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第一篇
52.その身の仇 1 ※
しおりを挟む天月とふたり、翠玉宮で朝食を取った後、それぞれの宮へ見世の準備に向かうために一緒に番台へ下りた。そこで待ち構えていたのは、見覚えのある妖だった。
「翠月、それから天月も、少しいいかしら?」
蒼玉宮の一番手・天月を敬称なしで呼んだのは、薄紅の着物を纏った薄氷だ。そっと肩に置かれた天月の手に振り返ると、天月は首を横に振った。何も言い返すなと、目で訴えてくる。
紅玉宮で見習いになった薄氷と、同じく紅玉宮の見習いとなり薄氷の後ろに控えていた白露についていくと、深碧館の正面の門から出て橋の向こうへ行こうとする。声を掛けようとするのを、天月にまた止められてしまった。天月は、翠月を後ろに隠すように前に立ち、ふたりと対峙した。
「知ってると思うけど、僕たちは深碧館から出ないように言われてる」
「生意気な。妖の言うことが聞けないの?」
天月は深碧館では敬称を付けられる立場だが、そもそも人間で、下に見られることも多い。抵抗すれば、深碧館の見世に関わってしまうと、稽古に付き添ってもらっていた時もいつも反抗しなかった。翠月も苛立ちはするが睨むことしかできない。天月が、それ以上のことを望んでいないし、そもそもこの世界の先輩で、芸者としても先輩の天月に、翠月も従うしかない。
「人間のくせに、御客に気に入られるなんて」
「緑翠さまも、どうしてこんな子気にかけるのよ。糸遊さまもお怒りなのよ!」
(ああ、糸遊さん絡みか…)
妙に納得してしまった。あの紅玉宮の一番手は、緑翠への好意で一番手に登ったと小耳に挟んだし、緑翠の居る翠玉宮で暮らす翠月が邪魔なのだろう。翠月と稽古が同時期だった薄氷と白露が紅玉宮に配属になって、唆したのだろうか。流れとしては想像しやすいが、ここまでの行動に出るのは理解に苦しむ。この行為で迷惑を被るのは、楼主である緑翠だと、どうして分からないのだろう。
目の前には、男の妖が待っている。宵ほどガタイがいいわけではないが、天月では力で敵わないだろう。翠月も同じだ。
「薄氷、これだな?」
「そう、酷い匂いでしょう? 花街の最高級館を穢す匂いよ」
協力者の妖が、手を前に出し妖力を放った。当然、翠月は気を失った。
*****
翠月や天月はニンゲンで、妖力への対処ができない以上、ひとりで外には行かせられない。少なくとも、宮番は皆そう思っていたはずだ。
普段、芸者や働き手たちにまともに話しかけられることのない翠月と天月が、呼び出されて下町に出て行ったのを不審に思い、後をつけた世話係が様子を見ていたらしい。
黎明から報告を受けて緑翠が探った自らの妖力は、深碧館の中にあった。緑翠の妖力が込められ、翠月の左親指に嵌まっているはずの指輪を、名前も覚えていない紅玉宮の下位芸者が着けていた。
「見て、この指輪!」
「あら、緑翠さまと同じ色?」
「……」
緑翠と同じく、天月のことを聞いて慌てて下りてきた、宵と番台前で出くわした。できるだけ動揺を外に出さずに、深碧館から橋へ向かう。緑翠が翠月の位置を探るには、あの指輪が必要だった。緑翠の妖力が込められた指輪を翠月が身に着けていたからこそ、あの日翠月が渡って来たことも、緑翠は感じられたのだ。
(…宵と鉢合わせて、よかったと思うべきだ)
「宵、お前が探れ。俺の妖力を翠月は持っていない」
「…こちらです」
その言葉の意味は、宵なら分かる。天月とすでに共寝をしている宵は、明確に天月の位置を感じられる。天月の身体に、宵の妖力が流れているから、それを追えばいい。
(天月と翠月が、一緒に居てくれたらいいが…)
