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天童寺姉妹編

二度と元には戻せない

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 薄暗い廊下には、まだ夏の熱気を感じる。
 昼間より少しだけ気温は落ち着いたものの、じっとしているだけで自分の体温がまとわりついて汗が浮く。

 やっぱり嫌な季節だ。
 そう思いながら待っていると、やがて戸は開かれた。姿を現したのは少しだけ俺よりも背が低く、また髪の毛を染めた弟だった。

 克樹はいつになく剣呑な目をしており、それを見た俺は少しだけすくむ。怖いし怯えているが、今夜は俺のしたこと、弟の恋人に手を出したことをちゃんと伝えないといけない。
 だからきっと忘れられない夜になる。そんな後ろ向きの予感を覚えながら口を開いた。

「下で話そう」

 背を向けると、弟は返事をせずについてくる。多少なりとも話を聞いてくれそうな様子に、ほんの少しだけ安心した。
 手すりを掴んで下りていく間際、ふと隣室を眺めた。そこに茜ちゃんは一人きりで身じろぎもせず、俺たちの結論を待っている。
 まだどんな答えが出るかは分からない。静かに待ち続ける彼女を思いながら、一歩ずつ階段を下りていく。

 リビングには月明かりだけが差し込んでいた。
 明かりをつける気にはなれず、ソファーに腰を下ろすと向かい合う形で克樹も座る。今すぐにでも殴りかかってきそうな雰囲気だが、殴られるよりもずっとキツいことをこれから俺は味わう。

 もう逃げられない。
 いや違うのか。最初から八方塞がりだったんだ。
 ゴールなんて存在しない。だから彼女を幸せにしようとあがいても、進んでも戻っても何をしようと一歩たりとも前に進むことはなかった。

 このときをずっと恐れていた。
 また同時に罰を受けたくて仕方なかった。
 考える時間は終わりだ。
 ここから先はもう行動するしかない。

 いつの間にか閉じていた目を開くと、しかし意に反して弟の声がリビングに響いた。

「兄貴、なんで茜ちゃんは泣いたんだ?」

 そう投げかけられた唐突な質問に、しばし思考が鈍る。
 簡単な問題を解けず、すねた子供みたいな声だったし、無視をしてはいけない声だとも思う。
 てっきり怒鳴ってくると思っていたが……いや、まだなにひとつとして事情を伝えていなかったのか。行為の最中に茜ちゃんが泣きながら逃げて、なぜか俺の胸に飛び込んできた。そんな結果だけしか克樹は見ていない。

 そう思いながら様子をうかがうと、克樹は頭をガリガリ掻きながら不安げな表情をしている。もしかしたら独白に近かったのかもしれない。再び響いた声は先ほどよりも暗く沈んでいた。

「怖がらせた気がする。あんな……泣かせるなんて、きっと信用されていなかったんだ」

 落ち込んでゆく姿を見るのは、やっぱり悲しかった。
 なぜって、俺以外のみんなはやっぱり善良だと分かったんだ。まだ良い兄なのだと信じてくれていて、他の誰にも言えない恋の悩みを相談しているんだ。ごめん、ごめんな、俺はとっくに裏切っていたのに。
 息がつまり、胸が苦しくて仕方ないのに俺はなるべくいつも通りの声を出した。

「克樹は信用されているよ。ん、そういえば言っていなかったか。茜ちゃんと初めて会った日、声が似ていて安心すると言ってくれたんだ」

 少しだけ間を空けて「へえ」と弟は意外そうな声を漏らす。そこでどんな会話があったのか気になったのか、それまでうつむいていた顔をあげてくる。
 同時に俺は気づいた。
 何も言っていなかったんだ。彼女への想いだけでなく、これまで克樹のいないところでどう接してきたのかを。

