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第2節
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予想通り、寝苦しい夜だった。冷房のタイマーが切れると、すぐに部屋は熱気を取り戻し、何度も孝一を目覚めさせた。
深夜テレビに見入ってしまい、夜更かししたこともあり、完全に睡眠不足だった。
孝一はいつも朝食を食べない。というよりも、食べる時間がない。さっさとヒゲをそり、寝ぐせを直し、仕事着に着替える。もちろんジャケットやネクタイを身につけるのは、駅に着いてからだ。
6畳のワンルームのドアを開けると、キッチンを兼ねた短い廊下がある。キッチンと逆側には、トイレと風呂のドアが2つ並んでいる。間取りは普通のワンルームマンションだ。
孝一の頭の上で、感知式のライトが点灯した。
オーナーがマンションの管理を趣味にしているらしく、建物自体は古い割に、室内はきれいに、そして機能的に改装されている。
花柄の壁紙、ウォシュレット付きトイレ、感知式の自動点灯の玄関ライト、床暖房、さらには浴槽にジェットバスがついている。
孝一は玄関ドアを開けて外に出た。早朝にもかかわらず、むっとするような熱気が、全身を包み込んだ。
外廊下からマンションの入り口に回り込む。マンションの前には小さな植え込みと駐輪場がある。そのスペースを、マンションのオーナーが掃除していた。
不動産屋の話では、オーナーは郊外に住む資産家らしい。もう還暦を過ぎているようだが、有り余る金で賃貸マンションをいくつも所有している。その不動産がさらに不労所得を生み、道楽でマンション経営をしているのだ。ときどき所有している物件に現れては、掃除をしたり、住人と言葉を交わしたりしている。
「おはようございます」
孝一は、オーナーに敬意を払ってあいさつをした。白髪の資産家は腰を伸ばして、顔をあげた。
「やあ、おはよう」
オーナーはにっこりと人のよさそうな笑みで答えた。
『経済的に余裕があると、こんなにも穏やかな表情になれるのだろうか』
これから出勤しようとする孝一には、うらやましく思えた。彼はこれから焼けるような暑さのなか駅に向かい、満員電車に揺られて、冴えない上司の元で勤務時間を過ごさなければならない。
「今年引っ越してきた今岡くんだったよね、101号室の」
「そうです」
オーナーは住人の名前と顔をすべて覚えているらしい。顧客の顔と名前を覚えるのが、孝一は苦手だった。
「このマンションに住んでいて、何か困ったことはないかな?」
「いえ、快適に過ごしていますよ」
本当は外装をどうにかしてもらいたかった。内装はオーナーの道楽で、必要以上に改装されているのだが、マンションの塗装は剥げかけている。
今も郵便受けの下には、ピザ屋や不動産関連のチラシが散らばっているし、壁の通気口のフタが外れたままだ。
オーナーはこのマンションにときどきしか現れないので、どうしてもちらかってしまうらしかった。
孝一の視線に気づいたオーナーは、申し訳なさそうに言った。
「いやあ、管理が行き届かなくて申し訳ない。なかなか管理人を雇う余裕もなくてね」
家賃は6万円だ。この物件だけでも11部屋ある。余裕がないとは、孝一には思えなかった。
「それよりも」
オーナーが前のめりに話し始めた。外装から話題をそらしたかったのかもしれない。
「昨夜の女の子は彼女? それともお姉さん?」
「え?」
オーナーの唐突な質問に、孝一は首をかしげた。
「君の部屋のドアの前で会ったよ」
「いえ、誰も来てませんけど。何時頃ですか?」
彼女の真奈も昨日は仕事だったので、会う約束はしていない。孝一には、姉も妹もいない。
「私が空き物件の掃除に来たときだから……21時くらいだったんじゃないかな」
その頃は間違いなく家にいた。ビールを飲みながら、ドラマを見始めた頃だったから間違いない。
孝一の脳裏に、彼を見上げる巨大な瞳が思い浮かんだ。
『まさか』
チラシを拾ってやっただけの女の顔が思い浮かび、孝一は苦々しく感じた。
「どんな女でした?」
「細くて、髪を1つに結んだ、いまどき珍しいくらい化粧気のない子だったよ。確か白いワンピースを着てたかな」
昨日の帰り途と同様、孝一の全身に鳥肌が立つ。
「そ、そいつ。101号室の前で、何してました?」
「てっきり君の部屋から出てきたところだと思ったんだ。私と目が合って、その子、帰っていったよ」
『なんだよ、それ』
2人の横を、通勤快速電車が大きな音を立てて走り去っていった。孝一が住むワンルームマンションは線路沿いに立てられていた。
「あ、これから出勤なのに、呼び止めて悪かったね。気をつけて行ってらっしゃい」
オーナーは孝一の服装を確かめて言った。
「は、はい。行ってきます」
孝一は頭を少し下げて、線路沿いの道を通って駅に向かう。線路は大きくカーブを描いており、道はいったん線路から離れる。
孝一はさきほどの会話をもう一度検討してみた。
オーナーが目撃した女は、このマンションの住人なのではないか?
