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定石編

立花富岳と畠山京子(13歳4ヶ月)

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 時は少し遡る。


 翠玉エメラルド戦第一次予選終了後の埼玉研にて。

 立花富岳ふがくは三嶋大成たいせいに頭を下げていた。

「……というわけで、三嶋さんには岡本先生と畠山さんに取り次いで欲しいのですが」

 富岳は京子に言われた通り、三嶋に仲立ちしてもらい、岡本幸浩に正式に謝罪しようと段取りを相談していた。

「ああ。今回のことは俺も悪かったし、富岳から言われなくても俺が段取りを決めるつもりでいたよ」

 珍しく三嶋がまともなことを言っている。若松と木幡こわたが不気味に思いながら二人のやり取りを眺めていたが、ここにきて若松が口を挟んできた。

「あのさぁ。京子ちゃん、部活やってるって言ってたよな?日曜日にもバスケ部の練習あるんじゃないの?だったらまず、京子ちゃんの予定を先に知っておいたほうがよくないか?」

「それだと下手するといつまで経っても岡本先生に挨拶できないんじゃないか?俺は岡本先生だけにでも早く挨拶したほうがいいと思うけど。だって京子ちゃんがそう言ったんだろ?」

 木幡は若松とは反対の意見らしい。

 こういう時に年配者がいてくれたらと富岳は思う。もし俺に師匠がいたら相談できるのに。木幡も若松にも師匠はいないので、他の人の師匠の伝手を頼ることも知恵を借りることも出来ない。

 今ここにいる四人に師匠がいるのは三嶋だけだ。まさか謝罪する本人に「どうしましょう?」などと相談は出来ないので、子供プラス若造三人で知恵を絞っている。

 『三人寄れば文殊の知恵』とは言うが、大した知恵の無い若造三人が絞った所で出てくる知恵など、たかが知れている。

 富岳の中には自分の両親に相談するという選択肢は無い。自分の親ながら、大切な事を黙っていた人物など信用できない。間違いなく「行く必要ない」と言うに決まっている。


「決めました。まず岡本先生に先に挨拶します。その日、運良く畠山さんもいるかもしれないし」

 富岳は京子に投げられた時の事を思い出す。

 畠山は自身の碁を貶された時は何も言い返さず黙って聞いていた。それが岡本先生の悪口になった途端、人格が変わったように怒り出した。

 翠玉エメラルド戦の時も「岡本先生にしろ」と言っていた。

 畠山が腹を立てているのは純粋に『岡本先生の悪口を言ったから』なんだと思う。

 ならば自分がまず始めにやらなければならないことは決まっている。


 その後の二人の行動は早かった。

 三嶋は早速岡本の元に電話を入れ、翌週の日曜日、富岳との面会の約束を取り付けた。

 富岳は三嶋に岡本への手土産は何が良いのかも相談し、岡本家の近所にある和菓子屋で饅頭を買い、岡本家に三嶋と共に訪ねた。

 しかしその日、京子は居なかった。

 「文化祭の打ち合わせに行く」と言って、バスケのプロチームの本社ビルへ制服を着て出掛けたそうだ。


 富岳は五月のあの日、京子となぜ喧嘩になったのか経緯を事細かに話し、入院費のお礼と、岡本への暴言を吐いた事と退院の挨拶に来るのが遅くなった旨を謝罪した。



 ●○●○●○



 ……と、早く畠山京子に伝えたいのだが、どういう訳か畠山と対局日が同じにならない。

 おそらくまた喧嘩にならないよう、手合課が対局日をずらしているのだろう。

 結局、翠玉エメラルド戦以来、約二ヶ月半ぶりに畠山に会うことになる。


 今、富岳は日本棋院の二階大広間の入口で一人ポツンと佇んでいる。

 富岳以外の院生と棋士は談笑している。「プロ生活はどう?」とか「院生研修の順位が上がらない」とか、「今年のプロ試験は……」だとか。

 そしてチラチラと俺のほうを見てくる。

「あいつ?」
「岡本先生をボケ老人って言ったやつ?」
「そう」
「ひどいよね」
「最低」

 全部本人に聞こえてるぞ。

「でも畠山さん、カッコいいよね!」
「だよねー!柔道も出来るなんて!」
「畠山さん、柔道もやってたの?」
「四歳の時からやってたんだって」
「剣道もやってたってユリ姉言ってたよ」

 なぜ被害者より加害者のほうが人気なんだ?

