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チュートリアル編

02.姉の見ていた世界

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 起きた直後は覚えているものの、すぐに忘れてしまうのが夢というものだ。ひとつ伸びをしてから、僕の注意は他のものに向かう。

 何気なく机の上に転がっていた物を手に取った。
 半円状の板とでも言えば良いのか、白いプラスチック状のこれは【デバイス】と呼ぶらしい。

「うーん、高そうだ。もし壊したりしたらゾッとするな」

 夏休みに出された宿題をやり終えたのもあり、僕は小さな興味を持つ。
 これはずっと前に姉から説明を受けたことがある。眼鏡のように装着し、そして専用アプリを起動すれば良いそうだ。

「アカウントは2つあると言っていたかな。面白そうなのに、どうして今まで触らなかったんだろう」

 デバイスなるものをいじくりながら、ぼんやりと考える。
 確か期末テストが近くて誘いを断り、それからずっと忘れていたようだ。悪いことをしたなと思いつつ、もう一度デバイスに目を向けた。

「うん、やってみようか。確か手順は……そうだ、メモを貰っていたっけ」

 高価そうな電化製品、しかもゲームだ。試してみたいという欲がゆっくりと溢れてくる。
 ご丁寧にも姉は手順をまとめてくれていたので、埃をかぶっていたメモ帳を見ながら設定をしてゆく。

「えーと、デバイスのスイッチを入れる。あ、光った。それからスマホを繋げば自動でインストール、と」

 アプリは【拡張世界リビルド】という名前だった。
 メモ帳を読むあいだにインストールは終わり、画面には新しいアプリが表示された。後はもう姉の用意してくれていたアカウントでログインをすれば完了だ。

 さて、眼鏡……じゃなくてデバイスを着けてみよう。
 軽量で邪魔にならず、着け心地も悪くない。さすがは日本製だ。気分がワクワクしてくるのを覚えながら起動ボタンを押す。

 眼鏡の向こうには勉強机があり、終えたばかりの宿題が転がっている。
 わずかなロード時間を挟み、ぽーんという電子音と共に――周囲の光景は様変わりをした。

 瞬きをする間だった。
 宿題のノートは羊皮紙に変わり、ペン立てはインク瓶に、机は重厚な色合いに変わる。すぐ隣には何本か剣を立てかけているようだ。

 思わず「へっ?」という間抜けな声を漏らし、慌ててデバイスを着けたり外したりをしてみたが……ああー、こういう遊びなのだと理解をしてまた驚く。

 景色がまるでファンタジー世界のように変わっていた。
 どうやら僕の部屋は大樹のウロに変化したらしい。ベッドは巨大な鳥の巣に変わり、見上げればどこまで続いているのか分からない樹木の高さがあった。

「はあ、景色がぜんぜん違う。これがファンタジー世界かあ」

 驚くほかない。まさかこんな世界があるだなんて、中学生の身で分かるわけがない。これならもっと早く遊んでいればよかったとも思う。

「とはいえ、部屋自体は別に変わってないのか。壁紙も机も元の感触のままだ……って当たり前か、変わったのは見た目だけなんだし。――ん?」

 そのとき、鳥の巣から視線を感じて振り返る。すると丸い目をしたフクロウに似た鳥がおり、じいと観察するよう僕を見つめていた。
 羽ばたきをして飛び上がると、悲鳴を上げる僕のすぐ横を飛んで行く。

 追いかけるよう視線を向けると、窓の向こうには草原が広がっていた。
 ピイと鳥は鳴き、その向こうにある鬱蒼とした森へ飛んでゆく。その光景も立体視をしているのかリアルな遠近感があった。

「うーん、これは確かに誘いたがるわけだ。あれ、なんだこれ?」

 窓辺に置いた僕の手にも、なにやら違和感があった。
 どうやら部屋着さえもファンタジー世界に合うものへ変わっていたようだ。

 襟高のシャツに黒いベスト、それに革のベルトと膝までのズボンというのは、どこかお洒落な感じがする……が、どうもムズムズするな。まるでコスプレをしたような気持ちだ。

「この服は姉さんの趣味かな。ひょっとしたら初期装備かもしれないけど」

 姉の用意したアカウントなのだから、服装まで設定されていてもおかしくない。
 溜め息をひとつ吐き、それから窓辺に近づく。空の色さえも青みを増しており鮮やかだ。どこか夏の強い日差しを楽しめている自分がいた。

「なるほど、だから拡張世界リビルドか。服装はともかく面白いなー、これ」

 知らなかったけど、どうやら景色だけをファンタジーに置き換えるというアプリらしい。しかしそのシンプルな発想が良い。
 誰でも楽しさを味わえて、かつお手軽だ。デバイスやアカウントの料金は高めらしいけど、興味を持つ大人は多そうな気がする。

「こういう個性が強いのは儲かりそうだ。ん、そういえば最近はニュースでも聞いた気がする。これを着けたまま外を歩いて事故を起こしたとか……」

 光景を入れ替えているなら交通事故を起こしてもおかしくはない。安全への配慮には大きな課題があるという事か。
 などと考えながら草原を見下ろしていると、こちらに歩いてくる一人の女性が視界に入る。背負っている日本刀らしきものは背丈に近しい大きさだ。

