不動の焔

桜坂詠恋

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本編:第一章

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 月見里の事務室を出て、高瀬は数時間振りに搬入口へと向かった。
 ドア近くにある「節電」の張り紙を見て、律儀にも廊下の灯りを落とす。
 振り返ると、長く伸びた廊下の奥は闇に包まれ、流石の高瀬も身震いする程の不気味さを漂わせていた。
「さて」
 気を取り直して腕のダイバーズウオッチを見ると、20時を幾らか過ぎていた。
「丸の内線で行くか」
 この時間だと小一時間は掛かるだろう。上手く夕飯にありつければ良いがと思いつつ、高瀬は大きなガラス戸を開き、スロープになってるポーチへと出た。
 外はすっかり暗くなっていた。しかし頬を撫でる風は心地よく、意外にも爽やかだ。
 高瀬は大きく伸びをすると深呼吸した。そしてそのまま天井を仰ぐ。
「あれ。切れかかってるじゃないか」
 頭上にある蛍光灯が、数秒おきにチカ、チカチカと点滅を繰り返していた。
「しょうがねえなあ。誰も気付かないのか、気付いてて放置してんのか……」
 そう言いながら歩を進めようとした時だった。
「高瀬刑事でしょ」
 1人の女が彼の行く手を阻んだ。
「ああ?」

 チカ──チカ、チカ。チカチカチカ。

 切れ掛かった蛍光灯が、小刻みに闇の中から女の姿を浮き上がらせる。
 そして、その女の顔を見た高瀬の目が驚愕に見開かれた。

──まさか。

 いきなり氷の海へ突き落とされたようだった。
 心筋がギュッと縮み、皮膚がチリチリと刺すように痛む。

「アタシは日売新聞の──」
 女の口が金魚のようにパクパク動いている。

──なんだ。なんなんだ。

「で、一体どうなってるのか──」
 女は瞬く明かりの中で口を動かし続ける。
 チカ。
 パクパク。
 チカ。
 パクパク。
 コマ送りのように。

──俺は夢を見てるのか。それとも、お前はまだここにいるのか?動けずにいるのか?

 薄暗い光の中、蛍光灯の点滅に合わせて浮き上がる白く滑らかな肌。卵形の輪郭に、はっきりとした大きな瞳。
 日本人離れした高い鼻、ぷっくりとした唇。
 それは。

──優香。

──文孝くん。

 彼女は高瀬をそう呼んでいた。
 その声は柔らかく、温かかった。

──ねえ、文孝くん。聞いてる?

 すたすた歩く高瀬の袖を引き、いつも小首を傾げるようにして下から高瀬を覗き込んだ。
 その様子が愛らしくて、そっけない返事をしながらも、ドキドキしたものだ。

──ちゃんと、聞いてる?

「ちょっと。聞いてんの?」

──ああ、ちゃんと聞いてる。ちゃんと……

「ちょっとアンタ!アタシの話聞いてんのかッ!」
「な……」
 女の怒号に、高瀬は我に返った。
 目の前の女は、肩を怒らせ高瀬を睨んでいる。
 高瀬が最も嫌いな、高慢ちきな女の目だ。途端に高瀬はムカムカして来た。
「なんなんだテメーはっ!」
「だから日売新聞の水野だって言ったでしょ!」
「知らねえよ!」
「言ったわよ!どういう耳してんのよ!」
「見りゃわかんだろ!福耳だ!」
「んなこと聞いてないわよ!噂通りのムカつく刑事ね、アンタ!」
「ケッ。ブンヤがなんだ、エラソーに!」
「そっちこそ都民の税金で食ってるくせに、えばんじゃないわよ!」
「ンだと?お前らこそ、デカのケツを追っかけてメシの種にしてんだろうが!」
 高瀬と水野は、激しく睨み合った。
 フラッシュのように点滅していた灯りも、今は視線がぶつかる火花のようだ。
「チッ。何の用だ」
 高瀬は舌打ちすると遠子から目を逸らし、腕を組んで踏ん反り返った。つま先を忙しなく動かし、早く用件を済ませろと言わんばかりだ。
「御岳山でなんかあったでしょ」
 高瀬の前で遠子も腕を組み、同じように踏ん反り返ると、顎を突き出した。とても記者の取材とは思えない態度である。
 しかし、それに応える高瀬も刑事にそぐわぬ不謹慎な態度だった。
「はあ?そんなの青梅署で聞けよ」
 そう言うと、遠慮なく欠伸をし、尻を掻き、耳を掘り始める。
 それを見た遠子の顔が、怒りで真っ赤に染まった。
「アンタ……。アタシのカンを舐めんじゃないわよ」
「ヘッ。俺を追ってるようじゃ、ロクなカンじゃねえな。兎に角、ブンヤに話すような事なんかこれっぽっちもねえんだよ。とっとと帰って、独りで飲んでろ!」
「なんで、独りだってわかんのよ!」
 ムキになって言い返す遠子に、高瀬はニヤリと笑った。
「モテねえ女はなあ、ニオイでわかんだよ」
 じゃあな、と上着を肩に引っ掛けると、立ち尽くす遠子を残し、高瀬はT大を後にした。
「アンタの方がよっぽど臭ったわよ。セクハラ刑事!」

*   *   *

「バカか俺は」
 門を出た高瀬は、ぼそりと呟いた。

──死んだやつが戻ってくるわけねえだろ。まして幽霊だってんなら……。俺を恨みこそすれ、会いになんか来る訳ねえじゃん。

──優香を殺したのは、この俺なのだから。

「何やってんのかしら」
 門の陰に隠れ、遠子は高瀬の様子を窺っていた。
 ずかずかと大股で歩いていたかと思ったら突如立ち止まり、遠目にも判るほどの溜息を吐くと、自分の右手を眺め、項垂れているのだ。
「まあ何でもいいわ。とにかく、これで終わったと思ったら大間違いよ。とことん尾行してやる」
 そう言うと、遠子は再び歩き出した高瀬の後を追った。
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