31 / 72
第31編「月が綺麗ですね」
しおりを挟む
「あ、あの、」
「はい、なんでしょう」
胡座をかいて座る彼の足の上に腰を下ろして、背後から抱きしめられるような体勢でいる恋幸が遠慮がちに口を開くと、裕一郎は首を傾けてその顔を覗き込む。
と言っても、座っている状態でも十数センチの身長差があるため真横から見ることは叶わないのだが、何となく視線を察知したらしい恋幸は先程よりも更に体を強張らせた。
「その……つかぬ事を伺いますが、私はどうして倉本様に抱きしめていただけているのでしょうか……?」
あくまでも『自分だけが得をしている』体で落とされたその言葉に対し、裕一郎は思うところがあるのか綺麗な眉を八の字にして唇を引き結んだものの、少しの間を置いてから恋幸のお腹に回していた腕にわずかに力を込めて「それは、」と切り出す。
「仕事の疲れを癒やして頂いている、というのが1つ目の理由です」
「い、癒やし……っ!?」
「はい。2つ目の理由は……充電です」
言うと同時に、裕一郎は恋幸の首筋に顔を埋めて大きなため息を吐いた。
恐らくその行動には彼が言及した以上の目的など含まれていないのだが、熱い吐息が彼女の肌を撫でた瞬間にぞわぞわとした感覚が背筋を駆け抜け、不快感とは全く違うそれに恋幸の唇からは「んっ」と小さな声が漏れる。
「……? 嫌でしたか?」
「い、いえ! 嫌なわけがないです! 倉本様といっ、いちゃいちゃ……できて、嬉しいです!!」
「……貴女は本当に素直で可愛いですね」
(ほゃ……)
恥ずかしいやら幸せやら困惑するやら。
突然デレ期の到来した裕一郎を前に、彼女の頭はどうにかなってしまいそうだった。
(つ、疲れてると甘々になるのかな……? うっ、心臓吐きそう……)
「……さて。そろそろ花に夕飯を食べさせないと拗ねられそうですね」
「夕飯……あっ!? すみません、倉本様! 私、まだ夕飯の準備ができて、」
恋幸が慌てて振り返った先にあったのは裕一郎の整った顔で、眼鏡レンズの奥にある瞳と目線が交わると同時に頭の中が「裕一郎様、かっこいい……大好き……」でいっぱいになる彼女を見て、彼は首を傾げながらその頭を一度撫でる。
「準備? はなから貴女にさせるつもりはありませんよ?」
「えっ、でも、」
咄嗟に言い返そうとした恋幸の頬に裕一郎が指の背を添えれば、薄い肩がピクリと跳ねて彼女は唇を閉ざし恥ずかしそうに目線を背けた。
「……尊敬する日向ぼっ子先生にタダ働きさせるだなんて、とんでもない」
裕一郎は反応を楽しんでいるのか、わずかに弾む声でそう言うと恋幸の頬をプニプニとつついてから両手を離し彼女の体を解放する。
「それに、もともと八重子さんが休みの日は、夕食は『別』で済ませているので心配いりませんよ」
「別?」
「はい。花に夕飯をあげたら出かけますから、準備しておいてください。……ああ、今の格好のままで結構ですが、体が冷えないよう厚手の上着を羽織ってくださいね」
「は、はい! わかりました!」
◇
――……夕飯は別で済ませている。出かけるので準備してほしい。
その2つのワードから恋幸は「夜景の見えるお店でディナーを頂くのかな!?」と飛躍した連想をして、自宅から持参した粘着カーペットクリーナー(コロコロ)で服についているかもしれない埃を取り、2人分の食費がちゃんと入っているか財布の中までしっかりチェックを済ませて床の間でスタンバイしていたのだが、
「お待たせしました。それでは行きましょうか」
戻って来た裕一郎は帰宅した時と同じスーツ姿のままそう言って、紺色のロングコートを羽織ると車の鍵を玄関先の棚に置いたまま表に出てしまう。
「……そうだ。小日向さん」
「は、はい!」
「3分ほど歩きますが、大丈夫ですか?」
「ぜんぜん平気です! 任せてください!」
いったい何を任せればいいのかわからないが、裕一郎は深く触れずに相槌を打って玄関の鍵を閉めるとスマートフォンを取り出し、懐中電灯機能で灯りをつけて恋幸に向き直った。
「……大丈夫ですか? やはり車で行きましょうか」
「!!」
彼のそれは暗所恐怖症の恋幸を想っての行動であると瞬時に理解した彼女は、思わず飛びついてしまいそうになった体を理性でむりやり抑え込む。
しかし、黙り込んでしまった恋幸を見て裕一郎は「やはり怖いのだろう」と解釈したらしく、上半身を屈めてその顔を覗き込み頭をぽんと叩いた。
「これを持って少し待っていてください。車の鍵を取ってきます」
ひどく優しい声色、どこか安心を覚える低音。
彼の囁き声に一瞬惚けてしまった恋幸だが、すぐに意識を取り戻し、自身にスマートフォンを渡そうとした裕一郎の片手を掴んで引き止める。
「あっ、だ、大丈夫です! 遠慮してませんし、やせ我慢でもありません! ガソリンが勿体無いし倉本様が居てくれるから平気ですし、3分の距離くらい自分の足で歩きます!!」
「……」
その言葉を聞いて裕一郎は少しのあいだ無言で瞬きを繰り返してから、自由な方の手を恋幸の背中に回してそっと抱き寄せた。
そして、驚きから間抜けな声を出す彼女の頭に口付けを一つ落とすと、
「貴女のそういうところが本当に、」
いったんそこで言葉を切って、恋幸から体を離し姿勢を正す。
(……? 本当に、何だろう……?)
