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布石編

何手も先を読むチカラ

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 京子にとって、東京に来て二度目の春を迎える。

 電車に揺られながらビルとビルの間から時折見える、散り始めの桜の木を見つけてはこう独りごちた。

(東京の春は早いと聞いていたけど、ここまで早いとはなぁ……。今年も入学式の頃には全部散ってるな……)

 秋田の桜はまだ雪の中だろう。桜が咲き始めるのは、ずっと先だ。

 去年の洋峰学園中等部の入学式。京子は以前テレビで見た、『桜吹雪の中、入学式を迎える』画を「東京なら夢を叶えられるかもしれない」と楽しみにしていた。しかし蓋を開けてみれば、桜はほとんど散ってしまっていて、思いっきり肩透かしを喰らったのだった。

(入学してからもう一年経つのか……。早いなぁ……)

 4月。今日は春休み中での最後の対局だ。


 いつものように大荷物を抱え、階段で5階に向かう畠山京子の耳に、日本棋院では聞いたことの無い声が聞こえてきた。京子は足を止めて耳を澄ませた。

「赤ん坊の泣き声……?」

 京子が今いるのは3階と4階の中間の踊り場。それよりずっと上の階から聞こえてくる泣き声は、言葉を話せるようになった子供の泣き声ではない。どう聞いても乳飲み子の泣き声だ。

(誰か職員さんが子供か孫を連れて来たのかな?)

 でも産休の職員さんて、いたかな?孫ができたって話も聞かないし。

 もしかして今日対局のある棋士の誰か?いや、それはないな。何処かに預けてこなければならないはずだし。それに気が散って対局どころじゃなくなるだろうし。


 今日から女流棋戦・瑠璃ラピスラズリ戦の予選が始まる。いつもより女性棋士は多めだ。

(赤ん坊が気になる……。まだ時間はあるし、見に行こーっと♪)

 京子は足を早めて階段を上がっていった。



 ●○●○●○



 泣き声の主は7階の総務室にいた。総務室の扉はいつも開け放してあるので、京子は遠慮なく中に入って行った。

「おはようございまーす!失礼します」

 しかし誰からも返事が返ってこない。

 京子を無視している訳ではない。全員それどころではないのだ。


「そうですか。はい、失礼しました」

 そう言って電話を切ったのは、棋院職員・山本陸だ。

「そっちはどうだ?」

 同じく棋院職員・舩山飛呂登ひろとはパソコンと睨めっこしていた。

「検索にヒットした所を虱潰しに探しましたけど……」

 と言うと首を横に振った。

「あー!参ったなぁ!」

「すみません。山本さん。舩山さん」

 こう言って頭を下げたのは伊田來羅楽くらら三段だ。その腕にはピンク色のおくるみに包まれた赤ん坊を抱いている。階段にまで聞こえてきた泣き声の主だ。今もまるでこの世の終わりと言わんばかりの泣き声を張り上げている。

(たしか伊田先生、産休明けで今日から対局だって話だったっけ)

「あっ!すみません!伊田先生が悪いわけじゃないので!」

 山本はちょうど一年前、父親になったばかりだ。だからこれくらいの子を持つ親の大変さがよくわかる。

「それよりどうしましょう?都内の託児所を片っ端から探しましたけど、どこも空きはないようです。今から埼玉や千葉を探すとなると、対局が始まる時間を過ぎてしまいますし……」

 伊田は赤ん坊を抱きかかえたまま涙目で狼狽える。赤ん坊は母親の不安を察したようで、さらに大きな声で泣く。

「どうしよう……」

 京子の耳がピクッと動いた。会話の内容から、どうやら託児所が見つからないらしい。


「おはようございます、伊田先生」

「……畠山さん⁉︎お、おはよう。ごめんね、うるさくて……」

「?なんで謝るんですか?」

「えっ?だってうるさいでしょう?この子の泣き声」

 敏感な子のようで、伊田がこう言うとさらに大きな泣き声をあげた。なんとか宥めようとあやしても泣き止む気配が無い。伊田の赤ん坊を抱く手つきもぎこちない。母親になってまだ3ヶ月の新米ママさんだ。

