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第41編「簡明直截な人ですね」
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時刻は午後12時2分。
何度目かになる溜息を吐いた恋幸は、手元のフライパンに目線を落としフライ返しの先で食パンの側面をつつく。
彼女しかいないキッチンでは甘ったるい香りがふわりと漂い、均等に切り分けられ卵の服で身を包む食パンたちは、時間をかけてゆっくりとフレンチトーストへ変化していた。
(理由があっても、あんな態度とるなんて全然“イイオンナ”じゃない……早く謝らなきゃ……)
恋幸の脳みそがこれまた何度目かになる反省会を開き始めると同時に、深い溜息が再び唇からこぼれ落ちる。
あれから裕一郎は部屋に篭ったままで、対する彼女もいまいち自分から突撃する勇気が出ず、洗濯物の片付けや風呂場の掃除に没頭している間に昼御飯の時間を迎えてしまった。
しかし、時が経つほど罪悪感は増すばかり。恋幸は、肝心な時に限って積極性を欠く自分自身がひどく嫌になる。
「はぁ……」
いつもなら、こんな時は執筆作業に集中して気を紛らわせるのだが、今回ばかりはどうにも裕一郎の事が気になって仕方なかった。
夢の中で自身を翻弄した彼と、現実に居る愛おしい彼。その2人が『似て非なる者』だと理解できているのは恋幸の“心”だけで、単純な脳みそは夢で見た光景を何度も再生し、恥ずかしさで彼女の精神を掻き乱す。
「……裕一郎様、怒ってるかな……」
「小日向さん」
不安が無意識に唇から落ちたタイミングで、恋幸の耳を低く穏やかな声音が撫でて、彼女は大袈裟なほどに肩を跳ねさせたあとフライ返しを持ったまま勢いよく振り返った。
そこにはつい先ほど名前を呼んだばかりの愛しい恋人の姿があり、喜びで頭の芯が震えたのも束の間に恋幸は顔を俯かせて自身のスカートを片手でぎゅっと握りしめる。
(なにか、なにか言わなきゃ……違う、まず謝らなきゃ)
「……私は……以前、貴女にもらった『私のせいで不快になる事は絶対にない』という言葉をちゃんと覚えていますし、信じています」
「!!」
躊躇うかのようにゆっくりと紡ぎ落とされたそのセリフを脳が理解した瞬間、恋幸はぱっと顔を上げて目の前の彼を見た。
普段の無表情はどこへやら……裕一郎は困ったように眉を下げ、口の端を少しだけ引いて彼女の頬をそっと撫でる。
その様子から、彼の心情を察することはあまりにも容易なことだった。
「……っ、くらも、と、さん」
早く事情を説明して謝罪しなければならない。そう思うほどに、罪悪感が喉を詰まらせる。
今日初めて交わった目線の先にある空色の瞳が、恋幸の声に呼応してわずかに揺らぎ、眩しそうに細められた。
「よかった……やっと、貴女の顔を見ることができました」
「やっと、って……えへ……あれからまだ、4時間くらいしか経ってませんよ」
彼の声音はあまりにも穏やかで、ほとんど反射的に可愛らしくない言葉が恋幸の口からポトンと落ちてしまう。
しかし“それ”に対して裕一郎の表情が陰ることはなく、眼鏡の奥で恋幸を映すアクアマリン色のビー玉が本心を見透かしているかのような錯覚に陥らせた。
「十分ですよ。4時間も、貴女の目を見て話すことができなかった」
(……ああ、私)
頭の中で彼と自身の立場を入れ替えて、もしも自分が同じ状況に立たされたらどう思うだろうかと考える。
裕一郎を避けてしまったのは、もちろん理由あっての事だ。だがそれを知っているのは恋幸本人のみであり、裕一郎には一切の非がなく、説明どころか言い訳の一言も投げていない。
もし、もしも。彼に同じ事をされたら? 心当たり無く、急に目を合わせてもらえないようになったら?
