青とは気持ちのひとつ

彩城あやと

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BLUE JOKE

BLUE JOKE ⑤

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「直太」
 須賀原さんの指先が、俺の唇をすうっとなぞる。綺麗な緑がかった茶色い瞳に見下ろされる。
「直太、好きだ」
「なら……それなら……」
「それなら?」
「校区大会には、来て下さい」
「……なんだ? それは?」
「いや、だって……」
「そんなに妹が大事か?」
 須賀原さんがふうっ。とため息を付いた。
 どうしよう。本当は会えなくなるのが嫌で。でも男同士で付き合うっていう勇気もまだなくて。
「須賀原さん、本当に俺の事が好きですか?」
「ああ。脅し文句だな。いいだろう。惚れた弱みだ。校区大会には行こう」
「ほ、惚れた弱みって……」
「今更何を言ってる。好きでもない奴に、触るか」
 須賀原さんが面白くなさそうに、ふいっと髪をかきあげた。そのふてくされた顔が、少し子供っぽくて、可愛いと思ってしまった。
 今まで俺が悩んでたことは、一体なんだったんだろう。心がふわりと軽くなると、なんだか俺の心に、むくむくとイタズラ心が湧き出した。
「俺…ゲイかもしれない」
「直太?」
「だから…ここで働こうかな」
「待て。それだけはやめろ」
 あ。どうしよう。ちょっと面白い。なんだか慌ててる須賀原さんが、無性に可愛い。
 俺はずっと当たり前のように、女の子を好きになってきた。それが須賀原さんに惹かれて、好きになってしまったんだ。
 でもその事を言えば、須賀原さんは今すぐにでも、従業員控え室に俺を連れ込んで、襲いかねない。そしたら俺はきっと逆らえない。
 須賀原さんに触れたい。触れられたい。とは思うけど、まだ少し男に抱かれる事に躊躇してしまう。
 もう少し。もう少し心の整理がつくまで待ってもらおう。



10




 校区大会がやって来た。
 そして桃香たち、盛岡町のバレーボールチームは、須賀原監督の指示のもと、果敢に戦い優勝を遂げた。1チームを除いて、ほぼ圧勝だ。
 感動して。感動して。他の保護者達と手を叩いて喜び合った。
 桃香をレギュラーに選んだ事も、問題にはならなかった。6年生も6年生の保護者達も、最後の校区大会で優勝を飾れた。その事実に満足していた。
 試合の後、子供達は須賀原監督に、心からお礼を言って頭を下げてた。それを見て須賀原さんは、小さく笑う。
「自分たちの実力だ。自信を持て」
 子供達も晴れやかに笑う。
 きっと子供達は、このバレーボールだけじゃない。何かを一生懸命すれば、実を結ぶ。それを学んだんじゃないんだろうか。
 長い期間、一緒に頑張ってくれた須賀原監督が、こうして校区大会に来てくれて良かった。子供達も、須賀原さんも嬉しそうで、楽しそうな顔をしていて、俺は幸せな気持ちで、校区大会を終えた。




