小説「空を泳ぐ魚」

有原野分

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空を泳ぐ魚

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 人を殺す夢をみた。
 殺意も悪意もなく、私は引き金を引いて赤の他人を撃ち殺した。その瞬間、リンゴ飴を買おうかどうか迷っている少女の顔がチラついた。面の下から、うっすらと笑う口元が不気味に頭の中に残っている。
 目が覚めると、すでに太陽は沈んでおり、空には月がポッカリと浮かんでいた。ふわふわしているのは、私が寝起きだからか、あるいはまだ夢の中なのだろうか、判断が難しい。
 最近は、いつもこうだ。
 平日は毎日決まった時間に会社に行き、決まった内容を電話し、決まったことで怒られて、決まったルールを遵守する。そして土曜日は夢の中に潜り込む。
 一日中、夢の中だ。
 目が覚めるのは、世間の針が日曜日を刻む真夜中すぎ。寝過ぎなのか、寝不足なのか、頭がクラクラするのを私は楽しんでいる。
 つまり、退屈なんだ。
 もう、現実に飽きているんだ。だから、私は夢をみる。そこは自由だ。何人たりともこの世界を踏みにじることはできない。時には悪夢も見るが、それもまた一興。今日撃ち殺したあの男も、リンゴ飴を欲しがっていた少女だって、ただの幻にすぎない訳だ。
 しかし、今日は暑いな。
 汗ばむ感覚が気持ち悪く、私は窓を開けて夜風を吸い込んだ。相変わらず月はふわりと宙を漂っている。遠くから、救急車の音が聞こえてきた。ああ、うるさい、うるさい。冷蔵庫にあったビールを一口飲んで、ふう。まだ、夢か? 現実か? 自問自答している自分の顔がにやりと笑う。
 そうか、そうだ。
 撃ち殺した男は、会社の上司だ。甘ったるいコーヒーの口臭に、もう我慢がならねえ。あの少女は、そうだ、私の初恋の人だ。こんな私に、いつも優しく接してくれた。
 ふいに空から轟音が聞こえてきた。瞬間、月を覆い隠すほどの雲が月を遮る。雨か? 相変わらず、救急車の音がうるさくって、うるさくって。音の隙間から、人の声がかすかに聞こえてくる。
「おい! この責任はだれがとるんだ!」
 ああ、うるさい。
 真っ暗になっちまったこの街の中で、私はウヰスキーを一口、二口――。雨は降らないし、雷も鳴りゃしない。ただ、ピカピカと赤い閃光が彼方の空で雲に反射している。花火のようにきれいな赤い光。光って、轟音が轟いて、光って、また轟音が……。
 ――あはは、あはははは――。
 笑いが止まらない。夢か、現実ヵ。生きてゐるのヵ、死んでゐるのヵ。私は二択で物事を考える癖がついているようだ。夢でも、現実でも、生でも、死でもない。考えも及ばない世界が、そっと近づいてきているんだ。
 あれは、魚か?
 空には、無数の魚が泳いでいた。数は多いが、群れではない。てんでバラバラに空を泳いでいる。目はチカチカ光っており、いかにもシステマチックだ。
 空を飛ぶ魚が、私の近くまでやってきた。ああ、もうすぐこの世界とも「さよなら」だ。覚めてくれ、覚めてくれ、覚めてくれ! ウヰスキーは、もう、カラか?
 後悔している。
 本当に、ごめんな。あの時、あなたにリンゴ飴を買っていたら、私がお金を落とさなかったら。でも、仕方ないんだ。未来は描けるのに、過去は描けない。過去には戻れない。過去は変えられない。過去は無いから。
 風が、熱いな。
 強風、暴風、熱風が、私の部屋を燃やしていく。胃は痛いし、頭も痛む。手足は痺れて、目にヒビが入っていく。月はもう見えない。魚が空を切り裂く音と、赤い光と、怒号と野次が徐々に、徐々に迫ってくる。私は心の中で、カウントダウンを始めた。
 ……三、これは夢だ。……二、これは夢か? ……一、あっっっ。
 目の前に魚が飛んできた。
 部屋の中で泳いでいる。私は一匹を捕まえる。びちびち跳ねる魚。粘液がドロドロして掴みにくい。おまけにこの悪臭。臭くて、臭くて、ああ、吐きそうだ。腹を掻っ捌き、内臓を引きちぎる。目ン玉をくり抜いて、タイムカードを差し込んでやる。そうだ、これでいい。さあ、燃えろ。爆発しろ! 救急車が、私の家の前で止まった。赤い光が、やはり美しい。
 空を見上げると、いつの間にか晴れていたようだ。月がふわふわ浮かんでいる。魚が一匹、二匹と空を泳いでいる。鱗に月の光が反射して、夢から静かに私を起こしてくれる。
 
 そうだ。すべてぶっ壊れてしまえ。
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