不動の焔

桜坂詠恋

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本編:第二章

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 ここ東京には、五色不動と呼ばれるものがある。
 五色不動とは、目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の5つの不動尊の総称で、寛永年間の中旬、三代将軍徳川家光が、明智光秀であるとも言われている慈眼大師こと天海大僧正の建言により、江戸府内の周囲5つの方角の不動尊を選び、江戸の鎮護と天下泰平を祈願したことに由来したものだ。
 五色不動の五色は、密教の陰陽五行説に由来し重んじられた青・白・赤・黒・黄の事で、青は東、白は西、赤は南、黒は北、そして黄色は中央を表している。
 実際の五色不動は、この五行説で説明される位置とはかけ離れた配置となっているが、それでもこれらの寺院が現在の東京湾を中心に半円を描く形で点在し、その中に江戸城が位置していたのは事実である。
 そしてそれは強力な結界によって守られていた。
 今となっては、家光に五色不動を作るよう建言した天海大僧正の心の内に、一体どのような設計図があったのか図り知ることは出来ない。
 だが、また彼も、明治以降、廃寺、統合などで不動尊が移動し、その効力が失われるなどと思いもよらなかっただろう。
 そんな東都五色不動の1つとされ、豊島区の学習院大と、文京区の日本女子大に挟まれるようにして存在する目白不動寺へと向かう坂を、大神千里は下っていた。丁度、高瀬が柴田の運転で御岳山を出発した頃だ。
 彼にとっては歩きなれた道だ。迷う事は無い。
 だが、土地勘の無い人間はそうも行かない。
 本来、実に分りやすい場所に位置しながら、ここへ誘う数多くの案内板を鵜呑みにすると、ぐるぐると際限なく近辺をさまよう羽目になるのだ。
 そのくせ、誰もその案内板を直そうとしないのだから、実に不親切極まりない。
 ともあれ、向かう不動寺は、坂を下り切った所にある交差点の直ぐ手前に山門を構えており、その左脇に「長せ寺」と書かれた古い碑、右脇に幕末近くに作られた「不動明王像」がある。
炎を背景に、剣を携えるそれを横目でちらりと見ると、千里は額の汗を拭い、境内へと続く石段に雪駄の足をかけた。
「おっ、千里じゃねえか」
 背後から掛けられた声に、千里はゆっくりと振り返った。
「随分と久し振りじゃねえかよ。里帰りかい」
 江戸っ子らしい口調で話し掛けてきたのは、白髪交じりの短髪にねじり鉢巻、黒い作務衣ズボンに白い甚平姿の男。千里が良く知る、すぐ近所の鮨屋の親爺、港船一だった。
 自宅と兼ねた店の駐車場で鶏を飼っており、その卵で作った焼きプリンが、裏メニューとして密かな人気を博している。
 勿論人気の秘密は裏メニューばかりではない。
 この港のキャラクターにも人を呼ぶだけの魅力があった。今では懐かしい、下町の雷親爺なのである。
 千里が小学生の頃など、学校帰りによく鶏小屋から卵を失敬してはこの親爺の拳骨を食らったものだ。
 隣近所の子供はみな自分の子と同様に気を配り、そして叱り付ける。そんな下町的な熱い親爺だったが、何故か子供達は皆、この雷親爺を慕っていた。
 それは千里も同様で、ある日突然やって来た、愛想の無い、住職の「息子」に対し、他の子供と変わりなく、なんの詮索をすることなく怒鳴り散らした港が好きだった。
 千里は石段に乗せた足を下ろすと、汗の滲んだ陽に焼けた顔に、深い年輪を刻んだ港に向き直った。
 しかし、急に小さな子供に戻ったような気がして、妙に照れ臭い。
 千里は後頭部を掻いた。
「まあ、そんなとこ」
「あの男前とチビはどうしたんでぇ?」
