義兄に甘えまくっていたらいつの間にか執着されまくっていた話

1

　マリナが五歳のとき、両親が事故で亡くなった。強いショックを受けると同時に、どっと前世の記憶が蘇った。混乱し、それでもどうにか、ゆっくりとそれを受け入れる。その過程で、なんとなく「マリナ」という自分の名前に引っ掛かりを覚えた。
　五歳のとき事故で両親を亡くした、マリナという名前の少女。
　自分の境遇が、前世の記憶にある「マリナ」という名前の少女と被る。
　いやでもまさか。そんなわけない。そんなことが起こるはずがない。でもひょっとしたら。もしかしたら、マリナである自分は前世の記憶に残る「マリナ」なのではないか。
　半信半疑だったけれど、引き取られた先の侯爵家の一人息子、ユリウスと顔を合わせた瞬間、やはりそうなのだと確信した。
　とある乙女ゲームでヒロインにねちねちと嫌がらせをする攻略対象者の一人であるユリウスの義妹、マリナ。それが自分なのだ。
　ショックは大きかったが、ある程度覚悟はしていた。
　大好きなゲームに出てくる、一番好きだったユリウス。どうせゲームに転生するなら、ユリウスと恋仲になれるキャラに転生したかった。自分で選べるのなら、間違いなくヒロインのシルヴィエに転生したのに。
　マリナはユリウスの義妹でしかなく、義妹にしかなれない。間違っても恋愛に発展することはない。ゲームの中で、マリナはユリウスを一人の男性として見ていたが、ユリウスはマリナを妹、家族としてしか見ていなかった。まだモブの令嬢の方がユリウスと結ばれる可能性があるのではないか。
　確かなのは、いくらマリナがユリウスを好きになっても、その恋が成就することはないのだということだ。
　自分のポジションにがっかりし、深く落ち込んだ。
　でも、せっかく大好きなユリウスがすぐ傍にいるのだ。どうせなら、目一杯甘えよう。ヒロインに意地悪する気はない。ヒロインからユリウスを奪おうとしても失敗に終わるだけだ。ゲームでは悪事がバレ、結果マリナは修道院行きになってしまう。
　妹として接し、妹として可愛がられるだけで充分だ。そうすれば、大好きなユリウスにたくさん甘やかしてもらえる。妹としてなら溺愛してもらえる。
　妹という特権を得たマリナは、それを思う存分使ってユリウスに甘えまくろうと考えた。

「はじめまして、僕はユリウスだよ。僕のこと、本当の兄だと思ってたくさん甘えていいからね」

　そう言って差し出されたユリウスの手を、マリナはしっかりと握り締めた。

「はい、よろしくお願いします、お義兄さまっ」

　マリナは満面の笑顔を彼に向けたのだ。





　養子として迎え入れてはくれたが、義父母はマリナに無関心だった。必要な物は与えてくれるが、愛情を注いでくれることはなかった。だが寂しいとは思わない。なにせマリナには両親の分もたっぷり甘やかしてくれる義兄がいるのだから。

「マリナ、今日は天気がいいからお庭でお茶にしようか」
「はい、お義兄さま！」

　ユリウスは毎日必ずマリナをお茶に誘ってくれる。寂しい思いをしないようにと、気にかけてくれているようだ。
　ユリウスもまだ子供なのに、突然やって来たマリナを疎ましく思うことなく、本当に妹として可愛がってくれる。わからないことを尋ねれば丁寧に答えてくれるし、マリナが困っていれば迷わず手を差し伸べてくれる。
　本当に、心優しい理想の兄だ。

「あ、お兄ちゃん、このお菓子すごく美味しいよ」
「え……？」
「あっ、ちが、ごめんなさい、間違えました、お義兄さま！」

　きょとんとするユリウスに、マリナは慌てて謝った。
　間違えて「お兄ちゃん」呼びしてしまうなんて恥ずかしすぎる。
　どうも前世の記憶を思い出してから、マリナとして生きていた五年間の記憶よりも前世の記憶に引っ張られてしまう。「お義兄さま」なんて、呼び慣れないのだ。義父母と会話する機会が少なくてよかった。頻繁に言葉を交わしていたら、多分「お父さん」「お母さん」と呼んでしまっていたに違いない。
　羞恥に頬を赤くするマリナに、ユリウスはクスクスと笑った。

「二人きりのときなら、『お兄ちゃん』と呼んでくれて構わないよ？」
「い、いえ、ダメです、気を付けます」

　徹底しなければ、きっと人前でも「お兄ちゃん」と呼んでしまうだろう。それはユリウスにも恥をかかせることになりかねない。「お義兄さま」と呼ぶことをしっかりと定着させなければ。

