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布石編
ロビー活動
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瑪瑙戦が行われるので、特別にロビーに碁盤を置いているのかと思っていたが、このホテルでは常に碁盤を置いているそうだ。初めて韓国に来た畠山京子はこの光景を見てはしゃいでいる。
「さすが韓国!囲碁の国って感じですよね~♪」
瑪瑙戦一日目の対局を終え、日本チームはホテル近くのレストランで夕食をとり、ホテルに帰ってきたところだった。
一回戦惜しくも半目で敗退した京子は、フロント前のロビーに置いてある碁盤に突進していった。
「小関さん。私、明日は対局無いんで、ここで打っててもいいですよね?日付が変わるまでには部屋に戻りますから!」
「せめて22時までにして下さい」
棋院職員の小関が被せ気味に答えた。
未成年の女の子に何かあったら責任を問われるのは小関だ。
「大丈夫だよ、小関さん。僕も打ちたいから。畠山さん、部屋に戻る時は一緒に戻ろう」
二回戦敗退の秋山宗介も明日は対局が無い。このまま部屋に戻っても何もする事がない。
「私も打ちたい!」
普段大人しい槇原美樹は、囲碁の事となると積極的だ。美樹も一回戦敗退だったので、明日の後夜祭まで時間を自由に使える。
「じゃあ私も」
と言って京子の目の前に座ったのは瑪瑙戦に同行した棋士、池田憲壱八段だ。
「京子ちゃんと一度打ちたかったんだよね。いいかな?」
「もちろんです!お願いします!」
二人は早速ニギって打ち出した。
こうなると日本人の性だ。「俺も」「私も」と言い出し、ロビーを日本人棋士で埋め尽くした。もう小関にも止められない。
「あああー、もう……。大人の先生方、ちゃんと保護責任を果たして下さいね」
小関がロビーに座った棋士達に向けて言ったが、時すでに遅し。みんな打ち始めていて誰も返事をしない、聞こえていない。
(まぁ、大丈夫だろう。川上先生はしっかり者だし、任せよう。俺は部屋に帰って仕事するか。それで22時頃になったら様子を見に来よう)
「僕は部屋に戻ります」
背後から突然声がして、小関はビクッと飛び上がった。
「ああ、立花先生でしたか」
立花富岳は唯一2日目に駒を進めた。
(本当にこの子は……。川上先生といい、僕といい、人をビックリさせて遊んでるんだろうか?)
当の本人、富岳は普通に声をかけただけだが、何故かいつも驚かれる。だから富岳は「人間はこういうものなんだな」ぐらいにしか思っていない。
「では一緒に部屋に戻りましょうか?」
小関はエレベーターホールに向かって歩き出す。富岳もついていく。
こうして日本チームは、ロビーで碁を打つチームと部屋に戻るチームとに別れた。
●○●○●○
小関達が部屋に戻った後、ロビーにはいつの間にか京子達を取り囲むように人集りができていた。殆どは韓国人で、仕事でソウルに来たのだろうか、皆スーツ姿だ。瑪瑙戦目当てでこのホテルに来た人はいないようで、京子を知る人はいないようだ。京子を指差して噂する人はいない。
京子は池田との対局を終えると、見物人に向かって碁盤を指してニッコリ笑った。すると複数人が京子の前に座ろうとして、ジャンケンが始まった。
(こんなに碁を打てる人がいる!韓国、素晴らしい!)
