19 / 116
第一篇
18.各見世の稽古 1
しおりを挟む朝、障子から差し込む光に目を覚ますと、声が聞こえる。とりあえず広間に出ると、緑翠と天月がすでに待っていた。
「翠月、稽古に出てみるか」
「…はい」
少し寝ぼけたままに返事をして、緑翠に見送られるように天月とふたり、広間を出た。途中、洗面台に寄ってもらって、軽く顔を洗ってから、梯子を下りる。
「緑翠さまは、藍玉にはあまり来ないんだ」
「どうして?」
「楼主さまでここで一番偉い妖だろう? 独特の容姿だし、みんな集まっちゃうらしい。見世の準備でも、緑翠さまは直接上階に来られるよ」
「なるほど?」
「芸者の中には、緑翠さまに気に入られたくて頑張るような、お門違いのやる気を見せる芸者もいるから」
確かに、長い銀髪の容姿は他に見ない。妖の中でも緑翠は高位だし、それが関わっているのかもしれない。
(深碧館で長く過ごしていても、楼主さまは物珍しく見えるの? 私が一緒に居すぎて慣れすぎている?)
ふたりで食堂で朝食を頂く。食材は変わっているけど、味は変わらず美味しい。
「婆さんの稽古、僕には厳しく感じられたけど、翠月は余裕だと思う」
「婆さん?」
「先生だよ。稽古に目途がついて座敷に出るようになると、『先生って呼ぶな』って怒られるようになるよ」
「へえ…、すぐ来るのかな」
「妖によるらしいけど、翠月は座敷の所作ができるし、見世もいくつかできそうだし、余裕かなって」
「やってみないと分からないよ」
「それは、そうだけどね、僕は心配してない。蒼玉の一番手に言われてるんだ、自信を持って」
「うん」
天月は、《翠月》と書いたあの二文字しか見た事がないし、書道と琴をやっていたと話を聞いただけなのに、その顔は自信たっぷりだった。
(よっぽど、ここの所作や稽古に苦労したんだ…)
食べ終わって片付けを済ませて、隣の稽古場に入る。すでに座卓と座布団は並べられていて、藍玉宮で寝起きしていることが分かる、明るい青の着物を着た若いふたりの妖が待っていた。その他に目立つ装飾はなく、宮番と違って見分けられなかった。
天月に、まずは前に立つ先生の横に座るよう言われる。薄青の落ち着いた着物で、それなりに年を重ねた女性だ。
「今日から一緒に稽古をする翠月だね? 話は聞いているよ。白露、薄氷とも仲良くするように」
「よろしくお願いいたします」
婆から紹介されたため、頭を下げる。何も指示が来ないため、自分の判断で姿勢を戻すと、天月が既に座卓の前に座っていて、横に来るように呼んでいる。白露、薄氷と呼ばれたふたりと、真横に並ぶ席順だ。ふたりは、たぶん慣れない人間の匂いに、顔をしかめている。
「天月さまも、お稽古を?」
「見学ですよ、婆さん。緑翠さまに頼まれているので」
「へえ、翠さまがねえ…」
(一番手の天月は、先生から『さま』付けされるのか)
少し驚いていたら、婆に座卓ごしでも、頭から足の先まで、全てを品定めするように凝視されたのが分かった。緑翠のことを《翠さま》と呼んでいるのも気になったけど、「そうかい」と一言呟いた後、「さ、始めるよ!」と威勢の良い声が響いて、翠月が口を挟む間はなく稽古の説明が始まった。
「よかったね、認められたみたいだよ」
隣から天月が話しかけてくれた。でも婆の視線が向いているから、頷くだけにしておいた。
一日ひとつの見世稽古をするわけではなく、全種類を少しずつやってみて、得意が見つかればそれを伸ばすように稽古の内容が変わるらしい。白露も薄氷も、稽古は始めたところで、どれを伸ばすか見極めている最中だそうだ。
初めに、天月が勧めてくれた書をやってみた。寝間に用意されていたのと同じような、漢字の文章の書き取りだった。少し書いただけで、隣にいた天月が婆を呼んで、見せる。婆は特に驚くこともなく、頷いただけだった。
「どういう意味?」
「褒められてる。翠月は所作からして座敷に慣れてるから、得意を確信したんだと思うよ」
(…そうは見えなかったけど)
天月が笑顔で楽しそうにしているから、それ以上触れなかった。向こうの世界で褒められることは少なかったから、翠月の感覚がズレているのかもしれない。
せっかく準備した硯や筆があるから、片付ける前にと、天月が「名刺を用意するといい」と教えてくれた。切った紙に自分の名前を書いておくだけだが、それだけでもこの世界では名刺代わりになるらしい。後で緑翠か朧に、深碧館の判子を借りて押すと、より箔のついた名刺になるそうだ。
