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第42編「何度言っても足りないくらいです」

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 閨事ねやごと、まぐわい。その言葉の意味を、裕一郎は冷静に推測した。

 自分の知識と、恋幸が発言した意図の間に齟齬そごが生まれていなければ、それらはつまり『性行為』を意味している。
 そして、要約すれば「貴方と性行為におよぶ夢を見て避けていました」と暴露されている事になってしまうわけだが、いくら彼女が(表情など含めて)素直な人間といえど、まさかそこまで直球に言葉をぶつけたりしないだろう……と考えた裕一郎の目に映ったのは、沈みかけた太陽を思わせる赤色で頬を染める恋幸の姿だった。

 どこまでも嘘がつけない彼女を見て裕一郎は心の中で「ああ、なるほど」と頷き、つい口から出そうになった笑いをぐっと噛み殺して平静を装う。


「……」


 目の前で体を縮こまらせたまま眉根を寄せる恋人に対してどう返答するのが正解だろうかと頭を働かせつつ、彼は上半身を少し屈めて首をわずかにかたむけながら口を開いた。


「小日向さん、」
「……っ、ごめんなさい」


 しかし、裕一郎の声に被せる形で恋幸が突然の謝罪をこぼした事により、彼はその先に繋げようとした言葉を急遽きゅうきょ変更してセリフの尻に疑問符を飾る。


「どうして謝るんですか?」
「だ、って……はしたない女で、すみません……っ」


 かすかに震える恋幸の声は終わりにかけて小さくなり、色素の薄い茶色の瞳にわずかばかり涙が滲んできらりと光を弾いた。

 ――……はしたない女。
 そのワードもさることながら、先ほどから彼女が見せる挙動の一つ一つが、裕一郎の加虐心かぎゃくしんあおって仕方がない。

 小動物のように素直な反応を見せる恋幸に対し、「可愛らしい」と思っているのは確かだ。
 だが、裕一郎も一人の“男”である手前、好きな子ほどいじめたくなってしまうのはもはや『本能』のようなものである。


「……はしたなくても、可愛いですよ」
「えっ、」


 頭に浮かんだままの感想を言葉にすれば、恋幸は一、二歩ふらりと後ずさって裕一郎の視線から逃げるかのように顔を逸らした。
 けれどそれもほんの数秒で、彼女の目線は慌てた様子で裕一郎の瞳を再び真っ直ぐとらえる。

 その挙動から、彼は恋幸が今なにを思い・どうして行動したのか手に取るように理解できてしまい、心を素手で逆撫でされたかのような感覚が脳髄のうずいに駆け巡った。


(だめだめ! 目線、逸らしちゃだめ! 裕一郎様がせっかく喜んでくれたんだから、恥ずかしくてもちゃんと顔を見なきゃ……っ!)
「……はぁ」
「……? 倉本さん?」


 一言で表すならば――……あおられる。
 無意識に溜め息がこぼれ落ちてしまうほど、彼女の細かな反応全てがいとも簡単に裕一郎の理性を削ぎ落としていくのだ。

 もっと違う反応を見てみたい、意地悪をしてみたい。こんな劣情れつじょういだくのは、裕一郎にとって初めての事だった。


「小日向さんは、」


 言いながら、彼は一歩前に出て片手で恋幸の腰を抱き寄せる。
 たったそれだけで「ひゃわ」などとおかしな声を上げ肩をすくませる彼女の姿に、裕一郎は喉の奥で小さく笑い、空いている方の手で顔の輪郭をなぞった。


「もう聞き飽きたかもしれませんが、本当に可愛い人ですね」
「!!」


 彼が溜め息混じりにそう言った瞬間、恋幸は目を大きく見開き、陸に打ち上げられた魚かのように口をパクパク動かして息を吸う。

 それから「あえ」だの「う」だのと声にならない声を漏らした後、ごくりと音がつきそうな勢いでつばを飲み込んで両手のこぶしを握り締めた。


「きっ、聞き飽きたりなんかしません!! 何回言われても照れますけどその度にたくさんたくさん嬉しくなってます!!」


 息継ぎもせずにそう言い放った恋幸は、先ほど作ったばかりの拳2つを腰に当ててなぜか誇らしげに胸を張る。

 今度は裕一郎が目を見開く番だったが、丸められた空色の瞳はすぐに緩やかなえがく。


「……ふ」
「えっ? 笑っ、」
「笑っていません」
「そ、そうですか?」


 おかしいなぁと言いたげな顔で恋幸が首を傾げるが、裕一郎はいつもの無味な表情で「そうですよ」と頷き彼女の頬を撫でた。

 そして、


「キスしてもいいですか?」


 挨拶でもするかのような気軽さで爆弾を投下する。


「きっ……!? な、なんで、」
「なんで? 貴女が可愛らしかったので、キスしたいと思いました。ですが、無理強いするつもりは」
「無理強いどころかとびきりのご褒美です!!」


 恋幸が必死になって反論すると、裕一郎は口の端をほんの少しだけ持ち上げて、眼鏡の奥にある空色の瞳に優しい色をにじませた。


「それは良かった」
「こ、こちらこそ……?」
「……では、」


 そこで言葉を切った裕一郎が、恋幸の頬に触れていた手を移動させてそっと顎を持ち上げる。

 ――……キスされる。
 彼女がぎゅうと固く目を閉じた、その時。


「……臭い」
「え!? ごめんなさい!!」
「いえ、小日向さんは良い匂いですよ。そうではなくて……焦げ臭くないですか?」


 言われてみれば、と振り返った恋幸の目に映ったのは、見るも無惨な姿に変わり果てた元・フレンチトーストの姿だった。

 真っ黒なその物体は、断末魔のようにシュウシュウ音を立てて彼女に助けを求めている。


「忘れてた……!!」


 慌ててコンロの火を止める恋幸の耳元に口を寄せ、裕一郎はのんびりとしたトーンで低く囁いた。


「小日向さん、はまた後で」
「は、い……」


 反射的にそう返してしまった恋幸の頭を、彼の大きな手がぽんと撫でる。


(続き、って……)


 淡く期待してしまう脳みそが、彼女の鼓動を甘く加速させていった。
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