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第12話 クイーン
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先ほど目にしたかっこよさはどこにいってしまったのだろうか……と、時計屋さんを見ながら思った。
珍しいことに、時計屋さんはかれこれ一時間近く真面目に時計の修理をしている。しかし、机の端には常に『チョコチップ』と書かれた袋が置いてあり、その中へ片手を突っ込み口へ運ぶという行為も並行していた。
(食いしんぼうなのかしら……)
ボリボリ、カチャカチャ。代わる代わる耳に届いていたかと思えば、黒い手袋を外した片手でドライバーをつまみ上げ、「ベタベタする……」と呟き、それはもうたいそう不快そうに顔をしかめている。
「……お菓子を食べた手で、そのまま触るからじゃない……?」
読んでいた本から顔を上げ、やや呆れ気味に事実を伝えてあげると、彼は自身の手のひらを拳でポンと叩き「なるほど」と呟いた。
「……」
ああ……さっきはあんなにかっこよかったのに、と心の中で深いため息を吐く。
「俺が舐めて綺麗にしてやろうか? ワンワン! なんちゃって」
今まで反対側のソファで横になり寝息を立てていたはずのジャックは、いつの間にか時計屋さんの真隣に移動して、彼の肩を叩きながら笑っていた。
時計屋さんはといえば、無表情でジャックの手を払いのけ「黙れ、必要ない」と吐き捨てる。
「えー? なんでさ! 遠慮するなよ!」
しかし……どうにも悪い意味で粘り強くポジティブすぎるらしいジャックは、貼り付けたような笑顔を浮かべたまま「なんだ、キング。照れてんのか?」と言って、肩を組み時計屋さんの頬をつっつき始めた。
「……お前なあ……」
「照れてるキングも可愛いぜ!」
「気持ち悪いことを言うな……」
ベタベタと時計屋さんの側に寄り、仕事を阻害し続けるジャック。そんな光景を見ている内に、小さな疑問がぷかりと浮かぶ。
おおよそありえないことだとは思うし、違っていてほしい気持ちもあるが……本人に聞かない限りは解けない謎だという事だけは理解できていたため、思い切って口を開いた。
「あ、あの……ジャックは……時計屋さんに、恋をしているの?」
聞いた瞬間、ジャックは「なんで今さらそんなことを聞くんだ?」とでも言いたげな……笑顔が消え、ぽかんと口を開けたままの間抜けた表情に変わる。
一方で、時計屋さんは特になんのリアクションもせず、「ふあ……」と大きなあくびを一つして、眠たげな目を片手でこすっていた。
しばらくしてから、ジャックの顔に日が差すような笑みが戻ると、両腕を組み堂々と胸を張って言い放つ。
「ああ、もちろん! 大好きだぜ! だから俺は騎士として、大好きなキングを護ってる! でもほら、キングってば照れ屋だから、」
「誰が照れ屋だ、馬鹿騎士……ちゃんと順を追ってアリスに説明しろ……今の言い方だと、確実に誤解を生むだろうが……」
「ん……? ああ、そうか! 忘れてた!」
時計屋さんは、それはもう、本当に……心からうんざりとしたような顔で深いため息を吐き、「こいつ……」と唸るように呟き頭を抱えてしまった。
それから、眼鏡を外して机に置くと、先ほど「ベタベタする」と言っていた方の手をジャックのコートで拭い、私に向き直る。
「えっと……ジャックの役割は『誰かを深く想い、好きだと感じる心』……特に、一番長くそばにいたり思い入れのある対象を、他の誰よりも好きになる。だけど、“それ”は俺じゃない、って……アリスは知ってるんだと思ってた……」
「役割……? 心……?」
どういう意味?と首を傾げたけれど、無言でふいと逸らされてしまった彼の隻眼が、今はそれ以上教えてくれないのだと物語っていた。