「別にいいのに……」

　ユリウスはちょっと残念そうに苦笑して、カップに口をつけた。
　幼いながらも、ユリウスのお茶を飲む姿は優雅で洗練されている。
　今日も推しが尊い。いつ見ても何度見ても、顔も声も仕草も立ち振舞いもなにもかもが尊い。毎日胸がきゅんきゅんし過ぎて苦しいくらいだ。
　よくよく考えればユリウスの少年時代をこうして共に過ごせるなんて、最高ではないか。ヒロインに転生していたら、ユリウスの成長過程を見ることなんてできなかった。少年のユリウスをこんな間近で堪能できるなら、マリナに転生できてよかったと思えた。
　うっとりと見つめていると、気づいたユリウスが「どうしたの？」と首を傾げる。
　ゲームの中で見た青年のユリウスも素敵だけれど、あどけなさの残る少年のユリウスも大変愛らしくてマリナの胸をときめかせた。
　早く成長してほしくもあり、このままでいてほしい気持ちもある。
「なんでもありません」と笑顔で誤魔化しつつ、マリナは網膜に焼き付ける勢いでユリウスを見つめ続けた。





　マリナがユリウスの家に引き取られ数年が過ぎた。
　廊下を歩いていると、ガチャンッとなにかが割れるような音が響いた。何事かと音のした方へ向かえば、棚の上に飾られていた壺が床に落ちて無惨な姿になっていた。

「あっ、あぁ……っ」

　傍らには、青ざめた顔でへたり込むメイドの姿がある。彼女は色々とマリナの身辺の世話をしてくれるサシャという名のメイドだ。

「サシャ、どうしたの？」

　マリナが駆け寄れば、ガクガクと震えながらこちらへ顔を向けた。

「あ、お嬢様……わ、私、私……私が、割ってしまったのです」
「落ち着いて、サシャ」

　涙ぐむ彼女をどうにか立たせる。そのとき、背後から声がかかった。

「先程の音はなに？」

　振り返ると、近づいてくる義母がいた。彼女は割れた壺を見て、眉を顰める。

「どういうこと？　なぜ壺が割れているの？」
「ぁ……」

　サシャが言葉を発する前に、マリナが先に口を開いた。

「申し訳ございません！　私がぶつかって落としてしまいました！」

　体を折り曲げて義母に頭を下げる。

「お、お嬢様……っ」
「本当に申し訳ありません！　私の不注意で、大切な壺を割ってしまいました」

　サシャが口を挟もうとするのを遮り、マリナは謝罪を繰り返す。
　義母の深い溜め息が聞こえた。

「部屋に戻りなさい、マリナ。今日はご飯抜きよ。それが罰です」
「はい、わかりました」

　義母の姿が見えなくなるまで、マリナはずっと頭を下げていた。





「申し訳ありません、お嬢様……わ、私のせいで、お嬢様が……っ」

　あれから部屋に戻り、サシャはずっと泣きながら謝り続けている。

「大袈裟よ、サシャ。一食ご飯を食べないくらい、大したことじゃないから……」

　身を縮めて泣きじゃくるサシャの背を撫でて宥める。
　そう。昼食後の出来事だったので、抜かれたのはたった一食だ。本当に大したことではないのに、サシャはまるでマリナが折檻でもされたかのように嘆いている。

「私のせいで、お嬢様がっ……お腹を空かせて、ひもじい思いをなさるなんて……っ」
「そ、そんなに泣くほどのことじゃないわ、ね、泣かないで、サシャ」
「お、お嬢様……っ」

　サシャはしゃくりあげながら、ぼろぼろ零れる涙をエプロンで拭う。自分のせいで、と本当に胸を痛めているようだ。

「私が勝手にしたことだから、サシャが気に病むことないのよ」
「で、でもっ、壺を割ったのは私です、それなのに……っ」
「そのことは、私達の秘密にしましょう？」

　マリナはサシャの手をぎゅっと握った。

「お願いよ、サシャ。もし本当のことが知られて、サシャが罰を受けることになったら……もしかしたら、サシャが辞めさせられてしまうかもしれないわ……」

　屋敷の目立つ場所に飾ってあったあの壺は、明らかに高級品だ。それこそ、サシャの給金では一生かかっても弁償できるものではないかもしれない。そんな壺を割ってしまったのだとしたら、この屋敷で働きはじめてまだ日の浅いサシャはクビになってしまう可能性もある。
　サシャにはたくさんの弟妹がいて、実家に仕送りするためにここで働いているのだ。突然職を失えば、彼女だけでなく彼女の家族まで苦しむことになるだろう。
　そんなことにはさせたくなかった。
　義父母がマリナに無関心なので、屋敷で働く使用人もマリナに対して好意的ではない。冷遇されているわけではない。きちんと侯爵家の令嬢として扱ってはくれるが、あまり関わりたくないという空気を感じる。
　前はサシャもそうだった。必要最低限の言葉しか交わそうとせず、目もなかなか合わせてもらえなかった。
　そんな彼女に、マリナは自分から毎日声をかけた。庭に咲いているあの花が可愛いとか、ここで働いている使用人達の名前を教えてほしいとか、サシャの家族のこととか。最初の頃はただの相槌や、はいかいいえと返事が返ってくるだけだった。けれどずっと続けていたら、少しずつサシャの方からも話しかけてくれるようになったのだ。
　今ではちゃんと目も合うし、笑顔でマリナと会話してくれる。
　サシャはマリナにとって大切な存在となっていた。

