告白

非イデア

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告白

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    それは、湿った6月のある日のことでした。
 当時4歳だった私は、母と弟と父の四人で、小さな古いアパートの3階に住んでいました。全部で3階建てのアパートです。地元の工場に勤めていた父は休日も勤めに出ることが多く、その日も父はいませんでした。
昼間なのに外は真っ暗で、曇った窓ガラスには、雨水が流れていました。
 木製のテーブルには、オムライスが二つ並べてありました。大きいのが母ので、小さいのが私のです。
 弟の龍太は、そこらじゅうの物を口に入れてみたくなる年頃で、母はその世話にてんてこ舞いだったはずですが、私のために、好物を作ってくれたのでした。もしかすると、私が焼きもちを焼かない様に、気を使ってくれたのかもしれません。
 そんなことも知らず、調子に乗った私は、プリンが食べたいと言いました。また今度ね、という母に私は駄々をこねました。何度も何度も「ぷりん、ぷりん」と地団太をを踏みました。口の中に流れ込む涙がしょっぱかったのを覚えています。
 母も、毎日続く弟の世話に疲れていたのでしょう。聞いたこともないくらい鋭い声で、「千尋なんか、もう知りません」と言い残すと、眠ったままの弟をおんぶして、雨の中に出かけていってしまったのでした。
 ひっくひっくとしゃくりあげながら、「おかあさん、おかあさん」と叫びました。玄関の扉を、何度も何度もたたきました。けれど、いくらたたいても、冷たく重い扉はそこにあるだけでした。
 ドアを開けることを諦めた私は、ベランダの方に走りました。金属製の鍵がかちっと回ったのを確認すると、私は力任せにガラスを横に押しました。泥水が靴下にはねるのも知らずに精いっぱいせのびをし、濡れた手すりにお腹を押し付けると、団地を後にする母の車が見えました。
 イライラを私にぶつけてしまわないように、母は出かけていったのかもしれません。しかし、そんなことは考えもつかなかった私は、まるでこの世の終わりが来たかのように泣き叫びました。
    いつごろ、どのようにして泣き止んだかは覚えていませんが、しばらくすると、私のかんしゃくは落ち着きました。
 そうこうするうちに正午をまわっていましたし、泣いて疲れたこともあり、空腹感を覚えた私は、テーブルのオムライスの前に腰掛けました。スプーンで薄焼き卵をすくうと、ケチャップで描かれたハートがぐちゃっと崩れました。
 一口食べるごとに母の顔や声が思い出され、大粒の涙がこぼれました。薄味のケチャップライスが何倍にもしょっぱく感じられました。空っぽになったお皿の底では、うさぎのキャラクターが笑っていました。
 雨は、次第に激しくなっていくばかりでした。時折雷鳴もとどろき、風のごうごうという音も激しくなっていました。
    空腹も満たされ、気持ちも落ち着いた私は、玄関で母の帰りを待つことにしました。
 ぴたん……ぽたん……ぴたん……ぽたん……。天井からの雨漏りが、玄関のタイルに跳ねています。
(お母さんが帰ってきたら、雨漏りのこと、教えなくっちゃ)
 不覚にも母のことを思い出した私の目には、一瞬にして涙がたまりました。涙を止めようと目を閉じると、体がふわっと軽くなりました。手足も、ぽかぽかしてきました。
 私は、薄汚れた玄関マットの上に、ゆっくりと横になりました。うっすらと目を開けると、天井から滴るしずくがよく見えます。
 ぴたん……ぽたん……ぴたん……ぽたん……ぴたん……ぽたん……。
 そうして私は、すうっと眠りに吸い込まれていくのでした。

    母が、私のもとに帰ってくることは、二度とありませんでした。 
    交差点で、信号待ちをしていた母の車に、居眠り運転の車が突っ込んだのでした。自動車は運転席を直撃したため、母と相手の運転手は即死でした。弟は一命をとりとめました。

