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「お願いします!」
今年も残り一月を切った頃。
警視庁特殊事件対策室主任の高瀬文孝は、庁舎六階に位置する捜査一課の大部屋から聞こえてきた悲壮な声に足を止めた。
ふと覗き込んでみれば、捜査一課長の因幡警視のデスクの前で、一人の老人が床に額を擦り付けているのが目に入った。土下座だ。
「もう一度、もう一度調べて下さい!」
「しかしですねぇ」
因幡は老人を見るでもなく、デスクに両肘を突き、手の平にすっぽりと収まる小さな携帯ゲームをピコピコと弄りながら続けた。
「お嬢さんは自殺と断定されたんですよ。西川さん」
「何かの間違いです! あの子が自殺なんか──」
「皆さんそう仰るんです」
反論する老人の言葉にそう被せ、「ですがね」と、因幡は不愉快そうにゲームを机に投げ出して指を組み、ようやく老人を見た。
「大概はその原因に、ご家族が気付いていなかったに過ぎないのが実情です。それに、お嬢さんは一人暮らしで、一緒に住んでいらっしゃらなかったんでしょう? 全く。あなたがどうしても会いたいと仰るから、娘さんの件が終結した礼でも言いにいらっしゃったのかと思ってお通しすれば……。持って来たのが菓子折りではなく、クレームとは」
「でも刑事さん」
「警視ですッ」
因幡はキッと眉を上げると、デスクの上の名札を持ち上げた。因幡にとってキャリアである事は一種のステータスシンボルであり、同時に階級は非常に重要なのである。
「大体ね、西川さん。我々も忙しいのですよ。西川さんも、新聞やテレビで連続婦女暴行殺人事件の事はご存じでしょう? 今、その捜査が大詰めを迎えているんです」
「ですが、あの子は──」
「くどいですよ」
食い下がる西川をひと睨みすると、因幡は腰を下したまま、革張りの椅子をくるりと回転させて背を向けた。
「あンの野郎……」
廊下から様子を見ていた高瀬は舌打ちした。
因幡の姿は、無駄に大きな椅子の背に隠れて髪の毛一本見えない。
しかし、あれは明らかに「聞く耳などない」という格好だ。
そしてそれは単なるポーズではない。本当に聞く気がないのだ。
何しろ因幡は出世欲が強く自己中心的で、プライドは北京タワー並みに高いが、その背丈は郵便ポスト程度。加えて、思考もその背丈同様小学生レベルである。
仕事を損得で選び、自分のキャリアのプラスにならない事案はゴミ扱いだ。
これは因幡と折り合いの悪い高瀬の主観なのだが、因幡からの陰湿な攻撃を恐れて態度に出さないだけで、他の捜査員もほぼ同意見である事は事実であった。
そしてどうやらこの事案も、キャリア警視因幡にとって単なるゴミである事は間違いなさそうだ。
自分も充分曲がっていながら、他人の理不尽が許せない高瀬は、ずかずかと大部屋を突っ切ると割って入った。
「おい!」
「高瀬警部補。警視の御前ですよ」
因幡のデスクに手の平を打ち付けた高瀬を嗜める者がいた。因幡のお気に入りである森永警部補である。
中性的とも言える整った顔は無表情。しかし、その視線は冷ややかだ。
高瀬と森永は暫し無言で視線をぶつけ合った。
「おや。礼儀を知らない人だと思ったら、あなたですか。高瀬警部補」
わざとらしい。
高瀬は手を引っ込めると、再び椅子を回転させて正面に向き直った因幡を睨んだ。
犯罪者すらも震え上がると言う、凶悪極まりない顔だ。
しかし、日頃から高瀬と衝突する機会の多い因幡が怯む事はなかった。
小馬鹿にしたようにフフンと鼻を鳴らすと顎を上げ、「で?」と、ゆっくり椅子の背に体を沈めた。
「何か御用ですか? ヒマを持て余していらっしゃるのかな」
「ンだと?」
「高瀬警部補。もう少し言葉遣いを改められないんですか」
高瀬はまたしても因幡の腰巾着に注意された。今度は森永警部補の相棒、明治警部補だ。
アメリカ人の母と、秋田県民の父とのハーフである明治は、長身を反らすと自慢のハニーブロンドをかき上げ、「これだからノンキャリは」と大げさに溜息をついている。
(つくづく嫌な奴らだ)
同じ警部補でありながらあちら二人はキャリア。こちらはノンキャリ。この先どんどん引き離されていくことは目に見えている。
(オベンキョーが出来たってだけで、何の取り得もないバカの癖に)
高瀬はじろりと三人を睨むと後ろ手に手を組み、天井を見上げて言った。
「もうちょっとぉー。ちゃんとぉー。話をぉー。聞いてやったらぁー。どうなんスかねぇー」
「激写ッ!」
「ぶわっ!」
突如、顔の前に何かを突きつけられ、思わず仰け反った高瀬は尻餅をついた。
「激写ッ!」
「激写ッ!」
と、次は腰巾着2人にも何かを突きつけられる。
目の前に白い光が瞬いた。
「ヤロッ、なにす……」
床に座り込んだまま手を振り回して跳ね除け体勢を整えた高瀬は、目の前の光景にポカンと口を開けた。
今の今まで高瀬と睨みあっていたキャリアの3人が3人とも、背中を丸めて携帯電話を弄っていたのである。
「なんなんだ……?」
「バカ面を撮りました。が!」
