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彼女は炎の中で『さようなら』を告げる

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 女は何も反応しませんでした。

「あの宴の日。私は遠い親戚が王都にもっている屋敷に身を潜ませていたのだ。だからすぐ動けた」

 黒の貴公子は、彼女が考えていた以上に大胆な策略家だったのです。
 もっとも危険なはずの王都。だからこそ、彼がいるなどとは誰も考えない場所に身を潜めていたのです。

「手勢は100余りだったが、王家の軍は、貴女のご実家の一族や領地を押さえるために各地へ散るはず。勝算は十分だ」

 彼の手元には、彼によって鍛え上げられ、彼のいうことを神の託宣のごとく聞く戦士達がそろっていたのです。

「貴女のご一族が処刑され、その領地をおさえるため王家の軍が全土に散った日の夜。私は蜂起して王宮を攻めた」

 そのような事態。誰一人として予測できたものはおりますまい。

「私の姿を見て、王都の軍勢は逃げ散った。王宮はあっけなく陥落した。
 あの赤毛は惨めに命乞いをしたので、聞き入れたふりをして生かしてはある。
 後で処刑するために。ただ私なら助けてやることはできる」

 黒の貴公子は、軍勢を率いて領地から進撃してきたのではなかったのです。
 王都を落とし、まだ従わない貴族達を討つべく進撃してきたのです。

 男は、懐からロケットを取り出しました。

「私を警戒して王都とやりとりをしていなかったようだから信じられないかもしれませんが、これが証拠です」

 それは二人が身につけているのと同じ細工だったのです。

「赤毛が身につけていたロケットだ。あの男爵令嬢の髪が入っている」

 触っていたくもない卑しいもののように、床に放り出します。
 床にぶつかった衝撃でロケットは開き、中から一筋の金髪がまろびでる。くせのある毛でした。

「あいつは貴女の思っているような男ではない。単なる愚昧で見苦しい男だ。眼をさましなさい」

 床から漏れてくる煙は、すでに部屋をうっすらと満たしつつあります。
 足下から熱まで伝わってくるではありませんか。
 ですが、黒い貴公子はすっかり落ち着いていました。

 目の前の女は、真実の恋の相手を助けるため、そしてもう一度会うために、彼と共にここから脱出することを選ぶはずだからです。
 女が愛しいと思い込んでいる男を助けられるのは、黒の貴公子だけなのですから。

「そうですか……あの方は立派な最後をおとげになったのですわね。少々立派すぎたようですけど」

「人の話を聞いてないのですか! あの男はまだ――」

「だって、自分だけが頭が良いと思っている貴方は、自分が理解できないあの方を、怖がって殺してしまったに決まってますもの」

 黒の貴公子は言葉を失います。
 女は眼をつぶり、今、まさに見ている口調で、

「貴方の蜂起を知ったら、あの方は、少しでも皆を逃がそうと、ふるえながらでも剣をとったことでしょう。最善をつくしたことでしょう」

「あいつはそんなことはしない!」

 男は叫びましたが、その声はどこかおびえを含んでおりました。

「確かに、王家の軍は貴方の武名の前に逃げ散ったでしょう。ですが、あの方を慕う人々は、あの方をひとりにはしなかったことでしょう……あの方の前でみな倒れていったことでしょう」

 女は、男の反応など何も気にしていないようでした。

「貴方が無頼の徒とおっしゃるかたがたも、最後のひとりまで戦ったことでございましょうね」

 その光景が、彼女には見えているようでした。

「だって、彼らをちゃんとした人間として扱ったのは、あの方が初めてだったそうですもの」

 男はぞっとしました。 
 もしかしたら、男がここにやって来た時、彼女はすでにここまで予期していたのではないかと。

「あの方が、この計画を全て包み隠さず彼らにうちあけて、ひとりひとりの手をとって、協力してくれと頼みこんだ時」

 そうであるなら。彼女が自分の命を惜しむ理由もないのです。脱出の方法などないということなのです。

「会ったばかりでここまで信じてくれるのかと、みな体を震わせて泣いていました……あの方が逃げてくれと頼んでも頼んでも、あの方を守ろうと戦い抜いたことでしょう」

 それでも、男は動けませんでした。
 彼女が語っていることは、彼の目の前で展開された通りの光景だったからです。

 王家の軍の主力や傭兵達は各地に散り、王都に残っていた軍は奇襲に逃げ惑うばかり、王太子が文官やその家族を逃がしたあと、王太子の周囲に残っていたのは無頼の徒がわずか十五人。
 ですが単なる無頼の徒と思われていた男達は、最高の戦士のように戦いました。
 黒の貴公子の精鋭達を向こうに回して一歩も引かず、逃げるように頼む王子の叫びも無視して戦い続けたのです。
 無頼一人に精鋭三人がかり、そのうち二人が死んでやっと倒せるほどでした。
 特に無頼どもの頭目は、最後まで王子を守るべく身を挺して戦い、貴公子が今まで出会ったどんな戦士よりも手強かったのです。
 精鋭十五人が倒され、二十人が手傷を負わされ、黒の貴公子自らが倒さざるを得なかったほどだったのです。
 もし数が互角であれば、勝利は無頼の者たちの上に輝いたことでしょう。