 普通の兄なら「帰り道に茜ちゃんと会ったよ」と伝えるはずだ。そして漫画喫茶のできごとを面白おかしく話している。きっと克樹も喜んで、いつもより美味しく晩飯をいただいたと思う。でも俺には後ろめたさがあって、ひとことも何も言えなかった。
 まずは人としてそこから伝えるべきだ。天童寺の姉妹と過ごした時間についてひとつずつ伝えるべきなんだ。
 そう思い、俺は静かに口を開く。

「千夏ちゃんとは、俺のほうが先に会っていたな」
「それ、不思議だったよ。俺はプールで初めて会ったのに、速攻で兄貴に回し蹴りしてたしさ」

 うん、と俺はうなずく。あの日は曇り空だったのに思い切り遊んで、きゃいきゃいはしゃぐ二人を見れて本当に楽しかった。こんなにひどい状況だというのに兄弟揃って笑みを浮かべられたのは、そんな思い出のおかげだ。

「あれの少し前だったかな。下校中の茜ちゃんと会って、そこで初めて紹介されたんだ。いや、生意気で可愛いと言っていた理由を知ったよ。気づいたら一緒に映画館へ行って意気投合したし」
「へえ、最近知ったけど、兄貴って年下に弱くね? お願いされたらなんでもオッケーするだろ?」

 なにをバカなと思ったが……今までに断った場面を思い浮かべられないぞ。おかしいな、俺はロリコンじゃないはずなのに。
 どうだかなと笑われた。まったく、なんという風評被害だ。
 なんでも伝えると言ったが、さすがに彼女がエロ小説を書いていることは伏せておかないとな。その秘密を漏らしたら、もう一生口を聞いてくれないだろうし。
 そんなことを思っていると、じーっと見られていることに気づいた。

「……怪しい。最近のあの子、すごく可愛くなってきただろ? 買ったばかりのワンピースがたまたまとは思えないって」
「いや、それはさすがにたまたまだろ。学生だし色気づく年ごろだ。ちょうど夏休みだし、同じような子はたくさんいると思うけど」

 どうだかなーと笑われた。
 ぼんやりと克樹は天井を見あげながら、感情の乏しい声を漏らした。

「……見せびらかしたんだ。すごい美人を彼女にできて、兄貴に羨ましがられたかった」
「驚くほど美人だったよ。克樹が羨ましくて仕方なかったし、サッカー部でエースになっておけば今ごろは、なんて思うくらいだった」
「すぐに働き始めたんだ。兄貴にそんな時間が無かったのは知ってる。でも学生生活ってあんまりいいもんじゃないよ。退屈だし、いつも試験ばかりだし、いじめもあるしさ」

 まさかいじめなんかに加わっていないだろな。そう思って見つめると、冗談だろうと笑われた。

「逆だよ、逆。俺がいじめられたんだっつーの。上級生に呼び出されて、こうタバコで腕をジュッとさ。レギュラーを奪われたとか意味わかんねーこと言われて、鼻で笑ったのは失敗だった」

 ほーーと安堵の息を吐いた。
 いや、いじめられたことの心配はしないよ。だって克樹だし。けろっとしている通り、家に持ち込むまでもないと思ったのだろう。
 実際そうだったらしい。急に克樹の目は輝いたんだ。

「そこで茜と出会った。青い顔をして、大丈夫ですかってすごい美人が心配してくるから、じゃあお茶でもどうって誘うしかないよね」

 ええー、なにそれー。いいなぁー。そんな極々低確率の出会いとかあるんですね。
 いまは夏休みだから、夏の学生服を見れなくてちょっと寂しい。だって輝くほど可愛いし。なんて嘆いていたら苦笑された。

「あのな、こっちも大変だったんだぞ。話しかけて損したーって顔をされて、そそくさ離れていくし。しつこく何度も話しかけて、やっとお茶に誘えて、やっと映画を観に行けて、やっと笑うようになってくれた」