「まさか!元気な女の子じゃないですか!私、子供は元気なのが一番って言われながら育てられた子ですから!私によく似た元気な子に育ちますよ!」

 それもちょっとどうだろう?と伊田は言いかけてやめた。伊田も京子のデビュー戦の話を聞いている。

「赤ちゃんの名前、伺っても?」

 そう言うと京子はバックパックにつけていた『はしっこせいかつ』の『ロールケーキ』のマスコットキーホルダーを取り外し、赤ん坊の目の前で振って見せた。

「ええ。彩香あやかよ」

「名前も可愛い~!はい、彩香ちゃん。ロールケーキだよぉ~!プレゼントしちゃう~♪」

 京子はビーズクッションのような手触りの『ロールケーキ』のぬいぐるみを彩香の小さな右手に持たせた。するとあれほどの大声で泣いていた彩香はピタリと泣き止んで、ぬいぐるみをしっかり握りしめて不思議そうな表情で見つめている。

「……泣き止んだわ!よかった……!でも畠山さん、いいの?お気に入りのぬいぐるみじゃないの?」

「ガチャのだし、家にまだ沢山ありますから!気にしないで下さい!」

 彩香は夢中でロールケーキを上下に振って遊んでいる。よほど手触りが気に入ったようだ。

「そう。この子も気に入ったみたいだし、ありがたく頂くわ。ありがとう」

「どういたしまして。それより伊田先生。ちょっと話を聞かせてもらいましたけど、託児所が見つからないとか」

「そうなの。ちょうど小学校の入学式や幼稚園の入園式シーズンだから……。ほら、入学式・入園式って毎年日程が決まっているけど、対局通知が届くのは2週間前でしょ?申し込む前に予約で埋まっていて、どこも空きがなくて……。
 夫と2人で預かってくれる知人はいないか探したんだけど、みんな仕事で無理だって……。
 結局今日になっても託児所のキャンセルが出なくて……。誰もいない家に置いてくる訳にはいかないから、連れてきてしまったんだけど……」

 そうだ。今日は公立の小学校の入学式だ。公立は全校同じ日に入学式だもんなぁ。パンク状態になるだろうなぁ。

 瑠璃ラピスラズリ戦で女性棋士のほとんどは今日日本棋院ここにいるしな。それに今日は平日だから普通の会社員なら仕事だろうし。

「失礼ですけど、旦那さんのご両親に頼めないんですか?」

 伊田も地方出身棋士なのを京子は知っていたので、こう訊いた。旦那さんは、サラリーマンだと噂で聞いた。

「夫の実家は佐賀なの。たった半日のために九州まで往復するのは現実的ではないし。私の両親は長野だし……」

 どちらもすぐに行って帰って来れる距離じゃない。


 伊田も困っているが、それと同じくらい困っているのが職員だ。

 赤ん坊の泣き声が下の階の対局場にまで聞こえてくる。このままだと対局に集中できないと文句を言ってくる棋士がいるだろう。


「韮沢さん、何やってんだか……」

 京子は小声で副理事の韮沢にらさわ佐知子さちこ八段に毒を吐く。

(こうならないように女性の副理事長を置いておくのに。あの人、仕事してないじゃん!)


 とりあえず今、早くなんとかしなければならないのは赤ん坊の預け先だ。この調子だと埼玉や千葉、神奈川でも託児所の空きは無さそうだ。

 京子は頭をフル回転させる。自分の知り合いの中に今すぐ赤ん坊の面倒を見てくれそうな人物を脳内検索する。

 と同時にある考えが並列で京子の頭の中を駆け巡る。

 京子が年明けから探していたものの答えが見つかった。

「そうだ‼︎これだ‼︎」

 京子の大声を聞いた彩香がびっくりして、また泣き出しそうになる。京子と伊田は慌てて彩香をあやした。

「あー!ごめんね、彩香ちゃん!伊田先生。私、彩香ちゃんの世話をしてくれそうな人に、心当たりがあるんですけど」

「本当?」

「はい。その方、看護師さんなんですけど。どうしますか?」



 ●○●○●○



 一時間後。職員の山本が5階の対局場にいる京子と伊田を呼びに来た。京子と伊田の対局者は前もって事情を聞いていたので、2人の中座を認めた。代わりに京子達は相手の手番で時計を止めた。

