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布石編
大駒の交換
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その日は朝、シャワーを浴びない。寝癖を直さないまま工場の従業員の着古した作業着に袖を通し、コロンを付けず、いつものロレックスではなくスマートウォッチを左腕に付け、100円ショップで手に入るようなフレームの曲がったメガネを掛ける。時々こうして「冴えない中年男性」風の変装をして出掛ける。車もいつもの黒塗りの外車ではなく、軽トラックの助手席に乗り込み、目的地に向かう。
今日の目的地は都内の河川敷。とある事件で権力によって組織の罪を全て負わされ、ホームレスにまで貶められてしまった、仕事は出来るが運の無い男を我が社に引き入れに行く。
江田正臣は軽トラックを降り、運転していた部下と共に河川敷を歩く。猛暑の影響がまだ残っているのか、この時期にしては高温になり、過ごしやすい日だ。羽織ってきた安物のコートを脱いだ。
離れた広場で子供達がサッカーをしている。
犬の散歩をしている人がいる。
ランニングしている人もいる。
12月とは思えない穏やかな日曜日の昼下がりだ。
「こちらです」
正臣の前を歩いていた部下が、橋の下のダンボールハウスを指差す。どこから拾って来たのか、錆びた看板らしき物を屋根にし、壁は器用に段ボールで囲い、入り口らしき所には布を垂らした、雨風を凌ぐ為の掘っ立て小屋だった。
もう冬だ。東京でもいつ雪が降ってもおかしくない時期だ。外で暮らすには厳しい季節になる。なんとしてでも彼を説得して、ついでに我が社に引き入れたい。
正臣は周囲を警戒する。離れた場所に陣取るSPに視線を配る。SP達はコクリと頷く。
正臣は段ボールハウスに近づく。中に居る住人に声をかけようとしたその時、入口と思われる布をめくって、中から人が出てきた。
その人物は、この場には不釣り合いな顔立ちの少女だった。正月に、実弟の江田照臣の師匠の新年会に参加した時に見た顔だ。
「え?え……」
と言ったところで、中から出てきた美少女は口を噤んだ。この場では、私の名を出すのは差し障ると察知したようだ。勘のいい子だ。助かった。例え名前だけだとしても、どこで誰が聞いているかわからない。
中から出てきたのは少女だけでは無かった。紺色のパンツスーツ姿の20代女性も一緒だった。
「すみません、新井先生。私、この方とお話があるので、先に帰ってもらえますか?」
「わかりました」
少女は女性を先生と呼んだが、この会話の内容から、少女のほうが上の立場だとわかる。
少女に先生と呼ばれた女性は、A4サイズの封筒を抱えて、男性と一緒に出ていった。
正臣が今日会いに来た男だ。
先を越された。
●○●○●○
河川敷の広場にクレープのキッチンカーが止まっていた。
江田正臣は『イチゴとクリームチーズ』のクレープを店員から受け取ると、畠山京子に渡した。
「ありがとう、お父さん!」
どうやら父娘設定で通すらしい。こういう嘘をさらりと吐ける子なのか、と感心する。
自分はチョコバナナのクレープにし、キッチンカーから離れた芝生の上に腰かけた。
京子は早速クレープを口に入れた。
「んー!美味しい!」
本当に美味しそうに食べている。奢り甲斐がある。
正月の岡本幸浩門下の新年会で会って以来だ。子供の成長は本当に早いものだ。一度会った人物の顔は忘れない私だが、一瞬、別人かと思った程だ。
それにしても、まさか女子中学生に先を越されるとは。江田グループの権力を全て行使して、やっと彼の居所を掴んだのに。学校も囲碁棋士としての仕事もあるのに、彼女はどうやってここを突き止めたのだろう。どんな情報手段を持っているのだろうか。
疑問は尽きないが、まずは軽くジャブからいくか。
「京子ちゃん。あんな所で何をしていたんだい?感心しないね。未成年の女の子が来ていい場所じゃない」
「あら。遅れをとって横取りされて、私に嫌味ですか」
京子は口の中のクレープを飲み込んでからこう言いニヤリと笑う。
江田グループ総帥・江田正臣はフフッと笑う。嫌味に聞こえてしまったか。怖い子だ。私が何者かわかっていて、私と対等に口を利こうだなんて。
「彼をどうする気だい?」
「江田様なら大体の見当はついているんじゃないですか。目的はおそらく江田様と同じですよ」
今度は「お父さん」じゃなくて、「江田様」か。新年会の時には「お兄さん」と呼んでくれたのにな。
「市ヶ谷駅の近くに店舗を構えるそうだね」