 うん、眼に浮かぶようだ。
 ナンパしてくる相手に冷たい瞳を向けて、妹が待っているからと言いながら背を向ける。
 校舎で話しかけるのを迷惑そうにしており、でも話題を振るとつい真面目に答えてしまう。

 学生カバンを手にする彼女は振り返り、克樹の顔を見る。
 文句を言いながら弟の姿を見る。
 また来たのかと呆れながら一緒に学校から帰る。
 そうして繰り返しているうちに、いつの間にか克樹が近くにいるのは当たり前になった。

 距離はどこまでも埋まっていく。
 彼女の顔に影が落ち、克樹の顔が近づいてくる。
 なにを言うでもなく茜ちゃんが見上げたままなのは、近くにいるのが当たり前になったからだ。

 ちぅ、と柔らかく歪む唇。
 触れ合う唇は、最初は握手のように彼女は感じていた。でも行為の意味を思い出し、やや遅れて茜ちゃんは頬を赤くして、しかし指で押さえても熱は止まらない。

 そして彼女は逃げるでもなく距離を置くでもなく、どうしてこんなことをしたのと問いかけてくる。とても近くから眺めることを許された瞳は愛らしく、普段よりわずかに呼吸をする速度は早い。
 恥ずかしさと期待を入り乱れさせた表情で、そして彼女はまばたきをしながらまた見あげてくる。あなたが気になります、という表情で。

「あーー、可愛い。甘酸っぱくて胸がどきどきする!」

「へへ、可愛いだろー。最初は違ったんだけどな。もっと無愛想で、俺なんて眼中にない感じで……でも出会ってからの変化には、ずっと目が離せなかった」

 うん、ちゃんと目に浮かぶ。
 
 あんまり綺麗じゃない校舎に吸い込まれていく同級生たち。いつも同じような行動をしているのに、友達ができたり恋人ができたり、絶えず学生たちは変化していく。そんな光景を思い浮かべると、本当に学生のころに戻れたようだった。

 これまでのことを伝えると俺の知らないエピソードを弟は教えてくれた。いくら羨ましくても悔しくても、その光景を思うと茜ちゃんがすぐ近くにいる気がするから不思議と腹は立たない。
 そんな俺の表情を見て、克樹は前のめりになった。

「茜はずっとガードが硬くて、コンクリートみたいに頑なだった。だけどおはようと初めて彼女から挨拶されたとき、ふっとそれが消えた。消えた気がする」

 どういう意味か分かるかと視線で問いかけられる。
 もちろん俺には分からない。弟と雰囲気が似ているからという理由で、最初から身近に接してくれたのだから、当時のことなどまるで想像できない。

 形にできないものを表そうと克樹の手が宙でゆらゆらと揺れる。そして形にならないまま弟は口を開く。

「数日過ごしてから分かった。ガードは消えていない。ただそのなかに俺を入れてくれただけなんだ。その見知らぬ場所にはもう一人、千夏ちゃんも入っている」

 言ってみれば「身内」か。信用できる人だけを家に入れて、がちゃんと鍵を閉じた。
 彼女から感じた特別な空気感はそれだったのかと納得するところもある。あどけなく、明るくて、とても優しく接してくれる。しかしそれは誰にでもというわけではない。
いつの間にかガードのなかに入れてもらえていたのは俺も一緒だったのか。

「これまでガードが硬かったぶん茜はすごく優しく大事にしてくれる。心を許せる相手はとても希少で、たぶん幸運にも手に入れたダイヤモンドのように感じてくれていると思う」

 そう言いながら指を動かし、何カラットか分からない宝石を摘まむ仕草をした。
 俺よりも付き合いの長い弟は、当然ながら茜ちゃんをもっと深くまで知っている。克樹の目に宝石が反射する光を俺は感じた。

 執着心。
 端的に言い表した言葉は、そう間違っていないと思う。千夏ちゃんとの待ち合わせ場所に現れた彼女から、確かにその気配が感じられたんだ。ゆらりと背後の陽炎が揺らぐような迫力は、彼女の心境をそのまま表していた気がする。