******




 校区大会が終ったあと、役員や役員の子供達で打ち上げに行くことになった。もちろん俺や須賀原さんも一緒だ。
 場所はこじんまりとした、近所の居酒屋。そこでみんなで食べて、飲んだ。宴もたけなわ、母さん達の弾丸トークは止まらない。
 俺と須賀原さんは、その打ち上げから、こっそりと抜け出した。
 須賀原さんはお酒を飲んでいなかったので、俺たちはドライブに出かけた。
 辿り着いたのは、夜の海。海水に照らし映された月がゆらゆらと揺れて、海岸には二つの月が見えた。
 浜風が髪をさらい、頬をかすめる。
 冬も間近に迫った寒い夜。辺りには人の影も見つからない。
 ざぶん。と響く波の音が、夜の静寂に広がっていく。
 空気が澄んでいて、思わず息を吸い込むと、冷たい空気が肺に広がり、ぶるりと震えた。
「寒いのか」
 後ろから須賀原さんがふわりと俺の首元にマフラーをかけて、風下に立つ。
「抱きつかれるのかと思った」
 俺がそう笑うと、須賀原さんは綺麗に整った眉を片方上げて、煙草に火を付けた。紫煙が風に流されていく。
「触っても、直太は怒るか、泣くかしかしないだろう。それでは面白くない」
「じゃあ、どういうリアクションすれば、須賀原さんは面白がるって言うのんですか?」
「俺が触れて、直太の悦ぶ姿が見られたら、だな」
「漢字の使い方が、間違ってそうですよ」
 俺がマフラーに顔を埋めて、くすくすと笑うと、須賀原さんは、ふーっと煙草の煙を吐き出した。
「俺はゲイだ。直太に触れたい。そう思うのが自然なことだ」
「うん……ごめん」
「謝らなくていい。直太はノーマルだ」
「そう思ったから、壁を感じたから、バレーの練習に来なくなったってことですか?」
「……直太は俺に会わない方がいい。そう思ったからだ」
「俺が泣いたから?」
「ああ、そうだ。直太、俺を見ろ」
 俺は浜風にさらされながら須賀原さんを見つめた。綺麗な瞳の光彩は、目を凝らしても暗くてよく見えない。
「直太のその目だ。俺を吸い込むように見つめるその目。その目が俺を狂わす」
「え? それはどういう意味?」
「直太は俺に惹かれている。そう俺が思っても、仕方の無い目をしている」
「……自信家ですね」
「違うのか?」
「う…………。その自信は一体どこから来るんですか」
 須賀原さんが、肩を揺らして笑うと、どこかで鳥の鳴き声が聞こえた。
「鏡に映して、その顔、見せてやりたいな」
 俺はなんて答えていいか分からずに、顔を逸らすと、須賀原さんは、もう夜風は体に悪い。そう言って俺に帰宅を促した。
 帰りの車の中。流れるBGMは聞いたことのある、あの曲が流れてた。
 一人で誰かを待ちわびてる、切ないラブソング。
 須賀原さんは帰り際「いらないなら捨てろ」そう言って、新しい携帯の番号の書いたメモをくれた。
 メモに書かれた文字は、綺麗に整った須賀原さんの自筆。
 俺は家に帰ってからも、携帯にその番号を登録もせずに、ぼんやりとその文字を眺めてた。



