
そもそもこの作戦は京子が『女性初七大棋戦挑戦者』にならなければ破綻する計画だ。
でも、京子は「やる」と言ったらやる。そういう奴だ。
翔は今のところ将来こうなりたいという夢がある訳ではない。
小さい頃はプロ野球選手になりたいだなんて夢のまた夢を持っていたけど、こんな田舎じゃ、夢を実現させるには都会に住む人間の何十倍も努力して、そして運も無ければ叶えられないということを知っている。
今は祖父が経営している店を、いずれは継ぐんだろうな、ぐらいにしか思っていない。
やりたいことが無いなら、お膳立てしてくれる従妹の戯言に乗っかっても面白いのでは。
囲碁棋士になると言って東京に行って、本当に囲碁棋士になった。従妹には目標を実現させる力がある。
それなら、寄らば大樹の陰。一蓮托生だ。
翔は開けていた口を閉じ、溜め息を吐いた。
「わかった。まぁ、俺が選挙に立候補できる年齢になるのは10年も先の話だし。それまでに考えておくよ」
翔は「保留」という形で返事をした。もしかしたら将来、何かやりたい事が見つかるかもしれない。逃げ道を作っておくなんて、卑怯かもしれないが、自分のやりたいことを優先させたい。それくらいは京子も許してくれるだろう。
色いい返事ではなかったが、京子はニコッと笑った。
「うん。じゃあ、とりあえず大学は東大に行こうか」
「……そうなるよな」
「なるね。経済的支援は任せて」
翔の今の学力なら問題ない。ただしそれは今中学生のレベルの話だ。高校に行ってどうなるか、わからない。
(とりあえず向こう3年間は勉強漬けだな)
この国は学歴社会。たとえ知事にならなくても、東大という学歴があれば、この田舎では職に困らない。なるようになるだろう。
「なぁ、京子。俺でもいいんだろ」
今まで大人しく兄と従妹の会話を聞いていた遒が急に会話に割り込んできた。
「あんた、東大に行ける頭してるの」
「言い方キツイ!もう寝る!帰る!」
遒は勢いよく立ち上がると、出ていってしまった。
「俺も寝るわ」
そう言うと翔も帰って言った。
一人、祖父母の家の居間に残った京子は、炬燵を脇に退けると押し入れから布団を出して引き、眠りについた。
春は桜、秋は紅葉を見に国内外から観光客が訪れる、秋田県内屈指の観光名所である。
その武家屋敷通りの一本川寄りの狭い路地に入った所に畠山京子の母方の祖父が経営する自宅兼碁会所がある。
物珍しさに、土産代わりにと碁を覚えていく外国人観光客が結構数いる。時々碁石や碁盤を買っていく客もいる。そんな観光客に支えられて商っている碁会所だ。
その碁会所の住宅部分の2階で、京子は従兄弟の佐々木翔とその二歳離れた弟・佐々木遒と、炬燵に入りながらテレビを見ていた。兄弟の家はこの碁会所の隣だ。両親と犬1匹、雌の秋田犬と住んでいる。
もう深夜で、祖父と祖母はもう寝ている。
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出演者は秋田県知事、オリンピック出場権を獲得した秋田出身の陸上選手、畠山京子、そして聞き手を務めるアナウンサーだ。
知事の質問に答える女性陸上選手の声が流れてくる。
《秋田県でもバスケットボールやラグビーなら優秀なコーチはいますが、それ以外の種目となると、どうしても東京へ、ということになります。私は出来る事なら秋田で競技を続けたかった。しかしオリンピックに出場レベルとなると、練習施設面からしても、どうしても秋田ではちょっと、となってしまう》
今度は女性アナウンサーの声が流れてくる。
《畠山さんはどうでしょうか。今は内弟子として師匠のお宅で暮らしてらっしゃるというお話ですが》
テレビに振り袖姿の京子の姿が映る。江田の就位式で着ていた振り袖だ。新年らしくていいと、テレビ局側からOKをもらった。
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京子より一歳年下の遒が京子を呼び捨てにする。兄、翔の影響だ。
「本当に遒は生意気だよね。あ~あ。能代の従弟は「姉ちゃん」って呼んでくれて、かわいいのになぁ~!おんなじ従弟でもこうも違うとはなぁ~」
