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第三十七話 悪魔憑き

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 そう。それは、とても簡単で単純なお話。
 変成王へんじょうおう?ベルゼブブ?そんなもの関係無いわ。たくさん私に不快な思いをさせて強い敵意を向けてきた偽物の帽子屋なんて、もうこのワンダーランドには必要の無い存在だ。
 更に言えば、私のを皆に暴露するかもしれないという大きな危険をはらんだ、とても邪魔でどうしようもなく悪い子。

「ねえ、アリス。殺してしまいましょう? 悪い子には罰を与えなきゃ」
「……ええ、そうね。ロリーナ姉さんの言う通りだわ」

 こんなにも簡単な結論を出すためにこれだけの時間を要しただなんて、やはり『恐怖』なんて感情は思考のさまたげになるだけだとつくづく思う。
 本当は私たち──白の王側の手駒に加えたくて彼の元を訪れたので、手にかけるのは不本意ではあるが仕方がない。だって、悪いのは彼だもの。
 それにしても、やっぱりロリーナ姉さんは最高の姉だわ。姉さんが居なければ、きっと「殺してしまえばいい」と気づくまでにもっと苦労したことだろう。

「ありがとう、姉さん」
「ふふ、いいのよ。貴女の力になれて嬉しいわ」

 ああ、ロリーナ姉さん。大好き、大好き。優しくて賢くて素敵な姉さんは、私にとって一番の自慢。
 隣に立つ彼女へ笑顔を向けると、姉さんも柔らかく口の端を引いてブロンドのロングヘアーをふわりと揺らした。
 さて。それじゃあどうやって罰を与えようかしらと考えつつ、再度『悪い子』に視線を投げる。

「……」

 すると、前方約四十センチ先から私たちの挙動を静かに見送っていた元・帽子屋ベルゼブブは、私の顔の横──ロリーナ姉さんが場所をちらりと見やっていぶかしげに表情をゆがませた。
 しかしそれもほんの一瞬で、彼は何を思ったのかすぐにまぶたを伏せると「嗚呼、そういう事でしたか」と低く呟き、あごに片手を当てて自身を納得させるかのように何度かうなずく。

「ンッフフ……やはりおっしゃっていた通りですねぇ」

 ──……チャンスだと思った。

「──っ!!」

 自ら視界をふさぎ隙を生んでくれるだなんて、ありがたい事この上ない。今この瞬間をのがしてはならないと判断して、ベルゼブブの巨体に飛びかかる。
 男と女の間にはどうしても越えられない力の差が存在しており、更に彼ほど背丈がある肉体となれば一瞬で殺すなど武器を持っていない今の状況では到底不可能だ。
 けれど、人体には必ず『急所』と呼ばれる場所が存在する。その中でも特に狙いやすくて、女の力でも十分にダメージを与えられる場所……、

(貴方が悪いのよ)

 鼻の下──『人中じんちゅう』と呼ばれる部位は急所中の急所であり、指一本で強打してやるだけでも目眩めまいや気絶を期待できる。運が良ければショック死させることも可能だ。
 右手を強く握り締めてこぶしを作り、今だ滑稽こっけいに目をつむったままでいるベルゼブブの人中目掛けて思い切り振り下ろした。
 ──……次の瞬間。ゴッとにぶい音がして強い衝撃が脳天をつらぬき、目の前でバチバチと花火がぜる。真っ白に染まる視界の中で体が大きく後方へふらつくが、私の意志に反して両足が勝手に床を踏み締めたことにより、何とか背中から倒れるという事態だけは回避できた。

(なに? いま、なにが)

 事態を把握しきれず疑問符ばかりが埋め尽くす脳みそを必死に働かせていると、遅れてやってきた鈍痛が更に思考をにごらせる。
 そして、少しずつ視力を取り戻した目に飛び込んできたのは真っ赤に染まった自分の右手。吃驚きっきょうの声を上げる間も無く鼻腔びくうをついた血の匂いに、口内へ広がる鉄の味。短時間で得たそれらの情報は『何が起きたのか』理解するには十分すぎるものだった。
 単純明快な話である。私は、自分で自分の人中を力いっぱい殴りつけたのだ。

‎「……אישה טיפשה להפליא」
《素晴らしいほどに馬鹿な女だ》

 ドロリと這いずる低音が聞き慣れない言語を落とし、顔をうつむかせたベルゼブブがこちらに左手人差し指の先を向ければ私の右腕は勝手に動き始め、血に染まった拳を“私”にじっくりと見せつけてくる。

「ハッ……ハァッ……」

 ああ、痛い。痛い。体が動かない。……いいえ、違うわ。“私の意志では動かせない”。
 ベルゼブブはひどく優雅な足取りで私のすぐ目の前までやって来るなり、ゆっくりと顔を上げて「ンンー……ああ、本当に急所なのですね。人中、覚えておきましょう」とギラつく青い瞳で私を見下ろした。
 思考盗聴で作戦が筒抜けになっていても、大した問題にはならないと思っていたのに。どうして、私の体は私の言うことを聞かないの?