 しかし先ほど克樹に見せた態度はそうじゃなかった。愛し合っていたはずが、まるで身体に入った異物のように排除したがっているように見えた。

 別人のように弟は感じたんじゃないか?
 それだけの変化をどうして起こした?
 何かに気づきかけたとき、克樹の目がこちらを向いた。
 リビングには月明かりしか届かない。だからうつむいていく克樹の顔には影が落ちて、表情は見えなくなった。

「兄貴、なんで茜ちゃんは泣いたんだ?」

 先ほどとまったく同じ問いかけ。しかし意味合いはまるで異なる。そろそろ本当のことを言え、という響きを含んでいたんだ。
 弟からの問いかけを受けて、じっと考える。
 茜ちゃんは泣きながら裸で部屋を飛び出してきた。そのときの事情を知らないし、何も聞かされていない。これで分かるならエスパーだ。でも俺には分かる。エスパーなんかじゃなくって……それは俺が原因だから。

「いつもと同じことをしていたのに、いままでは喜んでいてくれたのに、今夜だけ彼女は怖がって逃げたんじゃないか?」

 予想をそのまま語ると、うろんな目が見つめてくる。なんで分かるんだと言いたげで、また疑わしいものを見る目だ。
 このとき不思議と恐怖は無かった。

「変わったのは、茜ちゃんだ。そして彼女を変えてしまったのは俺だ」

 そしていま、弟も変えてしまう。

「彼女を抱いた」

 シンと部屋が静まり返る。
 弟は「は?」という顔を浮かべ、意味もなく視線をうろうろとリビングにさ迷わせ、そしてまた俺に戻す。つい先ほどとまったく異なる目つきで。

「…………ッ!」

 それは敵を見る目だった。
 グッと拳を握り、歯を食いしばり、殺してやりたいという目は生まれて初めて見るものだった。
 当然だ。信頼を裏切り、なにひとつとして話さず、ずっと黙り続けていた。逆の立場ならきっと俺も同じ目をする。

「声と雰囲気が似ていたから、必要な段階をいくつも超えて茜ちゃんは話しかけてくれた。眩しいくらいの人だ。夜は悶々と過ごしたよ」

 そのおかげで……いや、そのせいで俺は狂った。あまりの可愛らしさに、そしてあまりにも距離が近過ぎてめまいを起こした。我を忘れるほどのめまいを。

「克樹、お前は何も間違っていない。間違っているのは俺だ。ずっといい兄になりたかったけど、俺にはなれなかった」

 身体が凝り固まっていく。
 時間が経った紙粘土みたいに身じろぎもできなくて、関節がぎしっと鳴りそうなほどこわばっている。
 それでも弟の視線から目を逸らさない。逃げたいけど、もうそんなわけにはいかない。これからが罰を受ける時間なんだ。

「じゃあ金だけ置いて消えろ」

 一瞬、誰の声か分からなかった。
 振りかざされた拳、他人以下の相手を見る目、そして悪意に満ちた言葉が耳に響く。
 ごんっと続く衝撃はしびれるほど重く、それよりも豹変した弟を見るのはキツかった。

 こんがらがった糸だ。
 床に倒れ、がつ、ごつ、と殴られながらそう思う。
 ここまでひどかったのか。ひどいことをしたのか。険しい顔をして、泣きそうになりながら殴らなければならないほど弟を苦しませたのか。そして、ここまで追い込んでしまったのか。
 ようやく恐怖を覚えたのは、殴られて唇をざっくり切ったからじゃない。俺自身が心底恐ろしいと感じたからだった。なんてひどいことをしたのだろうと思い知り、怖くて身体の震えが止まらない。