 黒髪と白い肌のコントラスト差が強く、真っ直ぐの髪は腰までの長さ。頭についている猫耳も同色で、瞳がこちらを見上げると真ん丸に見開かれた。

「あら由季ゆきちゃん、やっとデバイスを着けたのね! どう、どう、凄いでしょう! 感動したかしら?」
「その声……まさかすい姉さん? なんで猫耳がついているの!?」

 そう問いかけると彼女は懐からスマホを取り出し、形の良い唇に笑みを浮かべる。手品の種明かしをするような顔だ。

「これがあるからよ。私のキャラをスマホに登録してあるから、由季ちゃんからは違って見えるの」

 そう言われてみると確かに面影がある。
 長い黒髪はもちろん、泣きホクロや眼鏡を外すと大きな瞳、くっきりとした眉は姉の特徴だ。
 しかし比較にならないほど可愛らしく、また笑顔はどこか大人っぽい。しばらくまともに会話をしていなかった事もあり、そんな表情を向けられると困ってしまう。

「そこで待っていて、私もすぐに行くわ。逃げたりデバイスを外しちゃ絶対に駄目」

 よおしと腕まくりをし、一大イベントを迎えたように姉は駆け出す。
 窓から見おろしていると、黒色の尻尾が機嫌良さそうに揺れていた。

 はあ、耳だけじゃなくて尻尾までついていたのか。
 手が込んでいるというか、よくやるなあ。あれで学校では優等生として過ごしているのだから信じがたい。

 などと考えていたが、僕の頭と尻にも同じものが生えている事には気づけなかった。
 もうひとつ気づけなかったのは、同じくらい機嫌良さそうに揺れていた事か。

 ――いや、さらにもうひとつ、僕は気づけなかった。

 監視をするように見つめている視線。それはとても無機質なもので、ピントを合わせながら姉弟の姿を追い続けていた。
 もし気づけたとしても、意思の弱い僕には何も出来なかっただろう。



 んまっ!という風に姉は口元を押さえ、黒い瞳を輝かせてゆく。

「んやーーん! やだもう、由季ちゃんったら似合いすぎ! このお姉ちゃん殺し! ね、ね、一緒に記念撮影をしましょう。このゲームはSNS向けに撮影機能がたくさんあって有名なのよ」

 同じようにデバイスをつけた姉は、僕を見るなりそんな反応をした。きゃいきゃいとはしゃぎながら腕を絡めてきた彼女は神桜かんざくら 翠《すい》と言う。

 そして思春期まっただ中のせいで「ちょっと、近い! 近い!」と悲鳴を上げている僕はというと、神桜かんざくら 由紀ゆきであり血の繋がった実の弟だ。

 姉は近所の高校に入学し、この春から通っている。
 容姿端麗で器量よしと評判ではあるものの、どうにも弟離れをできない性格をしており正直なところ困る。

「ふふ、知っているかしら。最近のトレンドは、唇が触れてしまいそうな距離の写真よ。きっとSNSでも大評判間違いなしで……」
「駄目だって、翆姉さん! 近いし、なんか妙な迫力がある!」
「ええ、由紀ちゃんの言う通りね、ぎりぎりの距離なんてもったいないわ。いっそのこと、このままくっつけてしまいましょう」

 なぜだろうね。いったいどうしたら姉弟が互いに肩を掴みあい、ぐぐぐ!と力比べをする事になるのかな。
 背丈でわずかに負けていても、僕はこれでも男性だ。どうにか姉の唇は離れてゆき、それに合わせて長い睫毛に縁取られた瞳は涙目に変わってしまう。

「ぐしゅっ、せっかく由紀ちゃんが可愛い格好なのに。猫耳の匂いを嗅がせてもくれないなんてひどい! もう口を聞かないから!」

 唇をとがらせて文句を言う姉に戸惑うが、それよりも今の言葉には気になるものがあった。猫耳の匂いって、なんだ?

「猫耳……? あっ、ほんとだ、僕にまでついてる!」

 これは拡張世界リビルドが投影したものなので、見た目しか変わらない。当然、頭に触れても髪の感触しかないわけだ。しかし鏡をのぞき込むと、そこには姉とお揃いの猫耳がついていた。

 それだけでなく肌はどこか白くなり、目の大きさまで変わっている。ここまでくっきりした二重まぶたでは無かったし――まさかこれ、姉さんの趣味か!?

 その衝撃たるや、ぐらりと身体が揺れるほどのものだった。
 想像して欲しい。中学生の男子が猫耳をつけられ、あまつさえ尻尾まで伸ばしている姿を。これ以上の黒歴史は無いし、すぐさま記憶から抹消したい。

「撮影っ、えいっ!」
「ああああっ! やめろおおお!」

 ぱしゃーという撮影音に振り向くと、姉は自撮り風にピースをしていた。
 黒歴史をデータにされてしまった僕は、もちろん大きな悲鳴をあげた。

 だからなのか、高価な製品なのにあれほど勧めていたのは。
 姉は罠を用意しており、僕はそれを踏んだのだ。この魅力ある世界から決して逃れられないことまで、たぶん計算していたのだろう。
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