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第三話 さよなら、アリス

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 物心ついた頃から『不思議の国のアリス』が大好きで、私は『アリス』になりたかった。
 元は二つ歳上の姉さんが持っていた絵本だったが、産まれてから三年も経たない幼い私が手に持ったまま離そうとせず、姉さんが奪い返そうとすれば昼夜問わず泣き喚くものだから、根負けして私に譲ってくれたのだと後から聞かされた。
 あれは確か、私が十歳になってから一週間ほど経った日の夕方。

「ねぇ、姉さん。私はどうやったら、不思議の国の『アリス』になれるの?」

 特別なきっかけも、深い意味も無く、ずっと一人で胸に抱いていた疑問を投げかけた。あの時、姉さんが私の頭を撫でながら落とした言葉を、今でもはっきりと覚えている。
 だって、

「そうね……あなたが十八になっても同じ願いを持っていたら、きっとなれると思うわ」
「十八に、なっても……?」

 姉さんは、嘘つきだったから。
 ね?そうでしょう?私は知っているのよ。不思議の国の『アリス』は、産まれた瞬間からって。
 それでも、

「嘘じゃないわ。十八になっても貴女が『アリスになりたい』と願っていたなら、夢は必ず叶うわ」

 大好きなロリーナ姉さんがそう言うから、私はずっとその言葉を信じて生きてきたのだ。
 そう。“お母様”からどんなに蔑まれても、痛めつけられても、馬鹿にされても。この十八年間ずっとずっと脇役に徹して我慢し続けてきたのだから、もういいでしょう?
 私が不思議の国の『アリス』になっても、許されるはず。

「そうよね? ロリーナ姉さん」
「ええ、勿論よ。貴女はよく我慢したわ。もう、終わりにしましょう。貴女がこれ以上辛い思いをするところなんて、私は見たくない」
「うん、うん……ありがとう、ロリーナ姉さん。大好き」
「ええ、私もよ。これから先、何があっても……大好きよ。それに、」

 あの人は嘘をついた罰を受けるべきだと、ロリーナ姉さんは微笑みを浮かべながら呟いた。



***



 殺し方は、今日この日のためにぬいぐるみでたくさん練習したから大丈夫。無機物の実験台のみでは(本当に上手くできるかしら?)と少しだけ不安になって、飼い猫のダイナでも試してみた。
 なぜダイナを殺したのかと問い詰めてきたお母様に「本当に死ぬのか確かめたかったから」と返した時の表情は、いつ思い出してもおかしくて口元が緩んでしまう。
 図書館へ通い、過去の新聞や殺人鬼の手記を読んで調べると、覚えきれないほどの殺人方法が出てきて少し困ったのだけれど、お陰で一番いい『やり方』を見つける事ができた。
 あとは……今夜、実行に移すだけ。

「さあ、早く早く!」

 道具の入ったポシェットが重くてもたつく私を、白いウサギが急かしてくる。

「ほらほら! こっち!」

 大きな足音を立てないよう、小走りでその後を追えば、辿り着いた先はお母様の寝室だった。

「さあ! 急いで!」

 言われなくても、ちゃんと殺すから大丈夫よ。
 心の中でそう返すと、白いウサギは安心したのかニコリと笑って姿を消した。

「……」

 時刻は午前零時八分。一枚の扉を隔てた向こう側では、お母様が眠っている。
 本当は、少しくらい大きな物音を立てても大丈夫。だって……『彼女』は今、私の淹れた睡眠薬たっぷりの特製ミルクティーを飲んで、呑気に深い眠りへ落ちている最中だもの。
 日頃から私を馬鹿にしているくせに、警戒心の欠片も無いのだからお笑いだ。流石に、ここまであっさりと罠に引っかかってくれるなんて思っていなかったから、少しだけ驚いているのも本当。けれど、その方が私にとっては都合が良い。
 そう、とっても。

「お母様? お邪魔するわね」

 形式だけのノックを済ませ、ゆっくりとドアノブを回して扉を開き、室内へ足を踏み入れた。穏やかな寝息を立ててベッドに横たわる『お母様』のブロンドヘアーは、窓から差し込む月明かりを反射してキラキラと光っている。

(綺麗……)

 そんな彼女の側へ歩み寄り、ベッドサイドに腰掛けた。スプリングがギシリと歪むけれど、お母様はピクリとも反応しない。

「ねぇ、お母様?」

 靴を履いたままベッドへ上がり、馬乗りになってお母様の顔を見下ろしながら、ポシェットからナイフを取り出して枕元に置いた。
 まだよ。まだ、殺してあげたりなんかしない。だって、眠っている間に死ぬだなんて……そんな楽な方法、許せないじゃない。

「そうね、貴女の言うことは最もよ。今まで貴女を苦しめた分、同じように苦しんで死ぬべきだわ」

 ね、ほら。ロリーナ姉さんもこう言っているわ。きちんと殺してあげる。だからお母様、

「早く起きて?」

 声を掛けつつ、バシンバシンと音を立てて二度三度頬を叩けば、お母様はわずかに身動いだ。遅れて、ゆっくりとした動作で瞼が持ち上がり、私と目線が交わった瞬間、まだ微睡まどろみの残る空色の瞳が不安げに揺れる。

「やっと起きた!」
「な、なに……?」

 お母様は首を少し持ち上げてきょろきょろと周囲を見渡してから、ようやく自身の体に私が跨っている事に気づいたらしく、やや呂律ろれつの回っていない口で「何をしているの?」と問い私を見上げた。
 なんだか、まるで……今、私がお母様を支配しているみたい。

「き、聞いているの? ねぇ、一体何の悪ふざけ?」

 ああ、でも。少しだけ耳障り。

「うるさい」

 右手でお母様の頭を押さえつけ、先ほど枕元に置いておいたナイフを左手で取り、肉をさばく時のようにさっと横へスライドさせた。

「えっ……が、っ! ア゛、っな、へ、」
(あれ? まだ声が出せるの?)