「そんなの嫌よ。サシャがいなくなってしまったら、寂しいもの」
「お嬢様……」
「だから、お願い、サシャ」
「はい、わかりました……」

　サシャが頷いてくれたことに、マリナはほっと胸を撫で下ろした。

「さ、涙を拭いて。まだ仕事が残っているのでしょう？　私は平気だから、行ってきて」
「は、はい……」

　サシャは涙を拭い、立ち上がった。
　部屋を出ていく彼女を笑顔で見送って、マリナは一人で本を読んで過ごした。空腹は感じたが、耐えられないわけではない。体罰ではなく、これくらいの罰で済んでよかった。
　暫くして、ユリウスが部屋にやって来た。彼はマリナに軽食を持ってきてくれたが、マリナは受け取るのを躊躇う。

「マリナ？　食べていいんだよ？」
「で、でも、悪いのは私です。だから、罰はきちんと受けなくてはいけません」
「罰なんて、受ける必要はないよ。たかが壺を割ったくらいで、罰を与えるなんて間違ってる。わざと割ったわけでもないのに」

　ユリウスの優しさは嬉しいが、故意ではないにしろ、高価な壺を割ってしまってお咎めなしというわけにもいかないだろう。
　ソファの隣に座るユリウスを見上げ、マリナは緩く首を横に振った。

「そ、それでも、やっぱり、罰は受けなくてはいけないと、思います……」
「……でも、割ったのは本当はマリナじゃないんだろう？」
「っ、え……？」

　必死に動揺を押し隠そうとするマリナに、ユリウスは苦笑を浮かべる。

「さっき、部屋の前でマリナとサシャの会話を聞いてしまったんだよ」
「ぁっ……」

　マリナはとっさにユリウスの腕に縋った。

「お願いします、お義兄さま！　どうか、そのことは……っ」
「誰にも言わないよ。マリナがそう望むなら」

　ユリウスは安心させるように柔らかく微笑み、マリナの頭を撫でた。
　彼の言葉に、ほっとして肩の力を抜く。

「でもマリナ、どうして彼女を庇ったの？」
「え……？」

　ユリウスの言葉に、首を傾げる。
　そして、ゲームのマリナだったら庇っていなかったのだろうと思った。ゲームのマリナはユリウスさえいてくれればいいと、彼女自身も他者を寄せ付けなかった。ユリウスにしか関心がなかった。サシャが壺を割った現場を目撃しても、見て見ぬ振りをしただろう。
　だが、マリナにはただ傍観していることなどできなかった。

「サシャは、私にとって大切な存在ですから……」
「大切？」
「はい……ただのメイドではなく、もっと親しく、特別な存在だと、私は思っていて……」

　誰もマリナと関わろうとしないこの屋敷で、普通に会話してくれる彼女の存在にとても救われた。もちろんユリウスがいるから寂しくはないが、マリナの中で彼女の存在は随分大きくなっていた。
　ユリウスは感情の読めない顔でマリナを見つめている。使用人に対してこういう感情を抱くのはよくないのかもしれない。
　頭を撫でていた手がするりと下がり、頬に触れる。
　ユリウスの双眸が、じっとマリナの瞳を覗き込んだ。

「僕よりも？」
「っえ……？」
「マリナにとって、彼女は僕よりも大切な存在なの？」

　マリナは目を丸くして、ぶんぶんとかぶりを振る。

「そ、そんなことはありません。私の一番大切な人は、お義兄さまですから！」
「そっか、よかった」

　ユリウスはにっこり微笑んだ。

「僕も、マリナが一番大切だよ」

　彼はそう言ってくれたが、それはあくまでも義妹としてだということはわかっている。
　そして、いずれマリナが一番ではなくなることも、嫌というほどわかっている。
　ヒロインのシルヴィエと出会い、彼女がユリウスにとっての一番大切な存在となるのだ。
　こんな風に言ってくれるのも今だけだ。
　嬉しいけれど、つんと切なく胸が痛んだ。
　しかしそれを表情には出さず、マリナは満面の笑みを浮かべる。

「お義兄さまにそう言ってもらえて、嬉しいです」
「僕も嬉しいよ、マリナの一番にしてもらえて」

　ユリウスはひょいっとマリナを抱き上げ、自分の膝の上に乗せた。

「お、お義兄さま……？」
「ご飯にしよう？　僕が食べさせてあげるから」
「えっ、で、でも……」
「僕のために食べて。マリナがお腹を空かせていると思ったら、胸が苦しくて眠れなくなってしまうから……」

　本当に辛そうに顔を歪めるユリウスにそう言われたら、拒めなかった。

「わかりました。でも、私、自分で食べられます」
「マリナを甘やかしたいんだ。だから、ほら、あーんして？」

　軽食のサンドイッチを手に取り、口元に差し出してくる。
　こうして食べさせてもらうのははじめてではない。一緒にお茶をしたとき、お菓子を食べさせてもらうことは何度かあった。
　こんな風に甘えられるのも、今の内だ。それならば、甘えられる内に甘えなくてはもったいない。
　マリナはおとなしく口を開け、にこにこと嬉しそうに笑うユリウスに食べさせてもらった。　




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