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2.きみのとなりは温かい

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 今日は青が高い空に広がっている。
 ぽつりぽつりと浮かぶ雲をキャップの下で発見しながら、スキップしてしまいそうな足を押さえて目的地のコインランドリーに向かう。
 両開きの扉の向こうにいるスーツの男に、頬が緩んだ。
 ふわふわと跳ねている髪の毛は触ると柔らかそうで、いつか触ってみたいなぁなんて見る度に思う。
 きっと猫みたいに柔らかい。
 浮ついた心を隠すことなく店内に足を踏み入れて、よっ、とその少し丸まった背中に声を掛けた。
 くるりと丸い瞳がこちらを向いて笑む。
「奇遇だね、琉火くん」
「うん、この時間ならユキがいるかもなって思って」
 持ってきた洗濯物をランドリーの中に洗剤と共に突っ込んで、ボタンを押す。
 ごうんごうんと音を立て始めた洗濯槽を横目に、いつも通り彼の隣に腰を掛ける。
 

 あの日を境に俺の一人の時間は、時々、いや、結構な確率で二人の時間になった。
 洗剤を貸したのがきっかけで、隣に座ってポツポツと話をし始めたのが始まりだ。自分の洗濯物はもうすぐ乾燥も終わってしまうと言うのに、何故か話し込んでしまった。
「貴方が優しいひとでよかったです。本当は最初怖いお兄さんなのかと思いました」
「? なんで?」
「帽子の下から見えてた毛先が青かったから、少しびっくりしてしまって」
 そう困ったように笑った彼の柔らかな雰囲気に、どうしてだか俺は彼の名前を知りたいと思った。
 今考えても意味が分からないけれど、周りにいない珍しいタイプのユキと友達になりたいと思ったんだと思う。というか単純にユキともっと話がしたかった。心地良いテノールをもう少しだけ聞いていたいと思ったのだ。
「名前、聞いてもいい、ですか?」
 俺の言葉に、勿論ユキは驚いたような顔をしていた。
 当然だ。
 俺だってあったばかりの人間にいきなり名前を聞かれたらビビるし、なんだコイツって思うに決まっている。でもユキはすぐに笑ってくれたのだ。
「ゆきと、志に音って書いて志音。皆にはユキの方が呼びやすいからってそう呼ばれてます」
 ゆきと、と頭の中で何度も反芻してインプットする。俺も聞いてもいいですか? と言ったユキは少し照れくさそうだった。
「るか。王へんに流れるの右側で、る、に火って書いて、琉火」
 芸名はカタカナでルカだけれど、ユキには本名の方を教えてしまっても良い。そう思ったから。漢字まで伝えてしまった。普段の俺なら絶対に考えられない事だ。それほどに、ユキが持っている空気感が俺に馴染んだということにしておく。
「琉火くんかぁ。綺麗な字だね」
「そうかな。あんまり言われたことないや」
「何て言うんだろ、あれ、えーっと、宇宙を駆けるほうき星みたいな名前だなって」
 素敵だね、と笑ってくれたユキに、自然と顔が溶けてしまって鼻の下を擦ったのを覚えている。


「琉火くんは今日休みなの?」
 横から聞こえた声に意識を戻して、まあね、と言っておく。
 本当は夜に仕事がある。しかも泊まりがけの仕事だ。新しいドラマへの出演が決まって、ロケ地に行かなきゃいけない。結構過密なスケジュールだった。それはつまり、次にいつユキに逢えるのか解らないという事だ。だから、今日会えてガッツポーズをしたいくらいには嬉しい。
 ユキの空気感に凄く癒やされる。例えるなら、高校の時の飾らないままの友達みたいな。変な仮面を被らなくて良い心地よさがある。他人を蹴落とそうとする人間が被っている善人面の仮面は嫌いだった。俺の知名度は俺自身がよく知っていて、俺と仲良くなろうと寄ってくる人間の下心が透けて見える煩わしさと言ったら。

 でもこの空間にはそんなものは無い。
 ユキの前では芸能人の『瀬川ルカ』じゃなくて、ただの『瀬川琉火』でいられる。
 それが何よりも嬉しい。

「ユキはまた行き詰まってる?」
「ははは、実はそうなんだよね。なーんにもアイディア浮かばなくて」
 ユキはデザインの仕事をしている。らしい。本人から聞いたから間違いは無いはずだ。
 ロゴを作ったり、宣伝に打ち出す広告を作ったり、イメージキャラクターをデザインしたり。聞いただけで目眩がしそうなことを、一人で全部やっているのだと言うから、本当に驚いた。
 困ったなぁ、と頬を掻くユキはきっと他の人よりも仕事が出来るんだと思う。その上、見知らぬ人間に名前を教えたり、飴をくれたりするお人好しだ。もしかしたら他の人の仕事もやっていたりするのかもしれない。マネージャーが前に言っていた。仕事を押しつけられる性格の人もいるのよ、と。俺は働いたことないから詳しいことは解らないけれど。
「あんまり無理しないで、たまには外に出掛けてみたら良いかもよ?」
「此処も一応外なんだけどなぁ」
「確かユキって在宅って言ってたよね? 旅行先で仕事やってもいいんじゃない?」
「そうだね。でもなんか旅行の気分でもないんだよなぁ」
 困った困った、と大して困って無さそうな声がする。
 何か手助けしてあげたいけれど、俺はデザインに関しててんで素人だし、何も力になれることがない。がっくりと肩を落とした俺を心配してなのか、ユキがそっとこちらを窺っている。
「琉火くんがそんなに落ち込まなくても」
「いや何にも出来ないなって思って」
 ステージとか舞台とか撮影現場だったら無敵だと言ってしまえるほど、出来ないことはないのに、こういうちょっとした人を励ます方法が解らない。本当に世間知らずだなと痛感する。一度でも社会に出てみたら、と笑っていたマネージャーの顔を思い出して更に落ち込んだ。そんな俺に明るい声が掛かる。
「そんなことないよ。琉火くんと話せて気も紛れてるし」
「そう?」
「そうだよ」
「……なんか、ユキに気を遣わせてばっかりな気がする」
 これじゃあ意味が無い。そう思って立ち上がる。ぱちぱちと目を瞬いているユキを見下ろして、ニッと口角を吊り上げた。
「ユキはコーヒー無糖派だっけ?」
「え、あ、うん。そうだけど」
 なんで? と首を傾げたユキに、ちょっと待ってて、と告げてコインランドリーの外に出る。直ぐさま走って自販機で微糖と無糖のコーヒーを買って、またダッシュで戻る。このくらいで息は切れないけれど、走ってきた俺にユキはまた目をぱちくりとさせている。
「はい」
 差し出した缶コーヒー。
 見上げてくるユキに半ば押しつけて、俺もまた隣に腰をドカッと下ろす。
 何にも出来ないけれど、これくらいは労わせて欲しい。ホッと一息つくだけでも効率は違う。俺自身がそうだ。あまり乗り気にならない時、こうしてたった一本のコーヒーで気分が変わることもある。
「ふふ、琉火くんありがとう。優しいなあ」
「それを言うならユキの方だろ。これくらいしか出来ないけど」
「こんなに、だよ。ありがと」
 ふにゃりと顔を緩ませて笑ってくれる。
 そんなユキの笑顔は、心臓よりももっと深い場所に優しく触れてくるような温かさを、じわじわと感じさせてくれる。
 この穏やかな時間が永遠に続けば良いのに、なんて思ってしまうくらいに、俺にとってこの時間は大切だ。
 一人で過ごしていたときはなかった温かさが全身を包んで、その温かさを手放せなくなりそうだな、とぼんやり思う。
 夜から始まる仕事も、きっとまたユキとこの穏やかな時間を過ごす時をご褒美にすれば、易々と乗り越えられる気がする。
 もっと一緒にいたい、と思う気持ちが頭をもたげているのを感じながら、少しでもこの穏やかな時間を延ばすために、ちびちびと缶コーヒーを口元に運ぶことにした。

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