 喉を切ってしまえば声が出せなくなると聞いたが、少し傷が浅かったらしい。力加減をした覚えはないし、ダイナの時は上手くできたのだけれど、やはり人体相手となれば少しだけ勝手が違うようだ。
 一度、人間を使って試しておけばよかったかしら。なんて、今さら後悔しても仕方がない。

「ひゅーっ、ひゅーっ……」
「お母様? まだ死なないでね?」

 ベッドから降りて振り返ると、お母様は自分の喉に両手を当てて必死に止血を試みていた。指の隙間から絶えず滴り落ちる雫が、真っ白いシーツをストロベリー柄へ変えていく。
 荒い息を吐き上下するお母様の肩をポンと叩けば、大袈裟なほどに全身がびくりと跳ね、涙の滲む瞳が私を映した。

「ねぇ、逃げないの? このまま大人しく殺されるなんて、お母様も嫌でしょう?」

 そう、まだ殺してあげないわ。まだ、まだよ。お母様の事はとても憎いけれど、焦っちゃいけない。
 このまま緩やかに失血死なんてつまらなくて穏やかな死に方も、絶対に選ばせない。

「……ゔ、っ!!」
「あははっ! そうよ! そうでなくっちゃ!」

 片手で喉を押さえつつ、震える足でベッドから降りたお母様は、走って寝室を飛び出した。
 急いでその後を追うけれど、まだ睡眠薬が体の中に残っているらしく、お母様の足取りはふらふらと千鳥足で安定していない。
 それでも必死に生へ執着して私から逃げようとしている姿が、可笑しくてたまらなかった。

「あはは、ははっ……ねぇ。嘘つきで、意地悪で、私の大事な物を奪った『お母様』?」

 追いかける足は止めず、一度ポシェットにナイフをしまい、代わりに拳銃を取り出して、親指で安全装置を下げる。
 彼女の右足に狙いを定めて引き金を引くと、ドンと大きな音を立てて反動が腕を伝い、

「――!!」

 お母様は、膝からその場に崩れ落ちた。
 ああ、良かった。きちんと当たったみたい。実弾を試したのは初めてだったから、本番で上手くいくか一番心配だったのよ?

「ゔ、ゔ……っ!」

 もう一つ、安心したことがある。今のたった一発でお母様の心が折れて、逃げるのをやめてしまったらどうしようかと思ったのだけれど、そんな心配は無用だったらしい。
 お母様は片足を引きずりながら、匍匐ほふく前進をするようにズルズルと体を這わせて私から逃げ続けていた。

「あははっ! お母様ったら、芋虫みたい!」

 スキップで追いかけながら、お母様の両腕ともう片方の足を弾丸で撃ち抜く。次はどこを撃とうかしらと考えている間に、「ぎゃあ!」と短い悲鳴を上げて、お母様はついに逃げるのをやめてしまった。

「ねぇ? お母様。鬼ごっこはもう終わり? 私、狩人ごっこ、もう少し楽しみたかったんだけど」
「ひゅーっ……ひゅっ……」
「お母様? 聞こえているんでしょう?」

 うつ伏せのまま黙り込んでいるお母様の肩を掴み、無理やり仰向けの体勢に変えてその上にまたがる。
 赤と透明の液体だらけになったお母様の顔に二つ飾られた水色のビー玉だけが、キラキラとしていてとても綺麗だ。

「……じ、っで、」
「なあに? 聞こえないわ」
「ど……どう、じ、っえ……どうじ、で……わだっ、私、ずっお゛……ず、ず、っと……あな、あなだ、を、愛じえ、」
「……」

 ええ、そうね。お母様はずっと、私を愛していてくれたわ。それは本当、嘘じゃない。お母様なりのやり方で、精一杯愛してくれた。多分。
 それなのに、どうして殺すのかって?

「あのね……私はずっと、貴女の死ぬところが見てみたかった。貴女がこの世から居なくなる瞬間を、この目でしっかり確かめたかったの。ううん、出来ればこの手で『そうしてあげたい』と思っていたの。この十八年間……それだけが楽しみで、それだけが目標で。そのためだけに、ずっとずっと我慢してきた」

 手に持っていた拳銃をその辺りに放り投げ、ポシェットからナイフを取り出す。『彼女』はもう抵抗する素振りを見せず、生に縋る気力すら失っているようにも思える。
 この日まで、とても長かった。ああ、最高の誕生日プレゼントだわ。ようやく、私は――……。

「殺さ、な……で……おね、が……、……アリ、」

 最期の瞬間、涙を流しながら花が咲くように微笑んだ彼女は、いったい何を思っていたのか。

「……さよなら、アリス」

 そんな事、私にとってはどうでもいい。
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