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第56編「そんなあなただから、私は」

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 倉本裕一郎という人間は、以前星川ほしかわが語ったように恋幸と出会う数年前までは表情ゆたかなごく普通の男性だった。
 腹を立てれば眉間にしわを寄せ、悲しみを覚えれば表情をゆがめて涙をこらえ、嬉しい時や楽しい時には顔をほころばせながら声を出して笑う。ありふれた生き物だったのである。

 しかし彼はさかいに感情を全て心の内へしまい込み、表情を変えることすらしなくなってしまった。
 だが、氷のように冷たい『倉本裕一郎』でも、その日本人離れした整った顔を見て言い寄る女性は後を絶たなかった。

 マスクをつける際は鼻までおおい、不要なレシートは一度受け取ってゴミ箱に捨て、接客を受けた帰りにはレジで必ず「ありがとうございます」と言う。
 そんな人間の裕一郎は来る者こばまずの精神で、ただの一人として交際の申し出を断らなかったが、『倉本裕一郎』を自身にとってのスペックやアクセサリーとしてカウントする女性達は、彼の外見ばかりを重視して真の内面を見ようとはせず、更には自身の中で創り上げた“理想”を彼に押しつけて、それに応えてくれなければ最後には口を揃えてあざけるのだ。


「クスリともしないし、マネキン相手にしてるみたいで裕一郎のこと見ててもつまんない。最初は素敵だなって思ってたけど、なんか思ってたのと違うし……裕一郎は、生きてて『楽しい』って感じる瞬間ってあるの?」





 ――……昔、そう言われたことがあるから。

 彼の言葉を聞いて、恋幸は瞬間的に湧き上がった様々な感情に胸を押し潰され、咄嗟とっさに声を発することができなかった。

 真っ直ぐに裕一郎を見つめたまま押し黙る恋幸に対し、裕一郎は目に見えない『何か』をえるかのようにほんの一瞬だけ顔を歪めると、すぐにいつもの無表情へ戻り彼女の腰に回していた腕を離す。


「……すみません、配慮に欠けていました。過去の話なんて、貴女にするべきではありませんでしたね。忘れてください」


 そして、握ったままでいた手を緩くほどいて長い指で恋幸の手の甲をついとなぞり、申し訳なさげに目線を外して「そんなことより、」と話題を切り替えようとした。

 だが、


「わっ、忘れられません! 過去の話だって、ご家族のことでも女性関係でもどんどんしてください! あっ、倉本さんが話したくない事は無理に聞き出そうとか思いませんけど……けど! 今、聞いてしまった話を無視するなんて私には無理です!!」


 小日向恋幸という存在は、彼が“臆病者になること”を許さない。

 彼女の小さな両手が裕一郎の頬をそっと包み込み、少し下から覗き込んでくる色素の薄い茶色の瞳と強制的に視線が交わった。
 その目には今にも泣き出しそうな色がじわりとにじんでおり、裕一郎は若干じゃっかんの焦りに襲われる。


「小、日向さん、」
「倉本さんが昔、誰にそんなひどいこと言われたのか私にはわかりませんけど! その……っ、私は! 倉本さんを見ていて『つまらない』と感じたことなんて一度も無いし、これから先も絶対に感じない自信がありますし、それに……! いつもいつも、倉本さんを見ているだけで幸せな気持ちでいっぱいになります!!」
「――っ!!」


 ――……ぐらり。
 彼の視界が揺れたのは、恋幸から向けられた純真な想いのせいか? それとも。


「……えへ。あの、ごめんなさい。ちょっと、カッとなって、一気にワーって言っちゃいました……その、でも、倉本さんが不安になる気持ちもわかるんです。だから、あんな風に聞いてきた倉本さんを責めるつもりは全然ありません。私だって、」
「……私だって?」
「あっ、」


 しまった、と言いたげな顔で彼の頬から両手を離した後、恋幸は十数秒かけてゆっくり目を逸らし背筋に冷や汗を伝わせる。

 裕一郎が投げた問いを「何でもありません」と有耶無耶うやむやにする選択は、もちろん彼女の中にもつい先ほどまで存在していた。
 しかし、ここまで好き放題に言っておいて自分だけが知らん顔で安全地帯に逃げる道を『小日向恋幸』という生き物が選べるわけもなく。

 更に言えば、倉本裕一郎愛する人を前にした彼女はいつにも増して嘘がつけないのだから、


「私、」


 その口が話の続きをつむぎ始めるのは、もはや決定事項のようなものだ。

 恐る恐るといった様子で裕一郎を映した瞳が不安げに揺れるのを見て、彼はできる限り口元に笑みを作り恋幸の頭を優しく撫でる。


「……倉本さんがいっぱい優しくしてくれたり、好きって言ってくれた時。すごく嬉しくて幸せなのに、怖くなります。だって……私には、大切にしてもらえるような価値なんてないから」
「……」


 弱々しい声で落とされた言葉の意味を脳が理解した瞬間、裕一郎は強い既視感に襲われた。
 そして、自分の意志とは無関係に口が開かれ、


「私は……『貴女だから』優しくしたいと思いますし、いとおしいと感じるんです。他の『誰か』じゃ意味が無い」


 まるであらかじめ“伝えるべき事”を知っていたかのように、頭で考えるより先に想いが唇を割って溢れ出る。


「貴女の価値観を否定する気はありません。怖いと感じさせてしまっているのなら、どうすれば怖くなくなるか私に教えてください。これから、少しずつ……ね?」


 ――……瞬間。裕一郎に、和臣かずあきの姿が重なった。


『そのために、たくさん話しをしよう? だから幸音ゆきねさん。価値が無いだなんて、悲しいことを言わないで。貴女が自分自身をどう思っていても、私にとって幸音さんは――……』


 彼の声も、表情も。空いた窓から風にのって漂う金木犀きんもくせいの香りも。約100年前に見た光景が、全て鮮明に蘇る。


「貴女が自分自身をどう思っていても、私にとっての小日向さんは何者にも代えがたい存在ですよ」
「……っ、」


 込み上げた涙は、彼女が何か考える前に頬を伝い落ちていった。
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