実弟の関係者全員の身辺調査は随時行っている。畠山京子に関する情報は学校に通っているせいもあって更新スピードが早く、情報の整理が追い付かない。この情報は今朝インプットしたばかりの情報だ。
「そこまでご存じなら、私の説明は必要無いのでは」
これは中々一筋縄ではいかないな。相手が女子中学生だとは思わない方がいい。
しかし、交渉の余地はあるだろう。この子の方から誘ったのだから。
「単刀直入に言うよ。彼はこちらに引き渡して欲しい」
「引き渡すなんて、物騒な言い方ですね」
「事実、物騒な事件の当事者だよ」
「当事者にでっち上げられた、が正しいですよね」
「そこまで知っているなら、わかるだろう。彼の能力は、君の事業には役不足だ。勿体無い」
「そうかもしれません。しかしですね、こちらはまだまだ人材不足でして、どうしても彼は必要なんです。それにもう正式に契約してしまいました。手遅れです。他を当たって下さい」
もう契約を交わしたのか!まぁ、それはどうとでもなる。それより、契約を交わしたということは、だいぶ前から彼の居所を掴んで交渉していたということか。
気になる。中学生がどんな情報網を持っているんだ?
「彼の居所をどうやって見つけたんだい?学校に通いながらじゃ大変だったと思うけど」
正臣は京子に探りをいれる。包み紙からクレープを引っ張り出す京子の目を見つめる。京子は残りのクレープを一口で飲み込み、またニヤリと笑った。
彼の居所を見つけたのは、ハッカー『アラクネ』こと加賀谷伸行だ。お盆に秋田ふるさと村で依頼をしていた件だ。京子が加賀谷に渡した『鍵』を使い彼を探しだした。加賀谷の腕をもってしても、こんなに時間がかかってしまった。
しかし京子はその事を馬鹿正直に話すつもりは無い。
「ウチの学校、オタク学校って呼ばれてるんですよ。色んなオタクがいるんです。行方不明者を見つけるのなんて、朝飯前です」
「そんな嘘で誤魔化せるとでも?」
正臣は凄んで京子に無言の圧をかける。
しかし京子は中年男性の圧など臆しない。対局の度にこれに負けない圧を浴びているのだ。この程度の圧に屈していたら、中学生囲碁棋士など務まらない。
「残念ながらお答え出来ません。情報源がどこかなんて、江田様なら、そんな大切な情報を外部に絶対に漏らさないでしょう?私も同じです」
京子は正臣を睨み付ける。これ以上、何を訊かれても絶対に何も喋らないという圧だ。
(ほう。この子は大人を睨み付ける度胸があるのか。面白い)
最近の若い子はネットの影響か、人前では猫を被って善人ぶっている。ただ、猫を被っている人間は、いとも簡単に化けの皮が剥がれるが。
欲しい。
あと数年でどれ程までに成長するのか。自分の手で育ててみたい。
暫く睨み合いが続いた。が、先に動いたのは京子だった。
「お話がお済みでしたら帰ります。ご存じの通り、開店準備で忙しいものですから。クレープ、ご馳走様でした」
京子は立ち上がって帰ろうとする。
ここで逃したら交渉の機会を失ってしまう。
「わかった。じゃあ取引しよう。彼をこちらに引き渡して欲しい。こちらからは、君の事業に有能な人材を派遣しよう」
グループ全体で万の数の従業員を抱える大企業だ。たった一人か二人のトレードで彼が手に入るのなら、こちらはなんの痛手にもならない。
「勘違いしてもらっては困ります。いくら有能でもやる気の無い人は願い下げです。私は能力より、人と人との繋がりを大切にする人物が欲しい。この事業のために。誰でもいいからという訳にはいきません」
牽制された。思わず舌打ちしそうになる。
(そこまで読まれていたか。「適当に」「誰でも」という訳にはいかなくなった。思った以上にやりづらいな)
世界中の一流企業相手に、こちらが有利になるよう交渉してきた百戦錬磨のこの私が、まさか女子中学生に交渉の主導権を握られるとは。
(いいね。ますます欲しい)
正臣は次の交渉のカードを切る。
「なら、君の欲しい物をやろう。例えば今、改装工事中のあの物件より、もっといいものを提供できるよ」
「欲しいもの、ですか」
お!食いついてくれた。やはり何だかんだ言っても中学生だな。カネで片がつきそうだ。子供の欲しがる物なんて、たかが知れている。むしろ人材を送るより安くつく。
畠山京子は川の方に目をやる。顎に左手をのせ何やら考え込む。
サッカーボールが転がって来た。子供達が「すいませーん!」と手を振る。京子は立ち上がり、転がってきたボールを子供達めがけて思いきり蹴飛ばした。ボールは真上に高く跳び子供達の輪のど真ん中に落ちた。
「わお!すげー!」
「ありがとー!」
京子は「どういたしまして」と手を振って応えると、正臣の方を向いて座った。
「では江田様。私の、囲碁棋士畠山京子の、後援会会長になって欲しいです」
そうきたか!
