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第三十九話 ボーンチャイナ

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「ンンー? 取引?」

 今だ悪魔に憑かれたままの『私』が自分の意思で発言した件に関しては彼にとって何の疑問もいだかない事象だったらしく、長身の男は優雅な動きでナイフとフォークを右手にまとめてから姿勢を正すと、空いている方の指で黒いサスペンダーをついとはじいていぶかしげに目を細める。

「ええ、そうよ」

 じわり。言葉をつむぐたび血の味が喉ににじんでほんの少しの嘔吐感を覚えるけれど、ベルゼブブを真っ直ぐに見据えたまま平静を装いごくりと飲みくだした。
 脳内の作戦を盗み出そうとしているのか、彼は無表情のまま海色のビー玉で三秒ほど私の瞳を射抜いてから、ニッタリと気味の悪い笑みを浮かべて首をかたむける。

「ンッフフ。レディ、『命乞い』の間違いではございませんか?」
「いいえ、取引よ」

 ──……ベルゼブブの敷地に足を踏み入れてケルベロスを見送った直後、彼はこんなことを言っていた。

『小生は訳あって、門扉もんぴとフェンスにさわれませぬゆえ

 アレはつまり、何らかもしくは“誰か”の力によって、門扉とフェンスにれられない……つまり、“敷地の外へ出られない”制限をもうけられているという意味なのではないかと推測する。
 そして恐らく、は赤の王による『呪い』ではない。ベルゼブブが赤の王ならびに『呪い』を畏怖いふの対象や脅威として認識していないことから、もっと別の生き物が関与しているのではないかと考えるのが自然だろう。
 では、いったい誰が・どうやってこの悪魔の身を拘束し自由を“奪えている”のか?

「ねぇ、貴方──……」

 落ち着いてこれまでの記憶を整理すれば、該当するたった一つの生き物にたどり着く。

「ドードーさんのせいで、敷地外へ出られなくなっているんじゃない?」
「──!!」

 どのようなトリックを使っているのかまでは知らない。百パーセントの確信を持って口にしたわけではなく、時間稼ぎの博打ばくちに近かった。
 けれど、一羽の名前を聞いた途端にピクリと跳ね上がった彼の眉が、私の憶測を事実へと昇華してくれる。

(やっぱり)

 白の王は言っていた。帽子屋の居場所はドードーさんがよく知っている、と。
 それから、城で聞いたあの意味不明な歌。

『ドードー鳥は火であぶる~羽ばたく翼も抜けば美味うまかろう~ドードー鳥は何味か~たかぶる血はさぞや甘かろう~』

 ドードーさんが異常なほど帽子屋を怖がり、近づきたがらなかった理由。それはきっと、

「……貴方はドードー鳥を食べようとして失敗した結果、何らかの手法で存在場所をせばめられたんじゃないかしら? だから門扉に触れられないし、敷地からも出られないみじめな生活を送っている。違う?」

 ザリザリ、ズッズ。唐突に、頭の中でノイズ音が走る。
 不快感から反射的に顔をしかめてしまった私をよそに、ベルゼブブはゆっくりと天井をあおぎ見て「ふうー」と大きく息を吐いた。

「……レディは……ボーンチャイナと言う物をご存じですか?」

 何の脈絡もなく突然変化した話題に驚き、反応が遅れてしまう。
 ボーンチャイナ。磁器じきの種類の一つであり、『ボーン』と名の付く通り骨灰こっかい──主に牛の骨から生成された灰を素地そじに混ぜて作るのが一般的で、高い透光性とうこうせいつやのあるだ。けれど、なぜ今このタイミングでそんな質問を投げてきたのか?彼の意図がめない。
 三拍分の間を置いて息継ぎを済ませ、「ええ、もちろん」とあごを引けば、ベルゼブブはひどく気怠けだるそうな様子で私の顔を真っ直ぐに見据えた。

「小生はを造るのが趣味でして」
「……? それが、」

 何の関係があるの?
 投げようとした問いかけは喉元で引っかかり、間抜けに開いたまま静止させていた唇を引き結ぶ。まばたきも忘れてキャビネットに視線をやれば、美しい陶器たちが私を見守っていた。
 そう──……が。

(まさ、か)

 嗚呼、嗚呼、気づいてしまった!知りたくもなかった惨劇さんげきに気付かされてしまったわ!なんてことなの!?
 数分前に浴びた哀れみの眼差し、流れ込んだ悲しみの感情。全ては錯覚や思い込みなどではなく、食器……いいえ、『被害者』達が放っていたものだったのだ。なぜなら──……アリスがこれからベルゼブブの手によって彼・彼女等と同じ未来を辿たどると知っていたから。
 瞬間、全身の肌が粟立あわだち、バクバクと高鳴る心臓に合わせて血圧が上昇する。頸部けいぶ食道まで込み上げた胃酸と吐き気をグルルと飲み込めば、イカレた帽子屋は海底を連想させる冷たい瞳に私を映した。

