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第五話 呼び方

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 白ウサギの人差し指を飾り付けている指輪が、どこから差し込んだものかもわからない光を反射してきらりと輝く。

(あ、)

 落ちる――……。
 直感でそう思った時にはすでに、突如蘇った引力が容赦なく私たちの体を引き寄せ始めていた。

「ゔっ……!」

 触発されるかのように、自身の存在を思い出し働き始める重力。先ほどの無重力空間は幻だったのではないかと思えるほどに、私と白ウサギは為す術もなくぐんぐんと下へ落ちていく。風を切る音が心地良い、などと呑気なことを言っている余裕は皆無で、気圧の変化により耳鳴りが絶えず脳を突き刺して不快感は増すばかりだ。

「あははっ、おちていくね!」

 対して、白ウサギは相も変わらず楽しげにからからと笑っている。この状況下で、彼の体にだけはなんの不調も現れていないようだ。
 不意に、びゅんびゅんと耳たぶを弾き通り過ぎていた風の音が消えたかと思えば、私と白ウサギはまるで大きなシャボン玉に包まれているのではと錯覚するほど緩やかで穏やかな、ふわりふわりと空間に漂う降下が始まる。
 そこでようやく、先程までしつこく付きまとってきた嘔吐感や目眩、頭痛が消え、「ふう」と安堵の息を吐いた。
 ふわふわ、ふわり。ああ、たんぽぽの綿毛もこんな気分で空を舞っていたのかしら。

「ああ、そうだ。ボクからも質問していいかな?」
「ええ、いいわよ。なあに?」
「ボクたちは……キミのことを、何て呼んだらいいの?」

 彼岸花で染めたような彼の赤い瞳が、緩やかな弧を描き私を映す。
 私の名前?ええ、そうね。だって……もう、“名乗っても大丈夫”なのよね?

「……アリス。私のことは、『アリス』と呼んで?」
「へぇ、そう……よろしくね、アリス」

 彼の澄んだアルトの声が名前を撫でた瞬間、悦びで全身がぶるりと震えた。下腹の奥から込み上げる感情が胃を通り、口から出かかって一度飲み込む。
 ああ……嬉しい、嬉しい!こんなに最高で幸せな誕生日は初めてよ!

「……さっきの話だけど、」

 同じ速度でぷかぷかと落ちながら、白ウサギは腕を組み、目線を足元へ落としたまま口を開いた。

「さっき?」
「白ウサギなのに黒いとか」
「ああ、その件ね。それがどうしたの?」
「そういう……どうでもいい事に拘っていたら、キミがこれから『不思議の国』で過ごすのは苦労すると思うよ。なんせ……赤の王は筆を持たず、白の王は真っ黒。チェシャ猫は死刑執行を命じられずに人をたぶらかし、芋虫は成長する気が無くダラダラ過ごして、ユニコーンは一角獣じゃないし怒ると手がつけられない。帽子屋は常に飢えていて、グリフォンは威張り散らしているし、滅びたドードー鳥は癇癪を起こし、公爵夫人は鏡が大好き……そんな世界だ」

 淡々と並べられた言葉を頭の中でゆっくりと整理してから飲み込むが、彼がこちらへ投げてくるのは相も変わらず謎かけに似た話ばかりで、そろそろ真面目に相手をするのが馬鹿らしく思えてくる。
 溜め息を堪えて「そうなのね」と当たり障りも面白味も無い返答をすれば、白ウサギはゆっくりと視線をこちらへ向けた。

「もう一つ聞いてもいい?」
「ふふ、貴方も質問が多いわね。良いわよ、なあに?」
「キミは……夢占い、好き?」

 一瞬、脳裏をよぎるお母様の顔。
 ああ、いけない。表情が消えてしまっていないかしら?上手く笑わないと。

「……夢占い? そうね……好きでも嫌いでもないけれど、あまり興味は無いわ。どうして?」
「へぇ、そうか。うんうん、ああ、なるほど。だからだね」

 彼はふいと顔を逸らし片手で顎を撫でながら、自分を納得させるように何度か小さく頷いた後、こちらも見ずに小さな呟きを落とす。

「だからキミは、不思議の国――ワンダーランドへ、堕ちるんだよ」

 堕ち、る……?

「堕ちるって、どういう意味……?」
「あははっ、また質問ごっこ?」

 そんなのおかしいわ。だって、

「だって、不思議の国は……ワンダーランドは、楽園。そのはずよ、そうでしょう?」
「楽園? ああ、うん。そうだね、そうだ。たしかに『住めば都』だね」

 私は真剣な話をしているというのに、白ウサギの的を射ず含みのある物言いが微かに神経を逆撫でした。
 住めば都?そうじゃない。違う、違う。違う!堕ちるだのなんだのと、この真っ黒な白ウサギは何を言っているの?頭がおかしいんじゃないかしら。

「不思議の国は、『アリス』にとっての楽園! そう決まっているのよ! ロリーナ姉さんもそう言っていたのだから間違い無いわ!!」
「それじゃあ……もしも、楽園とは程遠い世界だったら? キミは、どうするの?」
「……そんなの決まってる。私が、楽園へ造り直すのよ」