『後援会会長』
簡単に言えばその棋士の『応援団長』だ。棋士としての応援は勿論、生活面でも支えて囲碁に集中できる環境を与えるのも後援会会長の役目だ。だから誰でもなれる、という訳では無い。信頼関係、そしてそれ相応の社会的地位と権力を持った人物でなければ務まらない。
その点この私、江田グループ総帥・江田正臣なら、文句のつけようが無いだろう。
それにこの子のこの美貌。囲碁で名を馳せれば江田グループには人寄せになる。そしてこの子には江田の名は後ろ楯にもなる。上手くいけば互いにWinWinの関係が築けるだろう。
(そうだ。テルに言われてた事があったな……)
岡本門下の新年会の帰り道。実弟の照臣にこう言われていたのを思い出す。
『京子が兄さんにいつかお願い事をすると思うんだ。そしたら、何の条件もつけずにそのお願いを聞いてあげて欲しい』、と。
テルは子供の頃からとても勘がいい。
照臣5歳の誕生日パーティーの時。父と握手しようとしたライバル会社社長に向かって「この人、悪い人だから握手しちゃダメ!」と大騒ぎした事があった。
暫くしてそのライバル会社社長は新聞の一面を賑わせたのだが。
それ以来、テルが「今日は出掛けちゃダメ」と言った日には父が乗るはずだった飛行機が事故にあったりだとか、「あの道は通らないで」と言った道で道路の陥没事故があったりだとか、とても偶然とは思えない程の的中率で災難を回避する予言をしている。
そのテルが「無条件で畠山京子を援護しろ」と言ったのだ。
おそらく我が江田グループに良い影響をもたらすからだろう。でなければテルは、「あの子に気をつけて」と言うはずだ。
だが。こちらとしてはタダで彼を手に入れたい。この子の条件を飲むつもりは無い。
それに。
(たかが中学生じゃないか。何を恐れる必要がある?)
権力もコネも社会的地位も何も無い小娘を、警戒する必要など無いだろう。
正臣は、初めて弟・照臣の忠告を無視した。
「それはちょっとどうだろう。この私が君の後援会会長になるメリットは?私は商売人だからね。損得勘定も計算して欲しいね。ちゃんと天秤が釣り合うようにしないと、取引にはならないよ。」
こう言っておけば、素直に彼を渡してくれるだろう。
「それもそうですね。ならばこういうのはどうです?先程の答えを教えるのは?」
「先程?」
「ええ。彼をどうやって見つけたのか、の答えです」
ほう。教える気になったか。まぁ、聞くだけ聞いて、大した情報でなければ切り捨てればいい。
「気になるね。是非聞いておきたい」
「ハッカー『アラクネ』はご存じですよね」
能天気に美少女中学生を眺めていた正臣の顔が、みるみる蒼白になる。
今、どこの企業も『アラクネ』を捕まえるのに躍起になっている。それほどの最重要人物だ。
他企業ほどではないが、江田グループとて多少なりの被害を被っている。社内にも極秘に『アラクネ』を捕獲するための専門部署を設けたほどだ。
『アラクネ』を捕まえたい理由。警察に引き渡すのではない。わが社でハッカーとして働いてもらうためだ。
ライバル社の未公表の情報が手に入る、ただそれだけで、どれだけのアドバンテージが取れるか。
億単位で金が動く世界では、情報そのものがまさに金なのだ。
その億単位の金を動かす能力を持っている『アラクネ』に関する情報を、まさかこんな小娘が掴んでいるとは!いや、そもそもこんな小娘が『アラクネ』を知っているのが驚きだ。
「……まさか君が『アラクネ』?」
そう考えれば辻褄が合う。
「残念ながら、『アラクネ』に関する情報は一切お答えできません」
京子は否定も肯定もしなかった。京子は『アラクネ』の正体を誰にも話すつもりはない。むしろ『アラクネ』は京子だと勘違いしてもらった方が、京子にとっては都合がいい。
正臣は京子のこの回答は当然だと思う。たとえ彼女が『アラクネ』だったとしてもそうでなくても、情報を管理する者ならこんな最重要情報をおいそれと話す訳がない。
待てよ。その前に、確かめなければならない事がある。
「君が持っている『アラクネ』の情報は、本物なのか?もし本物だとして、どうやって本物だと証明するつもりだ?」
つい仕事口調になっているのに正臣は気づかない。京子を小娘ではなく、対等な交渉をする商売人と認識し始めた。
「こういうのはどうでしょう。『アラクネ』が作成したセキュリティプログラムをお渡しします。それで証明になりませんか?」
『アラクネ』作成のセキュリティ!!
そんなものがあるのか!もし本物ならば、もう情報漏洩にやきもきせずにすむだろう。
正臣は返事をする変わりにコクリと頷いた。
「じゃあ、あそこにいるカップルの女性の方を、明日、学校の部活が終わった頃、洋峰学園駅の中にあるコロッケ屋さんまで寄越してもらえませんか。面識の無い方より面識のある方のほうがいいですから」
「どうしてあそこにいる女性に?」
「だってあの方、SPですよね?あのカップル、ずっとキョロキョロしてるのに、全然私たちの方を見ないし。あと土手の上の方にいる犬を連れてるおじさんも」
全員SPだと見抜いていたのか。
正臣は溜め息を吐く。
(柔道と剣道も習っていたと報告にあったが、ただ習っていただけではないようだな)
「わかった。明日、彼女を使いにやる。プログラムを確認し次第、追って連絡する」
「くれぐれも他人のふりをしてやり過ごすように言ってくださいね。すれ違いざまに渡すので。大きい鞄だとありがたいですね」
●○●○●○
あれから一週間が立った。『アラクネ』捕獲班にこのプログラミングの解析を行わせたが、結局我々はこのセキュリティプログラムの脆弱性を見つけ出す事が出来なかった。
『これは『アラクネ』が作成したもので間違いない』と結論付けた。
世界中が捕獲に躍起になっている『アラクネ』という駒を、江田グループが手に入れた。これから先は欲しい情報が簡単に手に入るようになるだろう。
天秤は畠山京子の方に大きく傾いた。しかもちょっとやそっとの荷では天秤が釣り合わないほどに。
(しまった。しくじった。だからテルは「無条件で」と言ったのか)
これからは彼女の言いなりになって、彼女の欲しいというものを与えなければならなくなった。
(いや。むしろそれでいい)
彼女を育ててみたいと思った。
彼女はまだ子供だ。行動を起こすだけの頭脳はもっていても、未成年であるがために色々な制限を喰らう。思うように身動きがとれずに歯がゆい思いをしているのだろう。
そこでこの私、江田を使おうと。
彼女の交渉は完璧だった。
あの日、私とかち合ったのは偶然だった筈だ。あの時のあの表情は演技ではないだろう。あれで演技だったら彼女は女優にもなれそうだ。
交渉のシナリオを初めから用意していたわけではない。あの場で考えたアドリブでこの私を恣に操った。
なんという頭の回転スピード。そしてそれを実行する度胸。
すばらしい!これでまだ中学生とは!