 港はカメのように首を突き出すと、千里の背後をチラチラ見ている。
 それに苦笑すると、千里は坂の上の大通りを親指で指し示した。
「一緒だよ。大通りのコンビニに寄ってる」
 とは言っても、買い物に寄っている訳ではない。用足しだ。
 JR目白駅を出て500メートル程歩いた頃になって、大樹が「ふえーん。おしっこー!」と足踏みをし出したばかりか、「もう、もれちゃうよう!」と騒ぎ始めたのである。
 漏れちゃうと言う事は、それ以前の時点で既に催していた筈である。何故駅に着いた時に済ませておかなかったのかと腹が立ったが、往来で漏らされても敵わない。
 結局、じくじくと内股になる大樹を小脇に抱え、そこから更に4~500メートル離れたコンビニまで猛ダッシュする羽目になった。
 とは言え、当然千里が大樹の用足しを待つはずが無く、コンビニに放り込むと、例の如く面倒は大沢に任せ、この通り、自分はさっさと先を急いだのだが。
 元来子供好きの港だ。幼児と信じて疑わない大樹が気になったのだろう。鼻の下を擦ると、「そうかい」と残念そうに肩を竦めたが、直ぐに人好きのする笑顔を浮かべ、千里の腕をポンと叩いた。
「まあ、もう少し頻繁に顔を出してやんな。天海さんも喜びなさる。ああ見えて寂しがりだからよう、あの人は」
 言いながら腕を組み、ウンウンと頷く。
 そんな港からスッと目を逸らすと、千里は顔を歪め、小さく「ヘッ」と息を吐いた。
「とてもそうは見えないけどな」
「バーカ。オメーにゃ、そう言うとこ見せねぇんだよ。なんつーかよう、やっぱ、ああ見えて意地っ張りだからよう、あの人は」
「あー、わかった、わかった」
 同じ様な台詞を、今度はしみじみと言う港に、千里はもう勘弁してくれとばかりに手を横にパタパタ振った。
「もう少し顔出すようにするよ」
「そう来なくっちゃな。そんときゃオメー、ウチにも寄れよ。カッパぐれぇ出してやらあ」
「そういう時は、大トロって言えよ」
「バーローィ。こちとら『ぼらんちあ』じゃねぇんだ。それにオメー、寺の息子に魚なんか出せるかってんだ」
「ボランティアだろ」
 慣れないカタカナ単語を訂正されると、港は「うるせえや」と食って掛かった。
 が、直ぐに足元の桶を見て、本来の用事に気が付いたようだ。
「とと……。うっかりしてたぜ。オメーに構ってるヒマはねえんだった。何せおれっちは『ばりばりー』の途中だからよ。油を売ってちゃ、カァちゃんにどやされっちまう」
「デリバリーだろ。使いこなせねぇんだから、素直に配達って言ったらどうだ」
「ちぇっ、一端の口叩きやがってよ」
 言いながらも、港は嬉しそうだ。千里の背中を何度か叩くと、天海さんに宜しくと言い残し、どどいつを唸りながら坂を上っていった。
「相変わらずだな、あのオヤジも」
 猛烈なキャラクターを誇る鮨屋の親爺の背中を見送りつつ、千里は更に激烈な養父との再会に眩暈を覚えずにはいられなかった。
「やっぱヤメ」
 言ってくるりと山門に背を向ける。しかし、ガリガリと頭を掻くと、肩越しにちらりと背後を振り返った。
「ってな訳にもいかねえか」
 千里は、長々と溜息をつくと、再び石段に足をかけた。

*   *   *

 境内に入ると眼前に寺院がある。金乗院本殿だ。
 だが、千里はそちらに目もくれず、境内の右手高台にある白い建物へと向かった。
 コンクリート製の階段を上ると、赤い前掛けをした地蔵がずらりと並ぶのが見える。そして、その左手には金糸の紋が入った紫色の幕を掛けた小さな不動堂。
 そこには青鬼のような不動明王がいた。厳しい顔でじっとこちらを睨んでくる。
 千里はそれに手を合わすでもなく、同じ様にじっとそれを睨み返した。
 流れる汗が目にしみる。
 それでも、瞬きを忘れたかのように、じっと睨んだ。

 不動明王──。