「お。京子ちゃん、人気だな。じゃあおじさんは部屋に戻るわ」
と言って池田は席を立った。京子は、
「はい!池田先生ありがとうございました。おやすみなさい」
と見送った。席が空くと同時にジャンケンに勝ったらしい男性が座った。
『君、なかなかやるな。プロか?』
座った男性が韓国語で京子に言った。
『あー、すみません。英語は話せますか?』
京子の流暢な英語を聞き、別の男性が英語で話に割り込んできた。
『なんだ、英語なら話せるのか。韓国に来るなら韓国語ぐらい勉強してこいよ』
『急に瑪瑙戦のメンバーに選ばれたので、勉強する時間がありませんでした』
『ああ。今このホテルでやってるそうだな。出たのか?結果はどうだった?まあ、李夏準が思い通りにはさせないだろうが……』
『畠山京子!』
誰かが遠くからフルネームで京子の名前を呼んだ。しかし今度は思いっきり韓国語だ。
『え⁉︎李夏準⁉︎』
『おい、李夏準だぞ!』
まるでモーゼのように人集りがパックリと真っ二つに分かれ、李夏準のために道が作られた。どうやら韓国チームも食事を終えてホテルに戻ってきたようだ。瑪瑙戦出場メンバーも一緒だ。
(すごっ……。こんなおじさん達が道を開けるほど、李夏準て韓国では有名なんだ)
『畠山京子!こんな奴と打つくらいなら、俺と打ってくれ』
李夏準が韓国語で言った。京子がまた英語で『英語は話せますか』と言ったが、返事が返ってこない。
『李夏準は君と打ちたいと言っている』
京子と対戦しようとソファに座った男性が通訳してくれた。
「は?さっき対局したばかりじゃん!」
京子は思わず日本語で言った。李夏準と打ちたくなくてこう言ったわけじゃない。しかしご親切にも、京子のこの一言は通訳されてしまった。座った男性は日本語も話せるらしい。李夏準の韓国語が日本語に翻訳されて返ってきた。
「なぜ俺と打ちたくないんだ?と言っている」
明らかに李夏準は怒ってる。案の定誤解されてしまった。
「あのですね、再戦するのが嫌な訳ではなくて、しっかり検討してから再戦したいのです」
京子は今度は日本語で言った。
ジャンケンに勝った男性はすっかり英語・韓国語・日本語同時通訳機となってしまった。
「なら今ここで検討しよう、だとさ」
李夏準は翻訳おじさんを退かしてソファに座ると、8時間ほど前に打たれた京子との碁を並べ始めた。
(うわー……。これ、絶対付き合わなきゃいけなくなったじゃん……)
『李夏準、頑張れよ。俺たちは部屋に戻るからな』
こう声をかけたのは瑪瑙戦出場メンバーの一人だ。しかしメンバー全員がニヤニヤとしている。
(なんだろう?感じ悪……)
誰の目にもはっきりわかる渋々顔で、京子は並べられていく碁石を眺めていた。
●○●○●○
言葉が通じないので、とにかく黙々と【並べる】【手を変えて打つ】【また並べる】をひたすら繰り返す。
そしてやっと268手の所で李夏準は手を止めた。
(はあ~……。やっと満足したか)
李夏準が石を片付け始めたので、京子も片付ける。
李夏準の右手人差し指と京子の左手小指が触れた。よくあることなので京子は構わず石を片付けようとしたら、李夏準に左手を握られた。
「ヒェッ⁉︎なんですか⁉︎」
京子は思わず手を振り解こうとしたが、李夏準はさらに両手で力強く握りしめてきた。
「ポクトケコンシテク、タサィ」
……え?なんて?今の日本語っぽく聞こえたけど。しかも「僕と結婚してください」?
李夏準四段、18歳だよね。あれ?韓国も18歳で結婚できるんだっけ?でも私まだ13歳だし。私がまだ13歳なのは李夏準も知ってるはず。
待て。問題点はそこじゃないぞ、畠山京子。そう聞こえる韓国語かもしれない。
『もう一回言ってもらえますか?』
京子は英語で言った。しかし返事が返ってこない。李夏準は京子の手を握ったまま、きょとんとしている。
(そうだ。私の英語、通じないんだ。さっきのおじさん達にまた通訳して……)
京子は振り返り辺りを見渡した。
「あれっ⁉︎誰もいない⁉︎」
日本チームのみんなも韓国のサラリーマンもいない。誰もいない。
ロビーには京子と李夏準だけだ。
思わず立ち上がって、遠くの方まで見渡す。でもやっぱりいない。
さっきまでみんなここに居たのに、いつの間に⁉︎なんで一言声を掛けずに何処かに行っちゃったの?
