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定石編
三嶋大成と畠山京子(12歳11ヶ月)
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「おおー!ここが壇ノ浦!平家が滅んだ地!」
畠山京子は記録係として山口県下関市に来ていた。
紅玉戦 挑戦手合 七番勝負 第七局
前回覇者 江田照臣 紅玉王 対 因縁のライバル 挑戦者 豊本武 翠玉王との紅玉戦最終決戦だ。
日本棋院東京本院所属棋士及びスタッフ関係者総勢八十人は、まず飛行機で福岡県の北九州空港に降り立ち、貸切バスで山口県入りした。
今は挑戦者の豊本を含む関西総本部の面々が到着するまで自由時間だ。京子は『壇ノ浦古戦場跡』の記念碑がある公園で、お守り役の三嶋大成を連れ『平家物語』聖地巡礼を満喫していた。
お盆前だというのに結構観光客がいる。
今日の京子の服装は半袖の紺色のチュニックに茶色のショートパンツにスニーカーという格好で、色合い的には観光客のおばさん達に違和感なく紛れ込んでいる。
夏なんだからもう少し夏らしい色合いの服にすればいいのにと三嶋は思う。京子は服装に無頓着というか、流行に流されないというか、服は着ていればいいと思っているようだ。どうやらファッションに興味がないらしい。だらしないというわけではないが、こういう所が三嶋が京子を残念美人と思っている所だ。
他の棋士達は対局者二人の写真撮影が始まるまで、飛行機移動の疲れを癒すため旅館で寛いでいる。俺も休みたい。コイツの体力に合わせていたら俺の体がもたない。
「あれが福岡?思ってたより近いんですねー。泳いで渡れそう!」
「おう。泳いでこい」
三嶋は先週までここに来る予定ではなかった。しかし京子のお守り役が必要だという話になり、仕方なく山口に来た。
京子の出場停止二ヶ月の処分が下った時、寝込むほどショックを受けたのは心配性の長兄弟子武士沢だった。
しかし武士沢を寝込ませた張本人は「学校休まなくていいんで私の中ではプラマイゼロです」と全く反省する様子も無く、研究会に参加していた。
師匠の岡本もそんな京子を厳しく注意したようにも見えない。それどころか、
「最近の若い子はネットでの誹謗中傷を恐れて大人し過ぎる。男社会の碁界で女が生きていくなら、これくらい元気な方がいい」
と、注意どころかむしろ「ウチの子、文武両道でスゴイでしょ」と自慢しているようにもとれる発言を弟子達にしていた。
江田は事の重大さが解っているのか、いないのか、いつものようにニコニコしてるだけだった。
三嶋はといえば、立花富岳の病院といい、今回といい、この二ヶ月間何かと京子の面倒事を押し付けられていた。今だって京子の「平家物語の聖地巡礼したい」という我儘に付き合わされている。
それでも山口行きを決めたのは「フグ食べ放題」だからだ。海鮮好きの三嶋には、京子のお守りのマイナスより、フグのプラスの方が大きい。
「泳ぎたいと言ったんじゃありません。泳いで渡れそうと言っただけです。三嶋さん、そんなに女子中学生の水着姿、見たいんですか?変態ですか」
「なんでそうなる。誰がガリガリの餓鬼の水着姿なんか見たがるんだ」
「ガリガリじゃないです。細マッチョです。ていうか三嶋さん、ツッコむ声にいつものような張りが無いですよ。そんなにお疲れでしたら私一人でここに来たのに。旅館に戻っていいですよ」
休めるなら休みたい。だが京子一人にすると何をやらかすか分からないから、常に監視しろと武士沢から仰せつかった。コイツから目を離すわけにはいかない。
それにしてもいちいち突っかかってくるこの言い方。あのカラス騒動以来、俺に対する京子の態度の悪さがあからさまだ。俺が何したってんだ?
