小説「クラック」

有原野分

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クラック

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 カウンターに通されたので、私は彼の臆病な視線を愛護するように「すみません、テーブルは空いていますか」と微笑んで言った。
 弱い人。彼はカウンターが嫌いだった。だから私が守ってあげるのだ。「とりあえず、生二つで」お姉さんが威勢よく笑諾する。
 電球は薄く暖かいのに、なぜだろう、私の目には深いえんじ色に映る。
 彼とは七年間交際していた。私はもう三十後半だったが、別に焦ってはいなかった。ぼんやりと、彼に身を委ねていた。
 彼はうつむいている。店員さんがビールを注いでいるのが横目でちらと見えた。きっと二人のだろう。店内は騒々しいが、ふと声が聞こえた。「ねえ、大丈夫?」女の声。返事はなく、どことなくカゲが落ちていた。
 彼と来るのは、ひどく懐かしい気がする。
 年老いた木目の椅子。安いお酒。私達が坐るはずだったカウンターに若い男女が腰を下ろした。もう空席はない。お姉さんがビールを運んでいる。さっきの声は一体誰だろうか、ふいにタバコの匂いが漂った。彼の匂いだ。二人の間に煙が昇る。
 彼は優しい人。だから私は待つことにした。彼の言葉を。彼の勇気を。女の勘? いや、違う。本当は、私のほうが弱いのかもしれない。私達は分かりあっていた。だから、解ってしまったのだ。彼の心にもう私はいない。
 ビールが置かれた。それを彼に手渡す。自分の掌が熱いのに気がついた。彼はありがとう、と私に目で伝える。ずるい人。また声が聞こえた。「大丈夫だよ」
 炭酸が弾けながらしぼんでいく。ゆっくりと。喉の奥がひりひりと滲んで焦げる。彼はにっこり笑って弱々しくジョッキを握った。
 心のリズムに合わせてガラスが音を立てる。零れそうな悲愛の言葉は、歯の裏で溶けて、私はそこにビールを流し込んだ。――ああ、苦い。そしてただ微笑んで呟いた。
「……美味しいね」
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