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空に焦がれた魔法使い
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ガラス瓶の断末魔が耳を突くや、窓枠が落とす影の中に、真珠色の粉が広がった。暗がりに、ちらちらときらめく粉は、まるで星屑だ。写真の中で見た、星空。
少年――パトリックは、不注意で落としてしまった瓶の傍らに屈みこみ、指先でそのかけらをつまみ上げた。かけらから垂れ下がるラベルには、粉の正体なのだろう、パトリックの知らない単語が記されている。この真珠色の粉が何なのかはまるで分からないが、少なくとも、この店の大事な商品のひとつであることだけは確かだった。
瓶のかけらが床を転がる音に気づいたのか、棚越しに、心配そうな声が降ってくる。
「パディ?」
「すいません、ジュアン。すぐに片します」
「そうか。指を切らないようにね。中身ならまた作ればいいから。ラベルだけ剥がして、後でこっちのボードに貼っておいてくれ。……珍しいな、パディがミスをするなんて。心配ごとがあるなら、ちゃんと言うんだよ」
「ありがとうございます。大丈夫ですから」
パトリックは、カウンターで薬剤を調合しているであろう店主――ジュアンに向かって返事を投げるかたわら、足元に広がる星空を、ちりとりの中に追いやった。
パトリックがジュアンの薬屋の雑用係として働きはじめてから、もう二年になる。
上っ面だけの平和を共有しようと、大陸の国々が国境をなくしたのは、もういつのことだったか。旧国境から離れたこの街――『セブンス』にも、資源の利権を巡って起きた内戦の余波は届いていた。
身寄りのない戦災孤児だったパトリックは、同じような境遇の子らと共に、ひっそりと生きてきた。パンのかけらひとつも分けてくれない、自分のことだけに必死な大人たちを憎みながら。
そんなパトリックを拾ったのが、働き手に困っていたジュアンだった。まじないを扱う薬師を、人は避ける。それでもいいならと、ジュアンはパトリックを店に招き入れ、温かいミルクを出してくれた。寝る部屋や食事を与えてくれた。感謝の言葉では足らず、深く頭を下げたパトリックに、ジュアンはこう言った――すまないね、僕たちのせいだよね、と。穏やかな彼に似つかわしくない、ひどく冷えたまなざしで。
パトリックは、ガラスの破片で薄く切れた指先を見つめ、小さくため息をもらした。
この店の商品の主たるものは、小瓶に収められ、棚に陳列された色とりどりの粉や液体だ。ジュアン曰く、「薬じゃないものもあるが、ほとんどは薬」とのことだった。難しい単語を知らないパトリックには、それらが何なのか分からなかったし、薬というのはたいてい高価で手の届かないものだった。だが、カラフルという点で言えば、どこかのショーウィンドウに見た、甘い匂いのするおいしそうなものによく似て見える。ジュアンは、パトリックがそうしてぼうっとしていても、殴ったりはしなかった。「気に入ってくれて嬉しいよ」と微笑むだけで。
パトリックが自分のことを考えているとは思いもしないらしいジュアンは、大きなあくびとともに、間の抜けた声でパトリックを呼んだ。
「パディ、そろそろ休憩にしようか。疲れたろう。ミルクでいいかい?」
ジュアンの声は、きれいな服を着て薬を買いに来た子供に向けられたそれと、少しも変わらない。パトリックはほうきを傍らに立てかけ、ジュアンの呼びかけに応じた。
二階へと続く階段のわきにあるカウンターは、もともとは食卓の意味を兼ねていたのだろうが、今はもっぱらジュアンの作業台として使われている。パトリックが丸椅子を引きずってきて向かい側に座ると、ジュアンは使っていた道具をどけて、カップを差し出した。パトリックは、コーヒーを淹れるジュアンの背中から、カップの中身へと視線を移す。
砂糖を溶いた温かいミルク。働き場所を探して家々のドアを叩いて回ったあの日、出してもらったのと同じ、甘くて優しい匂い。
パトリックは、ジュアンの横顔を見つめる。神様なんて信じていないのに、気づかぬ間に、両手が祈りを形作っていた。
「今日はいっそう空が暗いな。少し息苦しいね」
ジュアンの言葉につられて、パトリックは窓の方に視線を投げる。窓越しに見えるのは、染め布を張ったような、暗い空だった。監視艇『鯨』が、布すれすれを音もなく滑っていく。
今に続く内戦が始まる少し前までは、空は青かったらしい。パトリックには、青い空など想像することもできなかった。物心ついた頃から、空は重く垂れ込め、ぶどう酒色、でなければ泥色をしているものだったから。
けれども、戦前の空を知るジュアンは、今の空を見て、時々寂しそうな顔をする。何かに焦がれるような彼のまなざしを追いかけて、暗い空に目を凝らしても、彼と同じものを見ることはできないのだった。
「昔の空って、本当に青かったんですよね」
答えはなかった。
パトリックが視線を戻すと、ジュアンは、カップを片手に舟をこいでいた。ほんのすこしの間黙っていただけなのに、すでに浅いまどろみの中に片足を突っ込んでしまっている。
パトリックは机を指先で叩きながら、ジュアンの意識を引き戻す。
「ジュアン」
「……あ、ああ。またやってしまった。すまない、最近ひどく眠たくて……。あの頃の空、か。きれいだったよ」
パトリックは、ジュアンの取り繕うような笑みに、一抹の不安を覚えた。
ジュアンは、夜早く床につくわりに、いつも昼を過ぎてから起きてくる。十分寝ているはずなのに、日中、こうしてうたた寝をしてしまうことがよくあった。心なしか、パトリックがはここにやって来た直後よりも、眠っている時間が長くなっているようにも思われる。医者を勧めても、本人は「どこか悪いわけじゃないから」と言ってきかないのだが。
ジュアン自身は、たびたび襲ってくる眠気など気にしてもいないようだ。かつてみた空を思い浮かべているのか、夢見るようなまなざしで言葉を続ける。
「青くて、高いんだ。一年中見ていても飽きなかった。日ごと時間ごとに、表情がまったく違っていて……。写真をたくさん撮っていたんだけど、ほとんど色あせてしまうか、押収されてしまったよ。残っているのは、君に見せた星空の写真だけ」
とろりとしたミルクと共に、ジュアンの言葉が、舌の上に優しく広がる。
窓の外では、布張りの空の下、『鯨』がサイレンを響かせていた。その横腹に並んだライトが点滅し、人々を威圧する。時計を見たジュアンが、そっとカーテンを閉めた。
夜が、近づいてくる。パトリックは冷えたミルクを飲み干し、『鯨』を睨みつけた。
――
小気味良い雨音が聞こえる。冷えた空気が、じわじわと体温を奪っていく。
カーテンの隙間から覗いた街は暗い。ときおり、『鯨』のサーチライトに照らされた家々の屋根が白く浮かび上がるだけだ。『鯨』に見つめられた窓たちは、息を潜めて、その影が過ぎるのを待っている。
夜、灯火管制下の街は暗闇に没する。明かりを灯すこと、カーテンを開けたままにすること、また外出することも禁止されていた。いつ来るやもしれない空襲に素早く対応するために『鯨』はいるのだと人々は言うが、パトリックは知っていた。『鯨』は、この街の人間を守るためではなく、管理するためにいるのだ。でなければ、カーテンを閉め忘れた家の主を連行したり、カンテラ片手に夜の街を駆ける子供らを撃ち殺したりするはずがない。
雨粒が、窓の裏側ではぜ解ける。路上で暮らしていた時には、体温を奪っていく恐ろしいものだったはずの雨なのに、散っていくさまは、なぜだか妙に物悲しかった。
パトリックが冷えた窓に手を伸ばした、そのとき。
ぎし、ぎし……。