 「お不動さん」として慕われているこの不動明王は、サンスクリット語においては「アチャラ・ナータ」と呼ばれる密教の五大明王の1つで、弘法大師空海が中国より密教とともに伝えたとされており、密教の根本尊である大日如来の使者と言われている。
 仏法に従わない者を教化し、仏敵を退散させる為、火焔を背にして、右手に剣、 左手に縄を持ち、憤怒の形相で現れるのである。
 しかし、鬼のような形相とは裏腹に、その心の中は愛情に溢れ、さながら子を想う父親のようであると言う。
 それでも、千里にとってそれは業火を背負った鬼だった。
 悪魔だった。
 救済など、してくれなかった。
 この悪魔が、自分を地獄へと貶めたのだ。
 千里は大きく息をつくと視線を逸らした。
 こうやって睨み、呪ったところで何も変らない。何も起きない。解放されない。
 所詮、あれは作り物であり、この不動堂は空っぽなのだ。
 憎悪の対象は、あの悪魔は自分の中にいる。否。あれは──。
 あれは自分自身だ。
 千里は踵を返すと、再び階段を下りた。

*   *   *

 砂利敷きの境内を数十歩歩き、大きな地蔵の前を横切って本殿の正面へと回り込み、石塔と空海の像に挟まれた階段を上る。金の成田輪宝が埋め込まれた鉄製の観音扉の向こうが本堂である。
 幸い、重たい扉は大きく開け放たれていた。
 雪駄を脱ぎ、本堂へと入る。
 と、広い本堂で、大きな箱を軽々と抱えた大男が振り返った。途端に男の口はニタリと吊り上り、千里の眉間には深い渓谷が刻み込まれる。
 しんとした本堂に、油蝉のジーっと言う鳴き声が反響した。窓の格子にへばりついているらしい。
 ひんやりとしていた本堂が、蝉の鳴き声ひとつで急に蒸し暑く感じる。
「今日は──」

 ジッ。

 千里の掠れた声が、蝉の鳴き声を止めた。再び本堂に静寂が訪れる。
「今日は、檀家の法事だと聞いてたが」
 大きな溜息をつくと、目の前の、余りの非常識な光景に拒絶反応を起こして痛むこめかみを揉む。
「その通り。実に盛大な法事だった」
 目の前の男は、ちょっとした下駄箱ほどもある箱をドスンと床に下ろすと、がっしりした腕を組み、満足そうに顎の白髪が交じった髭を撫で上げ言った。
「……俺には、ライブの打ち上げにしか見えないねえぞ」
「プッ……。うわははははは!打ち上げか!そいつはいい」
 そう言って豪快に笑うこの男こそ、千里の養父であり、この不動寺の住職、大神天海であった。
 還暦を過ぎていると言うのに、その体はがっしりと逞しく若々しい。
 よく手入れされた髭を蓄えた顔は日本人離れしており、若かりし頃は「和製プレスリー」との呼び声も高かったと言うのも頷ける。
 しかし、幼少より聡明で、数々の寺院の住持となり、人望篤く、無欲であったとされる天海大僧正と同名でありながら、こちらの天海は破天荒この上ない。
 そして、何よりこの大神天海と言う男を変物としているのは、その趣味である。
「ウチの檀家さんは皆大層な音楽好きでな。法事の後の一曲を楽しみとしているのだ」
 鼻の穴を広げ、厚い胸を反らす天海に、千里は顔を顰めた。
 今日も御多分に漏れず、法事の後に一曲、いや、数曲は披露したようだ。
 あの大きな箱──アンプがそれを物語っている。相当ハッスルしたはずだ。
「だからって、法事でメタルはどうだ」
 千里が眼鏡の上からじろりと睨むと、天海は「チッチッチ」と人差し指を左右に振った。
「メタルはメタルでも、シンフォニックメタルだ。シンフォシック」
 ここが教会なら、十中八九「悪魔の音楽」とレッテルを貼られそうなジャンルを、天海はこよなく愛していた。
「どっちもかわんねえよ。あんなの、年寄りの前でガンガンやったら──」
「ふむ。そういや、ばーちゃんが1人倒れたな。てっきり俺の姿に舞い上がって気絶したものと思ったが」