「お前最近、俺を兄弟子として敬う姿勢が見られないぞ」
「でしたら敬いたくなる成績を残して下さい。なんですか、先週の黄玉戦のグダグダの碁は。「さっさと帰って女と一発やりてー」って心の声、ダダ漏れでしたよ」
「……ッ、こっ、こら!子供がなんてこと言うんだ!」
「子供になんてこと言わせるんですか。その程度のレベルなんですよ。今の三嶋さんの碁は。下品な碁なんです」
ぐうの音も出ない。たしかにあの日、対局に全く集中できていなかった。理由は京子の言う通り。新しい彼女が出来て早く帰りたかったのだ。
「三嶋さん、四段に昇段してから何年が経つんですか?そろそろ七大棋戦挑戦者の権利を獲得しないと、岡本先生から破門されますよ」
「俺はされねーよ。もし破門されるとしたらお前だろ。この問題児の暴力女」
三嶋はKO狙いの精一杯の侮蔑を込めて言ったのに、京子は気に留める様子もない。気の弱い年頃の子ならこの一言で心を病んでしまいそうだが、この妹弟子の強心臓はチタン製かカーボン製なのか?鼻をフンと鳴らしてこう言い返した。
「どうやら三嶋さんを碁に真摯に向き合うようにするには、脅しより刺激を与えたほうが効き目がありそうですね」
「へえ。どんな」
「私は三嶋さんより先に七大棋戦挑戦者になります」
三嶋は周りにいる観光客の事など忘れて、腹を抱えて大笑いしだした。涙まで流して笑ってる。
「あー笑った!お前、面白い冗談言うようになったなあ!女のお前は七大棋戦挑戦者にはなれねーよ!常識だろ!」
「なんの常識ですか。女性でも勝ち上がれば挑戦者になれる仕組みになってますけど」
この囲碁界では完全実力社会。弱肉強食の世界だ。男も女も、体格の差による有利不利もない。己の脳味噌一つで勝負する世界だ。
「今まで誰一人、女性で七大棋戦挑戦者になった人はいないからだよ」
「なぜ今までいなかったからって、私もなれないんですか」
京子は疑問形で質問していない。明らかに三嶋に売られた喧嘩を買ってる。しかし三嶋は素知らぬふりで話を続ける。
「だから女のお前には無理だって言ってんだよ。女に生まれてきた時点で七大棋戦挑戦者にはなれないって篩にかけられてんだよ!」
「三嶋さんの言ってるのは明らかにジェンダー問題に関わる発言だと思いますが」
「ジェンダーもクソもあるか。世の中どんなに頑張っても出来る事と出来ない事があるって言いたいだけだよ」
「たしかに出来る事と出来ない事があるのはわかります。努力すればなんでも出来るなら、世界中オリンピック金メダリストだらけになっちゃいますから。
でも私には今の三嶋さんの発言、理解できません。やはりここは私が七大棋戦挑戦者になって、三嶋さんに一泡吹かせてやるしかなさそうですね」
「ああ、やってみろよ。泡吹いてやるよ。そのかわりお前が法螺吹きになるなよ!」
周りにいる観光客のおばさん達でさえ笑わないようなギャグを聞かされた京子は半眼になる。
「ヤマダくーん。座布団三枚持ってってー!」
「……なんだよ。つまらないってハッキリ言やいいだろ。なんか頭きた!説教してやる。そこに正座しろ!」
右手を伸ばし京子の首根っこを捕まえようとしたら、急に京子が眉間に皺を寄せ鼻をヒクヒクさせ匂いを嗅ぎ出した。匂いの元を辿るように顔を四方八方に向けて嗅いでいる。
「もしかしてこの匂いは……」
何やら雰囲気が尋常ではない。
「なんだ?どこかで火事か?」
「こっちです!」
京子が走った先には火の手は見えない。三嶋には何かが燃えるような匂いもしない。しかし京子は何かを見つけたかのように走り出した。
(どうする?消防に電話した方がいいか?いや、場所を確認してからじゃないとダメか。それより京子を捕まえないと、アイツの事だから無茶しかねない。怪我でもさせたらまた武士沢さんが寝込む。悪循環ループだ)
「まて京子!危ない!」
三嶋は京子を捕まえようと走るが、高校の体育の授業以来運動していない三嶋は、現役中学生でバスケ部員の体力をまざまざと見せつけられただけだった。
「あれです!」
京子の走る先には花壇がある。その花壇に京子は躊躇なく足を踏み入れた。
花壇からも火の手は上がっていない。
まさか毒物の異臭⁉︎俺が生まれる前、地下鉄に毒物を撒かれた事件があったって聞いた事があるけど……。
「やめろ京子!戻れ!」
京子は花壇にしゃがみ込み、何かを探し始めた。数秒間、草むらで何かを探す素振りをすると、手に何かを掴んで持ち上げた。
「ありました!」
「ばっ、バカ!手を離せ!」
「では三嶋さんにあげます」
「うわぁ!やめろ!こっちに寄越すな!」
「……たかが四つ葉のクローバーに、そこまで悲鳴をあげなくてもいいじゃないですか」
「……は?」
よく見ると京子の右手に握られていたのは、クローバーだった。数えてみると、ちゃんと葉が四枚ある。間違いなく四つ葉のクローバーだ。
「……え?お前、匂いを嗅いでたのは、この四つ葉のクローバーの匂い?」
「正確に言うとシロツメグサの香りです。独特の香りがしたので、近くに生えてるなーと思って」
こんな草の匂いなんかわかんねーよ。どうなってんだよ、コイツの嗅覚。警察犬か?麻薬探知犬か?