深碧館の正面の橋を渡り小路に入る。川沿いを走り辿り着いたのは、薄い結界の張ってある小屋だった。扉を開けると、足を抱え腰を打つ天月が目に飛び込んできた。その下に居るのは、着物のはだけた翠月だ。他には誰もおらず、妖力を行使した妖は小屋の中にはいなかった。結界を解きながら入ったことで、この妖力の主にはニンゲンが助けられたことが分かったはずだ。
(考えうる中で、最悪の出来事だ…、ニンゲンが、襲われた。しかも、深碧館内の妖に)
天月が自身の意思ですることでは当然なく、妖力に当てられ操られているのは明白だった。顔も火照っていて、宵との共寝で意識を失わずに済んでいるだけだ。翠月は目を閉じたまま顔をしかめてうなされていて、妖力に当てられた典型的な症状を見せていた。
短く一息吐いてから、緑翠はニンゲンふたりに近づき、まずは助けが来たことに気付いていない天月の頭に触れた。緑翠の妖力を上掛けしてやると、無理に動かされていた天月が倒れる。すかさず宵が自身の羽織をかけてやりながら支えに入った。ぐしゃぐしゃに顔をしかめている天月の目は、開いたままだ。位が高く強力な緑翠の妖力を更に当てることで、操られた動きは止まった。
(妖力はそこまで強くはない…。貴族ではないな)
翠月の髪に触れると、大量に汗を掻いて湿っている。天月に掛けた妖力と同程度をかけてやると、眉間の皺が薄くなり、多少落ち着いた寝息が聞こえてくる。翠月は、緑翠の妖力には当たらない。緑翠とは別の妖力が消えたわけではないため、おそらくしばらくは寝込むことになるだろう。着ていた羽織で翠月を包み、顔を隠すように抱きかかえる。
宵も妖として妖力を扱えるが、緑翠に加勢せず、天月をとにかく抱きしめ、顔を上げない天月の額に唇を寄せ、自身の妖力を分けていた。宵自身も男色で、天月の趣向に理解がある。意識がある中で操られ、無理に女へ突き立てなければいけなかった天月を、とにかく安心させてやりたいのも分かった。宵の腕の中には、宵の着物に顔を埋め、震える天月の姿がある。
「……そんなに泣くなっ、天月」
宵が移動できる程度に天月が落ち着くまでの間、小屋に何か証拠はないかと、緑翠は翠月を抱えたまま見回してみるが、特に見当たらず目を細めた。この様子では、外に出ても手遅れか。おそらく、この結界やニンゲンを操った輩は、この場には現れない。返り討ちに遭うのは目に見えているはずだ。
世話係からの報告を受けてから、そこまで時間は経っていない。後処理には朧が来るから、証拠含め任せていいだろう。
妖同士の妖力は、その妖力を感じた事があればそれなりに追える。特定されてしまうため、高位貴族であるほど民衆の集まる前で妖力の放出をしないのが常識だ。ニンゲンは妖力を持たないため、妖力を込めた何かを持たせるしかない。
小屋の外に出ると、丁度朧がやって来たところだった。目を合わせると会釈をされ、言葉は交わさずに深碧館へ急いだ。
目立たない裏路地を選んで進みながら、翠月と天月、宵の心を探った。緑翠の妖力が下町に漂うことは今までなかったが、今日は小屋にも結界が張られていて、平民では誰の妖力かは判別ができない。周囲に貴族が居れば話は別だが、下町に居る貴族は柘榴くらいしか知らなかった。もし他に居たとしても、最高位貴族が無碍に扱われれば、夜光が黙っていない。
妖相手に使えば相手にも感じ取れてしまうが、今回はニンゲンがふたり関わっている。天月は今、どのみち妖力に当てられ宵に抱えられているし、宵も天月で頭が占められ、自身が探られているとは思わないだろう。
(天月の、揺れが激しい…。宵にも、衝撃だったろう)
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