いや、オーナーは住人の顔を全員覚えているのだ。「いまどき珍しいくらい化粧気のない子」ならば、余計に記憶に残っているはずだ。
孝一の前方に、昨日女と出会った交差点が見えてきた。たくさんの車が行き来し、歩道には多くの会社員や学生が、信号が変わるのを待っている。
孝一も交差点に到着した。横断歩道の向かい側、昨夜女がいた場所に目を凝らす。
しかし、女の姿を見つけることはできない。小柄だったので、人ごみにまぎれているのかもしれない。昨夜、女は孝一を下から覗き込んでいたのだ。目と鼻の先で。
孝一の肌が、また総毛立つ。
『くそっ!』
心の中で悪態をついた。中途半端な情報を与えたオーナーが、だんだん腹立たしく思えてきた。おまけにマンションの前で立ち話をしたせいで、乗ろうとしている電車の発車時刻まであまり時間がない。信号を見上げたが、まだ変わりそうにない。
そこでふと思った。
オーナーの気のせいや勘違いということはないだろうか?
実は101号室の前ではなく、同じタイプの201号室の前、つまり1階ではなく2階だったとか。
あるいは、たくさん賃貸物件を持っているので、別の物件と勘違いしたとか。
もしかしたらその程度の話かもしれない。
そう考えると、孝一はバカらしく思えてきて、肩の力を抜いた。
肩の力を抜いた瞬間、自分の右側に女性が立っていることに気付いた。
孝一の肩くらいの背の高さ。
黒髪。
孝一の右半身がこわばる。
右に振り向こうとしたが、体が動かない。
『まさか自分がこんなにも臆病だったとは』
またしても悪態をつきたくなる。
『早く信号かわってくれ』
しかし、信号はそんなときに限ってなかなかかわろうとしない。
黒髪が揺れた。
『まさか、昨夜みたいに俺を見上げているのか?』
奥歯を噛みしめる。
今、右に振り向けば、女がこけた頬をこちらにむけて、大きく目を見開いて見上げているのかもしれない。
視界の端に、黒髪をとらえたまま動けない。
息が詰まる。
ようやく人ごみが動いた。信号がかわり、歩行者や自転車が交差点を渡り始めた。すると、黒髪も脚を前に踏み出した。
孝一はその背中を視界の隅で追った。
その背中は、セーラー服だった。ツインテールで髪型も異なるではないか。
「はあぁ……」
孝一は大きく息をついた。体の力も一気に抜けた。それまで全身が硬直していたことを思い知った。
電車に間に合うように、小走りで交差点を渡りきった。昨夜、不気味な女がビラ配りをしていた場所には、誰も立っていなかった。
深夜テレビに見入ってしまい、夜更かししたこともあり、完全に睡眠不足だった。
孝一はいつも朝食を食べない。というよりも、食べる時間がない。さっさとヒゲをそり、寝ぐせを直し、仕事着に着替える。もちろんジャケットやネクタイを身につけるのは、駅に着いてからだ。
6畳のワンルームのドアを開けると、キッチンを兼ねた短い廊下がある。キッチンと逆側には、トイレと風呂のドアが2つ並んでいる。間取りは普通のワンルームマンションだ。
孝一の頭の上で、感知式のライトが点灯した。
オーナーがマンションの管理を趣味にしているらしく、建物自体は古い割に、室内はきれいに、そして機能的に改装されている。
花柄の壁紙、ウォシュレット付きトイレ、感知式の自動点灯の玄関ライト、床暖房、さらには浴槽にジェットバスがついている。
孝一は玄関ドアを開けて外に出た。早朝にもかかわらず、むっとするような熱気が、全身を包み込んだ。
外廊下からマンションの入り口に回り込む。マンションの前には小さな植え込みと駐輪場がある。そのスペースを、マンションのオーナーが掃除していた。
不動産屋の話では、オーナーは郊外に住む資産家らしい。もう還暦を過ぎているようだが、有り余る金で賃貸マンションをいくつも所有している。その不動産がさらに不労所得を生み、道楽でマンション経営をしているのだ。ときどき所有している物件に現れては、掃除をしたり、住人と言葉を交わしたりしている。
「おはようございます」
孝一は、オーナーに敬意を払ってあいさつをした。白髪の資産家は腰を伸ばして、顔をあげた。
「やあ、おはよう」
オーナーはにっこりと人のよさそうな笑みで答えた。
『経済的に余裕があると、こんなにも穏やかな表情になれるのだろうか』
これから出勤しようとする孝一には、うらやましく思えた。彼はこれから焼けるような暑さのなか駅に向かい、満員電車に揺られて、冴えない上司の元で勤務時間を過ごさなければならない。
「今年引っ越してきた今岡くんだったよね、101号室の」
「そうです」
オーナーは住人の名前と顔をすべて覚えているらしい。顧客の顔と名前を覚えるのが、孝一は苦手だった。
「このマンションに住んでいて、何か困ったことはないかな?」
「いえ、快適に過ごしていますよ」
本当は外装をどうにかしてもらいたかった。内装はオーナーの道楽で、必要以上に改装されているのだが、マンションの塗装は剥げかけている。