「お前なぁ。突然走り出したから火事か事件かと思ったぞ。ビックリさせるなよ」
「あー、すみません。観光客のお姉様方に先を越されたくなかったので」
あそこにいる観光客、俺にはおばさんにしか見えないが、京子にはお姉様に見えるらしい。
摘んだばかりのクローバーをヒラヒラさせ嬉しそうだ。
あー。なんかアホらし。
説教すると意気込んでいた気持ちが霧散してしまった。
なんでこの子はこんなにも瞬時にコロコロと気が変わるのか。体力的にも精神的にもついていけない。
寝込んでしまった兄弟子武士沢の気持ちが今ならちょっと理解できる。
山口での仕事はまだ始まってもいないのに、もうすでにこんなにヘロヘロになって俺、あと二日体力保つか?
「あのな、京子。お前は記録係としてここに来たけど、メインは江田さんと豊本先生で、お前はいわばオマケなんだよ。だからオマケは大人しくしててくれ」
何にでも首を突っ込みたがるこの妹弟子には無駄かもしれないが、とりあえず懇願はしておいた。
●○●○●○
対局の行われる旅館からほど近い『壇ノ浦合戦場跡』の記念碑脇で対局者二人の写真撮影は行われた。
小太りの江田と、長身痩躯の豊本。
いつもニコニコと愛想のいい江田と、いつも陰鬱な表情の豊本。
対照的な二人が並ぶと昔のお笑いコンビにしか見えない。
そんな二人がカメラ目線で握手している。
何度となく囲碁雑誌の表紙で目にした光景に、京子はうっとりとした表情で見つめながら自分のスマホで江田のみを連写している。
「はあ~。江田さん、カッコイイ……。どれを壁紙にしよう……迷う……」
まん丸い顔にまん丸い体型。お世辞にも格好良いとは言えない。京子の美的感覚は独特だ。
京子に言わせれば江田は癒し系のイケメンで、「はしっこせいかつ」という絵本の「ロールケーキ」というキャラクターに似ているそうだ。
こんな見た目でもこの男、昨年度の賞金王である。
現在、江田は大三冠という称号で呼ばれている。
紅玉(Ruby)戦、春に行われる緑玉(Emerald)戦、金剛石(Diamond)戦の三棋戦。それらの頭文字を組み合わせREDだ。
この三棋戦は挑戦手合が二日制で行われるため、全ての棋戦の中で最上位に格付けされている。優勝賞金も桁違いだ。
この三大棋戦全てを同時期に保持している者のみが大三冠と呼ばれる。
そしてその三大棋戦を含む主要七大棋戦を同時期に全て制した七冠棋士はDEARESTと呼ばれる。
Diamond 金剛石
Emerald 緑玉(持ち時間10時間)
Amethyst 紫水晶
Ruby 紅玉
Emerald 翠玉(早碁戦)
Sapphire 青玉
Topaz 黄玉
この七冠王の称号を得たのは長い日本棋院の歴史上、唯一人だけ。京子の師匠である岡本幸浩や、岡本のライバル柴崎真人でさえも果たせなかった偉業を成し遂げたのは、今回紅玉戦挑戦者である豊本武だ。もう八年も前になる。
豊本が七冠王になった当時は各メディアから取り上げられ、囲碁ブームの幕開けとなるかと期待されたが、「将棋と違ってどちらが勝っているのか判り難い」と敬遠され、思っていたようなブームは訪れなかった。
その翌年、金緑石戦以来スランプに陥っていた江田が覚醒。豊本を七冠から四冠に引きずり下ろした。
普通なら興味の矛先は江田に向きそうなものだが、江田も江田で何を質問されてもニコニコとしているだけで、マスコミはマイペースな江田に興味を示さず、成虫となった蝉の寿命ほどの期間しか話題にならなかった。