 天海は、ピッタリとした皮のパンツに、シルバーのメッシュ地のタンクトップ、ソフトスキンの黒いロングコートを身に着けていた。
 ヘアースタイルも住職にあるまじきロングヘアー。もみ上げも伸ばしており、白髪の混じった髪は後ろでひとつに纏めている。
 まさに型破りである。
「坊主が法事で死人出してどうすんだ」
「死んじゃおらんわ」
「死んでたら大騒ぎだ。全く。非常識にも程がある」
「──ほう。お前の口から常識とは」
 天海は眉を上げると大げさに驚き、後ろで手を組むと、格子窓から澄み渡った青い空を見上げた。
「こりゃあ、今夜は大寒波が来るな。どうだ。コタツに入って、鍋でも突付きながら紅白見るか」
「ガマン大会かよ」
「じぃーじー!」
 本堂に響く子供の声に、千里と天海は反射的に振り返った。
「おお」
 そう声を上げた天海の鼻の下がだらしなく伸びる。
 スニーカーを、ポンポンと跳ね上げるようにして本堂に駆け込んできたのは、大樹だった。
「大樹も来たのか。大沢君も」
「はい。お久し振りです」
 脱ぎ散らかした大樹の靴を揃えながら、大沢は、真夏の暑さを微塵も感じさせない、爽やかな笑みを浮かべ会釈をすると、自分も本堂へと上がった。
「遅かったな」
 千里が自分の隣に並ぶ大沢をちらりと見ると、大沢はニコニコしたまま「すみません」と謝った。
「猫がいたので」
「ああ?猫?」
「ええ。直ぐそこの──」
 言いながら、本殿の外を指差す。
「庚申塔と石塔の隙間です。そこにいた猫を大樹が追いかけて、裏の墓地まで行ってたものですから、すっかり遅くなってしまって。まだ何匹か境内をウロウロしてましたけど。気が付きませんでしたか?」
「全っ然」
 そんな気分ではなかった。
「じぃーじ」
 目の前では、大樹が両腕を伸ばし、天海に纏わりついている。
 そんな大樹を、天海は「よっ」と言う掛け声とともに抱き上げた。
 どうやら、独身を貫き通している天海にとって、大樹は孫のような存在らしい。自分を「じぃじ」と呼ばせ、世の祖父母達と同様、猫っ可愛がりしている。
 実際は義理の息子である千里と同じ年なのだが、そのビジュアルから、どうしても「孫」のイメージになるようだ。
 彫の深いプレスリー顔が、大樹の前では、溶け始めた雪だるまのように崩れてしまう。
「むむ。大樹、ちょっと重くなったな。じぃじは、腕が痺れそうだ」
 大樹の何倍もの重量の巨大なアンプを軽々と持ち上げておいて、痺れるも何もあったものではないのだが、天海がそう言ってわざとらしくよろけて見せると、大樹は喜んだ。
「ボク、おっきくなったよーう!」
 そう言いながら、天海の腕の上で、ピョコピョコと何度も尻を浮かせている。
「ウソつけ。10年以上変ってねえだろ」
「そんなこたあ無いよなあ?」
 デレデレと垂れ下がった目で覗き込んでいた天海は、大樹を後ろから抱き直すと「見てみろ」と突き出した。
「愛らしさなんか、年々パワーアップしとるじゃないか」
 脇の下を天海に支えられた大樹が、柔らかな縫い包みのように千里の目の前でだらりとぶら下がり、照れくさそうにえへへーと笑った。
 と、千里の片眉がきりりと上がる。
 そして、「これはなあ」と、ゆっくり手を伸ばして大樹の耳を捉えると、真横へ引っ張った。
「パワーアップじゃなくて、幼児退行って言うんだよ!」
「ふぎゃっ!」
「あっ、こら千里!」
「どいつもこいつも甘やかしやがって……」
 千里は目の前の大樹に冷めた目を向けると、今度は両手の人差し指を大樹の口に突っ込んだ。
 そして、大樹の小さな口を横へ引き伸ばし、意地の悪い笑みを浮かべる。
「学級文庫って言ってみろ」
「がっきゅーうん……」
「やめんかい」
 大樹が最後の「こ」を言う前に、天海は大樹の身体を引き戻した。
「ふえーん」
「よちよち。大樹のパパは怒りんぼでちゅねー」
「誰がパパだ」
 大樹の涎で濡れた指をジーンズの尻で拭きながら、千里は養父を睨んだ。
「俺の孫なら、お前の子だろう。全く、高校生の分際で。このスケベ」
「滅茶苦茶言うな!大体、毛も生えてねえ胎児が、どうやって腹の中で孕ますんだ!」
 千里は、スケベ呼ばわりされている自分より、余程いやらしい目つきをしている天海を指差し息巻いた。
 童貞だとは言わない。スケベだと言うのも認めよう。
 しかし、千里は11月、大樹はその翌年の3月生まれなのだ。
 千里が父親だと言うのであれば、4ヶ月の胎児が子を成した事になる。有り得ないではないか。
 とは言え、普通はいちいち額面通り受け取らないものだ。洒落だと言う位、誰でも分かる。
 天海は、面白くないと言わんばかりに下唇を突き出した。
「千里くんは冗談が通じないから、つまんないんダヨネ」
「何が、ダヨネ、だ。詰まるも何も──」
「じぃーじ」
 グチグチと続ける千里をよそに、大樹は不思議そうに小首を傾げて天海のコートの襟を引っ張った。
 人差し指の先を口に咥え、じっと天海を見ている。
「んー?なんだ?大樹」
「じぃーじ、ハラマスってなあに?」
「え……?」
 一瞬、その場が凍りついた。
 団欒時のテレビで、ラブシーンが始まったようなものだ。
 千里など、すっかり目をそらして在らぬ方向を向いている。
「ねえ、なあに?」
「う……うーむ」
 食い下がる大樹に、天海は唸りながら、頭の中でだらだらと汗をかいた。いや、実際、額から幾筋もの汗が流れている。
 答えに窮しているのだ。
 この場合、おしべとめしべに例えて話すのが一般的だが、話すべきか否か。
 天海は、ちらりと息子を見た。しかし、当の息子は2人に背中を向けており、尚且つ、その背中にはありありと「こっちに振るな」と書いてある。
「そ……それはだな。う……うむ。うーむ」
 天海は上を向いたり下を向いたりしていたが、おずおずと唇を突き出すと丸めた。
「お……」
「お?」
「お……っ、おっ、おっ、おっ……」
 オットセイのように繰り返す、天海の丸めた唇が細かく痙攣する。
 そして、くるりと身体の向きを変えると──
「大沢君、パスッ!」
 傍で成り行きを見守っていた大沢に大樹を押し付け後退り、距離を取ると、手の甲で額の汗を拭った。
「フウ……」
「何ひと仕事終えたみたいに爽快な顔してんだ!だらしねえぞ、親父」
「何とでも言え。背に腹は変えられんのだ。そう言うお前こそ、なぜ無関係を装っとる。ホレ、大沢君に協力せい!」
 そう言うと、天海は千里の背中をぐいぐいと押した。
「バカ!押すな!」
「バカとは何だ、バカ息子!」
「バカだからバカだと言ってるんだ、バカ親父!」
 この親にしてこの子あり。である。
 一方、大沢に抱かれた大樹は、未だ謎の「ハラマス」に拘っていた。
 次なるターゲットは大沢である。
「ねえねえ、ハラマスってなーに?」
「大樹?」
「なあに?」
 大沢は大樹を床に下ろすと、手土産にと持って来ていた紙袋から、小さな缶詰を取り出した。
「水羊羹、食べる?」
 大沢の掌に乗せられた水羊羹の缶は、保冷材と一緒に包まれていたお陰で、この気温の中でもひんやりとしている。その為、缶の周りは次第に曇り始め、「冷たいよ」「美味しいよ」と、大樹を誘った。
 その様子に、大樹の目が釘付けになる。
「食べる?」
「う……うん」
 ごくり。
 大樹の細い喉が上下した。
 それを確認すると、大沢は目の前で「ぱかっ」と缶を開け、瑞々しい水羊羹を大樹に見せたまま後退りを始めた。
「ほらほら、こっちおいで」
「みずよーかぁぁぁん」
 大樹は両手を伸ばして、夢遊病者のように水羊羹の後を付いて行き、本堂の隅まで行くと、大沢の指示通り、ちょこんと床に正座した。
「……犬だな」
 千里は、呆れたように大樹の小さな背中を見詰めると、掌で額を覆った。
「あー……。千里」
「うん?」
 咳払いをひとつすると、天海は千里の隣に立った。
 汗でヌルヌルするコートを脱ぎ、肩に引っ掛ける。
「文孝は元気か」
「ああ。昨日来た」
「そうか。あいつも忙しいだろうな」
 そう言う天海は、少し寂しそうだ。
 無理も無い。千里と同様、高瀬のことも「息子」と称して憚らないのだ。
 高瀬も、学生時代の幾らかを、この寺で過ごしたと聞く。
 詮索は好きではない。だから、詳しくは「耳に入れていない」が、当時の高瀬は相当悪かったらしい。
 それが今では警察官などやっているのだから、高瀬にとって、天海の影響は大きかったと見える。
 そして、高瀬自身もそれを自覚しているからこそ、千里を天海に託したのであろう。
 千里は天海から視線を逸らせると、本堂の板壁に寄りかかった。
 複雑な柵や想いは数あれど、今はそれを口にすべきではなかろう。そもそも、自分が介入するべき問題ではない。
 千里はそれを思い置くと、思い出したとばかりに口を開いた。
「そういや親父、ニュース見たか?新聞でもいいんだけど。昨日、御岳山で事件があったろ?今アイツ、あれを追ってんだよ。んでも、なんつーか、ありゃちょっとフツーじゃねえな。状況もそうだけど、なんかスゲェ嫌な予感が…………なんだよ」
 千里は顔を顰めた。
 突然、天海が真正面から千里の片腕を掴み、じっと千里の目を正視してきたからだ。
 その表情には、先程までのふざけた様子は欠片も無い。
「千里……。何が見える」
 天海はそれだけ言った。
 千里は養父を睨むだけで答えない。しかし、何を聞かれているのかを理解している。分っていながら答えないでいるのだ。
 だが、天海もそれは承知している。再び質した。
「何が見える」
「やめろよ」
 千里は天海の手を振り払うと、己の両腕を抱くようにして腕を組み、注がれる視線から逃れた。
「千里」
 天海の声が厳しさを含む。
 千里は長い溜息をつくと、渋々重い口を開いた。
「……鬼だ」
 静かに目を閉じ、盲人が周囲の気配を読み取ろうとするように意識を集中する。
 その眉間には、見る間に深い渓谷が浮かび上がった。
「獣……みたいに──。獣みたいに、全身毛だらけの鬼だ。それが、人を──」
 切れ切れにそこまで言うと、千里は舌打ちした。抱いた両腕はざわざわと粟立ち、痛みを耐えるかのように顔を歪め、奥歯を噛締めている。
「そうか」
 天海は、大きな手で千里の頭をくしゃりと掻き回すように撫でると、祭壇脇へ、のしのしと歩を進めた。
「親父……」
 千里はその後を追うと、祭壇の脇に設えてある古い棚を引っ掻き回す天海の背中に問うた。
「あそこに、何があるんだ」
「鬼塚だ」
「鬼塚?」
 繰り返す千里の声は意外に大きかったようだ。
 この広い本堂の、自分たちとは対角にいる大沢が、ちらりとこちらを見た。しかし、視線がぶつかった千里に軽く微笑んで見せると、直ぐに大樹に視線を戻す。
 大沢のことだ。意に介していない等と言う訳ではないはずだ。恐らく、黙って聞き耳を立てているのだろう。
「おお。あった、あった。これだ」
 天海が棚の奥から取り出したのは、B5サイズのノートを縦半分に折ったほどの大きさの、古びた桐の箱だった。
 赤黒い組紐で括られ、蓋には筆文字で何か書かれている。だが、余りに達筆すぎてか、酷く稚拙過ぎてか、千里には読めなかった。
「それは?」
「御岳山の鬼伝説だ」
 そう言うと、天海は紐解いた。
 中に入っていたのは、箱と同じくらいに古びた巻物だった。黒い軸にぐるぐると巻かれ、表装裂(ひょうそうぎれ)には、大分痛んでいるものの、朱色に金糸の縫いこまれた生地が使われている。
 それを慎重に広げると、天海は千里を一顧した。「見てみろ」と言うのだ。