「ジャック……どうせ好きになるならお前、クイーンを好きになればいいだろ……」
「えー?! 冗談キツいな?! あんなワガママ癇癪玉女、白ウサギ以外は誰も相手にしないって! キングが一番よく知ってるだろ?」
からからと笑うジャックは、とても本人が自称する『騎士』には思えない。なぜなら、なにか……とても、真っ黒な企みを、心の奥底に抱えている気配がするのだ。
そう、例えば……その『クイーン』を殺してしまいたい。そんな事を、常に考えているような……
「……あれ? そういえば私、そのクイーンって人にまだ会ったことがないわ」
「あー! いいよいいよ! あんな女、会わなくて正解だ! アリスには一生縁がなくていい! 俺はそう思う!」
ここにきて初めて目にする、明らかな作り笑い。それから、オブラートに包む気などさらさらなさそうな言葉。
ジャックは、その『クイーン』と呼ばれる人がよほど嫌いらしい。しかしそれは逆効果で、こんなにジャックから嫌われているのはどんな人物なのだろうかと、より一層興味がわいてきた。
「ねえ、ジャック。あなた、クイーンって女性とは親しいの?」
「うーん、そうだなー……できれば今すぐにでも絶縁したいくらいには関わりがあるな!」
ニコニコと浮かべられる笑顔が逆に怖い。
「ジャック、お願い。私をその人に会わせてもらえないかしら?」
「うっわー! アリスって意外に悪趣味なんだな!?」
「……物好きだね、アリス……」
二人がかりでなぜそこまで言われなければならないのかと、表情からオーラに至るまで不機嫌であることを丸晒しにしたままジャックを睨みつけると、なぜか微笑みを返されてしまう。
「……ああ、いいぜ。案内する。どうせ、キングは誘ったところで絶対ついて来ないだろうし……俺もちょうど、あそこに用事があるからな」
***
時計屋さんと別れて森の中を歩きながら、先ほどは腹が立っていたせいで言い忘れていた言葉を伝える。
「……ありがとう、ジャック。助かるわ」
「ん? ああ……ははっ、どういたしまして!」
間髪入れずに「まあ、アリスが悪趣味なのは変わらないけどな!」と笑顔で付け足され、前言撤回を申し出たくなった。
***
「……で! その時は俺も必死だったから、」
「へえ……」
一方的に延々と語られるジャックの話に適当な相槌を返しながら道を進み、辿り着いた場所にそびえ立っていたのは、何とも立派で煌びやかな建物だった。
真っ赤な塗装の上に描かれた白黒のハート柄、ところどころに散りばめられた宝石、金色でゴテゴテしたよくわからない飾り……いかにも、女王様か国王様が生活していそうな――お城。
「!?」
「……?」
あまりにも眩しく立派な建物を前にして、開いた口がふさがらない。
しかしジャックはニコニコと笑みを浮かべたまま私の手首を掴み、平然とした態度でレッドカーペットの敷かれた長い廊下を歩いてひたすら奥へと進んでいた。
「あ、あのっ……ちょっ、ジャック! 待って! わ、私は、クイーンって人に会いたいって言ったのよ! こここ、こっ、ここ……どう見てもお城じゃない!」
「えー? お城に住んでるから、クイーンなんだろ? やっぱりアリスは子供だから無知だなー!」
息を吸うように罵倒されてたいへん頭にきたが、言われてみればそれもそうだと納得してしまう。
クイーンとはつまり、そのままの意味なら『女王』だ。女王が城に住んでいるなんて、驚くまでもなく至極当然のこと。
「ま、まさか、私……女王様に会いたいって言っていたの?!」
「うわ、びっくりした! アリス、気付くの遅くないか? 見た目が成長しても、頭の回転が速くなるわけじゃないんだな!」
(これ、喧嘩を売られているのよね……?)