 お互いにふわふわゆらりと降下しつつ、行き場のない怒りを声に乗せながら睨みつける私を見て、白ウサギは一瞬目を見開き驚いた様子を見せるが、直後に目線を足元へ落とすなり、おかしくてたまらないと言いたげに肩を震わせて笑い始めた。
 少ししてから、ゆっくりと顔の輪郭を辿って私の瞳を捉えるルビー色のビー玉が二つ。彼の口元には、私を嘲笑うような三日月が浮かぶ。

「……キミは、神様にでもなったつもりなの? 今、ボクの目の前に居るのは、ただの『アリス』。そうだろう?」

 売られた言の葉に、買い言葉を返す暇は与えられなかった。

「――……っ!?」

 突然、見えないシャボン玉の外へ放り出された私と白ウサギの体は、再び速度を増して急降下していく。
 ふと足元に目をやれば、いつの間にかすぐそこに着地点と思しき場所が迫っていた。このままでは私も白ウサギも、思い切り地面に叩きつけられた体がゼリーのように潰れて飛び散るのがオチ。二人仲良くお陀仏だ。

(嫌、嫌……! まだ死にたくない!!)
「死にたくない? はっ、面白い事を言うんだな」
「!?」

 突如、脳内に直接響く低い声。
 それが白ウサギのものではないことだけが確かで、

(誰……?)

 着地点で待ち構える黒蛇が一匹。哀れむような眼差しで、静かに私を見上げていた。
 どうしてかしら。なぜ、私はこんなにも……蛇が怖くて仕方ないのだろうか?

「さあ! 着くよ!」
「……っ!!」

 白ウサギの言葉と同時に、刺すような光が私達を包み込み始め、あまりの眩しさに目を開けていられなくなる。
 一瞬、体の中にある何かを引き剥がされるような感覚が全身を襲い、微かな不快感を覚えた時には足が地面に着いていた。……のだが、突然のことで上手くバランスが取れず、どさりと前のめりに倒れこむ。
 そんな私の横で、白ウサギはぴょんと片足で跳ねて軽々しい着地を見せていた。

「痛っ……もっと丁寧に歓迎してくれてもいいじゃない……」

 冷たい床に向かって抱いた素直な文句を口に出しつつ上半身を起こし、口に入った横髪を指先で掬い取っていると、先ほど私達の到着を見届けていた黒蛇が音も無く目の前に現れ、静かに鎌首をもたげる。

(大きい……)

 大蛇と言い表すのはオーバーかもしれないが、目測だけでも体長百五十センチはゆうに超えており、

(あっ、)

 間近に見て初めて気が付く、オッドアイの瞳。その二色の虹彩に自身の姿を映された瞬間、まるで金縛りにでもあったかのように体の自由が奪われた。

「えっ……なん、で」

 喋ることや、目線の移動は不自由なく行える。逆を言えば、“それだけしか”叶わない。そんな私を見て、蛇は嘲るようにちろりと長い舌をのぞかせた。

「残念だけど、ボクに許されているのはここまで。一旦お別れだよ」
「えっ……!?」

 待って、と言いかけてやっと気が付く。今、私たちのいる場所。
 赤の生地に黒でダマスク柄の描かれた壁紙と、天井からぶら下がるシャンデリア、壁一面に所狭しと飾られた振り子時計。
 そう……全て、繰り返し夢で見たあの部屋と同じだ。

「ふふっ」

 息を飲む私を見て白ウサギは機嫌が良さそうな笑みを浮かべ、軽い足取りで部屋の一角にある扉の前へ移動する。

「ま、って……待って、白ウサギ!」
「待たないよ。だって……『不思議の国のアリス』で、白ウサギは『アリス』から逃げるのがお仕事だ」
「そうだけど……! だって、私、どうしたら、」
「そんなに心配しなくても、ボクがこの部屋から出たらキミは動けるようになる。そういうお話だよ」

 白ウサギは淡々と返答しながら片手でドアノブを回すと、扉を引き振り返ってこう言った。

「ああ、そうだ。もう今さら遅いけど……傲岸不遜で愚かで愚鈍な『アリス』に、一つだけ教えておいてあげる。『あの人』……赤の王は、ユニークなジョークが大好きで、嘘つきが大っ嫌い……それじゃあ、またね」

 その言葉の意味を問う前に、バタンと冷たい音を立てて白ウサギの体は扉の向こうへ消えてしまう。
 先ほどの話し通り、彼の姿が見えなくなると同時に手足が動き、体に自由が戻ってきた。

「白ウサギ……!」

 彼が先ほどくぐった扉へ駆け寄りドアノブに手をかけるが、なぜか右にも左にも回すことができない。それならばと、押したり引いたりなんとか開扉を試みるが、一向に開く気配は感じられなかった。

「どうなってるの……」

 まさか、白ウサギが嫌がらせで鍵を掛けたのかしら?十分ありえる話ね。
 ふと、視界の端に黒蛇の尾が映る。それはいつの間にか私のすぐ側へ来ており、驚きと微かな恐怖から二、三歩後ずさってしまった。

「なに? あなた、一体なんなの……?」

 どうしてこんな生物と二人きりにされなければならないのか。もしも毒蛇だったら?噛まれてしまったら?
 そんな事を考えていると、黒蛇はぱかりと口を開いて鋭い牙を見せ、尾の先で大理石の床を一度叩く。瞬間、どこからともなく現れる小瓶と、

「それでは、最初の質問だ。Do you……Drink me?」

 先ほど脳内に響いた――子宮の奥を這うような低い声が、私の鼓膜を揺らした。
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