え?そんなにつまんない検討だった?それとも長過ぎた?
「あっ‼︎」
京子の大声に驚いた李夏準は手を離して耳を塞いだ。
韓国チーム!なんかやたらニヤニヤしてるなと思ってたけど、コレか?
部屋に戻るとか言ってたけど、私と李夏準を二人きりにするために、始めから計画を練ってた?
っていうか、秋山さんっっっ!一緒に部屋に戻ろうって自分から言ったくせに、黙って自分だけさっさと帰っちゃうって何?
どうしよう……。このまま何も言わずに李夏準を置き去りにして帰ったらマズイよね。
「えーと……」
京子は呆然と立ち尽くす。李夏準は何も言わない。そして誰もいない。
(どうすりゃいいんだ?こういう時)
「なにボケっとしてんだよ、畠山」
確かにさっきまで誰もいなかった所から突然立花富岳が現れた。
「……さすがチビ!どこに隠れていたんですか?姿が見えませんでした」
思わず京子は毒を吐く。
「誰がチビだよ!様子が変だから助けてやろうと思ったのに。帰る」
「あー!すみませんでした!帰らないで!仰る通り、困ってるんです!立花さん、韓国語話せるんですよね⁉︎通訳して下さい!」
「通訳?」
「はい。私の英語、李夏準に通じないんです」
そんなはずはないのは富岳は知っている。成田空港でアメリカ人らしい女性に話しかけられたのを見ていたが、畠山は流暢な英語を話していた。
「だったら韓国語は?」
「私、韓国語、話せません」
なんで日本語は片言?
「しょうがねぇなぁ。なんて訳せばいいんだ?」
「さっきなんて言ったのか、聞いて欲しいんです」
「さっき?何の話してたんだ?」
「会話にならないから困ってたんですよ。言葉が通じないんですから。バカじゃないの?」
「……帰る」
振り返って帰ろうとした富岳の腕を、京子は掴んだ。
「待って!行かないで!ごめんなさい!「なんて言ったんですか?」って聞いて下さい!お願いします!」
富岳は掴まれた腕を振り解こうとしたが、解けない。なんて馬鹿力だ!
ったく、人をバカにしたり、バカにした相手にお願いしたり。ふざけやがって!
「この貸しはデカイぞ」
「え?利子つけて私から何を返して欲しいんですか?」
「……」
言われてみれば、おにぎりの件とか、悪口言った件とか、どう考えても俺の方が利子つけて返さなきゃいけない方だ。
富岳はふぅと息を吐いた。
『李夏準、コイツと何喋ってたんだ?』
『君には関係ないだろう』
『通訳を頼まれたんだよ』
『通訳なんか必要ない』
李夏準は顔を赤らめてそっぽを向いた。
『じゃあどうするんだ?アンタこのまま朝までロビーにいるのか?アンタも明日対局があるだろ?そろそろ部屋に帰ったほうがいいんじゃないか?』
『それはお前もだろ、立花富岳。何故ロビーに来た?』
『へぇ。俺の名前、覚えててくれたのか。光栄だね。アンタが言わないなら、俺だって言う必要ないな』
二人はしばらく睨み合っていたが、先に動いたのは富岳だった。
「行くぞ。畠山」
「え?ちょっと。通訳は?」
富岳は京子の問いに答える事なく、エレベーターホールに向かって歩き出す。
京子は仕方なく李夏準に「おやすみなさい」と日本語で言ってお辞儀をすると、富岳の後に小走りでついて行った。
「立花さん!李夏準、怒ってたみたいだけど何話してたんですか?」
富岳に追いついた京子が話しかけた。
「……前から聞こうと思ってたんだけどさ。なんでお前、同い年の俺に敬語なの?」
京子は富岳の質問の意図するものが分からず、きょとんとする。
「不快ですか?」
「愉快とか不愉快とか、そういうんじゃなくてだな……」
エレベーターホールに着いた富岳は『↑』のボタンを押した。
「確かに同い年ですけど、棋士としては先輩ですから」
まさかの年功序列!昭和のおっさんか?ああ。昨日のあの時代遅れのスエードのワンピースを見れば納得いくな。
コイツ、美少女の皮を被った昭和のおっさんだ。つーか、折角女に生まれてきたのに、お洒落に興味がないとか、残念すぎるだろ!
