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 パンも長らく食べていないな、と思うが、買う金がない。
 作るにも小麦を買えない。
 調味料はほとんどが尽きており、まともな食事など作れなかった。
 有り合わせのもので作っても、マーシャは食べてくれない。
 ちゃんとした物を用意しなければ。
 そう、思うのだが、アンナの身体は動かなかった。
 朝食を抜き、昼近くになってようやくアンナは動き出す。
 畑の世話をしなければ。
 外に出て、畑の世話をする。
 手指はすっかり荒れ果てて、見る影もない。
 侯爵家にいた頃は、お嬢様の専属メイドとして高い給料を頂いていたから、美容にも気を配っていた。
 手指が多少荒れることはあっても、クリームを塗っていればひどくなることもなかったし、そこまでの重労働を課せられることもなかった。
 それが、今は。
 定期的に兵士がやって来て捜索の進捗を知らせてくれるのだが、もはや諦めていた。
 あいつは逃亡したのだった。
 死刑になったという話も聞かないから、逃げ切ったのだ。
 羨ましい、と、思ってしまった。
 自分だけ上手く逃げおおせて、と、思ってしまった自分を嫌悪した。
 お嬢様を置いて行くなんて、できるはずがないではないか。
 この人でなしめ、と思うと同時に、どうして声をかけてくれなかったのか、とも思う。
 とはいえ、きっと当時の自分であれば通報していただろう確信があるのだが。
 愚かだな、と思う。
 愚かだな、と思ってしまう自分が、愚かだな、と思うのだった。
 昼に出したほとんど味のしない薄いスープは、マーシャは嫌な顔をしながらも飲みきってくれた。
 昔のお嬢様なら、きっとそんな顔はしなかった。
 不味くても、「アンナが作ってくれたものだから美味しいわ」と言ってくれたに違いないのだ。
 そんな優しいお嬢様が、アンナは大好きだった。
 また、夜になれば野菜を盗む。
 そしてついに薪が切れたのだった。
 どこから調達してくるかと言えば、人の家しかなかった。
 昼のうちに出歩いて、目星をつける。
 山と積まれていて、少しくらい拝借しても気づかれない所。
 ひそひそと囁かれる声等、もはや気にならない。
 そして深夜を待って、外に出た。
 寝静まった人家に忍び寄る行為は、さすがに緊張をした。
 明かりはすでに落とされて真っ暗な窓の前を通り過ぎ、薪のある場所へと歩く。
 途中玄関扉があり、ふと好奇心で開けてみた。
 …鍵がかかっていなかった。
 不用心な、と思いながらも、調味料が手に入るかも、という誘惑に抗えず中へと踏み込む。
 音を立てないよう細心の注意を払い、アンナ達の住む家と変わらない広さと間取りであることに安堵した。
 キッチンへと入り、調味料を漁る。
 