なので関係者らはこの『豊本vs江田』の対局を「不遇の巨匠対決」と呼んでいる。
「カメラマンさん、「笑顔で!」とか言わないんですね」
三嶋は京子がうろちょろしてもすぐに捕まえられるよう、京子の真後ろで腕組みして仁王立ちしている。
関西総本部が到着したと連絡が入り旅館に戻ると、さっきまで居た『壇ノ浦合戦場跡』の記念碑脇で対局者の記念撮影を行うと聞き、この場所にトンボ帰りしてきた。
京子を追いかけ全力疾走した三嶋は、しなくてもいい旅館までの往復までして、もう虫の息だ。だが人好きの三嶋は誰かに会話を振られると、どうしても条件反射で返答してしまう。
「豊本先生の笑顔を想像してみろ」
豊本はこの容貌と、石を活かすも殺すも自由自在の棋風から「死神」と呼ばれている。
「……死神の渾名がぴったりですね……」
一説にはこれが囲碁ブームが起こらなかった要因ではないかと言われている。
「では次は関門橋を背景に撮りますので移動お願いします」
と言っても目と鼻の先、百メートルほどだが。囲碁雑誌記者の舩山が二人を誘導して移動する。
「私もついて行きます!」
走り出そうとした京子を三嶋は素早く首根っこを捕まえて止めた。
「オマケは大人しくしてろと言ったばかりだろ。なんでついて行く?」
「オマケはついてるものですから」
しばし間があった。
「なんだその「上手いこと言ってやった」って顔は」
「さっきの三嶋さんのつまらない洒落よりはセンスあるでしょ。江田さんのハガシの人」
「俺は江田さんのマネージャーか?」
「大人しくしてるんで見学させてくださいよー。私だってそう遠くない将来、女流棋戦でこうして記念撮影とかするかもしれないんだから。これもプロとしての勉強です」
「またいつでも見れるだろ」
「学校あるんで、いつでもは無理です。だから、やるなら今でしょ!」
「うるせぇよ。あーもう、わかったよ。遠くから見てるだけだぞ。頼むから大人しくしていてくれ」
「はい!」
返事だけはいいのは知ってる。ここからこの美少女の皮を被ったおっさんが、どんな暴挙に出るか。
関門橋をバックにした写真撮影も順調に進んでいる。
京子はここでも江田のみをスマホで連写していた。
「写真撮影は以上です。では旅館に戻りまして、検分を行います」
写真撮影を見学していた関係者等もゾロゾロと旅館に戻っていく。
……ん?京子が大人しいな。
「京子、どうした。さっきからやけに大人しいな」
「大人しくしてろって言われたので大人しくしてました」
「……だったら初めから大人しくしててくれよ!」
「三嶋さんに大人しくしてろって言われてからは大人しくしてますよ。さっきだって首根っこ捕まえさせたじゃないですか」
山口に着いてからの京子の行動を思い出してみる。言われてみれば、俺が「大人しくしてろ」と言ってからは、走り回ったりしてないな。
ということは俺が初めから京子に大人しくしてろと言っておけば良かったのか?そういえばカラス騒動の時も、岡本先生から「ダメだ」と言われて、渋々ながらも従ってたな。俺の手際が悪かったのか。
「そうか。俺の言うこと、ちゃんと聞いてくれたんだな」
「はい!約束はちゃんと守るんで!」
「そーかそーか。偉いぞ」
……ん?なんかおかしくないか?まぁいいか。
疲労ですっかり思考力の低下した三嶋は、京子に完全に舐められている事に疑問すら感じなかった。