 おまけに、院生だった俺には誰も寄ってこないのに、なんで院生じゃなかった畠山の周りに人集りが出来てるんだ?

 あれは確か俺と同期入段の槇原美樹だよな。なんで畠山、一年先輩棋士と仲がいいんだ?それに院生の田村優里亜と小島太一もいる。槇原と田村と小島、仲が良かったっけか?畠山の人脈、わけわかんねー。声を掛けたいが掛けづらい。


「だーれだ?」

 富岳は突然眼鏡の上から目隠しされた。声色を変えているが、明らかに男の声だ。

「若松さん、おはようございます」

 身長差三十七センチ。富岳は真上を見上げるように若松涼太の顔を見た。

(そういえばこの人、畠山と同期入段で二十歳だったな)

「おはよう。つーかさ、もうちょいリアクションしてくれよ。ノリ悪いなぁ」

「はぁ……」

 この人のこういうところ、ちょっと絡みづらい。

 富岳はポケットからハンカチを取り出し、眼鏡についた若松の指紋を拭く。

「いやぁ~、まさかもう一回原石戦に出られるとは思わなかったな~!院生メンバー、結構顔ぶれが変わったな。たった三年弱で半分くらい知らない子いるな」

 そうか。若松さんも院生だったんだ。四月誕生日の若松さんが院生を辞めなければならない年に、入れ替わるように俺が院生になった。

「そうですか」

 と一言言ったきり、富岳は話すことが無くなり黙ってしまった。

「……そういうとこだぞ。富岳」

「なにが「そういうとこ」なんですか?」

 指紋を拭き取った眼鏡を掛け直す。

「自分から話しかけないと、いつまでたっても京子ちゃんと仲直りできないってこと。おーい、京子ちゃん。おはよう!」

 殊更大きな声で若松は入口の反対側にいた京子に声をかけた。大広間にいた全員が一斉に若松と富岳を見る。

 談笑の輪の中にいた畠山京子は若松の姿を認めると、話をしていた田村に何やら声をかけ、緑の黒髪を靡かせながら小走りで若松の元にやって来た。

「若様、おはようございます!今日も元気ですね!」

 五月に初めて会った時も畠山は俺より背が高かったが、さらに身長差が広がってないか?俺だって五センチは伸びたのに。こいつ、将来キリンにでもなる気か?

「だから棋院では若様はやめてって。恥ずかしいから」

「え~?自分から「若様と呼んでくれ」って言ったじゃないですか~!」

 俺、若松さんからそんなこと言われてないぞ。

 キャッキャと年頃の少女らしく畠山は笑う。ただし、俺に背を向けて。

「おはようございます、畠山さん」

 富岳は京子の背中に向かって挨拶する。挨拶された京子はゆっくり振り返って視線を下げる。

「あら、立花さん。おはようございます。いらしたんですね。あまりにも小柄で見えませんでした」

 事実、富岳の身長は京子の口元までくらいの高さしかなかった。

 この野郎!俺が「チビ」って言われるの嫌だと知ってて言ってるだろ!