私は今後、畠山京子に欲しいものを与えよう。
与えられた彼女は自由に動き回れば良い。
ただそれだけでお互い利益を得られるなら。
正臣はスマホを手に取り、自ら京子に電話する。
彼を引き渡し契約解消する件、囲碁棋士・畠山京子の後援会会長就任の件、それから『アラクネ』への依頼方法と報酬など、細かい条件等の交渉をするために。
今日の目的地は都内の河川敷。とある事件で権力によって組織の罪を全て負わされ、ホームレスにまで貶められてしまった、仕事は出来るが運の無い男を我が社に引き入れに行く。
江田正臣は軽トラックを降り、運転していた部下と共に河川敷を歩く。猛暑の影響がまだ残っているのか、この時期にしては高温になり、過ごしやすい日だ。羽織ってきた安物のコートを脱いだ。
離れた広場で子供達がサッカーをしている。
犬の散歩をしている人がいる。
ランニングしている人もいる。
12月とは思えない穏やかな日曜日の昼下がりだ。
「こちらです」
正臣の前を歩いていた部下が、橋の下のダンボールハウスを指差す。どこから拾って来たのか、錆びた看板らしき物を屋根にし、壁は器用に段ボールで囲い、入り口らしき所には布を垂らした、雨風を凌ぐ為の掘っ立て小屋だった。
もう冬だ。東京でもいつ雪が降ってもおかしくない時期だ。外で暮らすには厳しい季節になる。なんとしてでも彼を説得して、ついでに我が社に引き入れたい。
正臣は周囲を警戒する。離れた場所に陣取るSPに視線を配る。SP達はコクリと頷く。
正臣は段ボールハウスに近づく。中に居る住人に声をかけようとしたその時、入口と思われる布をめくって、中から人が出てきた。
その人物は、この場には不釣り合いな顔立ちの少女だった。正月に、実弟の江田照臣の師匠の新年会に参加した時に見た顔だ。
「え?え……」
と言ったところで、中から出てきた美少女は口を噤んだ。この場では、私の名を出すのは差し障ると察知したようだ。勘のいい子だ。助かった。例え名前だけだとしても、どこで誰が聞いているかわからない。
中から出てきたのは少女だけでは無かった。紺色のパンツスーツ姿の20代女性も一緒だった。
「すみません、新井先生。私、この方とお話があるので、先に帰ってもらえますか?」
「わかりました」
少女は女性を先生と呼んだが、この会話の内容から、少女のほうが上の立場だとわかる。
少女に先生と呼ばれた女性は、A4サイズの封筒を抱えて、男性と一緒に出ていった。
正臣が今日会いに来た男だ。
先を越された。
●○●○●○
河川敷の広場にクレープのキッチンカーが止まっていた。
江田正臣は『イチゴとクリームチーズ』のクレープを店員から受け取ると、畠山京子に渡した。
「ありがとう、お父さん!」
どうやら父娘設定で通すらしい。こういう嘘をさらりと吐ける子なのか、と感心する。
自分はチョコバナナのクレープにし、キッチンカーから離れた芝生の上に腰かけた。
京子は早速クレープを口に入れた。
「んー!美味しい!」
本当に美味しそうに食べている。奢り甲斐がある。
正月の岡本幸浩門下の新年会で会って以来だ。子供の成長は本当に早いものだ。一度会った人物の顔は忘れない私だが、一瞬、別人かと思った程だ。
それにしても、まさか女子中学生に先を越されるとは。江田グループの権力を全て行使して、やっと彼の居所を掴んだのに。学校も囲碁棋士としての仕事もあるのに、彼女はどうやってここを突き止めたのだろう。どんな情報手段を持っているのだろうか。
疑問は尽きないが、まずは軽くジャブからいくか。
「京子ちゃん。あんな所で何をしていたんだい?感心しないね。未成年の女の子が来ていい場所じゃない」
「あら。遅れをとって横取りされて、私に嫌味ですか」
京子は口の中のクレープを飲み込んでからこう言いニヤリと笑う。
江田グループ総帥・江田正臣はフフッと笑う。嫌味に聞こえてしまったか。怖い子だ。私が何者かわかっていて、私と対等に口を利こうだなんて。
「彼をどうする気だい?」
「江田様なら大体の見当はついているんじゃないですか。目的はおそらく江田様と同じですよ」
今度は「お父さん」じゃなくて、「江田様」か。新年会の時には「お兄さん」と呼んでくれたのにな。
「市ヶ谷駅の近くに店舗を構えるそうだね」
実弟の関係者全員の身辺調査は随時行っている。畠山京子に関する情報は学校に通っているせいもあって更新スピードが早く、情報の整理が追い付かない。この情報は今朝インプットしたばかりの情報だ。
「そこまでご存じなら、私の説明は必要無いのでは」