そう言って自分の携帯電話の液晶画面をじっと見つめると、因幡は鼻に皺を寄せた。
「不細工な……。メモリのムダでした。消去ッ!」
「消去ッ!」
「消去ッ!」
「お前ら……」
「いいですか?」
因幡は携帯電話をポケットに滑り込ませると言った。
「捜査一課は、刑事局のお荷物である対策室のようにヒマではないんですよ」
「なに?」
「おや? 違いましたか?」
勝ち誇ったような因幡の表情に、高瀬は下唇を噛んだ。
事実、対策室はいつも暇で、異質な事件との名目で捜査一課のおこぼれが回されてこない限り、本家であるその捜査一課の使いっ走りをしていた。
それだけに言い返しようがなかったのである。
そんな高瀬の様子が因幡を更に調子付けたようだ。その証拠に因幡の鼻の穴が大きくなっている。それがまた高瀬のカンに触った。
「ああ、そうだ」
そんな事を知ってか知らずか、因幡は更にたたみかけてきた。煽っていると言っても過言ではない。
「あなたがそちらのお客人のお話を聞いて差し上げたらどうですか? 時間は腐るほどあるでしょう。それとも、我々の捜査のクオリティには、やはり適わないと思っているんでしょうかね」
ちょっと考えれば、因幡が面倒な年寄りを高瀬に押し付けようと言う公算である事に気がついただろう。
だが、単純な高瀬は、あっさりとこの挑発に乗ってしまった。
「やってやろうじゃねぇか」
「ほう。それはいい」
因幡は眉を上げると、すぐ後ろに控えている忠実な部下を呼んだ。
「明治君。例の物を。高瀬警部補は暇つぶしをしたいらしい」
「暇つぶし……。承知致しました」
それは直ぐに因幡に手渡され、同様のものを、何故か明治は森永にも手渡し、自分も手にすると顔を綻ばせた。
「やっぱり暇つぶしの定番はコレですよね。いやぁ。捨てなくて良かった」
プチ。
「たまにパチンなんて大きな音が出ると、大当たりを引いたような気になるよね」
プチプチ。
「うむ。大きなのが手に入った時は、贅沢に雑巾絞りの要領で一気にプチプチプチー! なんてやってみたりなんかしちゃっ…………って、このスカポンタン! 誰がエアパッキンなんか持って来いと言ったッ! バカ明ぎ……ギャッ!」
興奮のあまり舌を噛んだ様だ。因幡は目を剥くと口を押さえ、もう一方の手でバンバンと椅子の手掛けを叩いたが、そこで高瀬の視線に気付いたらしい。
深爪した人差し指を突きつけると、縺れた舌で悪態をついた。
「にゃにゃにゃにゃにゃんだ、きしゃま、しょの目は! ニョンキャリにょ分際れ、キャリアを侮辱してるらろ!」
「べぇっつに」
「お、おにょれ……。もりにゃがーッ! も……」
「警視、落ち着いて!」
そう言って森永は、闇雲にデスクを叩く因幡の前に捜査資料を差し出すと、肩を上下させている因幡を椅子ごと自分の方に向け、「しっかり! しろたん!」と、甲高い声を上げた。
見れば、森永の右手には手作りと思われる、フエルト製の女の人形が嵌められている。
その人形の顔を見た途端、高瀬の顔が奇妙に歪んだ。
かなりデフォルメされてはいるが、見覚えがある。
日売新聞の女記者。警視総監の令嬢。そう、水野遠子だ。
「自信を持って! しろたんはステキよ!」
言いながら森永が人形を左右に揺すると、因幡はもじもじとくすぐったそうに体をよじった。
「そ、そーかな」
「そーよ。賢くって品があって。そんなしろたんが、とーこはすき」
母親が園児を宥める様な陳腐な人形劇。
果たしてそれは絶大な効果を上げた。
「まっ、そんな訳ですから」
高瀬に向き直った因幡の声には、すっかりいつもの尊大さが戻っていた。
「気が済むまで掘り返して構いませんよ。無駄骨でしょうがね」
言い終わるが早いか、因幡は高瀬の顔目掛け、捜査資料の入ったファイルを投げつけた。
幸い、すんでのところで叩き落としたので、それが高瀬の顔に当たる事はなかったが、高瀬は既に髪が逆立とうかと言うほどに腹を立てていた。
「爺さん、ついて来な!」
「あ、あの……」
老人の細い腕を取り立たせると、高瀬は因幡を指差した。
「吠え面かくなよ」
大部屋中の捜査官が見守る中、そう言って背中を向けた時だった。
「高瀬警部補」
「なんだっ!」
「資料をお忘れですよ」
言いながら薄く笑う森永から無言で捜査資料をひったくると、高瀬は老人を伴い、大股で捜査一課を後にした。


「は~。高瀬警部補の無礼にも困ったもんですね」
高瀬が出ていくと、明治は首をコキコキ鳴らし、長い溜息をついた。
大部屋全体も平静を取り戻し、捜査員もそれぞれの仕事に戻っている。
「全くだ。ああ、明治君。お茶」
「え?」
自分と同様に、首を鳴らしてコリを解している因幡を見下ろすと、明治は「警視ぃ~」と眉尻を下げた。
「牛乳の方がいいんじゃないですか? チビとヒステリーには牛乳が一番ですよ?」
「うるさいっ! 大体っ! 大体、お前が一番無礼なんだ! このバカ明治!」
明治はいつでも悪気がない。
それが彼の長所でもあり、一番の短所だ。
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