8機並んだエレベーターのうちの一台が到着した。先に富岳が乗り込み、後から京子が乗り込んだ。エレベーターの中は2人きりだった。
ドア横に陣取った富岳は18階のボタンを押した。同時に17階のボタンにも明かりがつく。京子は車椅子用のボタンを押した。
「お前さぁ、中国語は話せるみたいだけど、韓国語も話せるようにしとけよ。韓国語と中国語は棋士の必修科目だろ」
こう言って富岳はドアの上の階数を示すランプに目をやる。
「そうですね。なるべく早く韓国語を習得します。ご指摘ありがとうございます」
ああ、まただ。コイツ、自分の無能さを馬鹿にされても腹を立てない。前もそうだった。碁を貶されたのに、コイツは黙って聞いていた。俺だったら言い返すし、相手の悪手も非難してやるのに。コイツ、棋士としてのプライドが無いのか?
(……あれ?俺、何がこんなに腹立たしいんだ?)
17階につきエレベーターのドアが開いた。畠山や槇原、女性陣は男性陣の泊まっている一階下の部屋に泊まっている。
畠山はエレベーターから降りると振り返って頭を下げた。
「では失礼します。おやすみなさい」
にっこりと微笑んで顔を上げる。
エレベーターのドアが閉まり、富岳だけを乗せ再び上へと動き出した。
(なんだよ、アイツ。ああいう顔、できるんじゃねぇか。……初対局以来か。ああいう素直な笑顔。ああいう顔していればいいのに)
「……あれ?止まらないな。故障か?」
畠山が降りた次の階だから、もう止まってもいいはずなのに止まらない。階数を示すランプを見る。18階を過ぎていた。
「なんで⁉︎」
押しボタンを見る。確かに押したはずの18階のランプが消えていて、代わりに最上階のランプがついていた。
「どうなってんだ⁉︎やっぱり故障……じゃない!わかった!子供のイタズラ防止だ!」
一度に全部のボタンを押すとリセットされる機能を使ったんだ!俺が階数表示に目をやった隙に!
畠山が俺に嫌がらせするために!
「あの野郎~!」
ドアに向かって言ったタイミングで運悪く最上階のドアが開いた。
ドアの向こうにいたのは、絶対に目を合わせてはいけない系の人物だった。
「さすが韓国!囲碁の国って感じですよね~♪」
瑪瑙戦一日目の対局を終え、日本チームはホテル近くのレストランで夕食をとり、ホテルに帰ってきたところだった。
一回戦惜しくも半目で敗退した京子は、フロント前のロビーに置いてある碁盤に突進していった。
「小関さん。私、明日は対局無いんで、ここで打っててもいいですよね?日付が変わるまでには部屋に戻りますから!」
「せめて22時までにして下さい」
棋院職員の小関が被せ気味に答えた。
未成年の女の子に何かあったら責任を問われるのは小関だ。
「大丈夫だよ、小関さん。僕も打ちたいから。畠山さん、部屋に戻る時は一緒に戻ろう」
二回戦敗退の秋山宗介も明日は対局が無い。このまま部屋に戻っても何もする事がない。
「私も打ちたい!」
普段大人しい槇原美樹は、囲碁の事となると積極的だ。美樹も一回戦敗退だったので、明日の後夜祭まで時間を自由に使える。
「じゃあ私も」
と言って京子の目の前に座ったのは瑪瑙戦に同行した棋士、池田憲壱八段だ。
「京子ちゃんと一度打ちたかったんだよね。いいかな?」
「もちろんです!お願いします!」
二人は早速ニギって打ち出した。
こうなると日本人の性だ。「俺も」「私も」と言い出し、ロビーを日本人棋士で埋め尽くした。もう小関にも止められない。
「あああー、もう……。大人の先生方、ちゃんと保護責任を果たして下さいね」
小関がロビーに座った棋士達に向けて言ったが、時すでに遅し。みんな打ち始めていて誰も返事をしない、聞こえていない。
(まぁ、大丈夫だろう。川上先生はしっかり者だし、任せよう。俺は部屋に帰って仕事するか。それで22時頃になったら様子を見に来よう)
「僕は部屋に戻ります」
背後から突然声がして、小関はビクッと飛び上がった。
「ああ、立花先生でしたか」
立花富岳は唯一2日目に駒を進めた。
(本当にこの子は……。川上先生といい、僕といい、人をビックリさせて遊んでるんだろうか?)