これは中々一筋縄ではいかないな。相手が女子中学生だとは思わない方がいい。
しかし、交渉の余地はあるだろう。この子の方から誘ったのだから。
「単刀直入に言うよ。彼はこちらに引き渡して欲しい」
「引き渡すなんて、物騒な言い方ですね」
「事実、物騒な事件の当事者だよ」
「当事者にでっち上げられた、が正しいですよね」
「そこまで知っているなら、わかるだろう。彼の能力は、君の事業には役不足だ。勿体無い」
「そうかもしれません。しかしですね、こちらはまだまだ人材不足でして、どうしても彼は必要なんです。それにもう正式に契約してしまいました。手遅れです。他を当たって下さい」
もう契約を交わしたのか!まぁ、それはどうとでもなる。それより、契約を交わしたということは、だいぶ前から彼の居所を掴んで交渉していたということか。
気になる。中学生がどんな情報網を持っているんだ?
「彼の居所をどうやって見つけたんだい?学校に通いながらじゃ大変だったと思うけど」
正臣は京子に探りをいれる。包み紙からクレープを引っ張り出す京子の目を見つめる。京子は残りのクレープを一口で飲み込み、またニヤリと笑った。
彼の居所を見つけたのは、ハッカー『アラクネ』こと加賀谷伸行だ。お盆に秋田ふるさと村で依頼をしていた件だ。京子が加賀谷に渡した『鍵』を使い彼を探しだした。加賀谷の腕をもってしても、こんなに時間がかかってしまった。
しかし京子はその事を馬鹿正直に話すつもりは無い。
「ウチの学校、オタク学校って呼ばれてるんですよ。色んなオタクがいるんです。行方不明者を見つけるのなんて、朝飯前です」
「そんな嘘で誤魔化せるとでも?」
正臣は凄んで京子に無言の圧をかける。
しかし京子は中年男性の圧など臆しない。対局の度にこれに負けない圧を浴びているのだ。この程度の圧に屈していたら、中学生囲碁棋士など務まらない。
「残念ながらお答え出来ません。情報源がどこかなんて、江田様なら、そんな大切な情報を外部に絶対に漏らさないでしょう?私も同じです」
京子は正臣を睨み付ける。これ以上、何を訊かれても絶対に何も喋らないという圧だ。
(ほう。この子は大人を睨み付ける度胸があるのか。面白い)
最近の若い子はネットの影響か、人前では猫を被って善人ぶっている。ただ、猫を被っている人間は、いとも簡単に化けの皮が剥がれるが。
欲しい。
あと数年でどれ程までに成長するのか。自分の手で育ててみたい。
暫く睨み合いが続いた。が、先に動いたのは京子だった。
「お話がお済みでしたら帰ります。ご存じの通り、開店準備で忙しいものですから。クレープ、ご馳走様でした」
京子は立ち上がって帰ろうとする。
ここで逃したら交渉の機会を失ってしまう。
「わかった。じゃあ取引しよう。彼をこちらに引き渡して欲しい。こちらからは、君の事業に有能な人材を派遣しよう」
グループ全体で万の数の従業員を抱える大企業だ。たった一人か二人のトレードで彼が手に入るのなら、こちらはなんの痛手にもならない。
「勘違いしてもらっては困ります。いくら有能でもやる気の無い人は願い下げです。私は能力より、人と人との繋がりを大切にする人物が欲しい。この事業のために。誰でもいいからという訳にはいきません」
牽制された。思わず舌打ちしそうになる。
(そこまで読まれていたか。「適当に」「誰でも」という訳にはいかなくなった。思った以上にやりづらいな)
世界中の一流企業相手に、こちらが有利になるよう交渉してきた百戦錬磨のこの私が、まさか女子中学生に交渉の主導権を握られるとは。
(いいね。ますます欲しい)
正臣は次の交渉のカードを切る。
「なら、君の欲しい物をやろう。例えば今、改装工事中のあの物件より、もっといいものを提供できるよ」
「欲しいもの、ですか」
お!食いついてくれた。やはり何だかんだ言っても中学生だな。カネで片がつきそうだ。子供の欲しがる物なんて、たかが知れている。むしろ人材を送るより安くつく。
畠山京子は川の方に目をやる。顎に左手をのせ何やら考え込む。
サッカーボールが転がって来た。子供達が「すいませーん!」と手を振る。京子は立ち上がり、転がってきたボールを子供達めがけて思いきり蹴飛ばした。ボールは真上に高く跳び子供達の輪のど真ん中に落ちた。
「わお!すげー!」
「ありがとー!」
京子は「どういたしまして」と手を振って応えると、正臣の方を向いて座った。
「では江田様。私の、囲碁棋士畠山京子の、後援会会長になって欲しいです」
そうきたか!