畠山京子は記録係として山口県下関市に来ていた。
紅玉戦 挑戦手合 七番勝負 第七局
前回覇者 江田照臣 紅玉王 対 因縁のライバル 挑戦者 豊本武 翠玉王との紅玉戦最終決戦だ。
日本棋院東京本院所属棋士及びスタッフ関係者総勢八十人は、まず飛行機で福岡県の北九州空港に降り立ち、貸切バスで山口県入りした。
今は挑戦者の豊本を含む関西総本部の面々が到着するまで自由時間だ。京子は『壇ノ浦古戦場跡』の記念碑がある公園で、お守り役の三嶋大成を連れ『平家物語』聖地巡礼を満喫していた。
お盆前だというのに結構観光客がいる。
今日の京子の服装は半袖の紺色のチュニックに茶色のショートパンツにスニーカーという格好で、色合い的には観光客のおばさん達に違和感なく紛れ込んでいる。
夏なんだからもう少し夏らしい色合いの服にすればいいのにと三嶋は思う。京子は服装に無頓着というか、流行に流されないというか、服は着ていればいいと思っているようだ。どうやらファッションに興味がないらしい。だらしないというわけではないが、こういう所が三嶋が京子を残念美人と思っている所だ。
他の棋士達は対局者二人の写真撮影が始まるまで、飛行機移動の疲れを癒すため旅館で寛いでいる。俺も休みたい。コイツの体力に合わせていたら俺の体がもたない。
「あれが福岡?思ってたより近いんですねー。泳いで渡れそう!」
「おう。泳いでこい」
三嶋は先週までここに来る予定ではなかった。しかし京子のお守り役が必要だという話になり、仕方なく山口に来た。
京子の出場停止二ヶ月の処分が下った時、寝込むほどショックを受けたのは心配性の長兄弟子武士沢だった。
しかし武士沢を寝込ませた張本人は「学校休まなくていいんで私の中ではプラマイゼロです」と全く反省する様子も無く、研究会に参加していた。
師匠の岡本もそんな京子を厳しく注意したようにも見えない。それどころか、
「最近の若い子はネットでの誹謗中傷を恐れて大人し過ぎる。男社会の碁界で女が生きていくなら、これくらい元気な方がいい」
と、注意どころかむしろ「ウチの子、文武両道でスゴイでしょ」と自慢しているようにもとれる発言を弟子達にしていた。
江田は事の重大さが解っているのか、いないのか、いつものようにニコニコしてるだけだった。
三嶋はといえば、立花富岳の病院といい、今回といい、この二ヶ月間何かと京子の面倒事を押し付けられていた。今だって京子の「平家物語の聖地巡礼したい」という我儘に付き合わされている。
それでも山口行きを決めたのは「フグ食べ放題」だからだ。海鮮好きの三嶋には、京子のお守りのマイナスより、フグのプラスの方が大きい。
「泳ぎたいと言ったんじゃありません。泳いで渡れそうと言っただけです。三嶋さん、そんなに女子中学生の水着姿、見たいんですか?変態ですか」
「なんでそうなる。誰がガリガリの餓鬼の水着姿なんか見たがるんだ」
「ガリガリじゃないです。細マッチョです。ていうか三嶋さん、ツッコむ声にいつものような張りが無いですよ。そんなにお疲れでしたら私一人でここに来たのに。旅館に戻っていいですよ」
休めるなら休みたい。だが京子一人にすると何をやらかすか分からないから、常に監視しろと武士沢から仰せつかった。コイツから目を離すわけにはいかない。
それにしてもいちいち突っかかってくるこの言い方。あのカラス騒動以来、俺に対する京子の態度の悪さがあからさまだ。俺が何したってんだ?