彼は楽しげに笑っているが、私は全身から血の気が引いたような気分だ。
何て軽率にとんでもないことを言っていたのだろうか、なぜ途中で気づかなかったのだろうか……あれこれ後悔したところで、時すでに遅し。
ついに、謁見室へ繋がる扉の前まで来てしまい、ジャックは何のためらいもなくそれを開いてしまった。
(あっ……!)
止める暇もなく、彼は「言われた通り帰って来ましたよ」と、先ほどまでの笑顔が消え失せた冷たい表情で言って、私の腕を引き中へ入ると後ろ手に扉を閉める。
空いている方の手でジャックの腕にすがりつき恐る恐る目線を移動させれば、少し先にある玉座へ腰掛けた女王様……らしき人の姿が見えた。その両脇を守るように立っているのは、兎の耳を生やした人物。
片方は、以前にも会ったことがある。
「黒、ウサギ……」
ぽつりと呟いた言葉も『ウサギ』の耳には届いたらしく、彼は表情を緩め、ふっと笑って見せた。
「ジャック……貴様、またキングの所に行っておったな!?」
突き出した人差し指を向けながらスカイブルーの目でジャックを睨みつけた女王様?は、とても幼い容貌をしている。
物言いや放つ雰囲気こそ女王様らしさが滲み出ているが、その見た目はまるで……幼い頃の、私だ。生き写しという言葉がぴったり当てはまるほどに、とてもよく似ている。
「女王陛下、許してあげて? 仕方がない事よ」
黒ウサギとは反対側に立ち、猫なで声で女王様に語りかける女性。
黒く艶やかで長い髪からは、真綿のように真っ白い兎の耳が二つ生えていて、そこで初めて気が付いた。
「前に、会ったわ」
「……アリス……やっと、ここまで来てくれた」
ふわりと微笑むその女性には、黒ウサギよりも先に会ったことがある。というより、この世界に私を連れてきたのは、他の誰でもない……彼女だ。
兎の耳をぴんと立て、とても嬉しそうにルビー色の目を細めるその女性。
(……あれ? でも、もっと前にも会って……いいえ、そんなわけがないわ……)
心の中にもやもやとした気持ちを抱えつつ、女王様の方へゆっくりと目線を移動させ、スカートの両端を指で摘み深々と頭を下げた。
「は、はじめまして、女王陛下。私、アリスでございます……!」
「……アリス、」
「はいっ!」
澄んだ声で名を呼ばれ、弾かれたように顔を上げると、頬を紅潮させた女王様と目が合う。
「ああ……よく帰ってきた。おかえり、私のアリス」
(女王様、の……?)
どう返せばいいのか困ってしまい、愛想笑いを浮かべて首をかしげると、幼さの残る小さな片手でちょいちょいと手招きされた。
(こっちに来い、ってこと……よね?)
姿勢を低くしたまま、三歩ほど女王様に近づいて足を止めると、「なにゆえ、私のアリスはそんな遠くにおるのじゃ。もっと近う寄れ! ここじゃ、ここまで来ぬか!」と言ってぷくりと頬を膨らませる。
女王陛下の手前、言われるがままに行動するしか許されない気がして、ついに手を伸ばせば届きそうな範囲に来てしまった。
女王様は実に満足げな笑顔で両足をぷらぷら泳がせた後、すぐに凛々しい表情へ変わり、黒ウサギとジャックを交互に見やってびしりと言い放つ。
「黒ウサギ、お前はもうよい。部屋に戻れ……して、ジャック! 貴様はまだ仕事が残っているとの報告があったぞ! また無断で道草を食いに行ってみよ……その首、刎ねてしまうからな!」
「ははっ、えー? 声が頭にキンキン響いてうるさいよ女王陛下! そのせいで頭が痛くなったから羽を伸ばしてたのにさー!」
本人……それも女王陛下という地位の高い人が目の前にいるというのに、無遠慮に悪口を言ってのけるジャック。
「ちょ……ちょっと、ジャック! そんな言い方、」
「構わん、頭の悪い“ダイヤの騎士擬き”には好きに言わせておけ。私は何とも思っておらぬ……ありがとう、アリス」
私に微笑みを向けた女王様に対し「わー! 本当に可愛くない女だな!」と言い残して、ジャックは謁見室の扉をくぐり姿を消す。数歩遅れて、その後ろを黒ウサギがついて行った。
そういえば、黒ウサギは結局この場では一言も発する事はなかったが……それが逆に不気味で仕方がない。
「……ああ、アリス!」
男性二人がいなくなった瞬間、女王様は私に駆け寄り抱きついてきた。とっさに受け止めるが、目線の少し下には女王様の頭が。
(ふ、不敬罪とかにならないかしら……?!)