『後援会会長』
簡単に言えばその棋士の『応援団長』だ。棋士としての応援は勿論、生活面でも支えて囲碁に集中できる環境を与えるのも後援会会長の役目だ。だから誰でもなれる、という訳では無い。信頼関係、そしてそれ相応の社会的地位と権力を持った人物でなければ務まらない。
その点この私、江田グループ総帥・江田正臣なら、文句のつけようが無いだろう。
それにこの子のこの美貌。囲碁で名を馳せれば江田グループには人寄せになる。そしてこの子には江田の名は後ろ楯にもなる。上手くいけば互いにWinWinの関係が築けるだろう。
(そうだ。テルに言われてた事があったな……)
岡本門下の新年会の帰り道。実弟の照臣にこう言われていたのを思い出す。
『京子が兄さんにいつかお願い事をすると思うんだ。そしたら、何の条件もつけずにそのお願いを聞いてあげて欲しい』、と。
テルは子供の頃からとても勘がいい。
照臣5歳の誕生日パーティーの時。父と握手しようとしたライバル会社社長に向かって「この人、悪い人だから握手しちゃダメ!」と大騒ぎした事があった。
暫くしてそのライバル会社社長は新聞の一面を賑わせたのだが。
それ以来、テルが「今日は出掛けちゃダメ」と言った日には父が乗るはずだった飛行機が事故にあったりだとか、「あの道は通らないで」と言った道で道路の陥没事故があったりだとか、とても偶然とは思えない程の的中率で災難を回避する予言をしている。
そのテルが「無条件で畠山京子を援護しろ」と言ったのだ。
おそらく我が江田グループに良い影響をもたらすからだろう。でなければテルは、「あの子に気をつけて」と言うはずだ。
だが。こちらとしてはタダで彼を手に入れたい。この子の条件を飲むつもりは無い。
それに。
(たかが中学生じゃないか。何を恐れる必要がある?)
権力もコネも社会的地位も何も無い小娘を、警戒する必要など無いだろう。
正臣は、初めて弟・照臣の忠告を無視した。
「それはちょっとどうだろう。この私が君の後援会会長になるメリットは?私は商売人だからね。損得勘定も計算して欲しいね。ちゃんと天秤が釣り合うようにしないと、取引にはならないよ。」
こう言っておけば、素直に彼を渡してくれるだろう。
「それもそうですね。ならばこういうのはどうです?先程の答えを教えるのは?」
「先程?」
「ええ。彼をどうやって見つけたのか、の答えです」
ほう。教える気になったか。まぁ、聞くだけ聞いて、大した情報でなければ切り捨てればいい。
「気になるね。是非聞いておきたい」
「ハッカー『アラクネ』はご存じですよね」
能天気に美少女中学生を眺めていた正臣の顔が、みるみる蒼白になる。
今、どこの企業も『アラクネ』を捕まえるのに躍起になっている。それほどの最重要人物だ。
他企業ほどではないが、江田グループとて多少なりの被害を被っている。社内にも極秘に『アラクネ』を捕獲するための専門部署を設けたほどだ。
『アラクネ』を捕まえたい理由。警察に引き渡すのではない。わが社でハッカーとして働いてもらうためだ。
ライバル社の未公表の情報が手に入る、ただそれだけで、どれだけのアドバンテージが取れるか。
億単位で金が動く世界では、情報そのものがまさに金なのだ。
その億単位の金を動かす能力を持っている『アラクネ』に関する情報を、まさかこんな小娘が掴んでいるとは!いや、そもそもこんな小娘が『アラクネ』を知っているのが驚きだ。
「……まさか君が『アラクネ』?」
そう考えれば辻褄が合う。
「残念ながら、『アラクネ』に関する情報は一切お答えできません」
京子は否定も肯定もしなかった。京子は『アラクネ』の正体を誰にも話すつもりはない。むしろ『アラクネ』は京子だと勘違いしてもらった方が、京子にとっては都合がいい。