背後、閉ざされた扉の向こうで、廊下が鈍く軋む。一定の間をおいて聞こえるその音は、確かに人の気配を帯びていた。真夜中、眠りの深いジュアンであれば、すっかり眠りこけているはずの時間だ。掛け時計の鳩が鳴く。
「ジュアン……?」
返事はなかった。
足音が近づいてくる。ジュアンのものとはまるで違う、ずっしりとした重たげな足音。ごく近くまできたそれには、喘ぐような呼気が混ざっていた。ジュアンじゃない――パトリックは背中で扉にはりつき、息を殺した。
硬く、妙にゆっくりとした足音は、パトリックの部屋の前で止まった。蝶番の軋む音は、どうやら、向かいのジュアンの部屋の扉のものらしい。扉の閉まる音とともに、誰かの気配は消えた。
パトリックは、廊下が完全に静まったのを確かめてから、窓台に置いてあった手燭のろうそくに火を灯した。もちろん、カーテンを閉めるのも忘れない。カーテンの挙動に煽られて、ろうそくの火が揺れる。
扉の向こう、ろうそくの明かりに照らされた廊下は、じっとりと濡れていた。黒い水に浸かった足で踏んだ痕のようにも見えるが、それにしては水気が多すぎる。一歩進むごとに、小さなバケツにためた水をぶちまけたかのようだ。足跡の形をした黒い染みは、やはり、階段から廊下を経て、ジュアンの部屋へと続いていた。
パトリックは、ジュアンの部屋の扉に向かい立ち、深く息を吸う。橙の光の中、ドアノブの辺りが怪しく輝いた。床と同じように、黒々と濡れているのだった。パトリックはドアノブに手をかけ、おそるおそる扉を押し開ける。
覗きこんだ部屋の中に、人の姿はなかった。パトリックは目を瞬かせ、辺りを警戒しながら、部屋に足を踏み入れる。手燭をかざして部屋中を見回すが、異変はないように見えた。
何かの勘違いだったのだろうか? パトリックは頭を振ったが、やはり、廊下は黒く濡れていた。【何か】が、ジュアンの部屋に入ったことは確かなのに――。パトリックは薄気味悪く思いながらも、ジュアンの安らかな寝息に背を向けた。
――
翌日のことだ。
その日何度目になるだろうか――パトリックは、焦れる気持ちを抑えて時計を見やった。足元では、窓枠に切り抜かれた光が斜めに歪み、床にはりついている。
もう、朝の掃除どころか、昼の棚整理も終えてしまった。それなのに、待てども待てども、ジュアンは起きてこない。すでに夕といって差し支えない時間になろうとしているというのに、店の看板は閉店を指したままだ。
ジュアンはどうしてしまったのだろう。疲れているのだろうか。いつもの【眠り病】だろうか。それにしても、こんなに起きるのが遅かったことはない。不審に思ったパトリックは、ジュアンへの遠慮を拭って、彼の部屋のドアを叩いた。
「パトリックです。もう夜になってしまいますよ」
返事はない。これではいけないと悟ったパトリックは、ドアを押し開けた。
部屋に入ってみると、やはり、ジュアンはぐっすりと眠ったままだった。特別やつれた様子もなく、いつもどおり、幸せそうに眠っている。パトリックはジュアンを優しく揺さぶり、声をかけてやった。
「ジュアン、もう夕方ですよ。起きてください」
だが、ジュアンは一向に目を覚まさなかった。どんなに揺すっても、声をかけても、なぜか意識が戻らないのだ。どうして――焦るパトリックの背後で、何かが動く気配がした。
振り返ってみれば、部屋の隅に、黒いマントに身を包んだ人影が立っている。体格からすると男なのだろうが、無言で立っているばかりなせいで、正確な判断はつかない。【そいつ】の足元には、昨晩廊下で見た足跡と同じような、黒く、どろりとした水たまりが広がっている。
いつの間に……。戸惑うパトリックは、深く被されたフードの奥を覗き、さらに顔を白くした。そこには、頭部の代わりに、色のない闇が収まっていたのだ。
目を覚まさないジュアンの方を向いて立つ【そいつ】の姿に、パトリックは、小さいころに人から聞いたおとぎ話を思い出した。
――死に瀕した者の枕元に立ち、その者が死ねば魂をさらっていく妖精がいてね。人間の男によく似た姿をしているんだが、頭がない。彼らは死者を哀れんですすり泣くのだが、目も口もないものだから、その涙は首から溢れ、床をびしょびしょにしてしまうんだ。
「……『ファーシー』」
パトリックは、【そいつ】――死の妖精・ファーシーを睨んだ。
ジュアンは昨日まで、あんなに元気だったのだ。昨日まで……そう、あのファーシーが、この部屋に消えていくまでは。となれば、ジュアンが目を覚まさない原因は、きっと、このファーシーにある。
「ジュアンに何をした」
パトリックの声は、怒りに震えていた。対するファーシーは、変わらず、フードの奥の虚に沈黙を漂わせるだけだ。パトリックはつかつかとファーシーに歩み寄り、その胸ぐらを掴む。人間によく似たシルエットの長身が、ぐらりと傾いだ。
「答えろよ、お前がジュアンを眠らせたんだろ! ジュアンをっ……殺そうと、してんだろ!」
ファーシーは答えない。代わりに、マントを掴むパトリックの手に、そっと自らの手を重ねた。ざらざらとした鱗に覆われた、異形の手だった。パトリックは息をのみ、弾かれるようにファーシーから手を離す。
怯えた目で、それでも果敢に睨みつけてくるパトリックを、ファーシーはフードの奥の闇をもって見返した。ただただ静かなその闇は、飢えやけがで、あるいは絶望に自らの手でその命を終えた者たちの、最期のまなざし――パトリックにとっての【死】そのものの色をしていた。魅入られてはいけないと分かっているのに、目をそらせない。背筋が、ぞわりと粟立つ。
脱力しかけたパトリックを正気に返したのは、街に夜を知らせるサイレンだった。ウウウ、ウウウ……『鯨』の悲鳴に、パトリックとファーシーのあいだにあった視線の糸が途切れる。
ファーシーは、パトリックからジュアンの方に顔を向け、何を思ったか、身を翻した。そして、呆然とするパトリックをその場に残して、濡れた足跡とともに部屋を出ていってしまった。
そうして、ファーシーの姿がすっかり見えなくなったころ。ようやく恐怖から解放されたパトリックは、その場に崩れた。緊張に押しつぶされそうだった肺が、酸素を求めて膨らむ。苦しい胸を押さえる手は、まだかすかに震えていた。
あんな恐ろしいものに、敵うはずがない。パトリックは悲鳴を飲み、力なくジュアンの方を見やった。ジュアンの寝息は変わらず安らかだが、もしこのままジュアンが目を覚まさなかったら――。パトリックは、不安に胸元を掻きむしった。他にどうすることもできなかった。
――
パトリックの不安は現実になった。次の日、そのまた次の日を越えても、ジュアンは一度も目を覚まさなかったのだ。目覚めを待つこと四日目になる今日に至ってもまだ、パトリックは眠るジュアンのかたわらでうなだれていた。
彼は、ジュアンがいつでも生活に戻れるよう、家を隅々まで掃除していた。商品の並びを整え、傷んだ食材を捨て、洗濯物を片し、床や窓を念入りにみがいた。何度もジュアンを揺さぶり、日が明けたと声をかけた。だが、相変わらずファーシーはジュアンを見つめている。
夕、『鯨』が泣き叫ぶ。今日も、サイレンの音が響く中、ファーシーは姿を消した。ファーシーは、ずっとジュアンの部屋にいるわけではなく、決まって夜中に現れ、夕方、『鯨』がサイレンを鳴らす頃にいなくなる。
パトリックはファーシーの気配が消えたことに安堵しつつ、ジュアンの手をとった。ゆっくりとした呼気が、心拍が、今のパトリックには、あまりに遠く思われた。
「いつまででも、待ってますから」
パトリックは、ジュアンの手に自らの頬を押しつけた。ジュアンの体温が、じわりとパトリックの頬に広がる。どこの子とも知れない薄汚いパトリックをなでてくれた、大きな手。仕事柄だろうが、かすかに、すんとした薬草の匂いがする手。
――パディは僕の家族みたいなもの……いや、僕が勝手にそう思っているだけなんだけどね。嫌かな?
