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第35編「どうか夢ではありませんように」

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 恋幸の心臓は爆発寸前であった。
 あれから屋敷内を5分ほど迷った後なんとか裕一郎の部屋に辿り着くことができたものの、彼に言われた通り「それじゃあ、お先に! おやすみなさい!」とすんなりとこにつくことなどできるはずもなく。

 暗所恐怖症の彼女を想ってなのか彼の部屋はあらかじめ電気が点いており、足元には昨夜と同じように敷布団が2組セッティングされていた。
 どのような態度で裕一郎を待つべきか? 恋幸が室内をうろちょろしながら考えている間にずいぶん時間が経ってしまっていたらしく、かすかな足音がこちらへ近づいてくるのを察知した彼女はなかばスライディングするような動きで自分用の布団の上に澄まし顔で正座する。


「お待たせしました」
「おっ、おかえりなさい!」
「はい、ただいま。……何かありましたか?」
(着流し姿の裕一郎様、いつ見ても人間国宝だなぁ……)


 ……しかし、感情が表情に出てしまう恋幸にしっかりと『澄まし顔』が維持できるはずもなく。
 ふすまをスライドさせて姿を表した裕一郎は、後ろ手に戸を閉めつつ彼女の顔を見て首を傾げた。


「なな、なんでもないです!」
「……そうですか」
(あれ……?)


 床の間で投げられた意味深な言葉により様々な妄想が脳みそを侵食していた恋幸に反して、拍子抜けするほど態度が変わらない彼。
 混乱する彼女をよそに、裕一郎は優雅な動きで下半身を布団に潜り込ませると眼鏡を外して枕元に置き、一言断りを入れてから電気のリモコンを操作して常夜灯じょうやとうに切り替えてしまう。


「では、おやすみなさい」
「は、はい。おや……」


 現在の時刻は午後11時13分。
 挨拶につられかけたが、このままでは全くおやすめない状況だった。


「あの! 待ってください!」
「……? どうかしましたか?」
「そ、その……しりとり! しませんか!?」
「今からですか? しませんよ」
「えへ、ですよね! すみません……」


 恋幸が咄嗟とっさに口から落としてしまった意味不明な提案は、当たり前ではあるがあっさり断られてしまう。
 はじめは羞恥心を笑って誤魔化した彼女だったが、すぐに「いえ、そうではなくて」と頭を左右に振ってから上半身をひねって裕一郎の方を向いた。


「き、聞きたいことが、あるんです。だから……まだ、寝ないでほしくて……その、10分間だけ、倉本様の時間をください」
「……たった10分で良いんですか? 私という一個人の持つ『時間』は、いつでも小日向さんだけのものでしかないつもりなのですが」
(ほ~っ!?)


 少女漫画さながらのセリフを浴びせられ、恋幸はときめく一方である。

 良い意味で苦しくなる胸を両手で抑えれば、常夜灯にぼんやりと照らされた室内で裕一郎が不思議そうに首を傾げる姿が見えた。
 更には彼が少し身動きしただけで石鹸せっけんの香りが鼻腔びくうをくすぐり、恋幸の理性ゲージは一瞬で0になる。結果、


「結婚してください……」


 ――……同じ過ちを繰り返してしまうのであった。

 しかし『あの時』と決定的に違うのは“裕一郎が恋幸に好意を抱いていることが明らかだ”という状況で、彼女の目線の先にいる裕一郎が「ふ」と小さく息を吐き拒否も受諾じゅだくもせずにいる様子を直視しても、恋幸は発言を取り消したりせずにただ静かに次の言葉を待つ。


「……そうですね、そのうち」
「えっ」


 ぼそりと独り言のように落とされたセリフ。
 驚きから反射的に問い返した彼女に対し、裕一郎は片手を伸ばして一度頭を撫でてから「それで、聞きたい事とは?」と話題を逸らしてしまった。


「あっ、えっと……あの時の、『彼女になってもらえるように』って。その、」
「ああ、そうですね。貴女を未成年だと思っていたので、まずは親御さんへ挨拶を済ませて許可を得た上でなければ交際できない……と、思っていたこと以外は言葉通りの意味です。それでも、貴女に直接言うべきでしたね。卑怯な真似をしてすみま」
「謝らないでください……! そうじゃなくて、責めたいわけじゃなくて、」
「……はい」


 廊下側の障子を通して差し込んだ月の光が裕一郎を背後から照らし、あまりの美しさに恋幸はが一枚の絵であるかのような錯覚をおぼえる。
 言いどもっても続きをかさない彼の優しさが、彼女にとってはまた一つの愛おしさを感じる部分だった。


「……あの言葉が、倉本様の本心だったら嬉しいなって思ったんです」


 裕一郎の前世が和臣かずあきでなかったとしても、きっと恋幸の心は彼を欲していただろう。今なら彼女は、自信を持ってそう言える。


「私が聞きたかったのは……私も倉本様に、かっ、かれ……恋仲に! なってほしいですって言ったら、どうしますか?」


 いったいどこが好きなのか? 以前、千から投げられた問いが恋幸の頭の中で反響した。
 あの時は「和臣の生まれ変わりだから」という思考に囚われてしまい正解を見失っていたが、冷静になって彼と過ごした数日間を思い返せば悩むまでもない。

 確かに、恋幸は今でも和臣をしたっている。はじまりこそ『前世』の記憶が大きく関わっていたのはまぎれもない事実だ。
 だが、彼女がその心に住まわせているのは他でもない。


「どうもこうも……ぜひ、よろしくお願いします。それ以外の返事なんて、私には用意できませんよ」


 夜の優しい色を混ぜ、目の前で口元に緩やかな弧を描く『倉本裕一郎』ただ一人だ。


(好き、大好きです。私は、)


 この人が好き。
 そう想う事に、後付けの理由など必要ないだろう。


「うっ……倉本様、好きです。好き」
「ええ、知っています。私も、小日向さんが好きです」
「わがまま言ってもいいですか? ぎゅーってしてほしいです」
「はい、喜んで」


 両腕を広げて待つ裕一郎の胸に飛び込んだ恋幸を、彼は苦しくなるほどに力いっぱい抱きしめる。
 互いの体を包む同じ石鹸の香りが、時が経つのを忘れさせる媚薬びやくのように思えた。
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