正臣は京子のこの回答は当然だと思う。たとえ彼女が『アラクネ』だったとしてもそうでなくても、情報を管理する者ならこんな最重要情報をおいそれと話す訳がない。
待てよ。その前に、確かめなければならない事がある。
「君が持っている『アラクネ』の情報は、本物なのか?もし本物だとして、どうやって本物だと証明するつもりだ?」
つい仕事口調になっているのに正臣は気づかない。京子を小娘ではなく、対等な交渉をする商売人と認識し始めた。
「こういうのはどうでしょう。『アラクネ』が作成したセキュリティプログラムをお渡しします。それで証明になりませんか?」
『アラクネ』作成のセキュリティ!!
そんなものがあるのか!もし本物ならば、もう情報漏洩にやきもきせずにすむだろう。
正臣は返事をする変わりにコクリと頷いた。
「じゃあ、あそこにいるカップルの女性の方を、明日、学校の部活が終わった頃、洋峰学園駅の中にあるコロッケ屋さんまで寄越してもらえませんか。面識の無い方より面識のある方のほうがいいですから」
「どうしてあそこにいる女性に?」
「だってあの方、SPですよね?あのカップル、ずっとキョロキョロしてるのに、全然私たちの方を見ないし。あと土手の上の方にいる犬を連れてるおじさんも」
全員SPだと見抜いていたのか。
正臣は溜め息を吐く。
(柔道と剣道も習っていたと報告にあったが、ただ習っていただけではないようだな)
「わかった。明日、彼女を使いにやる。プログラムを確認し次第、追って連絡する」
「くれぐれも他人のふりをしてやり過ごすように言ってくださいね。すれ違いざまに渡すので。大きい鞄だとありがたいですね」
●○●○●○
あれから一週間が立った。『アラクネ』捕獲班にこのプログラミングの解析を行わせたが、結局我々はこのセキュリティプログラムの脆弱性を見つけ出す事が出来なかった。
『これは『アラクネ』が作成したもので間違いない』と結論付けた。
世界中が捕獲に躍起になっている『アラクネ』という駒を、江田グループが手に入れた。これから先は欲しい情報が簡単に手に入るようになるだろう。
天秤は畠山京子の方に大きく傾いた。しかもちょっとやそっとの荷では天秤が釣り合わないほどに。
(しまった。しくじった。だからテルは「無条件で」と言ったのか)
これからは彼女の言いなりになって、彼女の欲しいというものを与えなければならなくなった。
(いや。むしろそれでいい)
彼女を育ててみたいと思った。
彼女はまだ子供だ。行動を起こすだけの頭脳はもっていても、未成年であるがために色々な制限を喰らう。思うように身動きがとれずに歯がゆい思いをしているのだろう。
そこでこの私、江田を使おうと。
彼女の交渉は完璧だった。
あの日、私とかち合ったのは偶然だった筈だ。あの時のあの表情は演技ではないだろう。あれで演技だったら彼女は女優にもなれそうだ。
交渉のシナリオを初めから用意していたわけではない。あの場で考えたアドリブでこの私を恣に操った。
なんという頭の回転スピード。そしてそれを実行する度胸。
すばらしい!これでまだ中学生とは!
私は今後、畠山京子に欲しいものを与えよう。
与えられた彼女は自由に動き回れば良い。
ただそれだけでお互い利益を得られるなら。
正臣はスマホを手に取り、自ら京子に電話する。
彼を引き渡し契約解消する件、囲碁棋士・畠山京子の後援会会長就任の件、それから『アラクネ』への依頼方法と報酬など、細かい条件等の交渉をするために。
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