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「では一緒に部屋に戻りましょうか?」
小関はエレベーターホールに向かって歩き出す。富岳もついていく。
こうして日本チームは、ロビーで碁を打つチームと部屋に戻るチームとに別れた。
●○●○●○
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京子は池田との対局を終えると、見物人に向かって碁盤を指してニッコリ笑った。すると複数人が京子の前に座ろうとして、ジャンケンが始まった。
(こんなに碁を打てる人がいる!韓国、素晴らしい!)
「お。京子ちゃん、人気だな。じゃあおじさんは部屋に戻るわ」
と言って池田は席を立った。京子は、
「はい!池田先生ありがとうございました。おやすみなさい」
と見送った。席が空くと同時にジャンケンに勝ったらしい男性が座った。
『君、なかなかやるな。プロか?』
座った男性が韓国語で京子に言った。
『あー、すみません。英語は話せますか?』
京子の流暢な英語を聞き、別の男性が英語で話に割り込んできた。
『なんだ、英語なら話せるのか。韓国に来るなら韓国語ぐらい勉強してこいよ』
『急に瑪瑙戦のメンバーに選ばれたので、勉強する時間がありませんでした』
『ああ。今このホテルでやってるそうだな。出たのか?結果はどうだった?まあ、李夏準が思い通りにはさせないだろうが……』
『畠山京子!』
誰かが遠くからフルネームで京子の名前を呼んだ。しかし今度は思いっきり韓国語だ。
『え⁉︎李夏準⁉︎』
『おい、李夏準だぞ!』
まるでモーゼのように人集りがパックリと真っ二つに分かれ、李夏準のために道が作られた。どうやら韓国チームも食事を終えてホテルに戻ってきたようだ。瑪瑙戦出場メンバーも一緒だ。
(すごっ……。こんなおじさん達が道を開けるほど、李夏準て韓国では有名なんだ)
『畠山京子!こんな奴と打つくらいなら、俺と打ってくれ』
李夏準が韓国語で言った。京子がまた英語で『英語は話せますか』と言ったが、返事が返ってこない。
『李夏準は君と打ちたいと言っている』
京子と対戦しようとソファに座った男性が通訳してくれた。
「は?さっき対局したばかりじゃん!」
京子は思わず日本語で言った。李夏準と打ちたくなくてこう言ったわけじゃない。しかしご親切にも、京子のこの一言は通訳されてしまった。座った男性は日本語も話せるらしい。李夏準の韓国語が日本語に翻訳されて返ってきた。
「なぜ俺と打ちたくないんだ?と言っている」
明らかに李夏準は怒ってる。案の定誤解されてしまった。
「あのですね、再戦するのが嫌な訳ではなくて、しっかり検討してから再戦したいのです」
京子は今度は日本語で言った。
ジャンケンに勝った男性はすっかり英語・韓国語・日本語同時通訳機となってしまった。
「なら今ここで検討しよう、だとさ」
李夏準は翻訳おじさんを退かしてソファに座ると、8時間ほど前に打たれた京子との碁を並べ始めた。
(うわー……。これ、絶対付き合わなきゃいけなくなったじゃん……)
『李夏準、頑張れよ。俺たちは部屋に戻るからな』
こう声をかけたのは瑪瑙戦出場メンバーの一人だ。しかしメンバー全員がニヤニヤとしている。
(なんだろう?感じ悪……)
誰の目にもはっきりわかる渋々顔で、京子は並べられていく碁石を眺めていた。
●○●○●○
言葉が通じないので、とにかく黙々と【並べる】【手を変えて打つ】【また並べる】をひたすら繰り返す。
そしてやっと268手の所で李夏準は手を止めた。
(はあ~……。やっと満足したか)
李夏準が石を片付け始めたので、京子も片付ける。
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「ヒェッ⁉︎なんですか⁉︎」
京子は思わず手を振り解こうとしたが、李夏準はさらに両手で力強く握りしめてきた。
「ポクトケコンシテク、タサィ」
……え?なんて?今の日本語っぽく聞こえたけど。しかも「僕と結婚してください」?