 千里は、天海の隣に立て膝で座ると巻物を覗き込み、そして言葉を失った。
 それは、文字通りの地獄絵図だった。
 山の麓の集落には、人の屍骸がゴロゴロと転がっており、何人かの人間が傷だらけの人間の首を落とし、処刑している場面もある。千里が見た鬼が、人の肝を食らう姿もあった。
 日本画には、洋画や、そのものを写し取る写真やビデオには無い独特のおどろおどろしさがある。
 それが、この巻物を一層気味の悪いものにしていた。
「こいつ……」
 口を覆い、巻物を凝視している千里に、天海は無言で頷いた。
 千里が知る由も無いが、これこそが、高瀬が御山荘で耳にした「鬼伝説」そのものを描いたものであった。
「これが、復活したのか?」
「お前は……その名の通り、千里を見通す能力を持つ千里眼だ。そのお前が視たのがこれなら、恐らく間違いないだろう。だが、鬼は封印され、祭られている。いや、封印されていたのだ。それが現れたとなると──」
「第三者の介入か」
「うむ。実に恐ろしい事だが……鬼をこの世に呼び戻した者がいるとしか思えん」
「何の為に」
 天海は頭を振った。
 当然だ。千里にすら分らない。視えないのだ。
 判るのは──、感じるのは、良くない何かが起こり始めていると言う事だけ。
 千里は膝に手を付くと立ち上がった。
「確かめる必要があるな。明日にでも、この鬼塚に行ってみる」
「千里」
 広げた巻物に目を落としたまま、天海が呟くように千里の名を呼んだ。
「文孝を──」
「わーってるよ。だから行くんじゃねえか」
「文孝は、まだ目覚めておらんのだ。何も──知らん」
 千里は、天海の後頭部を見てドキリとした。いつの間にか、黒髪よりも白髪の方が多くなっている。
 年を取ったのだ。
 そんな当たり前のことが、何故かショックだった。
 誰しもが年をとって当たり前で、そんな事は百も承知なのに、何故か自分の父親──養父だが──は、ずっと年を取らないなどと言う、そんな錯覚に取り付かれていた。
 天海も人間なのだ。
 この世に生まれ、成長し、その成長はいつしか「老化」と言葉を変え、そして──。
「わざわざ起こすこともねえだろ」
 一瞬の内に頭を駆け巡ったネガティブな思考を掻き消すと、千里は言った。
「そっとしておいてやった方がいい。ただでさえアイツは業を背負ってるんだ。能力と引き換えとは言え、『高瀬文孝』に覚えの無い、重い記憶まで抱え込む必要は無い。第一、いい年したデカのくせに、バカで真っ直ぐだからな。耐えられねえよ」
「そう……だな」
 天海は空笑いを浮かべると、巻物をしまい、立ち上がった。そして「今何時だ」と、キョロキョロと周囲の壁を見渡す。ありもしない時計を探しているらしい。
「なんだか、腹が減ったな」
 言いながら腹を摩る天海に苦笑しつつ、千里は腕時計を見た。
「もう直ぐ6時だ。何か食おうぜ」
「今日は泊まっていくのか」
「ああ。そのつもりだけど」
「それじゃあ──」
 自分を振り返る千里の肩に、天海は腕を回した。太い腕で、ぐっと息子を引き寄せると、嬉しそうに覗き込む。
 今度は空笑いなどではない。心の底から湧き上がる喜びに顔を綻ばせた。
「今夜は久し振りに、パパと一緒に寝るか?」
「やだ」
 千里は即座に答えると、天海の腕を解き、ウエッと舌を出した。
「誰が汗臭くてゴッツイ髭オヤジとなんか」
 心底嫌そうにそう言うと、本堂の隅に向けて声を張り上げる。
「おい!夕飯にしようぜ」
「相変わらず冷たいヤツ。いいわい、いいわい。大樹と寝るから」
「勝手にしろ」
 いじける天海に言い放つと、千里は背を向けたまま、小さく笑った。

*   *   *

 本殿出て直ぐ目の前に、「倶利伽羅不動庚申」と呼ばれる庚申塔がある。