「……足元に気をつけてくださいね」
「は、はいっ!」
「……手、繋ぎます?」
「ぜひ繋ぎたいです……」
彼女の返しに裕一郎は息を吐くように小さく笑って右手を差し出し、恋幸が左手で躊躇いがちに握ったのを確認してからその左側に立って足を進め始めた。
今夜は2人の頭上でオリオン座が綺麗に輝いている。
「はい、なんでしょう」
胡座をかいて座る彼の足の上に腰を下ろして、背後から抱きしめられるような体勢でいる恋幸が遠慮がちに口を開くと、裕一郎は首を傾けてその顔を覗き込む。
と言っても、座っている状態でも十数センチの身長差があるため真横から見ることは叶わないのだが、何となく視線を察知したらしい恋幸は先程よりも更に体を強張らせた。
「その……つかぬ事を伺いますが、私はどうして倉本様に抱きしめていただけているのでしょうか……?」
あくまでも『自分だけが得をしている』体で落とされたその言葉に対し、裕一郎は思うところがあるのか綺麗な眉を八の字にして唇を引き結んだものの、少しの間を置いてから恋幸のお腹に回していた腕にわずかに力を込めて「それは、」と切り出す。
「仕事の疲れを癒やして頂いている、というのが1つ目の理由です」
「い、癒やし……っ!?」
「はい。2つ目の理由は……充電です」
言うと同時に、裕一郎は恋幸の首筋に顔を埋めて大きなため息を吐いた。
恐らくその行動には彼が言及した以上の目的など含まれていないのだが、熱い吐息が彼女の肌を撫でた瞬間にぞわぞわとした感覚が背筋を駆け抜け、不快感とは全く違うそれに恋幸の唇からは「んっ」と小さな声が漏れる。
「……? 嫌でしたか?」
「い、いえ! 嫌なわけがないです! 倉本様といっ、いちゃいちゃ……できて、嬉しいです!!」
「……貴女は本当に素直で可愛いですね」
(ほゃ……)
恥ずかしいやら幸せやら困惑するやら。
突然デレ期の到来した裕一郎を前に、彼女の頭はどうにかなってしまいそうだった。
(つ、疲れてると甘々になるのかな……? うっ、心臓吐きそう……)
「……さて。そろそろ花に夕飯を食べさせないと拗ねられそうですね」
「夕飯……あっ!? すみません、倉本様! 私、まだ夕飯の準備ができて、」
恋幸が慌てて振り返った先にあったのは裕一郎の整った顔で、眼鏡レンズの奥にある瞳と目線が交わると同時に頭の中が「裕一郎様、かっこいい……大好き……」でいっぱいになる彼女を見て、彼は首を傾げながらその頭を一度撫でる。
「準備? はなから貴女にさせるつもりはありませんよ?」
「えっ、でも、」
咄嗟に言い返そうとした恋幸の頬に裕一郎が指の背を添えれば、薄い肩がピクリと跳ねて彼女は唇を閉ざし恥ずかしそうに目線を背けた。
「……尊敬する日向ぼっ子先生にタダ働きさせるだなんて、とんでもない」
裕一郎は反応を楽しんでいるのか、わずかに弾む声でそう言うと恋幸の頬をプニプニとつついてから両手を離し彼女の体を解放する。
「それに、もともと八重子さんが休みの日は、夕食は『別』で済ませているので心配いりませんよ」
「別?」
「はい。花に夕飯をあげたら出かけますから、準備しておいてください。……ああ、今の格好のままで結構ですが、体が冷えないよう厚手の上着を羽織ってくださいね」
「は、はい! わかりました!」
◇
――……夕飯は別で済ませている。出かけるので準備してほしい。
その2つのワードから恋幸は「夜景の見えるお店でディナーを頂くのかな!?」と飛躍した連想をして、自宅から持参した粘着カーペットクリーナー(コロコロ)で服についているかもしれない埃を取り、2人分の食費がちゃんと入っているか財布の中までしっかりチェックを済ませて床の間でスタンバイしていたのだが、
「お待たせしました。それでは行きましょうか」
戻って来た裕一郎は帰宅した時と同じスーツ姿のままそう言って、紺色のロングコートを羽織ると車の鍵を玄関先の棚に置いたまま表に出てしまう。
「……そうだ。小日向さん」
「は、はい!」
「3分ほど歩きますが、大丈夫ですか?」
「ぜんぜん平気です! 任せてください!」
