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第48編「忘れ物、渡さなきゃいけないのに」
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あの後、裕一郎に連れて来られたのはビルの最上階にある社長室だった。
東西南北の四方向のうち2ヶ所が床から天井まで全面ガラス張りになっており、部屋の奥にどんと構える立派なデスクの前には、恐らく来客用であろう合成皮革で出来た3人掛けサイズの黒い応接ソファが2つ。センターテーブルを挟んで互いに向き合う形で置かれている。
部屋の隅に置かれたポールハンガーには見覚えのある裕一郎のジャケットが掛けられており、紛れもなく彼が『代表取締役』であると理解させられてしまった瞬間、一気に湧き上がった緊張感で恋幸の体は動かなくなってしまった。
「……」
「!!」
しかしそんな彼女の心情を知ってか知らずか、裕一郎は大きな手で彼女の頭を優しく撫でると、ひどく穏やかな声で「どうぞ、座ってください」と言って後ろ手に扉を閉め、口の端をほんの少しだけ持ち上げて見せる。
そのおかげで一時的に緊張のほぐれた恋幸は、彼の言葉に甘えてそろそろと移動して応接ソファに腰を下ろした。
「わっ!?」
……のだが。
ウレタン素材の“それ”は彼女が思っていたよりも柔らかく、想像以上に体が深く沈み込んだことで足が地面から離れてしまう。
慌てて体勢を整えたものの、反射的に大きな声を出してしまった恥ずかしさから太ももに両手を置いたまま俯く恋幸を、裕一郎は咎めるでも嘲笑うでもなく「ふ」と小さく息を吐いてからおもむろに歩み寄り頭にぽんと片手を置いた。
「紅茶と珈琲と緑茶。どれがいいですか?」
「りょ、緑茶がいいです……」
「アイス? ホット?」
「……ぬるめで……」
「わかりました。少し待っていてください」
◇
社長室内に設置された入り口から行き来できるようになっている真隣の部屋――恐らく専用の給湯室だと思われるが、その向こう側へ姿を消した裕一郎は、約5分ほど経った頃にマグカップが2つ載った丸いトレーを片手に戻って来る。
そして、一切バランスを崩すことなく恋幸の隣に腰掛けると、センターテーブルの上にトレーを置いてから緑茶の入っているマグカップを彼女の前に差し出した。
「どうぞ」
「あっ、ありがとうございます……!」
社長直々に淹れて頂けるなんて光栄です、お手を煩わせてすみません!
喉まで出かかったその言葉を、恋幸はふと我に返って飲み込み、胃の中で溶かしながら静かに裕一郎の横顔へ目線を向ける。
(……多分、違う)
何となくの“直感”でしかないが、彼は恋幸に『社長』として扱われることを望んでいない。そんな風に思ったのだ。
きっと『倉本裕一郎』という一人の人間として、今まで通りに接してほしい。そう考えているのではないだろうか? と。
「……? どうかしましたか?」
「……! な、何でもないです! あの、お茶、ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして」
「いただきます」
「はい、どうぞ」
――……結果的に、恋幸の推測は正しいものだった。
背もたれに体を預けて珈琲の入ったカップを口元へ運ぶ裕一郎はいつも以上に穏やかな声で言葉を紡ぎ落とし、珍しいことに、彼の口元に浮かんだ三日月は彼女が瞬きを5回して緑茶を飲み終えた後もその形を保ったままである。
元々、彼の顔が人並み以上に整っていることもあって、黙って微笑みを浮かべているだけでもとても絵になり、恋幸の瞳は釘付けになってしまった。
「……なにか?」
自身に向けられている熱い眼差しに気づいたらしい裕一郎は、手に持っていたカップをゆっくりとした動きでセンターテーブルに置いてから体ごと恋幸に向き直り、少し首を傾けつつ長い指で彼女の頬を撫でる。
「……っ!? な、なんでもない、です……けど、」
「けど?」
途端に赤く染まっていく恋幸の頬を彼の冷たい指先がついと這って、眼鏡の奥にある空色の瞳は彼女の反応を楽しむかのように細められた。
恋幸は心臓がばくばくと高鳴るのを感じながら、頬に添えられたままでいる彼の手に自分の“それ”を重ねて、微かに震える唇を持ち上げる。
「……倉本さんは、かっこいいなって……大好きだなって、思っていただけです」
「……」
彼女の返答を聞いた瞬間、呆気にとられたかのように目を丸くして動きを止めた裕一郎は、数秒後に「はあ」と大きなため息を吐いて立ち上がり、恋幸の方を一度も振り返ることなく入り口へ向かうと、扉の前に立ってもう一度ため息を溢した。
恋幸には彼の行動が何を意味するのか瞬時に理解することなど困難で、不快にさせてしまったのだろうか? という不安に駆られたまま眉根を寄せて「倉本さん」と愛しい人の背中に呼びかける。
「……ああ、すみません。大丈夫ですよ。不快になったわけではありませんから」
そう言いながらも、裕一郎は今だに恋幸の方を振り返ろうとはしない。
「でも、」
「むしろ、逆ですよ」
彼女の言葉に被さって、なぜか温度を感じさせない彼の声が淡々と言葉を紡ぎ落とした。
同時に――……カチャン、と金属のぶつかるような音が二人きりの室内に小さく響き、裕一郎はようやく恋幸の方を向く。
「逆、って……」
その顔は先ほどまでとは打って変わって普段通りの無表情へ戻ってしまっているというのに、唯一決定的に“違う”ものがあった。
「……っ、」
ゆっくりとした足取りで再び恋幸のそばに戻って来た裕一郎は、先ほどまでと同じようにすぐ隣へ腰を下ろすと、彼女が今だに両手で抱えていたマグカップを優しく奪い取ってセンターテーブルへ置き、片手で彼女の肩をとんと押す。
何の警戒もしていなかったせいでその体はいとも簡単に後方へ倒れ、ソファの柔らかなクッション素材が恋幸の背中を受け止めた。
視界には綺麗な天井が広がっており、裕一郎が覆い被さるような体勢で顔を近づけると、恋幸は反射的に肩をすくめる。
「本当に、貴女は可愛い人ですね。少し困ります」
「えっ、こ、困るんですか……?」
「……歯止めが効かなくなりそうで、困ります」
そう言って唇を塞いだ彼の瞳は、まるで獲物を前にした猛獣のような色を浮かべていた。
東西南北の四方向のうち2ヶ所が床から天井まで全面ガラス張りになっており、部屋の奥にどんと構える立派なデスクの前には、恐らく来客用であろう合成皮革で出来た3人掛けサイズの黒い応接ソファが2つ。センターテーブルを挟んで互いに向き合う形で置かれている。
部屋の隅に置かれたポールハンガーには見覚えのある裕一郎のジャケットが掛けられており、紛れもなく彼が『代表取締役』であると理解させられてしまった瞬間、一気に湧き上がった緊張感で恋幸の体は動かなくなってしまった。
「……」
「!!」
しかしそんな彼女の心情を知ってか知らずか、裕一郎は大きな手で彼女の頭を優しく撫でると、ひどく穏やかな声で「どうぞ、座ってください」と言って後ろ手に扉を閉め、口の端をほんの少しだけ持ち上げて見せる。
そのおかげで一時的に緊張のほぐれた恋幸は、彼の言葉に甘えてそろそろと移動して応接ソファに腰を下ろした。
「わっ!?」
……のだが。
ウレタン素材の“それ”は彼女が思っていたよりも柔らかく、想像以上に体が深く沈み込んだことで足が地面から離れてしまう。
慌てて体勢を整えたものの、反射的に大きな声を出してしまった恥ずかしさから太ももに両手を置いたまま俯く恋幸を、裕一郎は咎めるでも嘲笑うでもなく「ふ」と小さく息を吐いてからおもむろに歩み寄り頭にぽんと片手を置いた。
「紅茶と珈琲と緑茶。どれがいいですか?」
「りょ、緑茶がいいです……」
「アイス? ホット?」
「……ぬるめで……」
「わかりました。少し待っていてください」
◇
社長室内に設置された入り口から行き来できるようになっている真隣の部屋――恐らく専用の給湯室だと思われるが、その向こう側へ姿を消した裕一郎は、約5分ほど経った頃にマグカップが2つ載った丸いトレーを片手に戻って来る。
そして、一切バランスを崩すことなく恋幸の隣に腰掛けると、センターテーブルの上にトレーを置いてから緑茶の入っているマグカップを彼女の前に差し出した。
「どうぞ」
「あっ、ありがとうございます……!」
社長直々に淹れて頂けるなんて光栄です、お手を煩わせてすみません!