 棋院の玄関先にいたのは、京子の師匠・岡本幸浩の妻・純子すみこと、岡本の幼馴染で近所に住む精神科医・杉山靖の妻・順子よりこだった。

「純子さん、順子さん!ありがとうございます!この話、受けて下さって。それにわざわざ棋院まで迎えに来て下さって……」

「いいのよ!暇だったから。それより女の子ですって?」

 産んだ子も生まれてきた孫も全員男の子で、常々京子に「1人ぐらいは女の子が生まれてきてもいいのに」とボヤいている純子は、京子からの「女の子を預かって欲しい」という電話に二つ返事し、タクシーで日本棋院にやって来た。

「この子?可愛いわね~!やっぱりいいわね~!女の子は~!」

 純子はもうすでにメロメロだ。伊田から彩香を奪わんばかりに抱き上げる。

 一方の伊田はというと、岡本幸浩先生の妻に子供を預けるので、恐縮しまくっている。

「伊田さん。私、看護師をしてました、杉山順子といいます。ただ、私は精神科で、産科や小児科の経験は……」

「はい。畠山さんから聞いてます。でも2人のお子さんを育てたベテランママさんだと。経験豊富な方に預かってもらえるなら安心できます」

「そう。なら責任を持ってお預かりします。時間も無いので、早速母子手帳を見せてもらえますか?まだ3ヶ月なら食べ物の心配は無いけど、一応アレルギーの有無とか、注意点を把握しておきたいので」

 さすが元看護師。手際よく引き継ぎ、伊田はオムツやミルクなどが入ったママさんバッグを順子に渡した。


「すみません。対局中なので、棋院の外まで見送りできなくて」

 対局中は棋院の外に出る事ができない。京子と伊田は棋院出入り口のドアの内側から彩香を抱いた純子と順子を見送る。

「いいのよ。ほら彩香ちゃん。ママお仕事頑張ってー、って」

 このくらいの女の子の赤ん坊を抱っこできるのが余程嬉しいのか、純子は顔を紅潮させながら、ロールケーキのぬいぐるみを握りしめる彩香の手を持ち伊田に向かって手を振った。

「彩香、ママ、なるべく早く迎えに行くからね。では、よろしくお願いします」

「ええ。任せて!私達の旦那も巻き込んで年寄り4人で面倒みるから安心して」

 こんなに張り切った純子を見るのは、京子は初めてだ。迷惑かと思ったけど、本人はとても喜んでいるみたいだ。頼んでみて良かった。

 彩香を乗せたタクシーは岡本家へと向かった。


「さあ、私達は対局に戻りましょうか」



 ●○●○●○



 翌日、京子は午前中の部活を終えたその足で都内で一番大きな書店のビジネス書のコーナーに駆け込んだ。

 本を手に取りパラパラめくり籠に入れる、もしくは戻してまた別の本を手に取りパラパラめくる。こうして取捨選択していく。今この場で頭に叩き込んでもいいが、やはり資料として手元に置いておきたい。

 籠に入れた本をセルフレジに持っていき精算する。金額は29,658円だった。

(おおぅ……。予算ギリギリ)

 京子はスマホ決済で購入した本を、スポーツバッグから取り出した風呂敷に包んで帰宅した。



 ●○●○●○



 翌週の研究会の日。三嶋大成は岡本邸の研究会部屋の本棚の一角がビジネス書で埋まっているのを見つけた。

「『NPO法人を設立する方法』『こども食堂の問題点』『託児所と学童保育』『教育問題・2人目の壁を考える』……?千代田区と新宿区の地図まであるな。これ、全部お前のか?」

「ですから、お前って言うのやめて下さいと何度言えばやめてくれるんですか?三嶋さん」

 京子は半年以上前から言っているのに三嶋は「お前」呼びをやめそうにない。

 岡本・武士沢・江田の3人はこの光景にすっかり慣れてしまい、2人を生温かい目で見つめる。

「別にいいだろ。それよりお前、こんなビジネス書ばかり集めて、何を始める気なんだ?」

「春休みの暇つぶしです」

「春休み終わっただろ!それに答えになってねぇよ」

「あ!そうだ!忘れないうちにあの人に連絡しないと!」

「おい、コラ。無視するな」

 研究会の真っ最中にも関わらず、京子はスマホを取り出して、とある人物に電話をかけた。
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