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 フィクトの気配がすっかり消えた頃になっても、ルーヴェンスはベッドに腰かけたままでいた。長いようで短かったこの半年、フィクトとともに過ごした日々の余韻に浸っていたのだった。

 これまで幾度となく彼を〈凡人〉〈凡才〉と罵り、一人前として認めはしなかったルーヴェンスのことを、フィクト自身はどう思っていただろうか。彼は、どれだけ嫌味を言われても、侮辱されても、逃げ出すことなくルーヴェンスの世話を焼いた。それどころか、時折ルーヴェンスを子ども扱いすることさえあった。弟妹と振る舞いの程度が変わらないとぼやきながら……。
 フィクトの日々の様子を思い返していたルーヴェンスは、ある可能性に思い至った。

「もし……もし私が〈行かないでくれ〉と縋っていたら、フィグ君は……?」

 ルーヴェンスはそうつぶやいてから、自分の考えのおぞましさに身震いした。
 フィクトがルーヴェンスの真剣な頼みを無視したことは一度もない。むしろ、目ざとくルーヴェンスが抱えた問題に気づき、頼んでもいないのに首を突っ込んでくるのが彼だ。ルーヴェンスが助けを求めれば……いや、助けさえ求めなくとも、フィクトが事情を知っていれば、いつもの不満そうな顔でルーヴェンスに手を貸そうとしただろう。
 『大罪の器』に関わるということがどういうことであるのか、今のルーヴェンスには想像もつかない。だが、その先に待っているのは、間違いなく破滅だ。

 ルーヴェンスは、どうして自分が〈フィクトにはこの件に関わらせない〉ことに意固地になっていたのか、ようやく理解した。話せば彼を巻き込んでしまうと、無意識のうちに気がついていたからだ。

 ――私は危うく、彼の未来を潰してしまうところだった。

 ルーヴェンスは長いため息を吐き、少しだけ表情を和らげた。
 フィクトの方は気づいていなかっただろうが、フィクトと過ごしたこの数か月は、ルーヴェンスにとってみれば、あまりに奇妙なものだった。他人が常にそばにいて、予測できない行動を見せる――ルーヴェンスはフィクトの言動に対して、時にいらだち、時に驚き、時に喜びを覚えた。ルーヴェンス自身でさえ知らなかった心の側面が、フィクトの前ではさらけ出されてしまうことに戸惑ったこともあった。

 フィクトがいなくなった今にして思えば、フィクトの存在はルーヴェンスの中で、ある種の重要な地位を占めていたのだった。だが、今更それを認識したところで、どうなるというわけでもない。ルーヴェンスは己の身を強く抱くと、毛布を引き寄せ、そこに体を埋める。旅立つにしろ、少しの休息なしには、動くこともできそうになかった。

 ルーヴェンスが大切に守り続けてきたものは、当たり前にそこにあると思い込んでいたものたちは、一日もたたないうちに何もかも消えてしまった。惜しむ間もないほどにあっけなく。そうしてできた大きな空虚を引きずって歩くには、人の心は脆すぎる。

 ルーヴェンスは、うなる心臓を押さえて目を閉じた。次に眠りから覚めたときにこそ、家の扉を封じて、ここを去ろう――静かなまどろみの中、ルーヴェンスは自らにそう言い聞かせたが、現実は、ルーヴェンスが眠りに身を委ねることさえ許してはくれなかった。
 なんの予兆もなく、ドアベルが騒ぎ立てる。玄関のドアが開かれたのだ。突然の来訪者に心当たりのなかったルーヴェンスは、びくっと身を震わせる。

「おおい、いないってのか? チッ、いい知らせを持って来てやったのに。逃げやがったか、ルーヴェンスの野郎……」

 かすかに聞こえてきたその声は、学会発表の場で受けた屈辱をルーヴェンスに思い出させるものだった。ルーヴェンスは頭まで毛布をかぶり、息をひそめる。
 招かれざる客――エドマンドはひとしきりリビングやキッチンを荒らしていたが、寝室のドアが開け放たれていることに気がついたのか、ルーヴェンスのもとへと近づいてくる。寝室で震えるルーヴェンスは、絶望的な思いで、迫りくる足音を聞いていた。

 しばらくして……不意に、足音が止まる。
 何が起きたのだろうか。エドマンドは? ――ルーヴェンスは必死で考えを巡らせた。しばらく、身の縮むような静寂が続く。その末、何の動きもないと安堵しかかったルーヴェンスの不意を打つように、強引に毛布がはぎとられた。

「――なんだ、いるんじゃないか。こそこそしやがって」

 頭上から降ってきた声が、ルーヴェンスの胸の底をざらりと舐め上げる。ルーヴェンスはエドマンドを直視することさえできないまま、ベッドシーツに縋った。
 エドマンドはまず、ルーヴェンスの髪と瞳の色を見てぎょっとしたようだった。だが、その意味をまるで別のものと取り違えたらしく、にやにやと下卑た笑みを浮かべながらルーヴェンスのベッドへと足をかける。ルーヴェンスはベッドの端まで後ずさったが、容易くエドマンドに前髪を掴み上げられてしまった。

「どうやったのか知らないが、見てくれをちょっとばかり変えた程度で、周りがお前を見る目が変わるわけじゃないぞ。残念だったな」

 『大罪の器』の特徴も知らないなんて、さすがは〈もぐり〉だ――そんな罵りさえ、ルーヴェンスは口にすることができなかった。慣れない暴力の気配を肌に感じて、喉が引きつってしまっていたのだ。

 ルーヴェンスの怯えた表情に気を良くしたのか、エドマンドはさらに笑みを深める。彼はルーヴェンスの髪を掴んだまま彼をベッドから引きずり下ろすと、みぞおちに蹴りを入れた。ルーヴェンスは激しくむせ返り、床に蹲る。
 エドマンドは身をかがめ、恍惚とした面持ちでルーヴェンスの顔をのぞき込んだ。

「お前にわかるのか? ええ? 必死で研究して、ようやく手に入れた発表のチャンスを台無しにされた奴の絶望はよ。わからないだろうなあ、ルーヴェンス様は〈天才〉だもんな。同じ目に遭ってみてどうだ? 死にたいか? なあ、なあ、どうなんだ」

 エドマンドのこぶしがルーヴェンスを繰り返し小突く。ルーヴェンスは、痛みに霞む頭で、エドマンドの言葉を咀嚼していた。だが、返す言葉を用意するまで待ってくれる相手ではない。
 身を丸めたルーヴェンスの背に、次々と蹴りが入る。わき腹を襲った一撃にルーヴェンスがえずくと、エドマンドはさらに調子づいた。

「そうだ、今日はお前に良い知らせを持って来てやったんだ。お前が発表するはずだった研究成果のおかげで、俺はフィーエルの教員証を手に入れた。もちろん、あの研究の主は俺、エドマンド・ノーシュとしてな。向こうのテーブルに置いてあったあの論文も合わせれば、この先何年もガキどもに指図するだけの生活を送れそうだ。それも、まあ悪くない」

 ルーヴェンスの体が硬直する。
 研究成果は、フィクトへの最後の贈り物になるはずだった。作品たちは、ルーヴェンスがこれまで生きてきた証、生き方そのものだ。そんなものを委ねられるとすれば、ただ一人の弟子、フィクトのほかにはいない。〈凡才〉でありながら〈凡人〉でなかった彼にしか……。

「やめ、ろ。あれは、私の……」

 〈弟子のもの〉と言う前に、再びエドマンドの靴先がルーヴェンスを襲った。まなうらに白い光が散り、体が重くなる。
 フィクトのためにと残しておいた研究成果が、エドマンドに奪われたなら。よりによって、彼の薄汚い名誉などのために利用されたなら――ルーヴェンスは、なんとか意識をつなぎ止めようと、奥歯を噛みしめた。

 しばらくして、ルーヴェンスをいたぶることに飽きたらしいエドマンドは、〈俺の〉論文を回収するだのと言って寝室を立ち去った。去り際のエドマンドの上機嫌な鼻歌……全身の痛みと疲労、そして絶望に沈んだままのルーヴェンスの手が、弱々しく床を掻く。
 ルーヴェンスの最後の作品たちは、やがてエドマンドの手で汚されてしまう。ルーヴェンスがすべてを懸けてきたものが、その価値を理解できない者の汚い手に渡るのだ。

「……それ、だけは」

 〈天才〉として一人で生きる彼を守り続けてきたプライドが、激しく軋む。〈天才〉だという自負、それを侵すものは何人たりとも許さないという覚悟……それらに応えるかのように、わき腹の忌痕が、かっと熱を帯びた。肌を灼く苦痛はルーヴェンスの意識をさらい、空っぽの体に、別の〈何か〉を宿らせてゆく――。



 エドマンドは手に入れたばかりの論文をめくり、ほくそ笑んだ。
 ルーヴェンスの研究成果を手に入れた今、エドマンドが歴史に名を残す妖精学者の仲間入りを果たすのも時間の問題だ。ルーヴェンス本人が文句を言ったところで、厄介者である彼の意見など誰も聞き入れはしない。むしろ、誰もが喜んで奴を追い出しにかかるはずだ。