今も郵便受けの下には、ピザ屋や不動産関連のチラシが散らばっているし、壁の通気口のフタが外れたままだ。
オーナーはこのマンションにときどきしか現れないので、どうしてもちらかってしまうらしかった。
孝一の視線に気づいたオーナーは、申し訳なさそうに言った。
「いやあ、管理が行き届かなくて申し訳ない。なかなか管理人を雇う余裕もなくてね」
家賃は6万円だ。この物件だけでも11部屋ある。余裕がないとは、孝一には思えなかった。
「それよりも」
オーナーが前のめりに話し始めた。外装から話題をそらしたかったのかもしれない。
「昨夜の女の子は彼女? それともお姉さん?」
「え?」
オーナーの唐突な質問に、孝一は首をかしげた。
「君の部屋のドアの前で会ったよ」
「いえ、誰も来てませんけど。何時頃ですか?」
彼女の真奈も昨日は仕事だったので、会う約束はしていない。孝一には、姉も妹もいない。
「私が空き物件の掃除に来たときだから……21時くらいだったんじゃないかな」
その頃は間違いなく家にいた。ビールを飲みながら、ドラマを見始めた頃だったから間違いない。
孝一の脳裏に、彼を見上げる巨大な瞳が思い浮かんだ。
『まさか』
チラシを拾ってやっただけの女の顔が思い浮かび、孝一は苦々しく感じた。
「どんな女でした?」
「細くて、髪を1つに結んだ、いまどき珍しいくらい化粧気のない子だったよ。確か白いワンピースを着てたかな」
昨日の帰り途と同様、孝一の全身に鳥肌が立つ。
「そ、そいつ。101号室の前で、何してました?」
「てっきり君の部屋から出てきたところだと思ったんだ。私と目が合って、その子、帰っていったよ」
『なんだよ、それ』
2人の横を、通勤快速電車が大きな音を立てて走り去っていった。孝一が住むワンルームマンションは線路沿いに立てられていた。
「あ、これから出勤なのに、呼び止めて悪かったね。気をつけて行ってらっしゃい」
オーナーは孝一の服装を確かめて言った。
「は、はい。行ってきます」
孝一は頭を少し下げて、線路沿いの道を通って駅に向かう。線路は大きくカーブを描いており、道はいったん線路から離れる。
孝一はさきほどの会話をもう一度検討してみた。
オーナーが目撃した女は、このマンションの住人なのではないか?
いや、オーナーは住人の顔を全員覚えているのだ。「いまどき珍しいくらい化粧気のない子」ならば、余計に記憶に残っているはずだ。
孝一の前方に、昨日女と出会った交差点が見えてきた。たくさんの車が行き来し、歩道には多くの会社員や学生が、信号が変わるのを待っている。
孝一も交差点に到着した。横断歩道の向かい側、昨夜女がいた場所に目を凝らす。
しかし、女の姿を見つけることはできない。小柄だったので、人ごみにまぎれているのかもしれない。昨夜、女は孝一を下から覗き込んでいたのだ。目と鼻の先で。
孝一の肌が、また総毛立つ。
『くそっ!』
心の中で悪態をついた。中途半端な情報を与えたオーナーが、だんだん腹立たしく思えてきた。おまけにマンションの前で立ち話をしたせいで、乗ろうとしている電車の発車時刻まであまり時間がない。信号を見上げたが、まだ変わりそうにない。
そこでふと思った。
オーナーの気のせいや勘違いということはないだろうか?
実は101号室の前ではなく、同じタイプの201号室の前、つまり1階ではなく2階だったとか。
あるいは、たくさん賃貸物件を持っているので、別の物件と勘違いしたとか。
もしかしたらその程度の話かもしれない。
そう考えると、孝一はバカらしく思えてきて、肩の力を抜いた。
肩の力を抜いた瞬間、自分の右側に女性が立っていることに気付いた。
孝一の肩くらいの背の高さ。
黒髪。
孝一の右半身がこわばる。
右に振り向こうとしたが、体が動かない。
『まさか自分がこんなにも臆病だったとは』
またしても悪態をつきたくなる。
『早く信号かわってくれ』
しかし、信号はそんなときに限ってなかなかかわろうとしない。
黒髪が揺れた。
『まさか、昨夜みたいに俺を見上げているのか?』
奥歯を噛みしめる。
今、右に振り向けば、女がこけた頬をこちらにむけて、大きく目を見開いて見上げているのかもしれない。
視界の端に、黒髪をとらえたまま動けない。
息が詰まる。
ようやく人ごみが動いた。信号がかわり、歩行者や自転車が交差点を渡り始めた。すると、黒髪も脚を前に踏み出した。
孝一はその背中を視界の隅で追った。
その背中は、セーラー服だった。ツインテールで髪型も異なるではないか。
「はあぁ……」
孝一は大きく息をついた。体の力も一気に抜けた。それまで全身が硬直していたことを思い知った。
電車に間に合うように、小走りで交差点を渡りきった。昨夜、不気味な女がビラ配りをしていた場所には、誰も立っていなかった。
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