ふと、ジュアンがかけてくれた言葉がよみがえった。同時に、情けない雫がパトリックの頬を伝い、ジュアンの手を濡らす。泣く子どもは生き残れない――分かっているのに、ジュアンの温度に慣らされた心は、寂しさに震えていた。
本当に目を覚まさなかったら。ジュアンが、このまま死んでしまったら……。パトリックは、あふれる不安を抑えきれず、ばたばたと階段を駆け下りた。
ここは薬屋だ。もしかすれば、何か、ジュアンを救う手段があるかもしれない。パトリックは棚に並んだ薬の瓶を次々確かめたが、ラベルに書かれた単語はやはり、どれもパトリックの知らないものだった。
読めない。瓶の中身が、何ひとつ分からない。ジュアンを救える可能性が目の前にあるのに、それを知ることさえ、今のパトリックにはできないのだ。がしゃん――パトリックの手からこぼれた小瓶が、床に打ち付けられて弾ける。明かりの灯されていない部屋に差す夜の影の中で、瓶の破片が、白く散った粉の川が笑う。
薬棚を前に、パトリックは膝を抱えた。床に広がった何かの薬も、散らばった小瓶の群れも、ジュアンを救ってはくれない。ファーシーは、今夜もまたジュアンのもとに現れることだろう。それまでに、何ができるだろう。……自分に、何ができるだろう。
「……家族、だって言ってくれたのに」
孤児であるパトリックは、本当の家族を知らない。だが、ジュアンの手のひらは温かく、パトリックに【家族】というものを思い起こさせた。ジュアンの店は、パトリックが得たはじめての居場所だった。
失意に沈むパトリックのそばで、二階へとつながる階段が、重く軋む。一瞬期待したが、階段の手前に立っていたのは、あのファーシーだった。サイレンが鳴り、ジュアンの部屋から消えた【それ】が、今ここに現れた――パトリックは、その事実に必然めいたものを感じた。ファーシーが、自分になにか訴えようとしているように感じられたのだ。
パトリックはファーシーに向かい立ち、そのフードの奥に満ち満ちる闇を見据えた。その恐ろしい暗闇のなかにある【意思】を、探ろうとするかのように。震える指先を、こぶしに握り込んで。
「お前は多分、ジュアンの命が欲しいんだろ? でも、あの人は優しい人だよ。ばかみたいなお人よしなんだよ」
パトリックの手が、縋るようにファーシーのマントを握る。その向こうにある異形の体は恐ろしかったが、それよりも、ジュアンを失うことの方が恐ろしかった。
「連れて行かないでくれよ。俺はあの人に救われたんだ、あの人だけが俺を家族だって言ってくれたんだ。俺の命で代えられるなら、そうしたってかまわない。だから、ジュアンだけは」
深々と下げた額が、ファーシーのマントに触れる。
ジュアンの店のドアを叩くまでは、何よりも、生きていたかった。明日を生きるために、必死でそのときを生きていた。今だって、もちろん死ぬのは恐ろしい。それなのに、命をあげるなどと口にしてしまえたのは。こうするのが間違いじゃないと思えるのは――きっと、パトリックが、ジュアンという居場所を得たからなのだ。
ファーシーは、底なしの闇をもってパトリックを見つめていたが、やがて、彼に背を向けた。パトリックは、階段を上っていくファーシーを追いかけ、【そいつ】に取りすがる。
「待って! もうジュアンのところには行くな! どうしてっ……どうして、俺じゃいけない! ジュアンが何をしたっていうんだ!」
ファーシーは、パトリックの叫びすらかえりみない。階段の末でファーシーに振りほどかれたパトリックは、とうとうへたりこんでしまった。
ファーシーは、きっと、またジュアンの部屋に行くのだ。『鯨』のサイレンが鳴った後なのに現れたのは、おそらく、今日こそジュアンを連れて行こうとしているから……。
パトリックの不吉な想像に反して、ファーシーは、ジュアンの部屋を通り過ぎ、さらに廊下の奥へと向かっていく。その先、廊下の突き当たりにある部屋は、ジュアンが、絶対に入らないようパトリックにきつく言いつけてあった部屋だった。ファーシーはためらいなくその部屋のドアを開け、向こうへと消えていく。
妙に思ったパトリックは、ジュアンの部屋の表、ミニテーブルに置いてあった手燭に明かりを灯して、黒い足跡を踏んだ。一歩踏み出すごとに、パトリックの直感が危険を訴えかけてくる。それでもパトリックは進み、ついには扉を押し開けた。
覗きこんだ室内は、驚くほど殺風景だった。家具は、ベッドとサイドテーブル、それに、たんすがひとつあるきりだ。カーペットの敷かれていない床は、はられた板がむき出しになっている。
室内に足を踏み入れ、手燭を胸の高さに掲げたパトリックは、ぎょっとした。大きな窓があっただろう場所が板で塞がれ、その上から水色の塗料がぶちまけられていたのだ。室内にファーシーの姿がないことよりも、それがジュアンの所業によるものであることに、パトリックは衝撃を受けた。あの穏やかなジュアンが、壁に塗料をぶちまけている姿など、まるで想像できなかった。
呆然とするパトリックの背後で、何かがばさばさと落ちる音がした。振り返れば、開け放たれた扉の手前に、いくつもの紙束が広がっている。
ファーシーの気配を感じて周囲を確かめるも、やはり、その姿は見つからなかった。パトリックは警戒しつつ、紙束の中身を確かめる。
いくつかの分厚い束は、アルバムであるらしかった。父親と母親、それに、顔のよく似た双子の兄弟……。仲よさげな家族の写真のはずなのに、双子の兄弟のうち、片方の顔だけが、すべて黒く塗りつぶされている。顔をなくしたその子の正体がジュアンであることを悟ったパトリックは、思わずアルバムを取り落とした。分厚いアルバムは、パトリックの手を離れて床に打たれ、ページをいくつも送る。
最後に開かれたページには、大きくなった双子が、仲良く映っていた。日付は三年前――ジュアンがパトリックを迎え入れる、少しだけ前だった。そこで、彼ら二人の記録は途切れていた。写真が収められるはずだった空白のページに、一枚の封筒が挟まっていたきりで。
国軍配達局の印が捺されたその手紙は、戦場から送られたものであるらしかった。消印は二年半ほど前のもので、差出人の名はJoshua――おそらく、ジョシュアと読むのだろう――、そして、受取人の名はJuan――ジュアンだ。
パトリックは胸がさざめくのを感じながら、封筒の中に収まっていた手紙を開く。その手紙には、パトリックにも読めるような簡単な単語で、たった一行、こう記されていた――『ジョシュアへ。ひとりにしてしまって、すまない。どうか、青空に囚われないで生きてくれ』、と。手紙の右下、書いた主を示すサインは、【ジュアン】だった。
パトリックは戸惑い、何度も封筒と手紙を見比べた。封筒と手紙とでは、差出人と受取人の名前が入れ替わっているのだ。封筒に書かれた送り先は『ジュアン』であるのに、手紙の中での呼びかけは『ジョシュア』……。
パトリックの疑問を解いたのは、手紙とともに封筒に収められていた、【ジョシュア】を指して送られた青い一枚紙――前線への召集令状だった。
前線から離れた『セブンス』において、一般人を対象とした徴兵は行われていない。だが、ほんの一部、特別な技能を持った者たちだけは、早期から戦場に駆り立てられていた。青の令状は、彼ら、まじない師や魔法使いに宛てられたものだった。
「魔法、使い……ジョシュア……」
戦前までは青かった空。板をはられた窓。壁にぶちまけられた水色の塗料。顔の塗りつぶされた写真。召集令状。封じられた一室。目覚めないジュアンをじっと見つめる存在――何もかもが、双子の片割れに帰結する。
『青空に囚われないで生きてくれ』。手紙の中のあの言葉が、ジュアンが……いいや、【ジョシュア】が目覚めない理由を、パトリックに教えてくれた。
パトリックは手燭を拾うことも忘れて立ち上がり、辺りを見回す。
「ファーシー、そこにいるんだろ? 【ジョシュア】を連れ戻したいんだ。力を貸してくれ!」
瞬間。無風のはずの室内に吹いた鋭い風が、置き去りにされた手燭の火を吹き消した。
――
釘を打たれたはずの窓の輪郭が解(ほど)け、その向こうから、光が降りそそぐ。真っ白な、それでいて熱を帯びた光だ。パトリックは固くまぶたを閉じて、暴力的なまでの光が和らぐのを待った。
彼が再び目を開くと、室内の様子は、まるで変わってしまっていた。ぶちまけられた塗料も、散らばっていたアルバムや手紙も、窓を塞いでいた板もない。代わりに、かわいらしいシーツがかけられたベッドが二つ、仲良く並んでいた。
それだけではない。窓枠を経(へ)、床に落ちる光も、布張りの空が降らせる薄暗いものとは違っていた。パトリックは輝いている床に触れ、その温かさに驚いた。そして、温かさのもとを探ろうとするかのように、窓を仰ぐ。
窓の向こう、はるか頭上に広がっていたのは、青だった。それも、一面の青だ。誰にも触れられないだろう高さに、澄んだ、抜けるような水面が浮かんでいるのだ。……いいや、違う。あそこには何もない。おかしな言い様だが、パトリックは、あの青は透明の色をしていると思った。
こんな空は見たことがないのに、不思議と、パトリックの心はそれが空だと知っていた。「きれいだったよ。青くて、高いんだ」――パトリックは、脳裏をよぎったジュアンの言葉を噛みしめる。きれいだなんて言葉では、とうてい足りない空に見惚れながら。
分厚い布を剥がされた、『鯨』の影さえ見当たらない、果てのない水を湛えた、空。青く透き通り、どこまでも高くに広がる――【ジョシュア】が焦がれた、空。
パトリックは、吸い込まれそうな空から視線を外し、背後を振り返る。そこには、ファーシーが立っていた。ファーシーは、パトリックの視線を受けるなり身を翻し、廊下へと滑り出る。パトリックが空を見る間、待っていてくれたのだ。
パトリックは、一度だけ窓の方を振り返った。
何が起きたのかは分からない。だが、ファーシーがパトリックをここに呼んだ以上、どこかに【ジョシュア】を救う手がかりが落ちているはずだ。パトリックはファーシーの後を追い、薄明るい廊下へと踏み出す。
歩いてみれば、廊下も、一階も、パトリックが知っているのとは、少し違う様子をしていた。キッチンに掛けられたカレンダーの日付はにじんで読み取れず、【ジョシュア】が普段使っているすり鉢やノートはそのままなのに、玄関に転がる靴は小さく、食卓には四つもイスが並んでいる。なんだか、妙にちぐはぐだ――そう思ったかたわら、パトリックは、自らの足が床に浅く埋もれるのを感じた。板張りの床がこんなに柔らかいはずがないのに。ファーシーは、そんな違和感の中を、重くも確かな足取りで抜けていく。
ファーシーが玄関の扉を開くと、その先には、パトリックが知る街の景色ではなく、鮮やかな草原が広がっていた。草の隙間に流れる光の帯は、どうやら星の群れであるらしい。星の川を足元に並ぶ、二つの人影を見つけたパトリックは足を止める。
夢中で青空を見上げる小さな二人は、写真で見た、幼いころの【ジュアン】と【ジョシュア】の姿をしていたのだ。
パトリックは、数歩先で足を止めたファーシーの肩に追いつき、その顔を覗き込む。【彼】のフードの奥は、今や、虚ではなくなっていた。
「……ジュアン」
パトリックの呼びかけに、ファーシー――【ジュアン】は、いたずらっぽく微笑んだ。彼の顔の右半分は闇に蝕まれ、人ならざる形をしていたが、その笑みは清々しい。
「僕たちの問題に巻き込んでしまって、すまないね。けど、ありがとう。ジョシュアのそばに君がいてくれて、本当に良かったよ。僕ひとりでは、どうすることもできなかった」
その声は、【ジョシュア】のそれよりも、ほんの少しだけ甘かった。
パトリックには、彼の言葉の意味も、そこに込められた思いも理解できなかった。だが、こんな姿になってまで、彼は【ジョシュア】のそばで、その目覚めを待っていた。兄弟の事情を知らないパトリックにどう誤解されようと、なんと言われようと、青空にとらわれて帰らない自らの片割れが帰ってくるのを、ずっと待っていた――その事実が、彼がどれだけ【ジョシュア】のことを気にかけていたか、語られずともパトリックに伝えてくれていた。
「ジョシュアのことは、君に任せる。あいつの家族になってやってくれ。平気なふりをしてはいても、寂しがり屋だからさ。……それだけ」
【ジュアン】はそう言いながら、双子のかたわれの手を、そっと握る。その子どもは、【ジュアン】の異形の手にも驚くことなく、嬉しそうに笑った。幼い兄弟の手が、するりと離れる。
兄の手を追おうとするもう一方の子どもの手のひらを、すかさずパトリックが握った。幼い【ジョシュア】は戸惑うようにパトリックを見上げ、そして、【ジュアン】に連れられていく兄の背中を見つめた。
「にいさん」
小さな【ジョシュア】の呼びかけに、【ジュアン】が足を止め、振り返る。彼はへらりと微笑んで見せると、一言、こう言った。
「お前はもう、ひとりで一人前だよ」
【ジュアン】は、【ジョシュア】の返事を待つことなく、幼い姿をした自身の手を引いて、パトリックに背を向ける。
【ジュアン】の背中は、あの部屋に封じられていたすべての意味を――彼と【ジョシュア】それぞれの願いを、暗黙のうちに物語っていた。
「俺が……俺が、ジュアンの家族になるから! そばにいるからな! だからっ――」
――あんたはもう、眠っていいよ。
【ジュアン】は振り返ることなく、ただひらひらと、空いた方の手を振って応える。遠ざかる兄弟の背中に手を伸ばして泣き出した小さな【ジョシュア】を、パトリックは優しく抱きしめた。
――
「――ディ、パディ!」
身体が揺さぶられる感覚に、パトリックは目を覚ました。座った姿勢で眠っていたせいか、腰にかすかな痛みが走る。だが、そんな痛みなど、耳をなでる聞き慣れた声にかき消されてしまった。この数日、聞きたくて仕方がなかった声だ。
飛び起きたパトリックは、きょとんとした様子のジュアンの顔に安堵し、再びその場に崩れてしまった。
「ジュアン? ああ、ジュアン……! 良かった……!」
「パディったら、僕の部屋で寝てしまうなんて。そんなに寂しかったのかい? 一声掛けてくれれば……なんだ、死人がよみがえったみたいな顔をして」
一方のジュアンは、長い眠りから目覚めたとは思えないほどに普段どおりだった。むしろ、取り乱しているパトリックの姿に、戸惑っているようだ。パトリックは、ジュアンのこの態度に、彼自身、長らく眠っていた自覚がないことを悟った。
パトリックから、この数日眠ったままだったと聞かされたジュアンは、たいそう驚いていた。だが、眠りの理由にも、やはり心当たりはないらしい。彼は不思議そうに、「妙なこともあるものだ」と言っただけだ。
彼の態度を見ているうち、パトリックは、なんともいえない心地になった。まなうらに焼きついた、彼によく似た人の姿が、草原と青空のはざまに消えていく。
「すまないね。心配をかけてしまって。けど、不思議な話だね。どこも悪くないのに、何日も目を覚まさないなんて。長い夢を見ていたような気はするんだけど……」
「夢?」
「空の夢、だったような気がする。ぼんやりとしか思い出せない。ただ、空が青くて、高かったことくらいしか。僕は多分、ずっとそれを見上げていた、と、思う。……きれいだったなあ。そう、夢の中でも確か、僕はそんなことを言ったんだ。ひとりごとじゃなく、誰かに。誰にだろう……?」
あの草原で空を見上げていた、幼い兄弟――。パトリックは、ジュアンが見た【夢】の正体を知っていたが、曖昧な記憶を辿ろうとするジュアンには、あえて手を貸さなかった。
「思い出せないこともありますよ。夢ですから。……少し待っていてください、何か飲み物でも入れてきます。もう何日も、何も食べていないでしょう」
「ああ、うん。頼むよ。おかしいな、すごく印象的な夢だと思ったのに……」
頭を悩ませるジュアンに、パトリックは背を向ける。教えてやることもできたのだが、彼の兄弟が、それを望まないだろうと思ったから。ジュアンを眠りにつかせたのが、空に――もう帰らない兄弟に焦がれた彼自身の心だったとすれば、何もかも、思い出さないほうがいいのだ。彼がもう、遠い日の夢にとらわれてしまわないためにも。
ジュアンの部屋を出たパトリックは、ふと、廊下の突き当たり――ジュアンの苦しみが隠されていた、あの部屋を覗き込む。
不思議なことに、部屋の中には、何もなくなっていた。ジュアンが思いをぶちまけた痕跡だけでなく、家具やら、アルバムやらも消え、すっかり空っぽになってしまっていたのだ。
――誰かに。誰にだろう……?
ジュアンのあのつぶやきの理由に気づいたパトリックは、小さく笑んだ。幼い自身を連れていなくなった【ジュアン】の背中が、パトリックの脳裏を過ぎる。
パトリックは、そっと部屋を出た。今はともかく、ジュアンに温かいミルクでもいれてあげたかった。
――
その後、【ジュアン】は二度と現れなかったし、ジュアンが彼を思い出すこともなかった。古いアルバムの写真や手紙、召集令状も、やはり戻ってこなかった。ジュアンはぱたりと青空の話をしなくなり、彼の過眠も、あれ以来すっかり治まった。
これはパトリックだけが知る話だが、【ジュアン】は、兄弟の中に残る自身の記憶をも、持って行ってしまったらしかった。そうするしか手段がなかったのだろうが、命をかけて救ったジュアンの中で、彼は何者でもなくなってしまった。いなかったことになってしまった。あの一件がもたらした変化があったとすれば、ジュアンが目覚めたあの日以来、パトリックがジュアンに貰った小遣いはすべて、小さな花束に替わるようになったことくらいか。
パトリックは今日も、【ジュアン】の痕跡を失ったあの部屋に花束を横たえ、窓の向こうの灰色の空を見上げていた。眩しい青空とともに消えていった彼の背中に、思いを馳せながら。
大丈夫だよ。【ジョシュア】は元気にやってる。だからあんたも、心配しなくていいんだよ。――おやすみ、【ジュアン】。
少年――パトリックは、不注意で落としてしまった瓶の傍らに屈みこみ、指先でそのかけらをつまみ上げた。かけらから垂れ下がるラベルには、粉の正体なのだろう、パトリックの知らない単語が記されている。この真珠色の粉が何なのかはまるで分からないが、少なくとも、この店の大事な商品のひとつであることだけは確かだった。
瓶のかけらが床を転がる音に気づいたのか、棚越しに、心配そうな声が降ってくる。
「パディ?」
「すいません、ジュアン。すぐに片します」
「そうか。指を切らないようにね。中身ならまた作ればいいから。ラベルだけ剥がして、後でこっちのボードに貼っておいてくれ。……珍しいな、パディがミスをするなんて。心配ごとがあるなら、ちゃんと言うんだよ」
「ありがとうございます。大丈夫ですから」
パトリックは、カウンターで薬剤を調合しているであろう店主――ジュアンに向かって返事を投げるかたわら、足元に広がる星空を、ちりとりの中に追いやった。
パトリックがジュアンの薬屋の雑用係として働きはじめてから、もう二年になる。
上っ面だけの平和を共有しようと、大陸の国々が国境をなくしたのは、もういつのことだったか。旧国境から離れたこの街――『セブンス』にも、資源の利権を巡って起きた内戦の余波は届いていた。
身寄りのない戦災孤児だったパトリックは、同じような境遇の子らと共に、ひっそりと生きてきた。パンのかけらひとつも分けてくれない、自分のことだけに必死な大人たちを憎みながら。
そんなパトリックを拾ったのが、働き手に困っていたジュアンだった。まじないを扱う薬師を、人は避ける。それでもいいならと、ジュアンはパトリックを店に招き入れ、温かいミルクを出してくれた。寝る部屋や食事を与えてくれた。感謝の言葉では足らず、深く頭を下げたパトリックに、ジュアンはこう言った――すまないね、僕たちのせいだよね、と。穏やかな彼に似つかわしくない、ひどく冷えたまなざしで。
パトリックは、ガラスの破片で薄く切れた指先を見つめ、小さくため息をもらした。
この店の商品の主たるものは、小瓶に収められ、棚に陳列された色とりどりの粉や液体だ。ジュアン曰く、「薬じゃないものもあるが、ほとんどは薬」とのことだった。難しい単語を知らないパトリックには、それらが何なのか分からなかったし、薬というのはたいてい高価で手の届かないものだった。だが、カラフルという点で言えば、どこかのショーウィンドウに見た、甘い匂いのするおいしそうなものによく似て見える。ジュアンは、パトリックがそうしてぼうっとしていても、殴ったりはしなかった。「気に入ってくれて嬉しいよ」と微笑むだけで。
パトリックが自分のことを考えているとは思いもしないらしいジュアンは、大きなあくびとともに、間の抜けた声でパトリックを呼んだ。
「パディ、そろそろ休憩にしようか。疲れたろう。ミルクでいいかい?」
ジュアンの声は、きれいな服を着て薬を買いに来た子供に向けられたそれと、少しも変わらない。パトリックはほうきを傍らに立てかけ、ジュアンの呼びかけに応じた。
二階へと続く階段のわきにあるカウンターは、もともとは食卓の意味を兼ねていたのだろうが、今はもっぱらジュアンの作業台として使われている。パトリックが丸椅子を引きずってきて向かい側に座ると、ジュアンは使っていた道具をどけて、カップを差し出した。パトリックは、コーヒーを淹れるジュアンの背中から、カップの中身へと視線を移す。
砂糖を溶いた温かいミルク。働き場所を探して家々のドアを叩いて回ったあの日、出してもらったのと同じ、甘くて優しい匂い。
パトリックは、ジュアンの横顔を見つめる。神様なんて信じていないのに、気づかぬ間に、両手が祈りを形作っていた。
「今日はいっそう空が暗いな。少し息苦しいね」
ジュアンの言葉につられて、パトリックは窓の方に視線を投げる。窓越しに見えるのは、染め布を張ったような、暗い空だった。監視艇『鯨』が、布すれすれを音もなく滑っていく。
今に続く内戦が始まる少し前までは、空は青かったらしい。パトリックには、青い空など想像することもできなかった。物心ついた頃から、空は重く垂れ込め、ぶどう酒色、でなければ泥色をしているものだったから。
けれども、戦前の空を知るジュアンは、今の空を見て、時々寂しそうな顔をする。何かに焦がれるような彼のまなざしを追いかけて、暗い空に目を凝らしても、彼と同じものを見ることはできないのだった。
「昔の空って、本当に青かったんですよね」
答えはなかった。
パトリックが視線を戻すと、ジュアンは、カップを片手に舟をこいでいた。ほんのすこしの間黙っていただけなのに、すでに浅いまどろみの中に片足を突っ込んでしまっている。
パトリックは机を指先で叩きながら、ジュアンの意識を引き戻す。
「ジュアン」
「……あ、ああ。またやってしまった。すまない、最近ひどく眠たくて……。あの頃の空、か。きれいだったよ」
パトリックは、ジュアンの取り繕うような笑みに、一抹の不安を覚えた。
ジュアンは、夜早く床につくわりに、いつも昼を過ぎてから起きてくる。十分寝ているはずなのに、日中、こうしてうたた寝をしてしまうことがよくあった。心なしか、パトリックがはここにやって来た直後よりも、眠っている時間が長くなっているようにも思われる。医者を勧めても、本人は「どこか悪いわけじゃないから」と言ってきかないのだが。
ジュアン自身は、たびたび襲ってくる眠気など気にしてもいないようだ。かつてみた空を思い浮かべているのか、夢見るようなまなざしで言葉を続ける。
「青くて、高いんだ。一年中見ていても飽きなかった。日ごと時間ごとに、表情がまったく違っていて……。写真をたくさん撮っていたんだけど、ほとんど色あせてしまうか、押収されてしまったよ。残っているのは、君に見せた星空の写真だけ」
とろりとしたミルクと共に、ジュアンの言葉が、舌の上に優しく広がる。
窓の外では、布張りの空の下、『鯨』がサイレンを響かせていた。その横腹に並んだライトが点滅し、人々を威圧する。時計を見たジュアンが、そっとカーテンを閉めた。
夜が、近づいてくる。パトリックは冷えたミルクを飲み干し、『鯨』を睨みつけた。
――
小気味良い雨音が聞こえる。冷えた空気が、じわじわと体温を奪っていく。
カーテンの隙間から覗いた街は暗い。ときおり、『鯨』のサーチライトに照らされた家々の屋根が白く浮かび上がるだけだ。『鯨』に見つめられた窓たちは、息を潜めて、その影が過ぎるのを待っている。
夜、灯火管制下の街は暗闇に没する。明かりを灯すこと、カーテンを開けたままにすること、また外出することも禁止されていた。いつ来るやもしれない空襲に素早く対応するために『鯨』はいるのだと人々は言うが、パトリックは知っていた。『鯨』は、この街の人間を守るためではなく、管理するためにいるのだ。でなければ、カーテンを閉め忘れた家の主を連行したり、カンテラ片手に夜の街を駆ける子供らを撃ち殺したりするはずがない。
雨粒が、窓の裏側ではぜ解ける。路上で暮らしていた時には、体温を奪っていく恐ろしいものだったはずの雨なのに、散っていくさまは、なぜだか妙に物悲しかった。
パトリックが冷えた窓に手を伸ばした、そのとき。
ぎし、ぎし……。
背後、閉ざされた扉の向こうで、廊下が鈍く軋む。一定の間をおいて聞こえるその音は、確かに人の気配を帯びていた。真夜中、眠りの深いジュアンであれば、すっかり眠りこけているはずの時間だ。掛け時計の鳩が鳴く。
「ジュアン……?」
返事はなかった。
足音が近づいてくる。ジュアンのものとはまるで違う、ずっしりとした重たげな足音。ごく近くまできたそれには、喘ぐような呼気が混ざっていた。ジュアンじゃない――パトリックは背中で扉にはりつき、息を殺した。
硬く、妙にゆっくりとした足音は、パトリックの部屋の前で止まった。蝶番の軋む音は、どうやら、向かいのジュアンの部屋の扉のものらしい。扉の閉まる音とともに、誰かの気配は消えた。
パトリックは、廊下が完全に静まったのを確かめてから、窓台に置いてあった手燭のろうそくに火を灯した。もちろん、カーテンを閉めるのも忘れない。カーテンの挙動に煽られて、ろうそくの火が揺れる。
扉の向こう、ろうそくの明かりに照らされた廊下は、じっとりと濡れていた。黒い水に浸かった足で踏んだ痕のようにも見えるが、それにしては水気が多すぎる。一歩進むごとに、小さなバケツにためた水をぶちまけたかのようだ。足跡の形をした黒い染みは、やはり、階段から廊下を経て、ジュアンの部屋へと続いていた。
パトリックは、ジュアンの部屋の扉に向かい立ち、深く息を吸う。橙の光の中、ドアノブの辺りが怪しく輝いた。床と同じように、黒々と濡れているのだった。パトリックはドアノブに手をかけ、おそるおそる扉を押し開ける。
覗きこんだ部屋の中に、人の姿はなかった。パトリックは目を瞬かせ、辺りを警戒しながら、部屋に足を踏み入れる。手燭をかざして部屋中を見回すが、異変はないように見えた。
何かの勘違いだったのだろうか? パトリックは頭を振ったが、やはり、廊下は黒く濡れていた。【何か】が、ジュアンの部屋に入ったことは確かなのに――。パトリックは薄気味悪く思いながらも、ジュアンの安らかな寝息に背を向けた。
――
翌日のことだ。
その日何度目になるだろうか――パトリックは、焦れる気持ちを抑えて時計を見やった。足元では、窓枠に切り抜かれた光が斜めに歪み、床にはりついている。
もう、朝の掃除どころか、昼の棚整理も終えてしまった。それなのに、待てども待てども、ジュアンは起きてこない。すでに夕といって差し支えない時間になろうとしているというのに、店の看板は閉店を指したままだ。
ジュアンはどうしてしまったのだろう。疲れているのだろうか。いつもの【眠り病】だろうか。それにしても、こんなに起きるのが遅かったことはない。不審に思ったパトリックは、ジュアンへの遠慮を拭って、彼の部屋のドアを叩いた。
「パトリックです。もう夜になってしまいますよ」
返事はない。これではいけないと悟ったパトリックは、ドアを押し開けた。
部屋に入ってみると、やはり、ジュアンはぐっすりと眠ったままだった。特別やつれた様子もなく、いつもどおり、幸せそうに眠っている。パトリックはジュアンを優しく揺さぶり、声をかけてやった。
「ジュアン、もう夕方ですよ。起きてください」
だが、ジュアンは一向に目を覚まさなかった。どんなに揺すっても、声をかけても、なぜか意識が戻らないのだ。どうして――焦るパトリックの背後で、何かが動く気配がした。
振り返ってみれば、部屋の隅に、黒いマントに身を包んだ人影が立っている。体格からすると男なのだろうが、無言で立っているばかりなせいで、正確な判断はつかない。【そいつ】の足元には、昨晩廊下で見た足跡と同じような、黒く、どろりとした水たまりが広がっている。
いつの間に……。戸惑うパトリックは、深く被されたフードの奥を覗き、さらに顔を白くした。そこには、頭部の代わりに、色のない闇が収まっていたのだ。
目を覚まさないジュアンの方を向いて立つ【そいつ】の姿に、パトリックは、小さいころに人から聞いたおとぎ話を思い出した。
――死に瀕した者の枕元に立ち、その者が死ねば魂をさらっていく妖精がいてね。人間の男によく似た姿をしているんだが、頭がない。彼らは死者を哀れんですすり泣くのだが、目も口もないものだから、その涙は首から溢れ、床をびしょびしょにしてしまうんだ。
「……『ファーシー』」
パトリックは、【そいつ】――死の妖精・ファーシーを睨んだ。
ジュアンは昨日まで、あんなに元気だったのだ。昨日まで……そう、あのファーシーが、この部屋に消えていくまでは。となれば、ジュアンが目を覚まさない原因は、きっと、このファーシーにある。
「ジュアンに何をした」
パトリックの声は、怒りに震えていた。対するファーシーは、変わらず、フードの奥の虚に沈黙を漂わせるだけだ。パトリックはつかつかとファーシーに歩み寄り、その胸ぐらを掴む。人間によく似たシルエットの長身が、ぐらりと傾いだ。
「答えろよ、お前がジュアンを眠らせたんだろ! ジュアンをっ……殺そうと、してんだろ!」
ファーシーは答えない。代わりに、マントを掴むパトリックの手に、そっと自らの手を重ねた。ざらざらとした鱗に覆われた、異形の手だった。パトリックは息をのみ、弾かれるようにファーシーから手を離す。
怯えた目で、それでも果敢に睨みつけてくるパトリックを、ファーシーはフードの奥の闇をもって見返した。ただただ静かなその闇は、飢えやけがで、あるいは絶望に自らの手でその命を終えた者たちの、最期のまなざし――パトリックにとっての【死】そのものの色をしていた。魅入られてはいけないと分かっているのに、目をそらせない。背筋が、ぞわりと粟立つ。
脱力しかけたパトリックを正気に返したのは、街に夜を知らせるサイレンだった。ウウウ、ウウウ……『鯨』の悲鳴に、パトリックとファーシーのあいだにあった視線の糸が途切れる。
ファーシーは、パトリックからジュアンの方に顔を向け、何を思ったか、身を翻した。そして、呆然とするパトリックをその場に残して、濡れた足跡とともに部屋を出ていってしまった。
そうして、ファーシーの姿がすっかり見えなくなったころ。ようやく恐怖から解放されたパトリックは、その場に崩れた。緊張に押しつぶされそうだった肺が、酸素を求めて膨らむ。苦しい胸を押さえる手は、まだかすかに震えていた。
あんな恐ろしいものに、敵うはずがない。パトリックは悲鳴を飲み、力なくジュアンの方を見やった。ジュアンの寝息は変わらず安らかだが、もしこのままジュアンが目を覚まさなかったら――。パトリックは、不安に胸元を掻きむしった。他にどうすることもできなかった。
――
パトリックの不安は現実になった。次の日、そのまた次の日を越えても、ジュアンは一度も目を覚まさなかったのだ。目覚めを待つこと四日目になる今日に至ってもまだ、パトリックは眠るジュアンのかたわらでうなだれていた。
彼は、ジュアンがいつでも生活に戻れるよう、家を隅々まで掃除していた。商品の並びを整え、傷んだ食材を捨て、洗濯物を片し、床や窓を念入りにみがいた。何度もジュアンを揺さぶり、日が明けたと声をかけた。だが、相変わらずファーシーはジュアンを見つめている。
夕、『鯨』が泣き叫ぶ。今日も、サイレンの音が響く中、ファーシーは姿を消した。ファーシーは、ずっとジュアンの部屋にいるわけではなく、決まって夜中に現れ、夕方、『鯨』がサイレンを鳴らす頃にいなくなる。
パトリックはファーシーの気配が消えたことに安堵しつつ、ジュアンの手をとった。ゆっくりとした呼気が、心拍が、今のパトリックには、あまりに遠く思われた。
「いつまででも、待ってますから」
パトリックは、ジュアンの手に自らの頬を押しつけた。ジュアンの体温が、じわりとパトリックの頬に広がる。どこの子とも知れない薄汚いパトリックをなでてくれた、大きな手。仕事柄だろうが、かすかに、すんとした薬草の匂いがする手。
――パディは僕の家族みたいなもの……いや、僕が勝手にそう思っているだけなんだけどね。嫌かな?
ふと、ジュアンがかけてくれた言葉がよみがえった。同時に、情けない雫がパトリックの頬を伝い、ジュアンの手を濡らす。泣く子どもは生き残れない――分かっているのに、ジュアンの温度に慣らされた心は、寂しさに震えていた。
本当に目を覚まさなかったら。ジュアンが、このまま死んでしまったら……。パトリックは、あふれる不安を抑えきれず、ばたばたと階段を駆け下りた。
ここは薬屋だ。もしかすれば、何か、ジュアンを救う手段があるかもしれない。パトリックは棚に並んだ薬の瓶を次々確かめたが、ラベルに書かれた単語はやはり、どれもパトリックの知らないものだった。
読めない。瓶の中身が、何ひとつ分からない。ジュアンを救える可能性が目の前にあるのに、それを知ることさえ、今のパトリックにはできないのだ。がしゃん――パトリックの手からこぼれた小瓶が、床に打ち付けられて弾ける。明かりの灯されていない部屋に差す夜の影の中で、瓶の破片が、白く散った粉の川が笑う。
薬棚を前に、パトリックは膝を抱えた。床に広がった何かの薬も、散らばった小瓶の群れも、ジュアンを救ってはくれない。ファーシーは、今夜もまたジュアンのもとに現れることだろう。それまでに、何ができるだろう。……自分に、何ができるだろう。
「……家族、だって言ってくれたのに」
孤児であるパトリックは、本当の家族を知らない。だが、ジュアンの手のひらは温かく、パトリックに【家族】というものを思い起こさせた。ジュアンの店は、パトリックが得たはじめての居場所だった。
失意に沈むパトリックのそばで、二階へとつながる階段が、重く軋む。一瞬期待したが、階段の手前に立っていたのは、あのファーシーだった。サイレンが鳴り、ジュアンの部屋から消えた【それ】が、今ここに現れた――パトリックは、その事実に必然めいたものを感じた。ファーシーが、自分になにか訴えようとしているように感じられたのだ。
パトリックはファーシーに向かい立ち、そのフードの奥に満ち満ちる闇を見据えた。その恐ろしい暗闇のなかにある【意思】を、探ろうとするかのように。震える指先を、こぶしに握り込んで。
「お前は多分、ジュアンの命が欲しいんだろ? でも、あの人は優しい人だよ。ばかみたいなお人よしなんだよ」
パトリックの手が、縋るようにファーシーのマントを握る。その向こうにある異形の体は恐ろしかったが、それよりも、ジュアンを失うことの方が恐ろしかった。
「連れて行かないでくれよ。俺はあの人に救われたんだ、あの人だけが俺を家族だって言ってくれたんだ。俺の命で代えられるなら、そうしたってかまわない。だから、ジュアンだけは」
深々と下げた額が、ファーシーのマントに触れる。
ジュアンの店のドアを叩くまでは、何よりも、生きていたかった。明日を生きるために、必死でそのときを生きていた。今だって、もちろん死ぬのは恐ろしい。それなのに、命をあげるなどと口にしてしまえたのは。こうするのが間違いじゃないと思えるのは――きっと、パトリックが、ジュアンという居場所を得たからなのだ。
ファーシーは、底なしの闇をもってパトリックを見つめていたが、やがて、彼に背を向けた。パトリックは、階段を上っていくファーシーを追いかけ、【そいつ】に取りすがる。
「待って! もうジュアンのところには行くな! どうしてっ……どうして、俺じゃいけない! ジュアンが何をしたっていうんだ!」
ファーシーは、パトリックの叫びすらかえりみない。階段の末でファーシーに振りほどかれたパトリックは、とうとうへたりこんでしまった。
ファーシーは、きっと、またジュアンの部屋に行くのだ。『鯨』のサイレンが鳴った後なのに現れたのは、おそらく、今日こそジュアンを連れて行こうとしているから……。
パトリックの不吉な想像に反して、ファーシーは、ジュアンの部屋を通り過ぎ、さらに廊下の奥へと向かっていく。その先、廊下の突き当たりにある部屋は、ジュアンが、絶対に入らないようパトリックにきつく言いつけてあった部屋だった。ファーシーはためらいなくその部屋のドアを開け、向こうへと消えていく。
妙に思ったパトリックは、ジュアンの部屋の表、ミニテーブルに置いてあった手燭に明かりを灯して、黒い足跡を踏んだ。一歩踏み出すごとに、パトリックの直感が危険を訴えかけてくる。それでもパトリックは進み、ついには扉を押し開けた。
覗きこんだ室内は、驚くほど殺風景だった。家具は、ベッドとサイドテーブル、それに、たんすがひとつあるきりだ。カーペットの敷かれていない床は、はられた板がむき出しになっている。
室内に足を踏み入れ、手燭を胸の高さに掲げたパトリックは、ぎょっとした。大きな窓があっただろう場所が板で塞がれ、その上から水色の塗料がぶちまけられていたのだ。室内にファーシーの姿がないことよりも、それがジュアンの所業によるものであることに、パトリックは衝撃を受けた。あの穏やかなジュアンが、壁に塗料をぶちまけている姿など、まるで想像できなかった。
呆然とするパトリックの背後で、何かがばさばさと落ちる音がした。振り返れば、開け放たれた扉の手前に、いくつもの紙束が広がっている。
ファーシーの気配を感じて周囲を確かめるも、やはり、その姿は見つからなかった。パトリックは警戒しつつ、紙束の中身を確かめる。
いくつかの分厚い束は、アルバムであるらしかった。父親と母親、それに、顔のよく似た双子の兄弟……。仲よさげな家族の写真のはずなのに、双子の兄弟のうち、片方の顔だけが、すべて黒く塗りつぶされている。顔をなくしたその子の正体がジュアンであることを悟ったパトリックは、思わずアルバムを取り落とした。分厚いアルバムは、パトリックの手を離れて床に打たれ、ページをいくつも送る。
最後に開かれたページには、大きくなった双子が、仲良く映っていた。日付は三年前――ジュアンがパトリックを迎え入れる、少しだけ前だった。そこで、彼ら二人の記録は途切れていた。写真が収められるはずだった空白のページに、一枚の封筒が挟まっていたきりで。
国軍配達局の印が捺されたその手紙は、戦場から送られたものであるらしかった。消印は二年半ほど前のもので、差出人の名はJoshua――おそらく、ジョシュアと読むのだろう――、そして、受取人の名はJuan――ジュアンだ。
パトリックは胸がさざめくのを感じながら、封筒の中に収まっていた手紙を開く。その手紙には、パトリックにも読めるような簡単な単語で、たった一行、こう記されていた――『ジョシュアへ。ひとりにしてしまって、すまない。どうか、青空に囚われないで生きてくれ』、と。手紙の右下、書いた主を示すサインは、【ジュアン】だった。
パトリックは戸惑い、何度も封筒と手紙を見比べた。封筒と手紙とでは、差出人と受取人の名前が入れ替わっているのだ。封筒に書かれた送り先は『ジュアン』であるのに、手紙の中での呼びかけは『ジョシュア』……。
パトリックの疑問を解いたのは、手紙とともに封筒に収められていた、【ジョシュア】を指して送られた青い一枚紙――前線への召集令状だった。
前線から離れた『セブンス』において、一般人を対象とした徴兵は行われていない。だが、ほんの一部、特別な技能を持った者たちだけは、早期から戦場に駆り立てられていた。青の令状は、彼ら、まじない師や魔法使いに宛てられたものだった。
「魔法、使い……ジョシュア……」
戦前までは青かった空。板をはられた窓。壁にぶちまけられた水色の塗料。顔の塗りつぶされた写真。召集令状。封じられた一室。目覚めないジュアンをじっと見つめる存在――何もかもが、双子の片割れに帰結する。
『青空に囚われないで生きてくれ』。手紙の中のあの言葉が、ジュアンが……いいや、【ジョシュア】が目覚めない理由を、パトリックに教えてくれた。
パトリックは手燭を拾うことも忘れて立ち上がり、辺りを見回す。
「ファーシー、そこにいるんだろ? 【ジョシュア】を連れ戻したいんだ。力を貸してくれ!」
瞬間。無風のはずの室内に吹いた鋭い風が、置き去りにされた手燭の火を吹き消した。
――
釘を打たれたはずの窓の輪郭が解(ほど)け、その向こうから、光が降りそそぐ。真っ白な、それでいて熱を帯びた光だ。パトリックは固くまぶたを閉じて、暴力的なまでの光が和らぐのを待った。
彼が再び目を開くと、室内の様子は、まるで変わってしまっていた。ぶちまけられた塗料も、散らばっていたアルバムや手紙も、窓を塞いでいた板もない。代わりに、かわいらしいシーツがかけられたベッドが二つ、仲良く並んでいた。
それだけではない。窓枠を経(へ)、床に落ちる光も、布張りの空が降らせる薄暗いものとは違っていた。パトリックは輝いている床に触れ、その温かさに驚いた。そして、温かさのもとを探ろうとするかのように、窓を仰ぐ。
窓の向こう、はるか頭上に広がっていたのは、青だった。それも、一面の青だ。誰にも触れられないだろう高さに、澄んだ、抜けるような水面が浮かんでいるのだ。……いいや、違う。あそこには何もない。おかしな言い様だが、パトリックは、あの青は透明の色をしていると思った。
こんな空は見たことがないのに、不思議と、パトリックの心はそれが空だと知っていた。「きれいだったよ。青くて、高いんだ」――パトリックは、脳裏をよぎったジュアンの言葉を噛みしめる。きれいだなんて言葉では、とうてい足りない空に見惚れながら。
分厚い布を剥がされた、『鯨』の影さえ見当たらない、果てのない水を湛えた、空。青く透き通り、どこまでも高くに広がる――【ジョシュア】が焦がれた、空。
パトリックは、吸い込まれそうな空から視線を外し、背後を振り返る。そこには、ファーシーが立っていた。ファーシーは、パトリックの視線を受けるなり身を翻し、廊下へと滑り出る。パトリックが空を見る間、待っていてくれたのだ。
パトリックは、一度だけ窓の方を振り返った。
何が起きたのかは分からない。だが、ファーシーがパトリックをここに呼んだ以上、どこかに【ジョシュア】を救う手がかりが落ちているはずだ。パトリックはファーシーの後を追い、薄明るい廊下へと踏み出す。
歩いてみれば、廊下も、一階も、パトリックが知っているのとは、少し違う様子をしていた。キッチンに掛けられたカレンダーの日付はにじんで読み取れず、【ジョシュア】が普段使っているすり鉢やノートはそのままなのに、玄関に転がる靴は小さく、食卓には四つもイスが並んでいる。なんだか、妙にちぐはぐだ――そう思ったかたわら、パトリックは、自らの足が床に浅く埋もれるのを感じた。板張りの床がこんなに柔らかいはずがないのに。ファーシーは、そんな違和感の中を、重くも確かな足取りで抜けていく。
ファーシーが玄関の扉を開くと、その先には、パトリックが知る街の景色ではなく、鮮やかな草原が広がっていた。草の隙間に流れる光の帯は、どうやら星の群れであるらしい。星の川を足元に並ぶ、二つの人影を見つけたパトリックは足を止める。
夢中で青空を見上げる小さな二人は、写真で見た、幼いころの【ジュアン】と【ジョシュア】の姿をしていたのだ。
パトリックは、数歩先で足を止めたファーシーの肩に追いつき、その顔を覗き込む。【彼】のフードの奥は、今や、虚ではなくなっていた。
「……ジュアン」
パトリックの呼びかけに、ファーシー――【ジュアン】は、いたずらっぽく微笑んだ。彼の顔の右半分は闇に蝕まれ、人ならざる形をしていたが、その笑みは清々しい。
「僕たちの問題に巻き込んでしまって、すまないね。けど、ありがとう。ジョシュアのそばに君がいてくれて、本当に良かったよ。僕ひとりでは、どうすることもできなかった」
その声は、【ジョシュア】のそれよりも、ほんの少しだけ甘かった。
パトリックには、彼の言葉の意味も、そこに込められた思いも理解できなかった。だが、こんな姿になってまで、彼は【ジョシュア】のそばで、その目覚めを待っていた。兄弟の事情を知らないパトリックにどう誤解されようと、なんと言われようと、青空にとらわれて帰らない自らの片割れが帰ってくるのを、ずっと待っていた――その事実が、彼がどれだけ【ジョシュア】のことを気にかけていたか、語られずともパトリックに伝えてくれていた。
「ジョシュアのことは、君に任せる。あいつの家族になってやってくれ。平気なふりをしてはいても、寂しがり屋だからさ。……それだけ」
【ジュアン】はそう言いながら、双子のかたわれの手を、そっと握る。その子どもは、【ジュアン】の異形の手にも驚くことなく、嬉しそうに笑った。幼い兄弟の手が、するりと離れる。
兄の手を追おうとするもう一方の子どもの手のひらを、すかさずパトリックが握った。幼い【ジョシュア】は戸惑うようにパトリックを見上げ、そして、【ジュアン】に連れられていく兄の背中を見つめた。
「にいさん」
小さな【ジョシュア】の呼びかけに、【ジュアン】が足を止め、振り返る。彼はへらりと微笑んで見せると、一言、こう言った。
「お前はもう、ひとりで一人前だよ」
【ジュアン】は、【ジョシュア】の返事を待つことなく、幼い姿をした自身の手を引いて、パトリックに背を向ける。
【ジュアン】の背中は、あの部屋に封じられていたすべての意味を――彼と【ジョシュア】それぞれの願いを、暗黙のうちに物語っていた。
「俺が……俺が、ジュアンの家族になるから! そばにいるからな! だからっ――」
――あんたはもう、眠っていいよ。
【ジュアン】は振り返ることなく、ただひらひらと、空いた方の手を振って応える。遠ざかる兄弟の背中に手を伸ばして泣き出した小さな【ジョシュア】を、パトリックは優しく抱きしめた。
――
「――ディ、パディ!」
身体が揺さぶられる感覚に、パトリックは目を覚ました。座った姿勢で眠っていたせいか、腰にかすかな痛みが走る。だが、そんな痛みなど、耳をなでる聞き慣れた声にかき消されてしまった。この数日、聞きたくて仕方がなかった声だ。
飛び起きたパトリックは、きょとんとした様子のジュアンの顔に安堵し、再びその場に崩れてしまった。
「ジュアン? ああ、ジュアン……! 良かった……!」
「パディったら、僕の部屋で寝てしまうなんて。そんなに寂しかったのかい? 一声掛けてくれれば……なんだ、死人がよみがえったみたいな顔をして」
一方のジュアンは、長い眠りから目覚めたとは思えないほどに普段どおりだった。むしろ、取り乱しているパトリックの姿に、戸惑っているようだ。パトリックは、ジュアンのこの態度に、彼自身、長らく眠っていた自覚がないことを悟った。
パトリックから、この数日眠ったままだったと聞かされたジュアンは、たいそう驚いていた。だが、眠りの理由にも、やはり心当たりはないらしい。彼は不思議そうに、「妙なこともあるものだ」と言っただけだ。
彼の態度を見ているうち、パトリックは、なんともいえない心地になった。まなうらに焼きついた、彼によく似た人の姿が、草原と青空のはざまに消えていく。
「すまないね。心配をかけてしまって。けど、不思議な話だね。どこも悪くないのに、何日も目を覚まさないなんて。長い夢を見ていたような気はするんだけど……」
「夢?」
「空の夢、だったような気がする。ぼんやりとしか思い出せない。ただ、空が青くて、高かったことくらいしか。僕は多分、ずっとそれを見上げていた、と、思う。……きれいだったなあ。そう、夢の中でも確か、僕はそんなことを言ったんだ。ひとりごとじゃなく、誰かに。誰にだろう……?」
あの草原で空を見上げていた、幼い兄弟――。パトリックは、ジュアンが見た【夢】の正体を知っていたが、曖昧な記憶を辿ろうとするジュアンには、あえて手を貸さなかった。
「思い出せないこともありますよ。夢ですから。……少し待っていてください、何か飲み物でも入れてきます。もう何日も、何も食べていないでしょう」
「ああ、うん。頼むよ。おかしいな、すごく印象的な夢だと思ったのに……」
頭を悩ませるジュアンに、パトリックは背を向ける。教えてやることもできたのだが、彼の兄弟が、それを望まないだろうと思ったから。ジュアンを眠りにつかせたのが、空に――もう帰らない兄弟に焦がれた彼自身の心だったとすれば、何もかも、思い出さないほうがいいのだ。彼がもう、遠い日の夢にとらわれてしまわないためにも。
ジュアンの部屋を出たパトリックは、ふと、廊下の突き当たり――ジュアンの苦しみが隠されていた、あの部屋を覗き込む。
不思議なことに、部屋の中には、何もなくなっていた。ジュアンが思いをぶちまけた痕跡だけでなく、家具やら、アルバムやらも消え、すっかり空っぽになってしまっていたのだ。
――誰かに。誰にだろう……?
ジュアンのあのつぶやきの理由に気づいたパトリックは、小さく笑んだ。幼い自身を連れていなくなった【ジュアン】の背中が、パトリックの脳裏を過ぎる。
パトリックは、そっと部屋を出た。今はともかく、ジュアンに温かいミルクでもいれてあげたかった。
――
その後、【ジュアン】は二度と現れなかったし、ジュアンが彼を思い出すこともなかった。古いアルバムの写真や手紙、召集令状も、やはり戻ってこなかった。ジュアンはぱたりと青空の話をしなくなり、彼の過眠も、あれ以来すっかり治まった。
これはパトリックだけが知る話だが、【ジュアン】は、兄弟の中に残る自身の記憶をも、持って行ってしまったらしかった。そうするしか手段がなかったのだろうが、命をかけて救ったジュアンの中で、彼は何者でもなくなってしまった。いなかったことになってしまった。あの一件がもたらした変化があったとすれば、ジュアンが目覚めたあの日以来、パトリックがジュアンに貰った小遣いはすべて、小さな花束に替わるようになったことくらいか。
パトリックは今日も、【ジュアン】の痕跡を失ったあの部屋に花束を横たえ、窓の向こうの灰色の空を見上げていた。眩しい青空とともに消えていった彼の背中に、思いを馳せながら。
大丈夫だよ。【ジョシュア】は元気にやってる。だからあんたも、心配しなくていいんだよ。――おやすみ、【ジュアン】。
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