 研究成果は学会にもたらされ、ルーヴェンスはいなくなる。ルーヴェンス以外の誰にとっても、その結末は魅力的に思えた。エドマンドは、この先のあれこれを想像し、緩む頬を押さえる。
 数年を経てようやく雪辱を果たせた上、ルーヴェンスの顔に泥を塗ることができた喜びは口にすることも難しいほどだ。学会でのやりとり――ルーヴェンスの美貌が歪んだあの瞬間を思い出すたびに、エドマンドは自らの妙案に誇らしさすら覚えた。しかも、これからはルーヴェンスのものになるはずだった栄誉を享受することさえできるのだ。考えるほどに愉快でならなかった。

 さらにエドマンドを喜ばせたのは、家の中に、ルーヴェンスが連れていた学生――きっと弟子だろう――の姿が見当たらないことだった。エドマンドの前ではルーヴェンスを気遣う様子を見せたあの青年も、学会での師の醜態に愛想を尽かし、出ていったに違いない。哀れなルーヴェンスは、研究成果を奪われ、ひどく恥をかかされたあげく、弟子にすら見捨てられたのだ。エドマンドはとうとう抑えきれなくなり、声を上げて笑い出した。

 ――あの高慢な男から、名誉どころか、居場所や弟子、研究成果まで奪ってやった。ああ、最高の気分だ! 奴はさぞ絶望していることだろう。もう二度と、学者として立ち直ることなどできないに違いない。どうにか這い上がってこられたところで、学会に奴の居場所はない。それだけじゃない、ルーヴェンスを追いやった俺を、学会の奴らは間違いなく賞賛する……。

 エドマンドの想像が〈名誉フェローとして演壇に立ち、聴講者たちの大きな拍手を受ける自身の姿〉にまで至ったとき、ふと、背後で床が軋む音がした。人がいい気分でいるところを邪魔するなんて――不満げに振り返ったエドマンドだったが、背後に立つ人影を見て、声を失った。

 そこにいたのは、ルーヴェンスだった。

 貧弱な彼が、あれほど激しく殴打されてなお立ち上がれるわけがない。ただでさえ精神的にひどく落ち込んでいたというのに……。ルーヴェンスの殺気に射抜かれたエドマンドの思考が、恐怖に固まる。生気のない瞳はエドマンドを捉えると、すっと細められた。エドマンドは思わず後ずさり、冷や汗を拭う。

「脅そうったって無駄だぞ。お前には何もできやしない。それともなんだ、また痛い思いがしたいのか? ほら、ほら……」

 エドマンドは靴先を振り回し、蹴飛ばすしぐさをみせた。だが、ルーヴェンスの顔には、揺らがない無表情がはりついているだけだ。まるで、虎視眈々と喉笛を狙う獣と対峙しているような感覚――。エドマンドは、気圧されて後ずさった。

 ルーヴェンスは、半ば足を引きずりながらも、ゆっくりとエドマンドの方に近づいてくる。とうとう壁ぎわまで追い詰められたエドマンドは、ルーヴェンスの雰囲気にただならないものを感じて、盗んだ資料の束を突き返した。

「ま、待て。悪かった。これは返すよ、返せばいいんだろ? だから、もう離れ――」

 エドマンドの言葉は、ルーヴェンスには届いていなかった。ルーヴェンスは、エドマンドを見据えたまま、自らの右手の親指、人差し指の先を食いちぎる。〈正気じゃない〉――そう悟るも遅く、エドマンドの体は、恐怖に固まってしまっていた。
 血まみれの指先が自らの服に触れるのを感じたエドマンドは、抵抗することもできないまま、笛の音のような悲鳴をもらす。ルーヴェンスは、ふらつく指で、だが迷いなく、エドマンドの服に何かの図柄を描いていった。何やら聞き取れない言葉を、絶え間なく紡ぎながら。

 声が、ぷつりと止む。エドマンドがおそるおそる自らの服を見やると、そこには、円で囲まれた八芒星が描かれていた。それらの中央には、奇妙な記号がひとつ、抱かれている。エドマンドは真っ赤なそれを震えながら見下ろした。ルーヴェンスの顔に広がった悦の色に気づくこともないままに。

「――、」

 ルーヴェンスが最後につぶやいた言葉がエドマンドの耳に届くより先に、エドマンドの服に描かれた文様――魔法陣が、眩い光を放つ。刹那、周囲に漂っていた妖精の気配が形を持ち、刃となってエドマンドの体を貫いた。
 学会の者たちに讃えられる自分の姿。夢にまで見た、あの演壇――エドマンドの中に広がりつつあった金の未来図は、彼自身の断末魔とともに途絶えた。
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