「お前最近、俺を兄弟子として敬う姿勢が見られないぞ」
「でしたら敬いたくなる成績を残して下さい。なんですか、先週の黄玉戦のグダグダの碁は。「さっさと帰って女と一発やりてー」って心の声、ダダ漏れでしたよ」
「……ッ、こっ、こら!子供がなんてこと言うんだ!」
「子供になんてこと言わせるんですか。その程度のレベルなんですよ。今の三嶋さんの碁は。下品な碁なんです」
ぐうの音も出ない。たしかにあの日、対局に全く集中できていなかった。理由は京子の言う通り。新しい彼女が出来て早く帰りたかったのだ。
「三嶋さん、四段に昇段してから何年が経つんですか?そろそろ七大棋戦挑戦者の権利を獲得しないと、岡本先生から破門されますよ」
「俺はされねーよ。もし破門されるとしたらお前だろ。この問題児の暴力女」
三嶋はKO狙いの精一杯の侮蔑を込めて言ったのに、京子は気に留める様子もない。気の弱い年頃の子ならこの一言で心を病んでしまいそうだが、この妹弟子の強心臓はチタン製かカーボン製なのか?鼻をフンと鳴らしてこう言い返した。
「どうやら三嶋さんを碁に真摯に向き合うようにするには、脅しより刺激を与えたほうが効き目がありそうですね」
「へえ。どんな」
「私は三嶋さんより先に七大棋戦挑戦者になります」
三嶋は周りにいる観光客の事など忘れて、腹を抱えて大笑いしだした。涙まで流して笑ってる。
「あー笑った!お前、面白い冗談言うようになったなあ!女のお前は七大棋戦挑戦者にはなれねーよ!常識だろ!」
「なんの常識ですか。女性でも勝ち上がれば挑戦者になれる仕組みになってますけど」
この囲碁界では完全実力社会。弱肉強食の世界だ。男も女も、体格の差による有利不利もない。己の脳味噌一つで勝負する世界だ。
「今まで誰一人、女性で七大棋戦挑戦者になった人はいないからだよ」
「なぜ今までいなかったからって、私もなれないんですか」
京子は疑問形で質問していない。明らかに三嶋に売られた喧嘩を買ってる。しかし三嶋は素知らぬふりで話を続ける。
「だから女のお前には無理だって言ってんだよ。女に生まれてきた時点で七大棋戦挑戦者にはなれないって篩にかけられてんだよ!」
「三嶋さんの言ってるのは明らかにジェンダー問題に関わる発言だと思いますが」
「ジェンダーもクソもあるか。世の中どんなに頑張っても出来る事と出来ない事があるって言いたいだけだよ」
「たしかに出来る事と出来ない事があるのはわかります。努力すればなんでも出来るなら、世界中オリンピック金メダリストだらけになっちゃいますから。
でも私には今の三嶋さんの発言、理解できません。やはりここは私が七大棋戦挑戦者になって、三嶋さんに一泡吹かせてやるしかなさそうですね」
「ああ、やってみろよ。泡吹いてやるよ。そのかわりお前が法螺吹きになるなよ!」
周りにいる観光客のおばさん達でさえ笑わないようなギャグを聞かされた京子は半眼になる。
「ヤマダくーん。座布団三枚持ってってー!」
「……なんだよ。つまらないってハッキリ言やいいだろ。なんか頭きた!説教してやる。そこに正座しろ!」
右手を伸ばし京子の首根っこを捕まえようとしたら、急に京子が眉間に皺を寄せ鼻をヒクヒクさせ匂いを嗅ぎ出した。匂いの元を辿るように顔を四方八方に向けて嗅いでいる。
「もしかしてこの匂いは……」
何やら雰囲気が尋常ではない。
「なんだ?どこかで火事か?」
「こっちです!」
京子が走った先には火の手は見えない。三嶋には何かが燃えるような匂いもしない。しかし京子は何かを見つけたかのように走り出した。
(どうする?消防に電話した方がいいか?いや、場所を確認してからじゃないとダメか。それより京子を捕まえないと、アイツの事だから無茶しかねない。怪我でもさせたらまた武士沢さんが寝込む。悪循環ループだ)
「まて京子!危ない!」
三嶋は京子を捕まえようと走るが、高校の体育の授業以来運動していない三嶋は、現役中学生でバスケ部員の体力をまざまざと見せつけられただけだった。
「あれです!」
京子の走る先には花壇がある。その花壇に京子は躊躇なく足を踏み入れた。
花壇からも火の手は上がっていない。
まさか毒物の異臭⁉︎俺が生まれる前、地下鉄に毒物を撒かれた事件があったって聞いた事があるけど……。
「やめろ京子!戻れ!」
京子は花壇にしゃがみ込み、何かを探し始めた。数秒間、草むらで何かを探す素振りをすると、手に何かを掴んで持ち上げた。
「ありました!」
「ばっ、バカ!手を離せ!」
「では三嶋さんにあげます」
「うわぁ!やめろ!こっちに寄越すな!」
「……たかが四つ葉のクローバーに、そこまで悲鳴をあげなくてもいいじゃないですか」
「……は?」
よく見ると京子の右手に握られていたのは、クローバーだった。数えてみると、ちゃんと葉が四枚ある。間違いなく四つ葉のクローバーだ。
「……え?お前、匂いを嗅いでたのは、この四つ葉のクローバーの匂い?」
「正確に言うとシロツメグサの香りです。独特の香りがしたので、近くに生えてるなーと思って」
こんな草の匂いなんかわかんねーよ。どうなってんだよ、コイツの嗅覚。警察犬か?麻薬探知犬か?