「お前がいなくなれば元どおりなんだ。また俺だけを見てくれる。好きだって言ってくれる」

 すがりつくような言葉なのに、しかしその声と表情には希望なんて感じない。ただの願いだ。元どおりになんてならないと分かっていて、それでも振り絞るほどそうなることを願っている。

 俺だってそうだ。
 すごくがっかりして泣きそうだった。
 前に進んでも後ろに戻ってもなにも変わらない。ただ八方塞がりなんだとはっきり諭されて、救いなんてありはしないと分かってしまった。

 だけどもう二度と元には戻らない。それだけは分かった。
 ぴったりはまっていたパズルのピースは、もう形を変えてしまった。
 綺麗だなーと羨ましがった俺は手を伸ばし、触ってしまい、歪ませてしまった。そして微妙なずれや隙間にイライラして、先ほどは茜ちゃんを取り乱させてしまった。信用していたはずの克樹に心を許せなくなるくらい。

「だからもうくっつかない。二度と元には戻せない」

 ポツリとそう呟くだけで、克樹の振りかざした拳は止まる。腫れた目で見あげると、弟の怒りは哀しみに変わっていた。まるで老人のようにやつれて見えたのは、たぶん気のせいじゃない。

 ハーー、と克樹は疲れた息を吐く。
 まだ震える拳をゆっくりと開き、これまで馬乗りだった弟は立ち上がる。
 月明かりに見える弟の顔は相変わらず険しい。だけど疲れ果てており、どうしたらいいか分からずに迷っている風だった。
 こちらを見ることなく遠ざかり、うろうろ歩き、そして冷蔵庫をあける。そこにあった麦茶を手に取ると、コップに注いでから飲みはじめた。
 そして薄暗いリビングに弟の声が響く。

「どうしたらいいのか分からない……」

 道に迷い、途方に暮れる声だった。
 そこに仲間はおらず、自分だけしかいない心細そうな声。
 どうにかしてやりたくて俺も考えるが、いくら頭を絞っても答えはひとつしか見つからない。それは誰でも知っているとてもとても簡単なことだ。

「まず彼女に謝るんだ」
「は? ぜんぶ兄貴のせいだってのに、どうして俺が謝る!? 意味わかんねーよ……」
「そうだ、手を出した俺が悪い。だけどこれで終わりにしないで欲しい。全部分かった上で、彼女が泣き止むまでしっかり謝って欲しい」

 ギリッと睨まれて怖かったけど、全身がとても痛かったけど、テーブルに手をかけて立ち上がりながら俺はそう伝える。
 理屈じゃない。女の子を泣かせたらいけないというのは小学生に上がる前から教わることだ。しかし先生たちは誰も「なぜか」を教えてくれない。ただそうあるべきだと盲目的に伝えているのは、たぶんこういう意味がある。

「謝って、泣きやませて、どんなひどいことをしたのかをちゃんと教えてもらって、次は絶対に同じことをしないと彼女に誓うんだ。でないと本当に大好きな子にいつか嫌われてしまう」

 女を守るのは男の使命だ。そんなの時代錯誤だと笑われたって、人間の本質はずっと昔から変わらない。

 可愛い子がいたら守りたくなる。
 泣いていたら泣きやませたくなる。
 笑ってくれるまでなぐさめたらピクニックにでも連れて行って、もっと笑わせたくなる。そうしたらほら、可愛くて愛おしくてたまらないと思うだろ? 嬉しくて胸がジンとするだろう?
 だから、と俺は言葉を続ける。

「しっかり守ってくれ、克樹。頼む。茜ちゃんを本当に幸せにしてくれ。謝って、泣き止ませられるのはお前だけなんだ。でないと俺はもう……キツい」
「…………ッ!」

 本当に身勝手だ、俺は。喉をわななかせて、泣きそうな声でこんな頼みをするんだ。横恋慕をした最低の男だというのに、相手には完璧さを求めるなんて。
 信じられないものを見るような目も、兄弟であればなにを考えているのか分かる。困らせた張本人が俺であり、だけど彼女を幸せにして欲しいと心の底から願っているんだからな。