戸惑いを隠せずにいる間も、女王様はぎゅうぎゅうと私に抱きつき続け、しばらく経ってからやっと体を離した。
「ああ、アリス……アリス? 大好きよ」
「あ、ありがとうございます」
「ふふ、謙虚な子じゃ。可愛い……アリス、いいのよ」
にこりと笑みを浮かべたまま、女王様は自身の前髪を留めているヘアピンに手を伸ばして一つ取ると、手のひらにのせて指の腹でそっと撫でる。
一連の流れをぼうっと眺めていた私に女王様は再び抱きつき、なんの変哲も無いヘアピンを私の喉元に押し当てた。
「?」
不思議に思ったのも束の間。それは眩しい光を放ったかと思えば、瞬きの間に大きな鎌へと変化する。
「どれだけ経っても変わらない、私はアリスが大好きじゃ。だからこそ、幸せになってほしい……大丈夫。アリスが死んでも、私はいいのよ……首だけになって、ずっとずっと私の側にいてくれれば……それだけで、いいの」
女王様は恍惚の表情で目尻に涙を滲ませつつそう言うと、私の首に当たったままの刃を勢いよくスライドさせ、
「――っ!?」
目を瞑った瞬間、大理石の床に血の滴る音がした。
珍しいことに、時計屋さんはかれこれ一時間近く真面目に時計の修理をしている。しかし、机の端には常に『チョコチップ』と書かれた袋が置いてあり、その中へ片手を突っ込み口へ運ぶという行為も並行していた。
(食いしんぼうなのかしら……)
ボリボリ、カチャカチャ。代わる代わる耳に届いていたかと思えば、黒い手袋を外した片手でドライバーをつまみ上げ、「ベタベタする……」と呟き、それはもうたいそう不快そうに顔をしかめている。
「……お菓子を食べた手で、そのまま触るからじゃない……?」
読んでいた本から顔を上げ、やや呆れ気味に事実を伝えてあげると、彼は自身の手のひらを拳でポンと叩き「なるほど」と呟いた。
「……」
ああ……さっきはあんなにかっこよかったのに、と心の中で深いため息を吐く。
「俺が舐めて綺麗にしてやろうか? ワンワン! なんちゃって」
今まで反対側のソファで横になり寝息を立てていたはずのジャックは、いつの間にか時計屋さんの真隣に移動して、彼の肩を叩きながら笑っていた。
時計屋さんはといえば、無表情でジャックの手を払いのけ「黙れ、必要ない」と吐き捨てる。
「えー? なんでさ! 遠慮するなよ!」
しかし……どうにも悪い意味で粘り強くポジティブすぎるらしいジャックは、貼り付けたような笑顔を浮かべたまま「なんだ、キング。照れてんのか?」と言って、肩を組み時計屋さんの頬をつっつき始めた。
「……お前なあ……」
「照れてるキングも可愛いぜ!」
「気持ち悪いことを言うな……」
ベタベタと時計屋さんの側に寄り、仕事を阻害し続けるジャック。そんな光景を見ている内に、小さな疑問がぷかりと浮かぶ。
おおよそありえないことだとは思うし、違っていてほしい気持ちもあるが……本人に聞かない限りは解けない謎だという事だけは理解できていたため、思い切って口を開いた。
「あ、あの……ジャックは……時計屋さんに、恋をしているの?」
聞いた瞬間、ジャックは「なんで今さらそんなことを聞くんだ?」とでも言いたげな……笑顔が消え、ぽかんと口を開けたままの間抜けた表情に変わる。
一方で、時計屋さんは特になんのリアクションもせず、「ふあ……」と大きなあくびを一つして、眠たげな目を片手でこすっていた。
しばらくしてから、ジャックの顔に日が差すような笑みが戻ると、両腕を組み堂々と胸を張って言い放つ。
「ああ、もちろん! 大好きだぜ! だから俺は騎士として、大好きなキングを護ってる! でもほら、キングってば照れ屋だから、」
「誰が照れ屋だ、馬鹿騎士……ちゃんと順を追ってアリスに説明しろ……今の言い方だと、確実に誤解を生むだろうが……」
「ん……? ああ、そうか! 忘れてた!」
時計屋さんは、それはもう、本当に……心からうんざりとしたような顔で深いため息を吐き、「こいつ……」と唸るように呟き頭を抱えてしまった。
それから、眼鏡を外して机に置くと、先ほど「ベタベタする」と言っていた方の手をジャックのコートで拭い、私に向き直る。
「えっと……ジャックの役割は『誰かを深く想い、好きだと感じる心』……特に、一番長くそばにいたり思い入れのある対象を、他の誰よりも好きになる。だけど、“それ”は俺じゃない、って……アリスは知ってるんだと思ってた……」
「役割……? 心……?」
どういう意味?と首を傾げたけれど、無言でふいと逸らされてしまった彼の隻眼が、今はそれ以上教えてくれないのだと物語っていた。
「ジャック……どうせ好きになるならお前、クイーンを好きになればいいだろ……」
「えー?! 冗談キツいな?! あんなワガママ癇癪玉女、白ウサギ以外は誰も相手にしないって! キングが一番よく知ってるだろ?」
からからと笑うジャックは、とても本人が自称する『騎士』には思えない。なぜなら、なにか……とても、真っ黒な企みを、心の奥底に抱えている気配がするのだ。
そう、例えば……その『クイーン』を殺してしまいたい。そんな事を、常に考えているような……
「……あれ? そういえば私、そのクイーンって人にまだ会ったことがないわ」
「あー! いいよいいよ! あんな女、会わなくて正解だ! アリスには一生縁がなくていい! 俺はそう思う!」
ここにきて初めて目にする、明らかな作り笑い。それから、オブラートに包む気などさらさらなさそうな言葉。
ジャックは、その『クイーン』と呼ばれる人がよほど嫌いらしい。しかしそれは逆効果で、こんなにジャックから嫌われているのはどんな人物なのだろうかと、より一層興味がわいてきた。
「ねえ、ジャック。あなた、クイーンって女性とは親しいの?」
「うーん、そうだなー……できれば今すぐにでも絶縁したいくらいには関わりがあるな!」
ニコニコと浮かべられる笑顔が逆に怖い。
「ジャック、お願い。私をその人に会わせてもらえないかしら?」
「うっわー! アリスって意外に悪趣味なんだな!?」
「……物好きだね、アリス……」
二人がかりでなぜそこまで言われなければならないのかと、表情からオーラに至るまで不機嫌であることを丸晒しにしたままジャックを睨みつけると、なぜか微笑みを返されてしまう。
「……ああ、いいぜ。案内する。どうせ、キングは誘ったところで絶対ついて来ないだろうし……俺もちょうど、あそこに用事があるからな」
***
時計屋さんと別れて森の中を歩きながら、先ほどは腹が立っていたせいで言い忘れていた言葉を伝える。
「……ありがとう、ジャック。助かるわ」
「ん? ああ……ははっ、どういたしまして!」
間髪入れずに「まあ、アリスが悪趣味なのは変わらないけどな!」と笑顔で付け足され、前言撤回を申し出たくなった。
***
「……で! その時は俺も必死だったから、」
「へえ……」
一方的に延々と語られるジャックの話に適当な相槌を返しながら道を進み、辿り着いた場所にそびえ立っていたのは、何とも立派で煌びやかな建物だった。
真っ赤な塗装の上に描かれた白黒のハート柄、ところどころに散りばめられた宝石、金色でゴテゴテしたよくわからない飾り……いかにも、女王様か国王様が生活していそうな――お城。