「お前なぁ。突然走り出したから火事か事件かと思ったぞ。ビックリさせるなよ」
「あー、すみません。観光客のお姉様方に先を越されたくなかったので」
あそこにいる観光客、俺にはおばさんにしか見えないが、京子にはお姉様に見えるらしい。
摘んだばかりのクローバーをヒラヒラさせ嬉しそうだ。
あー。なんかアホらし。
説教すると意気込んでいた気持ちが霧散してしまった。
なんでこの子はこんなにも瞬時にコロコロと気が変わるのか。体力的にも精神的にもついていけない。
寝込んでしまった兄弟子武士沢の気持ちが今ならちょっと理解できる。
山口での仕事はまだ始まってもいないのに、もうすでにこんなにヘロヘロになって俺、あと二日体力保つか?
「あのな、京子。お前は記録係としてここに来たけど、メインは江田さんと豊本先生で、お前はいわばオマケなんだよ。だからオマケは大人しくしててくれ」
何にでも首を突っ込みたがるこの妹弟子には無駄かもしれないが、とりあえず懇願はしておいた。
●○●○●○
対局の行われる旅館からほど近い『壇ノ浦合戦場跡』の記念碑脇で対局者二人の写真撮影は行われた。
小太りの江田と、長身痩躯の豊本。
いつもニコニコと愛想のいい江田と、いつも陰鬱な表情の豊本。
対照的な二人が並ぶと昔のお笑いコンビにしか見えない。
そんな二人がカメラ目線で握手している。
何度となく囲碁雑誌の表紙で目にした光景に、京子はうっとりとした表情で見つめながら自分のスマホで江田のみを連写している。
「はあ~。江田さん、カッコイイ……。どれを壁紙にしよう……迷う……」
まん丸い顔にまん丸い体型。お世辞にも格好良いとは言えない。京子の美的感覚は独特だ。
京子に言わせれば江田は癒し系のイケメンで、「はしっこせいかつ」という絵本の「ロールケーキ」というキャラクターに似ているそうだ。
こんな見た目でもこの男、昨年度の賞金王である。
現在、江田は大三冠という称号で呼ばれている。
紅玉(Ruby)戦、春に行われる緑玉(Emerald)戦、金剛石(Diamond)戦の三棋戦。それらの頭文字を組み合わせREDだ。
この三棋戦は挑戦手合が二日制で行われるため、全ての棋戦の中で最上位に格付けされている。優勝賞金も桁違いだ。
この三大棋戦全てを同時期に保持している者のみが大三冠と呼ばれる。
そしてその三大棋戦を含む主要七大棋戦を同時期に全て制した七冠棋士はDEARESTと呼ばれる。
Diamond 金剛石
Emerald 緑玉(持ち時間10時間)
Amethyst 紫水晶
Ruby 紅玉
Emerald 翠玉(早碁戦)
Sapphire 青玉
Topaz 黄玉
この七冠王の称号を得たのは長い日本棋院の歴史上、唯一人だけ。京子の師匠である岡本幸浩や、岡本のライバル柴崎真人でさえも果たせなかった偉業を成し遂げたのは、今回紅玉戦挑戦者である豊本武だ。もう八年も前になる。
豊本が七冠王になった当時は各メディアから取り上げられ、囲碁ブームの幕開けとなるかと期待されたが、「将棋と違ってどちらが勝っているのか判り難い」と敬遠され、思っていたようなブームは訪れなかった。
その翌年、金緑石戦以来スランプに陥っていた江田が覚醒。豊本を七冠から四冠に引きずり下ろした。
普通なら興味の矛先は江田に向きそうなものだが、江田も江田で何を質問されてもニコニコとしているだけで、マスコミはマイペースな江田に興味を示さず、成虫となった蝉の寿命ほどの期間しか話題にならなかった。