 剣に巻き付き正面を睨む大きな龍と、その下に、両手でそれぞれ目・耳・口を隠している三猿が彫られた物だ。
 その庚申塔と石塔の間に、首を突っ込むと、大樹は残念そうな声を上げた。
「あーあ。にゃんこ、いなくなっちゃったあ」
「ホントだね。猫もお腹がすいて、ご飯を食べに行ったのかもしれないよ」
 大沢がそう言うと、大樹は口に両手を当て、夕闇に声を張り上げた。
「にゃんにゃーん!にゃんにゃーん!」


 猫を呼ぶ大樹の声を聞きながら、千里の意識は10年前へと遡って行った。
 天海と暮らし始めて2年がたった頃だ。
「あ。ネコだ」
 夕暮れ時、養父と境内を歩いていると、本殿の前にダンボールに入れられた猫がいた。生まれてひと月程の子猫だ。
「困ったもんだ。また誰かが捨てていったんだな」
 天海は箱の中を覗きこむと、やれやれと言った風に溜息をついた。
 坊主が保健所に電話する訳にも行かない。また飼い主探しに奔走する事になるだろう。
 そんな天海の隣で、千里は不思議な石碑に目を奪われていた。庚申塔である。
 これまでその存在は知っていたものの、近くでまじまじと見る事は無かった。
 それが今、石から浮かび上がる力強い生き物の目に釘付けになっていた。
「お父さん」
 言って、天海の作務衣を引っ張る。
「これ……なに?剣に、恐竜が巻き付いてる」
 天海は猫から顔を上げると、千里の視線を辿り、にっこり笑った。
「これは恐竜じゃなくて、龍だ。倶利伽羅大龍と言って、お不動さんの化身だよ。煩悩をこれで断ち切り、焼き払うのだ」
「煩……悩……?」
 寺の息子となりながらも、未だ聞きなれぬ言葉に、千里は首を傾げ、その様子に、天海は鼻の頭を掻いた。
「そうだな。お前にはまだ難しかったか。簡単に言えば、悪をやっつける、正義の剣だ。ホレ、お不動さんは右手に剣を持っていらっしゃるだろう。実はあれにも、人間の目には見えないだけで、ちゃんと龍がまきついているのだよ」
「凄いな」
 子供だった千里は、「悪を倒す剣」の存在に、純粋に感激していた。
 おずおずと庚申塔に手を伸ばし、浮き上がる倶利伽羅大龍を指でなぞる。ゴツゴツとした鱗が指先に心地よかった。
「お前も手に出来る」
「え……?」
 意外な言葉に、千里は驚いて養父を見上げた。
 天海は千里の前に膝を付くと、その手を取り、じっと闇色の瞳を覗き込んだ。
「お前こそが手に出来るのだよ、千里。お前が正しい心で悪に立ち向かう時、この倶利伽羅大龍の巻き付いた智火剣は、必ずこの手に握られる。必ず──」
「お父さん?」
──お父さん
──さん
「大神さん?」
「あ?」
 大沢だった。
「どうしたんです。大丈夫ですか?」
 大沢は、心配そうに千里を見ている。どうやら、ぼんやりとしていたらしい。
「あ、いや。なんでもない。大樹は?」
「住職と、先に母屋へ行っちゃいましたよ」
「そうか」
 言いながら、ちらりと大沢を見る。大沢はじっと、千里を見ていた。
 大沢は、行動データから人の心を読むプロファイラーのようなものだ。
 そういう意味では、妖怪や悪霊などより余程タチが悪く、怖い。
 千里など、下手をすれば簡単に見透かされてしまうのだ。
 今、特に心を読まれて困る事も無いのだが、千里は「習慣」から慌てて目を逸らすと、先に立って歩いた。
「行こうぜ」
「大神さん」
 大沢に呼び止められ、千里の足がピタリと止まった。
「な……なんだよ」
 声を上ずらせながら、ぎこちなく振り返る。
 すると、大沢が穏やかで美しい笑みを浮かべながら歩み寄り、そして──。
「今、俺を『タチが悪くて怖い』と思ったでしょう」
 すれ違いざまに耳元でそう囁くと、石のように固まった千里を残し、くすくすと笑いながら母屋へと歩いていった。
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