 歪んだパズルのピースは決してもうくっつかない。
 だけどもう片方が形を合わせてくれたら話は別だ。
 今度こそお互いが離れないくらい隙間なくぴったり収まるだろう。

「なんでだ……」

 ゆらりと克樹は幽鬼のように身を起こす。
 かつてない怒りを身体から撒き散らし、じっと俺をにらみながら弟は口を開く。

「奪いたいんじゃないのか! 俺に守れって!? ならどうして手を出した!」

 リビングに響く大きな大きな声。
 克樹の怒りが撒き散らされ、そしてシンと辺りは静まり返る。
 そろそろと息を吐きながら、俺もまた弟の目を見返した。

「お前じゃないと駄目だった」

 そう静かで泣きそうな声を俺は出す。
 克樹を信用したから、茜ちゃんは俺と仲良くしてくれた。最初は雰囲気が似てるからという接点しか無かったんだ。

 そう、最初のつながりはそれしか無かった。
 声が似ている、雰囲気が似ている。たったのそれだけだ。
 それがどうして、糸はこんがらがって今ではどう直したらいいかも分からない。

「信用されていたのはお前なんだよ。だから謝れ。謝って、また仲良くして、ずっと楽しく過ごすんだ」

 尚も同じことを言う俺に、ぐうっと弟は喉を詰まらせる。
 俺は間違っている。全て、全てだ。最初から最後まで近づかず、ただ可愛い子だなと羨ましがっていたら何も起こらなかったというのに。

 しかしそうであろうと、俺がすべての元凶であろうと一歩も譲れないものがある。それは彼女が幸せになるというただ一点に尽きる。
 俺の感情や恋慕なんてゴミだ。なんの価値もない。嘲笑して話のネタにでもすればいい。なぜなら俺は完全な部外者だからだ。
 その為ならひとことも声を出さず、泣きべそをかきながらベッドにうずくまり続けてやる。朝までだって耐えられる。

 ふらりと克樹は一歩前に進む。
 呆然とした顔つきは、俺の頑なな意思に呆れたからだろう。
 そして弟はかすれた声を響かせた。

「……さ、さっきのは当てつけだ。わざと聞こえるように戸を開けておいた」

「じゃあ、それもちゃんと謝るんだ。あと絶対にもう二度とそんなことをするんじゃない」

 ああ、俺にじゃないぞ。謝るのは辱めてしまった相手にだ。大事な恋人同士の語らいの時間をなんだと思ってやがる。一秒だって無駄にするな。
 その言葉を聞いても克樹の歩みは止まらない。
 ふらふらと歩いてきて、そして拳を振りかざす。

「なんで言わないんだ! 言えよ! 正面から堂々と、俺も好きなんだとちゃんと言え!」

 ぼろっと克樹が涙を流していた。
 正面から浴びせられた言葉に貫かれ、そして石のように硬い拳が頬にめり込む。視界がチカッとするほどの威力であり、だけど今もまだ克樹の声が耳に残っている。
 顔を戻すと、再び拳が引き戻されていくところだった。それをぼんやり眺めていると……不意に弟の顔が歪んだ。