 ああ、これがあればもっとましな料理が作れる。
 ああ、これがあれば甘く煮ることができる。
 
 次々持っていた鞄に詰め込んで、外へと出た。
 扉を閉めるまでまともに呼吸もできなかったが、閉じた瞬間大きく深呼吸をした。
 次は、目当ての薪だった。
 薪は重い。
 アンナの細腕では、いくつも持つことは至難であった。
 何往復でもするつもりで二本、抱えて歩こうとしたが、バランスを崩し、薪を地面にばらまいた。石畳でなかっただけマシであったが、深夜無音の田舎に響くには不審であった。
 すぐに二階の窓が開き、見下ろしてくる男の視線と目が合う。
「泥棒ーッ!!」
 大声で叫ばれ、アンナの身体は硬直した。
 どたどたと階段を駆け下りてくる音が聞こえ、外套を着込んだ男が斧を振り上げながら迫って来る。
 恐怖で震え上がり、アンナはしゃがみ込んだまま動けなくなったのだった。
 詰所に連行され、兵士達は皆驚いた顔をした。
「おい、あいつの嫁じゃねぇのか」
「逃げられたから食うに困って泥棒したのか」
 取り調べを受けても、アンナは黙秘した。
 持っていた鞄は取り上げられ、調味料は元の家へと返された。
 あれがあれば、お嬢様に喜んで頂けたのに。
 兵士達は同情的であった。
 なのであえて逆らわず、大人しく俯いていたのだった。
「こんなことせず、働きなよ」
「あんた、まだ働ける年齢なんだからさ。どこか雇ってくれる所がないか、聞いてやるぜ」
「そんな痩せて。まだ逃げられてから一ヶ月くらいしか経ってないってのに、見る影もないじゃないか。ちゃんと食ってるのか?」
 働き口を紹介してもらえるのはありがたい。
 これでお嬢様に肉を買って差し上げることもできるし、服を作って差し上げることもできるようになる。
「とりあえず今日は牢で休みなよ。牢だからゆっくりできないかもしれないけどさ」
「…お世話になります」
 以前の自分なら、「お嬢様が待っているからすぐに帰して下さい」と突っかかっていたことだろう。
 だがそれは得策ではないことを、アンナは学んだのだった。
 力ずくで進めることができるのは、こちらが権力を持っている時だけなのだ。
 今のように犯罪者として捕らえられている状況では、下手に出るのが正解であった。
 翌日、自分が普段食べているよりもはるかにまともな朝食を出され、アンナは目に涙を浮かべながら食事をした。
 すぐに釈放されるかと思っていたのに、「ちょっと調べなきゃならんことがあるから釈放待ってくれや」と言われて待たされることになった。
 ただ昼食も、夕食も美味しいものを出してもらえたのでアンナは満足し、大人しくしていた。
 お嬢様のことが心配だったが、トイレはお嬢様の矜持とでもいうべきか、自分で行くようになっていたし、一日くらい食事を抜いても死にはしない。
 少しはアンナの大切さに気づいて頂きたいという気持ちもあった。
 最近のマーシャはわがまま放題の子供のようであり、手を焼いていた。
 アンナが食事を持って行くと決まって暴れるようになり、身体を拭こうとすると暴れ出し、どれだけ語りかけてもマーシャには届かない現実にアンナは打ちのめされていたのだった。
 それもこれも、満足な生活をさせてあげられない自分のせい。
 わかっていても、どうしようもないのだった。
 それからさらに二日待たされ、さすがにアンナは焦る。
「あの、お嬢様が家にいるのです。お世話する者がいないと」
 やっと言ったアンナに、兵士達は目を剥いた。
「え?他にメイドいるんじゃないの?お嬢様なんだろう?」
「お嬢様ですが、今お一人で家にいらっしゃるのです。わたくしが帰らないと」
 兵士達は顔を見合わせ、怒鳴りつけた。
「何故早く言わない!!」
「そ、そんなことを言われましても…」
 慌てて兵士が走って行き、戻って来た時には怒りの表情であった。
「お嬢様は…」
「死んでたよ!!」
「…は…?」
 アンナは目を見開く。
「おまえ、お嬢様があんな状態って知ってて放置しやがったのか!!この人殺しが!!」
「そんな、…わたくしは…」
「おまけに家には野菜があった。あれはだいぶ前から泥棒被害を訴えていたじいさんとこの野菜だ!おまえがやったのか!」
「…それは…」
「村長から王都に問い合わせてもらって返事を待っていたらこれかよ!!全く、釈放されると思うなよ!!」
 そう言って、兵士は足音荒く去って行く。
 アンナは呆然と座り込んだ。
 
 お嬢様が、死んだ?
 