「ンッフフ。小生はレディを買い被っていたようです。ええ、ええ。レディは本当にお馬鹿さんですねぇ」

 私のものであるはずの右手が再び勝手に動き、ベルゼブブに手のひらをさらす形でずいと前に出しゃばる。彼は“それ”に自身の左手を重ねると、指の間に指を絡めて柔らかく握り締め、桃色の髪を揺らしてくつくつと喉の奥で笑った。

小生しょうせいを初見で『ベルゼブブ』であると看破かんぱしたのは評価にあたいします。ですが、残念。嗚呼、残念。レディは、蝿の王の逸話いつわまでは学んでいなかったようですね」
(逸話……?)

 心の中で投げた問いに、ベルゼブブは貼り付けたような薄気味の悪い笑みを浮かべてゆるりと顎を引く。
 少しの間を置いて、彼は私の右手を握ったままワルツでも踊るかのように軽快なステップを踏み、空いている方の手を私の腰に回してぐいと抱き寄せてきた。
 そして耳元で低く小さく、咆哮ほうこうを囁く。

「悪魔き」
「!?」
「おやおや、ご存知ありませんか? 有名なのは……十六世紀フランス、ニコール・オブリーでしょうか? ンッフ、今でも懐かしい話です。小生──ベルゼブブと言えば悪魔憑きの代表と言っても過言ではないでしょうが、レディは存外ぞんがい浅薄せんぱくなのですね」

 あざけられた刹那せつな……ピキリ、プライドに爪を立てられ欠ける音がする。強いいきどおりを通り越して、いっそ頭が冷えそうだわ。
 ああ、でもダメみたい。ぐつぐつ、ぐつぐつ。胃の底が煮えたぎって、全身の産毛うぶげが「私のプライドと秘密を守るために、早くこの男を殺さなくてはいけない」という使命感に駆られている。

「おや、おやおや? まさか、レディはこのおよんでまだ状況がわかっていらっしゃらない?」
「何が?」

 四肢ししこそ動かせないものの、発言権は今だ“私”の元にあるようだ。
 怒りと殺意を持て余しているせいで、自分でも驚くほどに抑揚よくようの無い声が喉から落ちる。私の直答ちょくとうにベルゼブブは一つ息を吐いて笑い、少し体を離してからずいと顔を覗き込んできた。

「小生がレディに“憑く”ために、面倒な儀式など不要なのですよ。必要なのは、その身の一部。爪、皮膚、体液。一ミリで結構。そう、例えば──……髪の毛一本だとか」

 瞬間、つい数十分前の記憶がよみがえる。

『肩に髪の毛が付いていましたよ』
『ああ、そう……ありがとう』
『いいえ、こちらこそ』

 こちらこそ。その後に続く言葉は?「ありがとう」?
 嗚呼、嗚呼。言われてみれば。おかしな返答だと思っていたのよ!それから?その後に、彼は何をしていた?

(……なんてことなの)

 そうだわ、そうよ!んだわ……!アレがもしも『私の髪の毛を食べていた』のだとしたら……!?

「ンッフ、ンフフッ、ご名答。ようやくお気付きになられたようで何よりです。しかし、遅すぎましたねぇ」

 昔、本の片隅で目にした覚えのある『悪魔憑き』という言葉の意味を大脳皮質だいのうひしの奥底から必死に引きずり出して、ようやく全ての出来事に合点がいく。
 悪魔憑きとは、文字通り“悪魔が人間の心身に憑依ひょういする事”を指すのだ。
 脳や心が他人のものであるかのような違和感をいだいた起因きいん、私の体が勝手に動き始めた理由。更に言えば、思考が筒抜けになっていた真因しんいんも。全て、このベルゼブブが私の体に憑依していたから。
 気づいてしまった途端、全身の毛穴が開き冷や汗が背筋を伝い落ちる。

(彼の言う通りよ。本当に、遅すぎたんだわ)

 私の体はもうアリスわたしのものではない。だから勝手に動く両腕は横に広がって無防備に胴体をさらけ出すし、彼が目の前でナイフホルダーからナイフとフォークを抜き取っている様子をただ呆然と眺めているしかないんだわ。
 ギラギラ、丸眼鏡の奥で青い瞳が光る。
 ひらり。獅子の尾が揺れて、炎の熱気が頬を撫でた。

‎「אני אהנה לקבל את זה」
《いただきます》

 切れ味抜群のナイフは刃先だけでいとも簡単に私の手首を裂き、ぱかりと開いた傷口から白い肉が顔を出す。
 どろりとこぼれ落ちた鮮血が、いつかの思い出を呼び起こした。

『こら、ちゃんと“いただきます”を言わなきゃダメよ』
『うーん……ねえ、ねえさん。どうしてごはんをたべるときに“いただきます”っていうの?』
『だって、』

 ──……生きるために、命をでしょう?
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