「!?」
「……?」
あまりにも眩しく立派な建物を前にして、開いた口がふさがらない。
しかしジャックはニコニコと笑みを浮かべたまま私の手首を掴み、平然とした態度でレッドカーペットの敷かれた長い廊下を歩いてひたすら奥へと進んでいた。
「あ、あのっ……ちょっ、ジャック! 待って! わ、私は、クイーンって人に会いたいって言ったのよ! こここ、こっ、ここ……どう見てもお城じゃない!」
「えー? お城に住んでるから、クイーンなんだろ? やっぱりアリスは子供だから無知だなー!」
息を吸うように罵倒されてたいへん頭にきたが、言われてみればそれもそうだと納得してしまう。
クイーンとはつまり、そのままの意味なら『女王』だ。女王が城に住んでいるなんて、驚くまでもなく至極当然のこと。
「ま、まさか、私……女王様に会いたいって言っていたの?!」
「うわ、びっくりした! アリス、気付くの遅くないか? 見た目が成長しても、頭の回転が速くなるわけじゃないんだな!」
(これ、喧嘩を売られているのよね……?)
彼は楽しげに笑っているが、私は全身から血の気が引いたような気分だ。
何て軽率にとんでもないことを言っていたのだろうか、なぜ途中で気づかなかったのだろうか……あれこれ後悔したところで、時すでに遅し。
ついに、謁見室へ繋がる扉の前まで来てしまい、ジャックは何のためらいもなくそれを開いてしまった。
(あっ……!)
止める暇もなく、彼は「言われた通り帰って来ましたよ」と、先ほどまでの笑顔が消え失せた冷たい表情で言って、私の腕を引き中へ入ると後ろ手に扉を閉める。
空いている方の手でジャックの腕にすがりつき恐る恐る目線を移動させれば、少し先にある玉座へ腰掛けた女王様……らしき人の姿が見えた。その両脇を守るように立っているのは、兎の耳を生やした人物。
片方は、以前にも会ったことがある。
「黒、ウサギ……」
ぽつりと呟いた言葉も『ウサギ』の耳には届いたらしく、彼は表情を緩め、ふっと笑って見せた。
「ジャック……貴様、またキングの所に行っておったな!?」
突き出した人差し指を向けながらスカイブルーの目でジャックを睨みつけた女王様?は、とても幼い容貌をしている。
物言いや放つ雰囲気こそ女王様らしさが滲み出ているが、その見た目はまるで……幼い頃の、私だ。生き写しという言葉がぴったり当てはまるほどに、とてもよく似ている。
「女王陛下、許してあげて? 仕方がない事よ」
黒ウサギとは反対側に立ち、猫なで声で女王様に語りかける女性。
黒く艶やかで長い髪からは、真綿のように真っ白い兎の耳が二つ生えていて、そこで初めて気が付いた。
「前に、会ったわ」
「……アリス……やっと、ここまで来てくれた」
ふわりと微笑むその女性には、黒ウサギよりも先に会ったことがある。というより、この世界に私を連れてきたのは、他の誰でもない……彼女だ。
兎の耳をぴんと立て、とても嬉しそうにルビー色の目を細めるその女性。
(……あれ? でも、もっと前にも会って……いいえ、そんなわけがないわ……)
心の中にもやもやとした気持ちを抱えつつ、女王様の方へゆっくりと目線を移動させ、スカートの両端を指で摘み深々と頭を下げた。
「は、はじめまして、女王陛下。私、アリスでございます……!」
「……アリス、」
「はいっ!」
澄んだ声で名を呼ばれ、弾かれたように顔を上げると、頬を紅潮させた女王様と目が合う。
「ああ……よく帰ってきた。おかえり、私のアリス」
(女王様、の……?)