「そんなずるいことをするな! 俺の兄貴だろ! 何も言わないで手を出して、最後まで何も言わないで消えるとか……ふざけんなよ!」

 がつんっと顎が跳ね上がる。
 頭の奥からキーンという耳なりが響いて、脚に力が入らない。耳もちゃんと聞こえない。それでもこいつの、克樹の声だけはちゃんと届く。

「茜ちゃんはな、いま兄貴を見ているんだぞ! 俺だって男だ。世界一好きな人のことなら、なんでも分かるに決まってんだろ!」

 ぐちゅっと嫌な音がして、鼻の奥に鉄の味がした。
 視界は赤く染まっていき、ただ克樹の「分かったか!」という泣いているのか怒っているのか見分けのつかない顔が映る。

 視界はぐるんと周り、立てているのかも分からない。いや、立っていた、という過去形が正しいのか。ごんっと床に跳ねた衝撃で、やっと気づけた。

 ああ、と喉が震える。
 真っ直ぐな弟の声は、鋭く俺の胸をえぐっていた。
 分かってる、分かってるさ。こいつは俺の弟なんだ。
 他のやつなら奪っていたかもしれないが、こいつだけは別なんだ。
 一本気があって、ふざけて見えるけど根は真面目で、だから任せられるって思ったんだ。本当なんだぞ?

 ◆

 ハーー、と克樹は息を吐く。
 そして床を見ると、ぴくりとも動かない兄の姿があった。

 兄に勝ったのは初めてのことだ。
 しかし、勝利による高揚感などみじんも無い。
 目の前で大好きな子が徹の頭を支えて、たくさんの涙をこぼしながら死にそうなほど心配しているのだ。これでどうやって喜べと言うのか。

「グ……ッ!」
「徹さんっ、徹さんっ、動かないで!」

 わずかに身じろぎすると、茜は涙をぽろぽろ流しながら顔を覗き込む。
 もしかしたら意識がほとんど無くて、夢のなかにいると思ったのかもしれない。徹は朦朧とした目で彼女を見て、そしてほうっと息を吐く。それはすぐ近くに彼女がいることに安堵している表情だった。
 だが彼女の手を握り、そっと囁きかける言葉に克樹は目を見開く。

「茜さん、ずっと前から、好きでした」

 まさか、と思う。
 まさかあれほど全力で愛していたのに、心の全てを彼女に捧げていたというのに……告白さえしていなかったのか?
 わっと涙をこぼし、彼の首にすがりつく茜の様子を呆然と見る。

 ずっとずっと、心の底から今の言葉を伝えたかったのだろうか。彼女の背中に手を置いて、辛そうな眉間の皺をやっと解いていく様子にそう思う。
 は、は、と息を吐き、そして彼の目から流れ落ちるものを見て……もう茜は耐えきれなかった。

「ずっと前から、知ってましたよぅ……」

 ぐすっぐすっと鼻を鳴らし、大事なものを守るように抱きつきながら彼女は答える。
 行いは過ちだった。兄のしたことは決して許されない。しかしこのときはなぜか誠実で静謐な空気があって、すうっと己のなかの鬼気が収まっていくのを感じた。

 兄の言葉は全て真実で、ただただ彼女のことを好きで、そして一番良い形を探そうともがき続けていた。
 そんな感情が情景から流れ込んできて、振り下ろすべき拳はだらんと垂れる。

「……克樹君」

 そんなときに彼女から声をかけられた。見れば兄を抱いた姿勢で、泣きはらした顔を向けている。
 ぐすっと鼻をひとつ鳴らすと彼女は頭を下げてきた。

「ごめんなさい。私、ひどいことをしました。それと恋人は解消させてください」

 言葉は何も出てこない。
 自分が正しく、また相手を叩きのめしたというのに、なぜか全てにおいて己が劣っている気がして動けなかった。
 ここまで相手を好きになれるだろうか。ここまで己を犠牲にして、ただただひたすら彼女のためだけに行動できるだろうか。

 だけどこれからのことを考えると怖い。
 世界一愛している彼女の隣に、きっと今度は兄の姿がある。
 いまの2人を見れば分かる。俺とは比較にならないほど愛し合うだろうし、たぶんものすごく幸せになる。

 冗談じゃない、そんなの悪夢に等しい。
 ほんの少し前は逆だったのに、などという鬱屈とした思いを抱えながら同じ空間になどいたくない。冗談じゃない。もしそんな目に合わされるくらいなら……死にたい。

 しかし続けて発せられた彼女の言葉に、克樹は再び目を見開いた。
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