「おとうさん、おかあさんおそいね」
そう言うとなぜ、父の顔が歪むのかもわからずに、私は2日ほど、そればかり言っていたように思います。
 ある時、父が言いました。
「お母さんはね、もういないんだよ。死んでしまったんだ」
普通に言ったら、おかしくなってしまいそうだから、あえて棒読みに、無表情にしてみる、という感じでした。
「おとうさん、おかあさんどこにいっちゃったの?」
父は、白髪交じりの眉を八の字にし、細い目に涙を溜め、私を見つめていました。
「僕らの知らないところ。僕らが生きている世界とは別のところだよ。お母さんは、千尋や、龍や、お父さんが生きている世界にはもう戻ってこられないんだ。もう、何もできない。話すことも、見ることも、笑うことも、泣くことも、怒ることも、何一つできないんだよ」
 説明されてもやっぱりわからなくて、だけど知りたくないようなことまで知ってしまった気がして、涙がこぼれました。弟もつられて泣きだしました。
父はただただ弟と私を抱きしめました。それは痛いほどに強く感じられましたが、私は父の大きさに、温かさに、救われました。頭の後ろで、父の嗚咽が聞こえました。
    母の葬儀は、親戚や親しい友人のみを呼んで、ひっそりと行われました。服も、靴も、かばんも、人も、空気さえも真っ黒で、私は押しつぶされそ
うでした。その真っ黒な空間の中で、母の遺影とその周りを飾る花々だけが色を放っていて、少し不気味でした。
   髪の毛をそった男の人が、聞いたこともない言葉を唱えているので「あのひとはだれ」と、父に尋ねてみましたが、父は答えてくれませんでした。腕につけた数珠を、ちぎれそうなほど握りしめているだけでした。
    私の後ろに座っていた叔母が、その男はお坊さんだということ、彼が唱えているのは経といって、死んだ者が成仏できるようにというお祈りだということを教えてくれました。ですが、お坊さんが力強く経を唱えるたびに、母が遠くに行ってしまう気がして、私は不安になりました。
   家具か何かでも入れてあるんだろうと思っていた大きな箱が開けられ、その中に母が眠っていた時の驚きは、今でも覚えています。遠い世界に行ってしまったといわれていた母が、目の前にいるではありませんか! 
    私は周りに集まる人々を押しのけ、母のもとに駆け寄りました。木の箱に手をかけて覗いてみると……やっぱり母でした。
「おかあさんっ」
抱きつこうとしましたが、箱の枠が高くてうまくいかなかったので、手を握りました。が、すぐに放してしまいました。母の手は、氷のように冷たかったのです。
「おかあさんっ、こんなところにいたの。さびしかったでしょ。せまかったでしょ」
 私は、乱暴に母を揺さぶりました。きれいに並べられた花々がちぎれました。
「このわんぴーす、あたらしくかってもらったんだよ。わたし、ほんとはくろなんてすきじゃないんだけどね、おとうさんがえらんだんだよ。わたしね、おかあさんがかってくれたやつのほうがすきなんだよ」
 母に話したいことがたくさんありすぎて、何から話したらいいかわからなかった私は、返事も待たずにまくしたてました。
「わたしね、ぐりんぴーすたべられるようになったんだよ。だからね、しゅうまいたべるとき、もうおかあさんにあげないんだよ。あとね、おとうさんね、ごはんのたきかたしらないんだよ。それでね、べちゃべちゃになっちゃったんだよ。あとね、あとね、おとうさん、ふたつむすびできないからね、きょうじぶんでやったんだよ。あとね、おかあさん……」
 不意に体が浮き上がりました。父に抱き上げられたのでした。父は私に、優しく微笑みました。あふれだす涙で、父の顔はびしょぬれです。
「おとうさん、おかあさん、いたよ。あそこにね、いたんだよ。とおいせかいになんか、いってなかったんだよ」
父の細い目からはさらに涙がこぼれました。
「千尋。お母さんは死んだんだ」
「でも、あそこにいるもん」
「身体はあそこにあるけど、中身は空っぽなんだ。お母さんの魂は、遠い世界に行ってしまったんだよ」
    父は、私を抱きなおしました。カチャカチャっと数珠のこすれあう音がしました。
「わたし、おかあさんにあいたいよ。まだね、ごめんなさいしてないから。ぷりんたべたいってわがままいってごめんなさい、っていってないから。わたしいわなきゃいけないの」
のどの辺りがきゅうっと痛くなり、涙があふれだしました。
 父は私を下ろすと、ゆっくりと手を弾いて、母のところへ連れていきました。
「千尋、お母さんは、返事をすることはできないけど、ちゃんと千尋の話を聞いているから、伝えてごらん。千尋が、どうしても伝えたいって思えば、お母さんには伝わるから。お話してごらん」
 ひっくひっくとしゃくりあげるのどを落ち着かせるため、ゆっくりと深呼吸してから、私は言いました。
「おかあさん、わがままいってごめんなさい。もうちひろ、わがままはいわないよ。りゅうちゃんにもやさしくするよ。おとうさんのいうこともちゃんときくよ。だからね、だいじょうぶだから。ちひろ、もうおねえさんだから」
 籠の中から、小さな花をつかみ取り、母の髪を飾ってやりました。保育園で習った髪飾りの作り方です。
「皆様、最後のお別れを」
傍らで見守っていた男の人が、静かに言いました。父を見上げると、
「ちいちゃん、お母さんにさよならするんだ。もう会えなくなるからね」
 私はこくりとうなずくと、ゆっくりと、ちいさく、しかしながら、はっきりと言いました。
「さようなら。おかあさん」
弟は、涙する祖母に抱かれ、眠っていました。私には、どうしてもそれが—母と別れるときに弟が眠っていることが、悔しく感じられましたが、私が声を出すより早く、お棺の蓋は閉じられてしまったのでした。


「お父さん、ハンカチ、落としてるってば」
 石の階段を駆け上がる。中学校に入学するまでは、運動の一つもしたことがなかったけど、テニス部に入ってからの厳しい外周のおかげで、体力も、筋力もついて来た気がする。運動っていうのは、してみるものだ。
「おお、ありがとう、千尋。……やあ、もう年だね。このお墓を買った頃は気づかなかったけど、この石段、すごいなあ。膝が痛くって」
「やだあ。お父さんたら。シップのCMみたいなこと言って」
「ははは。昔は、あんなの馬鹿にしてたけど、ほんとになるみたいだよ。千尋も気をつけなさい」
「何歳だと思ってんの」
「なんだよ、ばばあみたいな趣味のくせして」
後ろから石段を駆け上がってきた龍太は、ゲーム機を片手に私たちを追い越していく。
「こら、龍! ばばあとは何よ、ばばあとは! 落ちんじゃないわよ!」
 私はため息をつくと、帽子をかぶりなおした。
「千尋、お前、母さんに似てきたな。目じりとか、そっくりだ」
父が、まじまじと見つめてくる。
「そ、そうかな。まあ、親子だからね?」
嬉しかった。思春期に入り、変わり始めたと思っていた自分の顔が、母に似ている。嬉しかった。
 石段を登り終えた私たちは、座り込んでゲームに没頭していた龍太と合流すると、ひしゃくやたわし、バケツなどを手に取り、母の墓石を探し始めた。何度も何度も来ているはずなのに、毎回場所を忘れてしまう。不思議なものだ。
 じゃりじゃりと、当てもなく歩いていると、向こうで父の声がした。顔を上げると、花束をこちらに振る父の姿が見える。
 駆け寄ると、すでに龍太も一緒だった。父は、慣れた手つきで墓石の掃除を終え、花を挿す。私は、持ってきたカバンの中から選考の箱を取り出すと、数本抜き取って龍に渡した。花を整え終わった父にも渡し、最後に自分の分を取る。
 父が付けたライターに順番に線香を近づけ、香炉にそっと置いた。線香の香りと煙が、風に流れる。
 父と龍が合掌を始めたので、私も慌てて手を合わせる。目を閉じると、湿った匂いがよく感じられた――

 お母さん、お元気ですか。私、千尋は高校生になりました。1年3組です。担任の先生は女性で、おばさんだけど、ちょっと美人です。部活は、テニス部に入りました。
おばあちゃんに料理を教えてもらって、お父さんと私のお弁当や、毎日の食事も作れるようになりました。今はレパートリーも少ないけど、どんどん開拓していこうと思っています。この間、料理本を買ったので。
    さて、お母さんが亡くなってから、八年が経ちました。今考えると、お父さんは4歳の私に、ずいぶん難しいことを教えたと思います。死ぬとは何か、とか、死んだらどうなる、とか。私も、疑問が解消されないと気が済まない性分でしたから、父も大変だったと思いますが。
    そんな父でも、一つだけ、教えてくれなかったことがありました。それは、あなたの車からプリンが見つかったこと。法事の時に親戚が話していたのを聞いてしまったんです。
私は、苦しさに悶えました。以前から心にぼんやりと渦巻いていた罪悪感が浮き彫りされたのです。私という人間が、この世界に、こうして生きているだけでも大罪に思えました。自分を恨んで憎んで、貶しました。そして、プリンのことを知りながらも私を愛してくれた父を思い、涙しました。
    「生きる意味」や「生まれた理由」という言葉ばかりが頭の中をぐるぐる回る日々の中で、やがて私はある決心をしました。
    お母さん。私は、私の人生を精いっぱい生きようと思います。大切に、大切に、生きようと思います。もちろんこれは自己満足にしかすぎず、そんなもので償いになるとは思っていませんが、見守ってくれるとうれしいです。

                           Fin.
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