ほんの数秒想像しただけで、恋幸の心は張り裂けそうだった。
「……ごめんなさい……」
そして、気がつけば謝罪が唇をすり抜けて、目尻にじわりと涙が浮かぶ。
しかし間違ってもここで自分が泣き出してはならない・そんなことは今するべきではないとすぐさま判断を下した彼女は、むんと気張って唇にありったけの力を込めた。
「どう、しました……?」
突然フライ返し片手に百面相を始められ、さすがの裕一郎も戸惑いを隠しきれない。
「その、避けてしまって……ごめんなさい。あの、でも! 倉本様……倉本さんも言った通り、私は倉本さんのせいで不快になったりなんかしません! これには深い訳があって、」
必死に言葉を紡ぐ恋幸を見て、裕一郎は話の腰を折ることなくただ静かに「はい」と頷いた。
彼女の背後で、フレンチトーストが申し訳なさそうにジュウと声を上げる。
「あの、えっと……」
裕一郎は音の方へちらりと目線をやったものの、どうやら恋幸の耳には届いていないようだった。
なぜなら、今の彼女の頭の中は「裕一郎を傷つけてしまった事に対して詫びなければならない」という使命感で満たされており、
「はっきり申し上げますと! 倉本さんと閨事を……まぐわう夢を見てしまって……!!」
仮にもプロのライトノベル作家でありながら、オブラートを用意するどころか言葉を選ぶ余裕すら失っていたからである。
「……まぐわう」
「はい! は……あっ、」
驚きを通り越してひたすら反応に困り続ける裕一郎は、殺風景な表情を浮かべていた。
何度目かになる溜息を吐いた恋幸は、手元のフライパンに目線を落としフライ返しの先で食パンの側面をつつく。
彼女しかいないキッチンでは甘ったるい香りがふわりと漂い、均等に切り分けられ卵の服で身を包む食パンたちは、時間をかけてゆっくりとフレンチトーストへ変化していた。
(理由があっても、あんな態度とるなんて全然“イイオンナ”じゃない……早く謝らなきゃ……)
恋幸の脳みそがこれまた何度目かになる反省会を開き始めると同時に、深い溜息が再び唇からこぼれ落ちる。
あれから裕一郎は部屋に篭ったままで、対する彼女もいまいち自分から突撃する勇気が出ず、洗濯物の片付けや風呂場の掃除に没頭している間に昼御飯の時間を迎えてしまった。
しかし、時が経つほど罪悪感は増すばかり。恋幸は、肝心な時に限って積極性を欠く自分自身がひどく嫌になる。
「はぁ……」
いつもなら、こんな時は執筆作業に集中して気を紛らわせるのだが、今回ばかりはどうにも裕一郎の事が気になって仕方なかった。
夢の中で自身を翻弄した彼と、現実に居る愛おしい彼。その2人が『似て非なる者』だと理解できているのは恋幸の“心”だけで、単純な脳みそは夢で見た光景を何度も再生し、恥ずかしさで彼女の精神を掻き乱す。
「……裕一郎様、怒ってるかな……」
「小日向さん」
不安が無意識に唇から落ちたタイミングで、恋幸の耳を低く穏やかな声音が撫でて、彼女は大袈裟なほどに肩を跳ねさせたあとフライ返しを持ったまま勢いよく振り返った。
そこにはつい先ほど名前を呼んだばかりの愛しい恋人の姿があり、喜びで頭の芯が震えたのも束の間に恋幸は顔を俯かせて自身のスカートを片手でぎゅっと握りしめる。
(なにか、なにか言わなきゃ……違う、まず謝らなきゃ)
「……私は……以前、貴女にもらった『私のせいで不快になる事は絶対にない』という言葉をちゃんと覚えていますし、信じています」
「!!」
躊躇うかのようにゆっくりと紡ぎ落とされたそのセリフを脳が理解した瞬間、恋幸はぱっと顔を上げて目の前の彼を見た。
普段の無表情はどこへやら……裕一郎は困ったように眉を下げ、口の端を少しだけ引いて彼女の頬をそっと撫でる。
その様子から、彼の心情を察することはあまりにも容易なことだった。
「……っ、くらも、と、さん」
早く事情を説明して謝罪しなければならない。そう思うほどに、罪悪感が喉を詰まらせる。
今日初めて交わった目線の先にある空色の瞳が、恋幸の声に呼応してわずかに揺らぎ、眩しそうに細められた。
「よかった……やっと、貴女の顔を見ることができました」
「やっと、って……えへ……あれからまだ、4時間くらいしか経ってませんよ」
彼の声音はあまりにも穏やかで、ほとんど反射的に可愛らしくない言葉が恋幸の口からポトンと落ちてしまう。
しかし“それ”に対して裕一郎の表情が陰ることはなく、眼鏡の奥で恋幸を映すアクアマリン色のビー玉が本心を見透かしているかのような錯覚に陥らせた。
「十分ですよ。4時間も、貴女の目を見て話すことができなかった」
(……ああ、私)
頭の中で彼と自身の立場を入れ替えて、もしも自分が同じ状況に立たされたらどう思うだろうかと考える。
裕一郎を避けてしまったのは、もちろん理由あっての事だ。だがそれを知っているのは恋幸本人のみであり、裕一郎には一切の非がなく、説明どころか言い訳の一言も投げていない。
もし、もしも。彼に同じ事をされたら? 心当たり無く、急に目を合わせてもらえないようになったら?
ほんの数秒想像しただけで、恋幸の心は張り裂けそうだった。
「……ごめんなさい……」
そして、気がつけば謝罪が唇をすり抜けて、目尻にじわりと涙が浮かぶ。
しかし間違ってもここで自分が泣き出してはならない・そんなことは今するべきではないとすぐさま判断を下した彼女は、むんと気張って唇にありったけの力を込めた。
「どう、しました……?」
突然フライ返し片手に百面相を始められ、さすがの裕一郎も戸惑いを隠しきれない。
「その、避けてしまって……ごめんなさい。あの、でも! 倉本様……倉本さんも言った通り、私は倉本さんのせいで不快になったりなんかしません! これには深い訳があって、」
必死に言葉を紡ぐ恋幸を見て、裕一郎は話の腰を折ることなくただ静かに「はい」と頷いた。
彼女の背後で、フレンチトーストが申し訳なさそうにジュウと声を上げる。
「あの、えっと……」
裕一郎は音の方へちらりと目線をやったものの、どうやら恋幸の耳には届いていないようだった。
なぜなら、今の彼女の頭の中は「裕一郎を傷つけてしまった事に対して詫びなければならない」という使命感で満たされており、
「はっきり申し上げますと! 倉本さんと閨事を……まぐわう夢を見てしまって……!!」
仮にもプロのライトノベル作家でありながら、オブラートを用意するどころか言葉を選ぶ余裕すら失っていたからである。
「……まぐわう」
「はい! は……あっ、」
驚きを通り越してひたすら反応に困り続ける裕一郎は、殺風景な表情を浮かべていた。
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