 まぁいい。そんなことより、言わなきゃいけないことがある。

「畠山さん。俺、先日岡本先生に謝罪に行ってきました」

「ああ。はい、先生から伺っています。美濃屋さんのお饅頭、美味しかったです。ご馳走様でした」

(お前も食ったのか……。別にいいけど)

 富岳と京子が会話し始めたのを見ていた棋士は「また喧嘩が始まるか⁉︎」と、この二人とかなり距離をとりだした。院生は「やった!この二人の喧嘩をリアルで見れる!」とワクワクしながら見物している。

 箝口令を敷いていたはずなのに、たった半年で棋士はおろか院生全員にまで、俺達の不仲が広まってしまったようだ。このペースだと、来年の春には千駄ヶ谷にまで噂が広がっていそうだ。

「それで、畠山さんにもきちんと謝罪したいので、明日対局が終わったら時間を作ってもらえないでしょうか?」

 富岳は京子の機嫌を損ねないよう、丁寧語で話した。

「謝罪ってなんの謝罪ですか?」

 なんの謝罪って……。

「ほら、俺が入院する羽目になったあの騒動とか、こないだの翠玉エメラルド戦の二日目に駅前で三嶋さんと悪口言ってたのとか。あと、おにぎりのお礼とか……」

「おにぎりはお礼を言われるほどのことではないと言ったはずですが」

「そうなんだけどさ、人としてきちんとお礼を言っておき」

「それに私への悪口は、あなたの主観であって、それを私がどうのこうのと言うつもりはありませんので、謝罪して頂かなくても結構です」

 この野郎、俺がまだ喋っているのに!

「それに年内はあなたのために時間を作れません」

「は?」

 なんだよコイツ!こっちはお前の顔色を窺って低姿勢でお願いしてるってのに!

「理由は、高校生のバスケの全国大会ウィンターカップというものが現在行われていまして、本当なら私、今頃は千駄ヶ谷……にある、東京体育館に応援に行ってるはずなんですよ」

「バスケ⁉︎」

「はい。そのウィンターカップは二十九日まで行われまして、その翌日には朝イチの新幹線で秋田に帰省しますので」

 そうだ!こいつ秋田出身だった!

「なので諦めて下さい」

 諦めろって……。今まで俺、コイツに謝罪しようと、どんだけ気を揉んだと思ってるんだよ!

「じゃあ一月五日!仕事始めの日だ!この日なら空いてるだろ!」

 ファン向けにイベントも行われる『囲碁の日』だ。

「その日は『囲碁の日』のイベント後、棋士や職員の皆さんで新年会ですよね?新年会に参加せずあなたと二人で食事しろと?」

 うっ……。それはさすがに考えものだな。

「じゃあ、その新年会の時に話を……」

「それって他の棋士の皆さんが周りにいる中で私達二人、「あいつらまた暴力騒動起こさないよな」とか思われながら話をするって事ですよね?しかも話の内容は周りの人に全部筒抜け。地味ぃ~な嫌がらせにしか思えませんけど?今のこの状態ですね」

 と言って京子は大広間を見渡した。目があった棋士や院生が不自然に視線を逸らす。

 ぐっ……。言われてみれば……!

「じゃあ」

「『じゃあ、じゃあ、じゃあ、じゃあ』。水、出しっぱなしの蛇口ですか。私への悪口の謝罪は必要ないと言ってるのに、なんでそんなに謝罪したいんですか?」

 顔が怖ぇよ、畠山。……じゃない。俺が畠山をこんな顔にさせてるんだ。

「……謝罪だけじゃないんだ。君とどうしても話したいことがある」


 突然、富岳が思わせぶりな台詞を言い始めた。

 見物していた全員が『えっ?まさか愛の告白⁉︎』『ラブコメでよくある喧嘩ばかりしてる二人がくっつくやつ⁉︎』と色めき立つ。

 富岳は一呼吸入れて、京子の目を見つめながら話し始めた。


「畠山さん。俺は君と」


《皆さん、おはようございます!では只今より原石戦を行います!》


 だからタイミング———!

 なんで俺がいつも肝心なこと言おうとすると放送が———っ‼︎

 運営、明らかにわかっててやってないか⁉︎嫌がらせか⁉︎誰だよ、マイク握ってる奴‼︎


 富岳だけでなく大広間にいる全員が壇上に視線を移すと、日本棋院理事長・横峯弘和九段がニッコリ笑ってマイクを握っていた。
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