「小生はあの自称・ドードー鳥を食した後、剥製はくせいにしてコレクションに加える計画を今だ諦めてはおりませぬ。小生はレディを食した後、骨格標本として未来永劫この家で共に過ごして頂く腹積はらづもりです」
「!?」

 骨格標本ですって!?冗談じゃないわ!!どこまでも常軌じょうきいっしていて頭のネジが足りない生き物ね!?どうしてこんな男が『帽子屋』と呼ばれているのかはなはだ疑問だわ!!
 爪の先まで染みる軽蔑を込めてキツく睨みつけてやるが、はえの王は意にも介さない様子でふんっと短く鼻を鳴らして笑う。

「取引……取引、ねぇ? ンッフフ。はぁ……まだ気づいていらっしゃらないので? 嗚呼、なげかわしい……レディは、あの蜘蛛──白の王にそそのかされたのですよ?」

 クスリとあざけられた瞬間、パキリ。眼球の奥で、氷のぜるような音がする。
 心筋が八回働いた頃に胃の中が冷たくなって、こめかみに熱がこもり鈍痛を響かせた。

「……何を言っているの?」

 反射的にこぼれた言葉には抑揚よくようなど無く、“アリスらしく”もなかった。

「ンー? 何? 何とは? 言葉通りの意味ですが?」
「ふざけないでちょうだい」
「ンンッンー、小生はいつでも人様と真摯しんしに向かい合っているつもりですが」
「うるさい」

 だめよ、いけない。良くないわ。だめだめ。落ち着かなきゃ。
 わかっていても、まつ毛の先が震えるほどの強い怒りで全身が熱くなり、理性がしゅわりと溶け始める。私は、陽だまりのようにあたたかくおだやかな『アリス』でらなければならないのに。
 でも、だって、だって!腹が立つのも仕方がない事でしょう?!命の恩人をけなされたのだもの!!
 白の王が唆したですって?騙した?私を?あんなに寛大かんだいで優しくて、私を“アリス”だと認めてくれる素敵な人が?

「彼はとても素晴らしい人よ。悪く言わないで」

 グルグル、グラグラ。喉の奥で怒りが煮える。
 人を食い、更には加工をほどこしてコレクションしているようなイカレた悪魔に、命の恩人をけがされた事がたまらなく腹立たしい。
 でも、大丈夫。ふわ、ほわり。ほらまた、甘い香りが鼻腔びくうをくすぐった。

「……ふーむ……まあ、何をもってして“素晴らしい”と定義するかは各々おのおのの価値観によりましょうが、レディは相当なゲテモノ好きのようで」

 ベルゼブブはそう言って自身の顎を片手で撫でつつ、まるで溜息をこらえるかのようにすうと目を細め眉根を寄せる。
 ……ああ。黙れと叫んで首を絞めてやりたくなる。白の王がいかに素晴らしい存在であるか、声を荒げて説明しそうになる。
 彼を侮辱するというのは、私を侮辱しているのと同義だ。なぜなら、彼はこの国で唯一はじめから私を『アリス』であると認識してくれていた。認めてくれた。そして、これまでにたくさんの“普通”を与えてくれた。
 私にとって、白の王こそが神様と呼ぶに相応ふさわしい存在であると言っても過言ではない。そんな彼のことを「人を騙すような悪人だ」と揶揄やゆするだなんて。
 湧き上がる強い殺意に吐き気さえ覚える。

「アレにあまり深入りしない方がよろしいかと。アレはを亡くして以来、以前にも増して口八丁くちはっちょうで演技派の蜘蛛になってしまいましたから」
「笑えない冗談は程々にしてくれるかしら」
「ンン~、小生は言っているのですけれども」

 たった一言。そのワードを耳にした瞬間、

『──……アリ……、いい? よく聞いて? 私は貴女のためを思って言っているのよ』

 チリリン。鈴の音が頭の奥に響いて、全てがどうでも良くなった。

「……もういいわ。帽子屋なんていらない」
「ンー? 今、何と?」
「次は、憑いた相手と嗅覚も共有する『呪い』をかけてくれるよう、赤の王にお願いするといいわよ。って言ったのよ」

 息を一つ吐いた次の瞬間──ガラスが砕け散るような音が室内へ響き渡り、地鳴りと共にベルゼブブの足下に稲妻型の亀裂が走る。
 刹那、真下から出現した巨大な針が彼の太ももを貫通した。

「ン゛ン゛……ッ!?」

 いつの間にか、何もない空間にポッカリと空いていた裂け目。その中では禍々まがまがしい赤色が渦巻うずまいており、奥からゆらりと現れた生き物が長い足で床を踏み締めると、謎の裂け目は音もなく消え去った。
 ほわり、ただよう甘い香りが理性を麻痺させる。

「……オイ、答えろ蛆虫うじむし。どんな立派な理由をもって、私のアリスに危害を加えたんじゃ?」

 炎の赤を反射してきらめく銀色の長髪がまぶしくて、私はただ息を呑んだ。
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