どう返せばいいのか困ってしまい、愛想笑いを浮かべて首をかしげると、幼さの残る小さな片手でちょいちょいと手招きされた。
(こっちに来い、ってこと……よね?)
姿勢を低くしたまま、三歩ほど女王様に近づいて足を止めると、「なにゆえ、私のアリスはそんな遠くにおるのじゃ。もっと近う寄れ! ここじゃ、ここまで来ぬか!」と言ってぷくりと頬を膨らませる。
女王陛下の手前、言われるがままに行動するしか許されない気がして、ついに手を伸ばせば届きそうな範囲に来てしまった。
女王様は実に満足げな笑顔で両足をぷらぷら泳がせた後、すぐに凛々しい表情へ変わり、黒ウサギとジャックを交互に見やってびしりと言い放つ。
「黒ウサギ、お前はもうよい。部屋に戻れ……して、ジャック! 貴様はまだ仕事が残っているとの報告があったぞ! また無断で道草を食いに行ってみよ……その首、刎ねてしまうからな!」
「ははっ、えー? 声が頭にキンキン響いてうるさいよ女王陛下! そのせいで頭が痛くなったから羽を伸ばしてたのにさー!」
本人……それも女王陛下という地位の高い人が目の前にいるというのに、無遠慮に悪口を言ってのけるジャック。
「ちょ……ちょっと、ジャック! そんな言い方、」
「構わん、頭の悪い“ダイヤの騎士擬き”には好きに言わせておけ。私は何とも思っておらぬ……ありがとう、アリス」
私に微笑みを向けた女王様に対し「わー! 本当に可愛くない女だな!」と言い残して、ジャックは謁見室の扉をくぐり姿を消す。数歩遅れて、その後ろを黒ウサギがついて行った。
そういえば、黒ウサギは結局この場では一言も発する事はなかったが……それが逆に不気味で仕方がない。
「……ああ、アリス!」
男性二人がいなくなった瞬間、女王様は私に駆け寄り抱きついてきた。とっさに受け止めるが、目線の少し下には女王様の頭が。
(ふ、不敬罪とかにならないかしら……?!)
戸惑いを隠せずにいる間も、女王様はぎゅうぎゅうと私に抱きつき続け、しばらく経ってからやっと体を離した。
「ああ、アリス……アリス? 大好きよ」
「あ、ありがとうございます」
「ふふ、謙虚な子じゃ。可愛い……アリス、いいのよ」
にこりと笑みを浮かべたまま、女王様は自身の前髪を留めているヘアピンに手を伸ばして一つ取ると、手のひらにのせて指の腹でそっと撫でる。
一連の流れをぼうっと眺めていた私に女王様は再び抱きつき、なんの変哲も無いヘアピンを私の喉元に押し当てた。
「?」
不思議に思ったのも束の間。それは眩しい光を放ったかと思えば、瞬きの間に大きな鎌へと変化する。
「どれだけ経っても変わらない、私はアリスが大好きじゃ。だからこそ、幸せになってほしい……大丈夫。アリスが死んでも、私はいいのよ……首だけになって、ずっとずっと私の側にいてくれれば……それだけで、いいの」
女王様は恍惚の表情で目尻に涙を滲ませつつそう言うと、私の首に当たったままの刃を勢いよくスライドさせ、
「――っ!?」
目を瞑った瞬間、大理石の床に血の滴る音がした。
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