いったい何を任せればいいのかわからないが、裕一郎は深く触れずに相槌を打って玄関の鍵を閉めるとスマートフォンを取り出し、懐中電灯機能で灯りをつけて恋幸に向き直った。
「……大丈夫ですか? やはり車で行きましょうか」
「!!」
彼のそれは暗所恐怖症の恋幸を想っての行動であると瞬時に理解した彼女は、思わず飛びついてしまいそうになった体を理性でむりやり抑え込む。
しかし、黙り込んでしまった恋幸を見て裕一郎は「やはり怖いのだろう」と解釈したらしく、上半身を屈めてその顔を覗き込み頭をぽんと叩いた。
「これを持って少し待っていてください。車の鍵を取ってきます」
ひどく優しい声色、どこか安心を覚える低音。
彼の囁き声に一瞬惚けてしまった恋幸だが、すぐに意識を取り戻し、自身にスマートフォンを渡そうとした裕一郎の片手を掴んで引き止める。
「あっ、だ、大丈夫です! 遠慮してませんし、やせ我慢でもありません! ガソリンが勿体無いし倉本様が居てくれるから平気ですし、3分の距離くらい自分の足で歩きます!!」
「……」
その言葉を聞いて裕一郎は少しのあいだ無言で瞬きを繰り返してから、自由な方の手を恋幸の背中に回してそっと抱き寄せた。
そして、驚きから間抜けな声を出す彼女の頭に口付けを一つ落とすと、
「貴女のそういうところが本当に、」
いったんそこで言葉を切って、恋幸から体を離し姿勢を正す。
(……? 本当に、何だろう……?)
「……足元に気をつけてくださいね」
「は、はいっ!」
「……手、繋ぎます?」
「ぜひ繋ぎたいです……」
彼女の返しに裕一郎は息を吐くように小さく笑って右手を差し出し、恋幸が左手で躊躇いがちに握ったのを確認してからその左側に立って足を進め始めた。
今夜は2人の頭上でオリオン座が綺麗に輝いている。
0
お気に入りに追加
75
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。


今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

転生したら、6人の最強旦那様に溺愛されてます!?~6人の愛が重すぎて困ってます!~
月
恋愛
ある日、女子高生だった白川凛(しらかわりん)
は学校の帰り道、バイトに遅刻しそうになったのでスピードを上げすぎ、そのまま階段から落ちて死亡した。
しかし、目が覚めるとそこは異世界だった!?
(もしかして、私、転生してる!!?)
そして、なんと凛が転生した世界は女性が少なく、一妻多夫制だった!!!
そんな世界に転生した凛と、将来の旦那様は一体誰!?

10年ぶりに再会した幼馴染と、10年間一緒にいる幼馴染との青春ラブコメ
桜庭かなめ
恋愛
高校生の麻丘涼我には同い年の幼馴染の女の子が2人いる。1人は小学1年の5月末から涼我の隣の家に住み始め、約10年間ずっと一緒にいる穏やかで可愛らしい香川愛実。もう1人は幼稚園の年長組の1年間一緒にいて、卒園直後に引っ越してしまった明るく活発な桐山あおい。涼我は愛実ともあおいとも楽しい思い出をたくさん作ってきた。
あおいとの別れから10年。高校1年の春休みに、あおいが涼我の家の隣に引っ越してくる。涼我はあおいと10年ぶりの再会を果たす。あおいは昔の中性的な雰囲気から、清楚な美少女へと変わっていた。
3人で一緒に遊んだり、学校生活を送ったり、愛実とあおいが涼我のバイト先に来たり。春休みや新年度の日々を通じて、一度離れてしまったあおいとはもちろんのこと、ずっと一緒にいる愛実との距離も縮まっていく。
出会った早さか。それとも、一緒にいる長さか。両隣の家に住む幼馴染2人との温かくて甘いダブルヒロイン学園青春ラブコメディ!
※特別編4が完結しました!(2024.8.2)
※小説家になろう(N9714HQ)とカクヨムでも公開しています。
※お気に入り登録や感想をお待ちしております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる