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第二十三話 死者の理論

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 私は物心ついた時から“アリス”になりたかった。
 ありふれたことで感動して、当たり前のことに腹を立てて、『誰か』や『何か』を自然に愛せて、冒険にワクワクする。そんな、普通のアリス少女に憧れていた。

「どうして彼に怪我をさせたの!?」
「私の悪口を言いふらしていたから」

 なぜ?どうして?彼は私のことが嫌いなの?
 そんなことを思うより真っ先に、周りからの評価が変わってしまうことを危惧した。自分の立場をおびやかされると思った。

「――、謝りなさい!!」
「……? どうして?」

 正当防衛でしかないというのに、何が『悪い』のかわからなかった。

「……っ、あなた、やっぱり少し……変わっているわ」
「……」

 私は――……生まれた時から『普通』のものを当たり前にたくさん持っている“お母様”のことが、羨ましかった。



***



「……“死”の……がい、ね、ん……?」

 この男は何を言っているのだろうかと彼の思考回路をうれうべき場面だというのに、脳の隅へ追いやり考えないようにしていた『もしかして』の可能性を真正面から突きつけられたことにより、頭の中が一瞬で真っ白になる。
 言葉を詰まらせた私を見て蜘蛛男は笑みを深くし、「おかわりは?」とティーポットを持ち上げた。

「……ありがとう、いただくわ」
「どういたしまして。それじゃあ……まずは、事のあらましを語ろうか」

 一杯、二杯。彼が角砂糖を投入してくれるたび、小指でリングがキラリと光る。
 そうだ、やっと思い出した。白ウサギの付けていた物にそっくりなんだわ。

「……俺があのダーズベリ教会で初めて見たお嬢さんの姿は、すでに上半身と下半身が真っ二つに別れて意識を失った後だった」
「……」

 あの時のことを改めて『言葉』で説明されただけだというのに、腹部がずくりと熱を持ち胸の奥に不快感が生まれる。
 ああ、そういえば。私は、まだあの男を――……。

「溢れる鮮血、散らばる内臓……俺は最初、とても驚いたよ。『王様でも人をんだ!?』って。感動すら覚えた」
(殺せたんだ、って。どういうこと?)

 躾の名目で私を拷問している時の王は常に冷静で躊躇ためらいがなく、殺人に快楽を見出しているサイコキラーのようにも思えた。
 しかし、蜘蛛男の口ぶりはまるで「赤の王は正しい道徳性を持ち合わせた良心的な人間だ」とでも言いたげで、つい首を傾げてしまう。

「……でも、違った。そうじゃなかった。結局、王様はどこまでもに甘くて、優しい『善人』だったんだ」
「どういうこと……? 彼のどこが優しい善人なの?」

 そのワードを当てはめるための人間としてはあまりにも違和感に溢れており、思わず脳内に浮かんだ疑問をそのまま口から吐き出せば、蜘蛛男は隻眼を細めて少し首を傾けた。
 細かい仕草の一つ一つにも全く不快感が湧いてこない辺り、なんだか不思議な男性である。

「善人だよ。だって彼は、お嬢さんを殺してないんだから」
「いいえ、彼は私を殺している。首を刎ねて、体を裂いて、両手首を切り落としたのよ……!?」
「そうだね~、それは事実だ。でも、“殺して”ないよね?」
「……」

 また謎かけの堂々巡り。
 どうやらこの国の住民は揃いも揃って分かりやすい会話のキャッチボールが不得意みたいね、そろそろ嫌気が差すわ。

「うーん、それじゃあ……俺が見た『奇跡』について話そうか。そうすれば、俺の言葉の意味もわかると思うんだ~」

 ――……奇跡。
 同じ台詞を自称・ユニコーンが口にしたあの時、結局その内訳うちわけについて語ってくれることはなかった。
 故に、たった三文字がいったい何を意味しているのか気になって仕方がない私は、彼の話に黙って耳を傾ける。

「王様が教会の階段を登り、自室に戻った後……それから、俺の城に連れてきた君をベッドに降ろしてから数分後。どちらも、まばたきをした次の瞬間、君の体は元通り~! 床に散らばる内臓や服にこびりついた血は、時間をかけて少しずつ消えていった。そして……真っ青だったお嬢さんの顔に血の気が戻り目を覚ますまで、その間ぴったり三時間」
(三時間……?)
「とても信じられなかったよ……俺はものすごく視力が悪いから『はっきりしっかり見たのか』と聞かれてしまったら自信がなくなるんだけど……それでも、あの光景は確かに“奇跡”だった。それだけは確かだ」

 そういえば、赤の王も「躾の続きはまた三時間後だ」と言っていた。これは偶然の一致なのか、それとも……なにか“意味”があるのだろうか?

「だから、君はただの一度も死んでない。ということはつまり、王様は君を事と同義だ。俺が言ったのは、そういう意味だよ~」
「……」

 瞬間、自身に襲いかかった理解不能な出来事のせいで波打っていた心の中が凪いで、自分はついさっきまで何を狼狽うろたえていたのだろうかと自嘲した。

「……なるほど、そうね。それなら納得だわ。たしかに、赤の王は私を“殺して”いない優しい善人と定義できるわね」
「あれ~? やけに聞き分けが良いんだね?」

 私が今“生きている”理由。それは、死の概念だの『呪い』だの、そんな複雑なものではなく至極単純な話だったというのに。
 もちろん、奇跡なんて大層な事象でもない。

「聞き分けが良い悪いの問題じゃなくて、この地球上にいる限り当たり前の理論よ」
「理論?」
「……“死んだ人間は蘇らない”。乳飲み子でも知っている当然の話でしょう?」

 そうよ、蘇ってたまるものですか。脇役だと指さされ罵られる、あの女――お母様との屈辱的な生活に耐えて耐えて、我慢し続けて、やっとアリスにのに。
 死者が生者に戻るだなんて、そんなこと……例え王の『呪い』で天変地異が起ころうとも、私は絶対に認めない。

「ああ、へえ~……ふふっ、あはははっ! はぁ~……やっぱり君は最高だよ、……」
「……え?」
「ねえ、可愛いお嬢さん。俺と手を組まない?」

 口元に弧を描いたままの蜘蛛男が片手をこちらに差し出した時、どこからか鼓膜を撫でた鐘の音がまるで私をあざけっているようで、込み上げた吐き気にわずかな不快感を覚えた。
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