楽と呼ばれる琴の演奏も、翠月が身に着けているものとほぼ変わらなかった。緑翠から「外すな」と言われている指輪は、感覚が変わってしまうのが不安だったが、着けたままでもそれなりに鳴らせたため、結局外さなかった。譜面も、大きく理解できないこともなく、分からない部分も聴かせてもらえば真似をすることができた。
書に続いて楽もこなせてしまう翠月に、婆は表情を変えない。でも、変わらず天月が嬉しそうだ。
(これで、いいんだ)
世話係の演奏に合わせて踊る舞も、白露や薄氷と比べて覚えが早かった。リズム感は、幼い頃からの琴で養われていた自信があったから、体育のダンスも、特別苦手には思っていなかった。ちなみに天月は、実践稽古のある見世の中では舞が一番得意らしい。
「翠月ほど、明確にこの見世が得意っていうよりは、これが御客の前で披露できそうだからって理由で、そこまで誇れる評価じゃないんだ。まだまだ修行中だよ」
「一番手でも?」
「悔しいけど、蒼玉だから一番手で居られる。後輩も他より少ないけど居ないことはなくて、僕自身先輩を追い抜いて一番手になった。できればこのまま一番手で居たいね」
「位はどうやって決まってるの」
「あくまで予想だけど、宮番と緑翠さま、朧さまの評価だと思う。見世への向き合い方とか、宵さんとはかなり話したから」
「なるほど」
最後の実技稽古、語は、小説を朗読するものだった。この世界の文章は漢字ばかり。天月も同じく語は苦手で、早々に諦めたらしい。読みやすく書き取り直してもいいかと思ったが、翠月にはすでに書や楽、舞もある。「わざわざやりにくい見世を頑張る必要はないよ」と、天月に言われた。
「僕たち蒼玉の芸者は、自分から語ることは少ないし、あまり気にならない部分でもあるけどね」
「そうなんだ?」
「紅玉とか黄玉は、女の声で魅了するのもひとつ、見世として成り立ってるけど、翠月は他の見世が十分通用する」
満足そうな天月の笑顔に、翠月は安心した。あれだけ馴染むのが難しくなさそうと言われて、もし稽古を大変に感じたらどうしようと、少し不安に思っていたのだ。できることとできないことがはっきり分かったら、できることを頑張ればいいのが、この世界なんだろう。
床見世の実技は流石にない。ただし、艶本はあった。持ち帰って読むことが見習いの宿題となるが、翠月は語の本も十分に読めないため、免除となった。男女の身体の仕組みや、御客と会話する上で必要な表現などが書かれているそうだ。天月も、免除されていたらしい。
「見習いのうちに、たくさん床を見せてもらうといい。初めは衝撃あって当然だし」
「想像できない世界」
「十四の女の子だもんね。男の僕には聞きにくいかもしれないけど、確認してあげることはできるから」
「うん」
「御客との距離の取り方も、覚えていかないとね」
「距離?」
「誰とでも床に入るのが見世じゃないよ。芸者側も信頼できる御客を選べる。強引に襲うような御客は居ない高級館だけど、多少揺さぶってくる妖は居るからね」
「……?」
「見習いの間に、たくさん見世に同席すれば分かってくるよ」
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【R18】淫乱メイドは今日も乱れる
ねんごろ
恋愛
ご主人様のお屋敷にお仕えするメイドの私は、乱れるしかない運命なのです。
毎日のように訪ねてくるご主人様のご友人は、私を……
※性的な表現が多分にあるのでご注意ください
隣の人妻としているいけないこと
ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。
そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。
しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。
彼女の夫がしかけたものと思われ…
彼女の母は蜜の味
緋山悠希
恋愛
ある日、彼女の深雪からお母さんを買い物に連れて行ってあげて欲しいと頼まれる。密かに綺麗なお母さんとの2人の時間に期待を抱きながら「別にいいよ」と優しい彼氏を演じる健二。そんな健二に待っていたのは大人の女性の洗礼だった…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる