上 下
23 / 72

第23編「睡眠はしっかりとってください」

しおりを挟む
 恋幸の心臓が落ち着いてきた頃。

 彼女はタンブラーを手にとって中身のメロンソーダを飲み込んだあと、大きく息を吐いていったん脳みそを冷やしピンと背筋を伸ばす。
 一方で、向かい側に座る裕一郎はまるで何事もなかったかのような涼しい表情でテイクアウトしたコーヒーを口に運んでいた。


「では、これよりっ! 自分は! 本題に入りたいと思いますっ!!」
「……自衛官のようですね」


 びしりと音が鳴りそうな勢いで片手をこめかみ辺りにつけ手のひらをさらす恋幸の様子は、まさに裕一郎の言う通り自衛官候補生の“それ”によく似ている。

 彼の冷静なツッコミに対し、恋幸はハッとした表情でスマートフォンの画面を確認してから自信満々に再び姿勢を正した。


「いちさん、まるなな!! これより会議を始めますっ!!」
「ああ、もう13時ですか。早いですね」


 蛇足だそくだが、『いちさんまるなな』とは現在時刻の13時7分を指している。
 恋幸のくだらな……少々幼稚なごっこ遊びに文句一つ言わない裕一郎からはどこか深い愛情に似た雰囲気が漂っていることなど、当の本人はまだ気づいていないのだろう。


「ええっと、その……詳しくは、倉本様がおっしゃった通り守秘義務があって明かせないんですけど、」
「はい」
「その、協力してほしい事がありまして……」


 自身の人差し指同士をくるくると絡ませて伏し目がちに裕一郎を見やる恋幸。
 彼はそんな彼女に話の先を急かすわけでもなく、首を傾げてただ静かに次の言葉を待っていた。


「……その、」
「はい」
「えっと……く、倉本様に……『大人の恋愛』を、教えてほしくて、ですね……えへ……」
「……」


 場の空気が凍りついてしまわないよう恋幸は無理やりに笑顔を浮かべて言葉を放ったのだが、そんな努力も虚しく裕一郎は目を丸めたまま動きを止めており、静寂が二人の間を支配する。

 みずから“助けてほしい”とすがった手前、今さら「なんちゃって! 変なこと言ってごめんなさい! 他の人に聞いてみますね!」と取り消すわけにもいかず、恋幸はあまりの気まずさに胃がはち切れてしまいそうな思いだった。


「そ、その……ほら、あの……社会人って、同棲とか当たり前じゃないですか! 私そんな経験がないので、あの、大人はどんな風に愛を育んでいくのかな~? とか、知りたくてですね!」
「……」
「ほ、ほら! 特に、恋愛を知らないキャリアウーマンと御曹司の恋愛とか? 大人の男性がどんな感じでアプローチするのかな? とか!」


 なんとか空気を誤魔化そうとした結果、余計なことを次から次へ口走ってしまい恋幸は心の中で「詳細を喋ってしまう前に誰か止めて」とむせび泣く。


「えへ、あの、大人の恋愛は体の相性を知るところからって言いますけど本当なんですかね? なんて、」
「小日向さん」
「……っ!!」


 心地よい低音が名前をなぞった瞬間、恋幸の声帯はようやく震えることをやめて、やっと唇を引き結べた。
 少しの間を置いて裕一郎の瞳が彼女を捕らえ、おもむろに伸ばされた大きな手がそっと顎を持ち上げる。

 そのまま、彼は親指で恋幸の唇をなぞりつつ口を開いた。


「それ、意味がわかって言っているんですか?」
「い、み……?」
「……あまり大人をからかうと、本気にしてしまいますよ?」


 どういうこと?
 そう問うために恋幸が唇を持ち上げたタイミングで、聞き覚えのない着信音が室内に鳴り響く。


「……失礼、会社からです。少し席を外します」
「あっ、は、はい……!」
「できるだけ早く戻りますので、適当にくつろいでいてください」


 それはどうやら裕一郎のものだったらしく、彼は胸ポケットから取り出したスマートフォンの画面を確認するなり、恋幸に軽く頭を下げて部屋から出て行ってしまった。

 一人取り残された彼女は「ふう」と深く息を吐き、左胸に片手を置き考える。


(意味……? 本気にする、って……何を?)


 上手く回らない頭の中には少しずつもやがかかり始め、恋幸はそこでようやく自身が一睡もしていないことを思い出した。


(だめだめ、人の家で寝るなんて失礼すぎる……! 裕一郎様が戻ってくるまで、起きてなきゃ……)





「お待たせしてすみません、小日向さ……」


 部屋に戻った裕一郎の目に映ったのは、座卓に突っ伏して寝息を立てる恋幸の姿。
 彼はできる限り音を立てないよう後ろ手にふすまを閉めると、眠る恋幸のすぐ隣に腰を下ろした。


「……そういえば、今日は会った時から隈がひどかったな……」


 寝顔を眺めながらそんな独り言をこぼし、裕一郎は自身のジャケットを脱いで恋幸の背中にかけてやる。
 それから、規則正しい寝息を立てる彼女の長い髪を指でき、頬に触れるだけの口付けを落とした。


「……いつもお疲れ様です、日向ぼっこ先生」


 そんな彼の顔にひどく優しい微笑みが浮かべられていたことなど、恋幸が知るわけもない。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

前世軍医だった傷物令嬢は、幸せな花嫁を夢見る

花雨宮琵
恋愛
侯爵令嬢のローズは、10歳のある日、背中に刀傷を負い生死の境をさまよう。 その時に見た夢で、軍医として生き、結婚式の直前に婚約者を亡くした前世が蘇る。 何とか一命を取り留めたものの、ローズの背中には大きな傷が残った。 “傷物令嬢”として揶揄される中、ローズは早々に貴族女性として生きることを諦め、隣国の帝国医学校へ入学する。 背中の傷を理由に六回も婚約を破棄されるも、18歳で隣国の医師資格を取得。自立しようとした矢先に王命による7回目の婚約が結ばれ、帰国を余儀なくされる。 7人目となる婚約者は、弱冠25歳で東の将軍となった、ヴァンドゥール公爵家次男のフェルディナンだった。 長年行方不明の想い人がいるフェルディナンと、義務ではなく愛ある結婚を夢見るローズ。そんな二人は、期間限定の条件付き婚約関係を結ぶことに同意する。 守られるだけの存在でいたくない! と思うローズは、一人の医師として自立し、同時に、今世こそは愛する人と結ばれて幸せな家庭を築きたいと願うのであったが――。 この小説は、人生の理不尽さ・不条理さに傷つき悩みながらも、幸せを求めて奮闘する女性の物語です。 ※この作品は2年前に掲載していたものを大幅に改稿したものです。 (C)Elegance 2025 All Rights Reserved.無断転載・無断翻訳を固く禁じます。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

五歳の時から、側にいた

田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。 それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。 グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。 前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

処理中です...