父方の従弟、京子より二歳年下の畠山大樹と晴登。双子だ。京子は昨日は能代の父の実家にいて、毎年恒例プロレスごっこをして遊んでいた。
「知らんし。会ったこと無いし」
「うん。会わせるつもりは無い。遒に会ったらあの二人が穢れる」
「相変わらずひでぇな!東京に行っても全然変わらないな、京子は」
「そりゃそうだ。そう簡単に人間変わらない」
そう言うと京子は炬燵の上の蜜柑に手を伸ばした。3個目の皮を剥く。
「それより京子。何の用だよ。じいちゃんの家に呼び出して。俺、一応受験生なんだけど」
翔は京子が嫌いだ。年下のくせに一緒に習い始めた柔道も剣道も、翔より先に昇段した。勉強も出来る。正月やお盆に祖父の家に集まってテレビにクイズでも流れてこようものなら、全部先に答えて全然面白くない。
「あんたに受験勉強なんて必要無いでしょ。まぁ、まずこの番組見ようよ」
テレビに映る京子が女性アナウンサーの質問に当たり障り無く、そつなく答える。
そうこうしているうちに30分番組はあっという間に終わってしまった。
「面白くねぇ~」
遒が眠そうに炬燵に突っ伏して愚痴る。
「うん。実はこの後が面白かったんだよねぇ~」
「この後?テレビの収録が終わった後?」
「うん。それでは話してしんぜよう」
「そういうの必要ないから」
◇◇◇◇◇
「はい、オッケーでーす!お疲れ様でしたー!」
県庁の知事室に響くディレクターの掛け声に、出演者も「お疲れ様でした」と声を掛け合う。
県知事も今日の主役のスポーツ選手と京子に声をかけた。
「お忙しい所、今日は貴重なご意見をありがとうございました。今後の県政の参考にさせて頂きます」
現県知事はかつてこの地を納めていた佐竹北家の末裔だ。世が世なら殿様なので、県民は親しみをこめて「殿」と呼んでいる。
「いいえ。こちらこそ普段言えない事を言えてスッキリしました」
スポーツ選手が言った。東京で苦労しているらしい。
着物姿の京子もゆっくり立ち上がり、知事やディレクターに礼をする。
「私もです!今日は楽しかったです!あ。知事、もしよければ握手して下さい!殿と握手したって自慢します!」
知事は豪快に「はっはっ!」と笑うと大きな手を差し出し、握手した。
(さあ。ここからが本番だ)
京子が今日ここに気合いを入れて振り袖で来た本当の理由だ。県庁で撮影すると聞いて、この計画を思い立ち、これから実行に移す。
テレビに映っていたのは4人だけだが、映っていない所には知事の秘書と県職員が数名、地元新聞記者が数名、『あきた轟新聞』の記者・佐藤渉もいた。それと、秋田では有名人の二人を一目見ようと仕事をほったらかして知事室を覗きに来た野次馬も数名いる。
京子はターゲットを決める。ドア近くに立っていた20代後半から30代前半の左手薬指に指輪をしている男性職員がいる。長身で涼しげな目元は、いかにも女性にモテそうだ。
(うん。この人で様子を見よう)
京子は出入り口付近にいる職員の方に向き直り、振り袖の袖を直すフリをして袖に仕込んだmicroSDカードを誰にも気付かれないように右手の人指し指と中指の間に挟む。そしてこう言った。
「皆さんは県庁の職員の方ですか?皆さんも秋田県の将来を担う大事なお仕事をしているんですよね?皆さんも握手して下さい!」
京子は真っ直ぐターゲットに向かい両手を差し出す。狙われた男性職員は女子中学生から握手を求められるとは思わず一瞬驚いた表情をしたが、差し出された京子の手をなんの疑問も持たずに握り握手した。
京子はニッコリと微笑み両手をぎゅっと握りしめる。男は手に固いものが当たる感触を感じたのだろう。無言で京子の手を握り返してきた。そして手を離すと、男は受け取ったものを落とさないように握りしめた。
無事microSDカードの受け渡しを完了した。
(うん。上々!勘の悪い真面目な人間だと「これは何?」と言ってmicroSDカードを公の場にさらしてしまうところだけど)
もしそうなったら、「こんな所にもお仕事道具を持って来てるんですね!」と男の物であるように誤魔化そうと思っていたが。
京子の思った通り、この男はこういうことに慣れている。
そしてこの行為に、明らかに嫉妬心の混じる敵意を持った視線を京子に向ける女がいた。案の定、京子の思惑に乗ってくれた女が。
(おお。いるいる!)
廊下の野次馬と目が合う。
(よし。あの人にしよう)
京子がターゲットにした女は、髪を後ろで纏めている地味で大人しいタイプの女だ。派手な女は駄目だ。騒がれる恐れがある。
「一緒に秋田を元気にしていきましょうね!」
そう言うと京子は端から一人づつ握手していった。誰一人拒む者はいなかった。断れば角が立ち、あらぬ噂を流される。その噂には尾鰭が付く。秋田はそんな狭い世間だ。
ターゲットの女の番になった。また振り袖の袖を直す振りをしてmicroSDカードを指に挟む。
京子が女に両手を差し出すと、女は京子をゴキブリでも見るような目で見る。
(うん。これこれ!)
京子の目に狂いは無かった。
ターゲットの女は京子との握手を拒まなかった。握手する。男と同じ反応だった。この女もこういう秘め事に慣れている。
着物に仕込んだ二つのmicroSDカードを無事渡し、京子は県庁を悠々と見学して東京に帰った。
◇◇◇◇◇
「そのmicroSDカードの中身は?」
翔はテレビを消して京子に聞いた。
「んー。簡単に言うと、秋田をこうして欲しいっていう嘆願書、みたいなもの?」
「嘘吐くなよ。嘆願書ならコソコソする必要ないだろ。堂々と殿に話せばいい」
「まーねー。まぁ簡単に言うなら、布石を打ってきたんだよ」
京子がしれっと言う。
「なんの布石だよ」
翔も碁会所を経営する祖父の孫だ。京子ほどではないが、碁は打てる。
「囲碁棋士が布石を打つって言ったら、そこで有利に戦うために決まってるじゃん」
「なんだよ。県庁で戦うって。ハッキリ言えよ」
京子が溜め息を吐く。これが加賀谷なら言わずとも察してくれるのに。わざわざ皆まで言わなくてはならないとは面倒臭い。
「決まってるじゃん。県庁を私の地にするんだよ。私はね、いつまでも東京に住むつもりは無いんだよ。四十も過ぎれば棋力が落ちてきてタイトル戦に顔を出す機会も減るだろうから、その頃には秋田に帰ってきて秋田を拠点に囲碁棋士の仕事と、『どこでもドア』開発をする。
それまでに秋田を住み良い土地にしておきたい。私の手で。
その為に私の『影武者』を県庁に置いて、私に代わって色んなイベントをやってもらおうと思って」
翔が口をあんぐりと開ける。
そうだ。こいつ、子供の頃から人任せにするのが嫌いだった。こいつに「大人に任せろ」は通用しない。
それに普通の手段を取って嘆願しても、十中八九、生意気な女子中学生の戯れ言、としてあしらわれるだろう。
まだまだ年功序列なんて言葉が跋扈する田舎だ。
本気で県政に手を出そうとするなら、この方法しか無い。
でも。
「だからって今のうちから県政に手を出そうっていうのか?」
「じゃないと間に合わないし」
それはわかる。昨年末発表された人口減少比率は秋田県が47都道府県中最高だった。このままだと京子が40歳になる頃には秋田の人口は最悪半分になっているかもしれない。
「でさ。翔でも遒でもどっちでもいいけどさ。あんた達、県知事にならない?」
翔は目を大きく見開き、眠そうに突っ伏していた遒はガバッと起き上がった。
「殿に謀反!?」
今まで眠そうにしていたとは思えないスピードで、遒が京子にツッこんだ。
「違う!謀反じゃなくて、繋ぎ、だよ!さすがに殿でも30年40年も知事でいられないでしょ。だから若が県政を担うまでの繋ぎ、だよ」
「なんで俺たちが?自分でやればいいだろ」
翔が言った。京子は俺より頭がいいんだ。秋田初の女性県知事になれるだろう。
「女が上に立つとね、色々やっかみを受けるんだよ」
「お前ならそいつを社会的に抹殺できるだろ」
京子はとにかく勝ち気で負けず嫌い。喧嘩相手が2歳も3歳も年上で自分より体が何倍も大きかろうと、相手が「参った」と言うまでネチネチと陰湿な嫌がらせをする、いつまでも根に持つタイプだ。
「残念ながら、私は県知事よりも『どこでもドア』開発の方に力を注ぎたいんだよね」
「だからって人にやらせるとか。つーかなんで県知事なんだよ。お前なら総理大臣とか言いそうなのに」
「まずは簡単な方からでしょ」
「県知事になるのが簡単かよ」
「勝算があるから言ってるんだよ」
「……それが布石か」
「県庁に布石を打ったぐらいじゃ選挙に勝てないよ。まず知事選に立候補して投票してもらえるだけの知名度を上げとかないと」
「……どうやって俺達の知名度を上げる?」
「そこは私が囲碁棋士として頑張る。まだ女性の七大棋戦挑戦者っていないから、私が第一号になって、まずは私の知名度を上げる。そうすれば『女性初七大棋戦挑戦者の従兄弟』として、あんた達の知名度を上げられる」
翔はまた口をあんぐりと開けた。
理屈はわかる。金緑石戦を勝ち、秋田では大々的に報道され、もう既に京子はそこそこ知名度がある。
でもその作戦が上手くいくとは限らない。
そもそもこの作戦は京子が『女性初七大棋戦挑戦者』にならなければ破綻する計画だ。
でも、京子は「やる」と言ったらやる。そういう奴だ。
翔は今のところ将来こうなりたいという夢がある訳ではない。
小さい頃はプロ野球選手になりたいだなんて夢のまた夢を持っていたけど、こんな田舎じゃ、夢を実現させるには都会に住む人間の何十倍も努力して、そして運も無ければ叶えられないということを知っている。
今は祖父が経営している店を、いずれは継ぐんだろうな、ぐらいにしか思っていない。
やりたいことが無いなら、お膳立てしてくれる従妹の戯言に乗っかっても面白いのでは。
囲碁棋士になると言って東京に行って、本当に囲碁棋士になった。従妹には目標を実現させる力がある。
それなら、寄らば大樹の陰。一蓮托生だ。
翔は開けていた口を閉じ、溜め息を吐いた。
「わかった。まぁ、俺が選挙に立候補できる年齢になるのは10年も先の話だし。それまでに考えておくよ」
翔は「保留」という形で返事をした。もしかしたら将来、何かやりたい事が見つかるかもしれない。逃げ道を作っておくなんて、卑怯かもしれないが、自分のやりたいことを優先させたい。それくらいは京子も許してくれるだろう。
色いい返事ではなかったが、京子はニコッと笑った。
「うん。じゃあ、とりあえず大学は東大に行こうか」
「……そうなるよな」
「なるね。経済的支援は任せて」
翔の今の学力なら問題ない。ただしそれは今中学生のレベルの話だ。高校に行ってどうなるか、わからない。
(とりあえず向こう3年間は勉強漬けだな)
この国は学歴社会。たとえ知事にならなくても、東大という学歴があれば、この田舎では職に困らない。なるようになるだろう。
「なぁ、京子。俺でもいいんだろ」
今まで大人しく兄と従妹の会話を聞いていた遒が急に会話に割り込んできた。
「あんた、東大に行ける頭してるの」
「言い方キツイ!もう寝る!帰る!」
遒は勢いよく立ち上がると、出ていってしまった。
「俺も寝るわ」
そう言うと翔も帰って言った。
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