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待て。問題点はそこじゃないぞ、畠山京子。そう聞こえる韓国語かもしれない。
『もう一回言ってもらえますか?』
京子は英語で言った。しかし返事が返ってこない。李夏準は京子の手を握ったまま、きょとんとしている。
(そうだ。私の英語、通じないんだ。さっきのおじさん達にまた通訳して……)
京子は振り返り辺りを見渡した。
「あれっ⁉︎誰もいない⁉︎」
日本チームのみんなも韓国のサラリーマンもいない。誰もいない。
ロビーには京子と李夏準だけだ。
思わず立ち上がって、遠くの方まで見渡す。でもやっぱりいない。
さっきまでみんなここに居たのに、いつの間に⁉︎なんで一言声を掛けずに何処かに行っちゃったの?
え?そんなにつまんない検討だった?それとも長過ぎた?
「あっ‼︎」
京子の大声に驚いた李夏準は手を離して耳を塞いだ。
韓国チーム!なんかやたらニヤニヤしてるなと思ってたけど、コレか?
部屋に戻るとか言ってたけど、私と李夏準を二人きりにするために、始めから計画を練ってた?
っていうか、秋山さんっっっ!一緒に部屋に戻ろうって自分から言ったくせに、黙って自分だけさっさと帰っちゃうって何?
どうしよう……。このまま何も言わずに李夏準を置き去りにして帰ったらマズイよね。
「えーと……」
京子は呆然と立ち尽くす。李夏準は何も言わない。そして誰もいない。
(どうすりゃいいんだ?こういう時)
「なにボケっとしてんだよ、畠山」
確かにさっきまで誰もいなかった所から突然立花富岳が現れた。
「……さすがチビ!どこに隠れていたんですか?姿が見えませんでした」
思わず京子は毒を吐く。
「誰がチビだよ!様子が変だから助けてやろうと思ったのに。帰る」
「あー!すみませんでした!帰らないで!仰る通り、困ってるんです!立花さん、韓国語話せるんですよね⁉︎通訳して下さい!」
「通訳?」
「はい。私の英語、李夏準に通じないんです」
そんなはずはないのは富岳は知っている。成田空港でアメリカ人らしい女性に話しかけられたのを見ていたが、畠山は流暢な英語を話していた。
「だったら韓国語は?」
「私、韓国語、話せません」
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「さっきなんて言ったのか、聞いて欲しいんです」
「さっき?何の話してたんだ?」
「会話にならないから困ってたんですよ。言葉が通じないんですから。バカじゃないの?」
「……帰る」
振り返って帰ろうとした富岳の腕を、京子は掴んだ。
「待って!行かないで!ごめんなさい!「なんて言ったんですか?」って聞いて下さい!お願いします!」
富岳は掴まれた腕を振り解こうとしたが、解けない。なんて馬鹿力だ!
ったく、人をバカにしたり、バカにした相手にお願いしたり。ふざけやがって!