なので関係者らはこの『豊本vs江田』の対局を「不遇の巨匠対決」と呼んでいる。
「カメラマンさん、「笑顔で!」とか言わないんですね」
三嶋は京子がうろちょろしてもすぐに捕まえられるよう、京子の真後ろで腕組みして仁王立ちしている。
関西総本部が到着したと連絡が入り旅館に戻ると、さっきまで居た『壇ノ浦合戦場跡』の記念碑脇で対局者の記念撮影を行うと聞き、この場所にトンボ帰りしてきた。
京子を追いかけ全力疾走した三嶋は、しなくてもいい旅館までの往復までして、もう虫の息だ。だが人好きの三嶋は誰かに会話を振られると、どうしても条件反射で返答してしまう。
「豊本先生の笑顔を想像してみろ」
豊本はこの容貌と、石を活かすも殺すも自由自在の棋風から「死神」と呼ばれている。
「……死神の渾名がぴったりですね……」
一説にはこれが囲碁ブームが起こらなかった要因ではないかと言われている。
「では次は関門橋を背景に撮りますので移動お願いします」
と言っても目と鼻の先、百メートルほどだが。囲碁雑誌記者の舩山が二人を誘導して移動する。
「私もついて行きます!」
走り出そうとした京子を三嶋は素早く首根っこを捕まえて止めた。
「オマケは大人しくしてろと言ったばかりだろ。なんでついて行く?」
「オマケはついてるものですから」
しばし間があった。
「なんだその「上手いこと言ってやった」って顔は」
「さっきの三嶋さんのつまらない洒落よりはセンスあるでしょ。江田さんのハガシの人」
「俺は江田さんのマネージャーか?」
「大人しくしてるんで見学させてくださいよー。私だってそう遠くない将来、女流棋戦でこうして記念撮影とかするかもしれないんだから。これもプロとしての勉強です」
「またいつでも見れるだろ」
「学校あるんで、いつでもは無理です。だから、やるなら今でしょ!」
「うるせぇよ。あーもう、わかったよ。遠くから見てるだけだぞ。頼むから大人しくしていてくれ」
「はい!」
返事だけはいいのは知ってる。ここからこの美少女の皮を被ったおっさんが、どんな暴挙に出るか。
関門橋をバックにした写真撮影も順調に進んでいる。
京子はここでも江田のみをスマホで連写していた。
「写真撮影は以上です。では旅館に戻りまして、検分を行います」
写真撮影を見学していた関係者等もゾロゾロと旅館に戻っていく。
……ん?京子が大人しいな。
「京子、どうした。さっきからやけに大人しいな」
「大人しくしてろって言われたので大人しくしてました」
「……だったら初めから大人しくしててくれよ!」
「三嶋さんに大人しくしてろって言われてからは大人しくしてますよ。さっきだって首根っこ捕まえさせたじゃないですか」
山口に着いてからの京子の行動を思い出してみる。言われてみれば、俺が「大人しくしてろ」と言ってからは、走り回ったりしてないな。
ということは俺が初めから京子に大人しくしてろと言っておけば良かったのか?そういえばカラス騒動の時も、岡本先生から「ダメだ」と言われて、渋々ながらも従ってたな。俺の手際が悪かったのか。
「そうか。俺の言うこと、ちゃんと聞いてくれたんだな」
「はい!約束はちゃんと守るんで!」
「そーかそーか。偉いぞ」
……ん?なんかおかしくないか?まぁいいか。
疲労ですっかり思考力の低下した三嶋は、京子に完全に舐められている事に疑問すら感じなかった。
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