 一気にお嬢様との思い出が脳裏を駆け抜けて行く。
 生まれたばかりのお嬢様、絵本を読んで欲しいとせがむお嬢様、手を繋いで庭を散歩するお嬢様、「アンナ」と優しく微笑んで下さるお嬢様、「頼れるのはアンナだけなの」と言って下さるお嬢様。
 どのお嬢様も表情豊かで真っ直ぐアンナを見つめてくれていた。
 …今のお嬢様は、一つも思い浮かばなかった。
 
 涙も一滴も、流れなかった。
 
 
 
 
 
 マーシャの死に様は悲惨の一言であったという。
 暖炉の火はとうの昔に消えており、食事もなく放置され続けた令嬢は暴れ疲れて休んだ後、立ち上がって寒さに震えながらも壁を伝ってキッチンへと向かった。
 だが令嬢は自分の部屋とトイレ以外に行ったことがなかった。
 不用意に暖炉に近づきつまづいて灰まみれになり、床を這ってテーブルに捕まって立とうとしたら籠に入っていた野菜をひっくり返して頭にぶつかり、倒れ伏した状態が悪く腕を折った。
 ずっと寝たきりであり体力もなく、魔力もなく、出される食事は口に合わずに放り出していた為、身体は弱り切っていた。
 それでも立ち上がろうと藻掻き、転がった野菜にぶつかり、ぐちゃぐちゃに潰れた野菜にまみれながらも手を突いたのはシンクであった。
 シンクには次の日の朝食にしようと切られた野菜があり、そして放置された包丁があった。
 知らず掴んだ令嬢は指を失い、再びバランスを崩して床へと転がる。
 膝から崩れ落ちた為に膝を痛め、立ち上がることができなくなった。
 そのころにはもう意識も保てなかったに違いない。
 それでも空腹に耐えかねて何かを口に入れようとしたのだろう、令嬢は落ちた己の指を噛みちぎって死んでいた。
 詳細な報告書を読み、レイノルドは自分の執務室でため息をつく。
 ふさわしい死、と言えるかどうかはわからない。
 だが彼女自身に反省する気持ちがあれば、もっと早い段階で展開は変わっていた。
 ランク詐称がバレた時。
 サラのランク詐称を訴えた時。
 何故反省しなかったか。
 何故己の身の丈に合った生き方をしようと思わなかったのか。
 人を傷つける方法を、選んでしまったのか。
 彼女の弟は、更正したという話であった。
 没落しかかった子爵家では居場所もなく、学園に行ける可能性も低い。
 弟は自ら冒険者として活動することを選び、魔術師団長の次男と共に今も頑張っているという。
 学園に行きたければ自分で学費を稼ぐだろうし、必要なければふさわしい道を自分で選んで行くだろう。
 何故彼女は、破滅への道を歩んでしまったのか。
 レイノルドは書類を置いて立ち上がり、部屋を出た。
 週末は、ダンジョン攻略の約束がある。
 時間まで公務を行うのが常であり、報告書もその一環であった。
 こうなることを予想はしていた。
 監視を頼んだ諜報員には、そのように示唆もした。
 思っていたよりずっと早かったなと思いながら、王宮の転移装置でダンジョン都市へと飛ぶ。
 早くサラに会いたかった。
 私は全く人格者などではないのだった。
 陞爵が決まり、改めてサラに婚約を申し込んだ時、彼女に「私は人格者などではない、殿下にはふさわしくない人間です」と言われたのだった。
 龍に対する殺意、侯爵令嬢に対する憎しみ、そんな感情を抱く自分は小さな人間なのだと言った。
 レイノルドは嬉しかった。
 サラはずっと美しい心を持ち、精霊に愛され続ける存在なのだと思っていた。
 それはそれで愛しいけれども、サラは間違いなく自分と同じ人間なのだった。
 自分こそ、美しい存在などでは全くない。
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 サラには見せる必要のない一面だ。
 共に生きて行くと決めたのだから知られる日がいつか来るかもしれない。
 それでも彼女はきっと、自分を変わらず愛してくれるだろうという確信があった。
 何故ならレイノルド自身が、そうであるからだ。
「おはようサラ、皆」
「おはようございます、レイノルド様」
 憂いがまた一つ消えた。
 皆と前を向いて、進んで行こうと思うレイノルドだった。
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