「この貸しはデカイぞ」
「え?利子つけて私から何を返して欲しいんですか?」
「……」
言われてみれば、おにぎりの件とか、悪口言った件とか、どう考えても俺の方が利子つけて返さなきゃいけない方だ。
富岳はふぅと息を吐いた。
『李夏準、コイツと何喋ってたんだ?』
『君には関係ないだろう』
『通訳を頼まれたんだよ』
『通訳なんか必要ない』
李夏準は顔を赤らめてそっぽを向いた。
『じゃあどうするんだ?アンタこのまま朝までロビーにいるのか?アンタも明日対局があるだろ?そろそろ部屋に帰ったほうがいいんじゃないか?』
『それはお前もだろ、立花富岳。何故ロビーに来た?』
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「不快ですか?」
「愉快とか不愉快とか、そういうんじゃなくてだな……」
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「確かに同い年ですけど、棋士としては先輩ですから」
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コイツ、美少女の皮を被った昭和のおっさんだ。つーか、折角女に生まれてきたのに、お洒落に興味がないとか、残念すぎるだろ!
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ドア横に陣取った富岳は18階のボタンを押した。同時に17階のボタンにも明かりがつく。京子は車椅子用のボタンを押した。
「お前さぁ、中国語は話せるみたいだけど、韓国語も話せるようにしとけよ。韓国語と中国語は棋士の必修科目だろ」
こう言って富岳はドアの上の階数を示すランプに目をやる。
「そうですね。なるべく早く韓国語を習得します。ご指摘ありがとうございます」
ああ、まただ。コイツ、自分の無能さを馬鹿にされても腹を立てない。前もそうだった。碁を貶されたのに、コイツは黙って聞いていた。俺だったら言い返すし、相手の悪手も非難してやるのに。コイツ、棋士としてのプライドが無いのか?
(……あれ?俺、何がこんなに腹立たしいんだ?)
17階につきエレベーターのドアが開いた。畠山や槇原、女性陣は男性陣の泊まっている一階下の部屋に泊まっている。
畠山はエレベーターから降りると振り返って頭を下げた。
「では失礼します。おやすみなさい」
にっこりと微笑んで顔を上げる。
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(なんだよ、アイツ。ああいう顔、できるんじゃねぇか。……初対局以来か。ああいう素直な笑顔。ああいう顔していればいいのに)
「……あれ?止まらないな。故障か?」
畠山が降りた次の階だから、もう止まってもいいはずなのに止まらない。階数を示すランプを見る。18階を過ぎていた。
「なんで⁉︎」
押しボタンを見る。確かに押したはずの18階のランプが消えていて、代わりに最上階のランプがついていた。
「どうなってんだ⁉︎やっぱり故障……じゃない!わかった!子供のイタズラ防止だ!」
一度に全部のボタンを押すとリセットされる機能を使ったんだ!俺が階数表示に目をやった隙に!
畠山が俺に嫌がらせするために!
「あの野郎~!」
ドアに向かって言ったタイミングで運悪く最上階のドアが開いた。
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高校生になり、瑞月は恵風に友情とは別の想いを打ち明けるが、それに対して慎重な恵風。学校生活での様々な出会いや出来事が、煮え切らない恵風の気付きとなり瑞月の想いが実る。
学校では瑞月と恵風の微笑ましい関係に嫉妬を膨らます、瑞月のクラスメイトの虹生と旺汰。虹生と旺汰は結日の想いを知り、”自分たちのやり方”で協力を図る。
どんな荒波が自分にぶち当たろうとも、瑞月はへこたれやしない。恵風のそばを離れない。離れてはいけないのだ。なぜなら恵風は人間以外をも恋に落とす強力なフェロモンの持ち主であると、自身が身を持って気付いてしまったからである。恵風の幸せ、そして自分のためにもその引力には誰も巻き込んではいけない。
一方、恵風の片割れである結日にも、得体の知れないものが備わっているようだ。瑞月との友情を二度と手放そうとしないその執念は、周りが翻弄するほどだ。一度は手放したがそれは幼い頃から育てもの。自分たちの友情を将来の義兄弟関係と位置付け遠慮を知らない。
こどもの頃の風景を練り込んだ、幼なじみの男女、同性の友情と恋愛の風景。
表紙:むにさん
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