喉まで出かかったその言葉を、恋幸はふと我に返って飲み込み、胃の中で溶かしながら静かに裕一郎の横顔へ目線を向ける。
(……多分、違う)
何となくの“直感”でしかないが、彼は恋幸に『社長』として扱われることを望んでいない。そんな風に思ったのだ。
きっと『倉本裕一郎』という一人の人間として、今まで通りに接してほしい。そう考えているのではないだろうか? と。
「……? どうかしましたか?」
「……! な、何でもないです! あの、お茶、ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして」
「いただきます」
「はい、どうぞ」
――……結果的に、恋幸の推測は正しいものだった。
背もたれに体を預けて珈琲の入ったカップを口元へ運ぶ裕一郎はいつも以上に穏やかな声で言葉を紡ぎ落とし、珍しいことに、彼の口元に浮かんだ三日月は彼女が瞬きを5回して緑茶を飲み終えた後もその形を保ったままである。
元々、彼の顔が人並み以上に整っていることもあって、黙って微笑みを浮かべているだけでもとても絵になり、恋幸の瞳は釘付けになってしまった。
「……なにか?」
自身に向けられている熱い眼差しに気づいたらしい裕一郎は、手に持っていたカップをゆっくりとした動きでセンターテーブルに置いてから体ごと恋幸に向き直り、少し首を傾けつつ長い指で彼女の頬を撫でる。
「……っ!? な、なんでもない、です……けど、」
「けど?」
途端に赤く染まっていく恋幸の頬を彼の冷たい指先がついと這って、眼鏡の奥にある空色の瞳は彼女の反応を楽しむかのように細められた。
恋幸は心臓がばくばくと高鳴るのを感じながら、頬に添えられたままでいる彼の手に自分の“それ”を重ねて、微かに震える唇を持ち上げる。
「……倉本さんは、かっこいいなって……大好きだなって、思っていただけです」
「……」
彼女の返答を聞いた瞬間、呆気にとられたかのように目を丸くして動きを止めた裕一郎は、数秒後に「はあ」と大きなため息を吐いて立ち上がり、恋幸の方を一度も振り返ることなく入り口へ向かうと、扉の前に立ってもう一度ため息を溢した。
恋幸には彼の行動が何を意味するのか瞬時に理解することなど困難で、不快にさせてしまったのだろうか? という不安に駆られたまま眉根を寄せて「倉本さん」と愛しい人の背中に呼びかける。
「……ああ、すみません。大丈夫ですよ。不快になったわけではありませんから」
そう言いながらも、裕一郎は今だに恋幸の方を振り返ろうとはしない。
「でも、」
「むしろ、逆ですよ」
彼女の言葉に被さって、なぜか温度を感じさせない彼の声が淡々と言葉を紡ぎ落とした。
同時に――……カチャン、と金属のぶつかるような音が二人きりの室内に小さく響き、裕一郎はようやく恋幸の方を向く。
「逆、って……」
その顔は先ほどまでとは打って変わって普段通りの無表情へ戻ってしまっているというのに、唯一決定的に“違う”ものがあった。
「……っ、」
ゆっくりとした足取りで再び恋幸のそばに戻って来た裕一郎は、先ほどまでと同じようにすぐ隣へ腰を下ろすと、彼女が今だに両手で抱えていたマグカップを優しく奪い取ってセンターテーブルへ置き、片手で彼女の肩をとんと押す。
何の警戒もしていなかったせいでその体はいとも簡単に後方へ倒れ、ソファの柔らかなクッション素材が恋幸の背中を受け止めた。
視界には綺麗な天井が広がっており、裕一郎が覆い被さるような体勢で顔を近づけると、恋幸は反射的に肩をすくめる。
「本当に、貴女は可愛い人ですね。少し困ります」
「えっ、こ、困るんですか……?」
「……歯止めが効かなくなりそうで、困ります」
そう言って唇を塞いだ彼の瞳は、まるで獲物を前にした猛獣のような色を浮かべていた。
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