 そこまで皆が王子に命をかけるのを見た黒の貴公子は、焦燥とわけのわからぬ怒りに駆られてしまいました。
 見たくないものを目の前から消そうとするだだっこのように、わけのわからぬ事をわめきながら、王子を切り刻むように殺したのでした。
 あれは恐怖でした。黒の貴公子は見下げ軽蔑していた男に恐怖していたのです。

「あの方は腕が立ちません。ですが、この企ての中心人物である以上、その責任から逃れる気はなかったでしょう、ひとり逃げるなど決して。ましてや命乞いなど」

 女はロケットを拾うと、愛しそうに撫でました。

「あの方は、最後、わたくしの名前を呼んではくださらなかったでしょう。ですけど、このロケットを握りしめてくれたにちがいありません」

「なぜだ。なぜそんなことが判る! そもそもそれは貴女の髪では――」

「わたくしの髪、本当はくせっけですのよ。あの牝狐さんほどではありませんけど。それに光り方もちがいます。これはわたくしの髪」

「!」


 黒の貴公子は欲している女の髪の見分けすらつかなかったのです。
 ですがそれを咎めるのは酷というものでしょう。
 彼は賢く、一目見ただけで何もかもが判ると思い込んでいたのですから。

「貴方だって、わたくしの心のありかが判っていらしたのではありませんか? 貴方は服の下に分厚い革の胴衣を着込んでましたもの」

 黒の貴公子がわずかに太って見えたのは、そのせいだったのです。心のどこかが、警戒していたのです。
 自分があの赤毛の男に対して考えていたことのどこかに、誤りがあったのではと。

「あれがなければ、わたくしの懐剣をもっと深々と刺して、貴方を殺すことがかないましたのに……あの方は少々頑張りすぎるのですわ。そこがいいのですけど」

 女はほほえみました。愛しい人を思う顔でした。

「古来より、人の価値は死ぬときにこそ現れると言いますわ。最後まで嘘が下手なお方でしたのね」

「どうしてそこまで信じられるのです! どうして! 愛に目をくらまされうまく利用されただけとは考えないのか!」

「だって、あの方、あんな肝心な時にすら、わたくしを傷つけたくなかったのですもの。見た目だけでもそうしなければならなかったのに」

「いつのことだ……」

「あの方、わたくしに嘘の告発をしている時、辛そうな顔をしていらっしゃいました」

 あのとき、赤毛の王太子の声が裏返っていたのは、緊張のせいではなかったのです。
 嘘とはいえ、お互い承知とはいえ、宝石姫を告発し、おとしめるのが耐えがたかったのです。
 だから声は裏返り、言葉はどもり、今にも泣きそうなような、目も当てられないありさまだったのです。

「だから、わたくしはすぐにあの場所から離れたのです。しょうがない人。あれが完全にうまくいっていれば、貴方以外の敵に回りそうな貴族達は皆殺しに出来たのに」

 振り返ってみれば、それは致命的な失敗だったのかもしれません。
 赤毛の王子が嘘でもいいから打ち合わせ通りに彼女を告発していれば……。

 それでも、宝石姫はうれしそうでした。この世のものとは思えぬしあわせそうな表情です。

「あの世に思い出をもっていくならば、あの方に罵倒されている光景ではなくて、わたくしのために苦しんでくださるあの方のほうがよいですものね」

 姫はロケットを握りしめ、あらためて自分の首にかけました。
 ふたつの銀色のロケットは、双子のように並びます。

「さようなら、賢くて強くてさびしいお方」

 ほそい首筋に懐剣がきらめきました。
 真っ赤な血が噴水のようでした。

 うつくしい女は 噴き出す血に押されるようにして、その反対側へゆっくりと倒れていきました。

 男は駆けつけようとしましたが、床から巨大な炎が噴き出して、それを遮ってしまいます。

「無責任な! ここで私まで死んだら、この国はどうなる!」

 正しい言葉でした。この場ではなんの意味もない言葉でした。

「何が真実の愛だ! そんなものがなんになる! そんなものがそんなものがっっ!」


 その瞬間。


 床からふきあげた炎が、全てを包み込んでいきました。
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