11



 カチカチ。そんな音が響いて、ブルーのライトが点灯された。
 ここは、ホストクラブ、グレイスガーデン。
 オープン準備をしてるだけなのに、スタッフ達は優雅な動作でフロアを横行してる。
「で、直太がなんで、こんな所にいるんだ」
 尖った声で須賀原さんの声が、スーツ姿の俺の背中を刺す。振り向かずに、知らん顔してたら、肩を掴まれた。
「ここには、来るなと言っただろう」
 綺麗な瞳が怒ってる。この瞳は怖い。でも俺にだって言い分はあるんだ。怯えずハッキリ言ってやろう。
「リョウさんに呼ばれたんです。今日、急遽団体のお客さんの予約が入ったらしんだけど、ホストが足りないから、手伝ってくれって。だから……なんとなく断れなくて」
「俺はここには来るな。そう言ったはずだ。だいいち、なんでリョウが直太の連絡先を知っているんだ?」
「あ。それはこの間、リョウさんと携帯番号交換してたから……」
「ここのスタッフ達とは、絡むな」
 俺は有無を言わせない須賀原さんの言葉に、凍りついた。
 いや、凍ってる場合じゃない。スタッフ達が俺たちをチラチラと見てる。リョウさんといえば、楽しそうに笑みを浮かべて俺たちを見てる。 
 助け舟はないのか? 須賀原さんの怒ってる瞳が怖いんだよ。
 その時俺は、ふと須賀原さんの言ってた言葉を、思い出した。
『直太は俺に惹かれている。そう俺が思っても、仕方の無い目をしている』
 そのとき
 それはここがホストクラブで。俺は今からホストを演じろ。そうリョウさんに言われてたわけで。
 俺の心にイタズラ心が、むくり。湧き出した。
 吸い込まれそうになる、須賀原さんの綺麗な光彩を放つ瞳を、俺はジッと見つめる。
 須賀原さんが息を飲む気配を感じる。
 いい感じかもしれない。須賀原さんの瞳を見ながら、俺はその瞳に飲み込まれていない。
 調子に乗った俺は、自分の自由を求めて、思ったままの事を口にしてしまう。
「ここはゲイしか働けない店なんだでしょう? じゃあいいじゃないですか」
 ピクリ。須賀原さんの眉が動いた。
「直太はいつの間に、ゲイになったんだ?」
「あ………っ!」
 しまった! 俺、須賀原さんの事が好きになったから、自分はゲイになったのかと思って、つい口を滑らせてしまった!
「言え」
 ずいっと、背の高い須賀原さんに詰め寄られる。
「う…………」
 こうなったら、蛇に睨まれた蛙状態だ。捕食されてしまう。逆らえずに須賀原さんに喰われてしまう……っ!
「直太」
 顔を逸らすと、顎を掴まれて、見下ろされる。圧倒的存在感に息を飲む。
「いや……えっと……今は漠然と、ゲイかもしれないなー。と思うくらいで……。まだゲイじゃないです。だから離して下さい」
「直太は何で、自分がゲイかもしれない。そう思ったんだ?」
「なんとなく……」
 男の須賀原さんを好きになったから。とは恥ずかしくて言えない。
「直太は嫉妬で俺を狂わせる気か? 俺を受け入れる素振りも見せず、直太は自分がゲイなのか、この店で働いて確かめに来た。そう言うんだな」
「ええ!? それは違います! だから俺はリョウさんに頼まれて!」
 須賀原さんの瞳がすううっ。と冷めていく。凍てつくような瞳で、見下ろされる。
 その時、パンパンと手を叩く音が聞こえ、リョウさんがため息を付いた。
「悪かったわ。ワタシが悪かった。だからもう、その痴話喧嘩やめてくれる?目も当てられないわ。よそでやってちょうだい。」 
 ふと周りを見回すと、みんなが俺たちを眺めてる。
 恥ずかしさに俺が顔を伏せると、それまで触れてこなかった須賀原さんが、これみよがしに俺の肩を力強く抱いて、引き寄せた。
「そうだな。行くぞ」
「え? どこへ?」
「従業員控え室」
 須賀原さんは有無を言わさず、俺の肩をがっちりと掴んで、歩き出だす。
「ちょっと! 待ちなさいよ! 今日は急に団体の予約が入ってるから直太を呼んだのよ。従業員控え室でナニする気?」
 リョウさんの慌てた声が、俺たちの背中を刺した。
「無粋だな」
 須賀原さんがリョウさんに振り返って、俺を凍りつかせるような事を言う。
「ええっ!? 須賀原さん一体何考えて……!」
「確かめるなら、体に聞くのが一番だろう」
 フロアにホスト達の歓声と、拍手が響き渡る。
 ……みんなまだ飲んでもないのに、ワルノリしすぎだ。
 俺は須賀原さんの腕を振りほどいて、睨み上げた。
「冗談じゃない」
「直太はなんとなく自分がゲイじゃないかもしれない。そのなんとなく思った感情を、ハッキリさせたいとは思わないのか?」
 須賀原さんは小首を傾げて、不思議そうな顔で俺を見つめた。
「……世の中には、ハッキリさせない方がいい。そう思う事もあります」
「ハッキリさせないと、知らず知らず逃がしてしまうものもある」
 綺麗な光彩の瞳が揺れてた。
 逃してしまうもの。
 それは、俺が須賀原さんの事を好きだと思っていても、口には出さないでいると、他のヤツを好きになっても知らないぞ。そう言ってるんだろうか。
 俺は知らず知らずに、ふうっとため息を吐き出していた。
 重症だ。ゲイにならずに済むなら、人生それに越したことはない。家族にも心配をかけずに陽の目を浴びて、正々堂々と当たり前の恋愛をして生きてける。
 でも須賀原さんが他の誰かを好きになったら……考えるだけで、心がバラバラに砕けてしまいそうになる。
 どうして俺は男なんか好きになってしまったんだろう。
 見上げると綺麗な緑色の瞳。ああ。ブルーのライトが反射して、いつもの色とは違うんだ。
「俺がハッキリさせたいのは、直太がゲイかもしれない。そう思った理由が、俺とは違う他の男を見て、そう思ったのか、どうか、だ。」
「そ、それは……」
「それは?」
「う…………ハッキリと答えるべきなのか。どうか、迷います……」
「何故迷う?」
 確かに好きになった男はいます。でも名前は言えない。
 そう答えたら、須賀原さんは俺から離れて行くかもしれない。そう考えると俺は正直に自分の気持ちを言うしかなくなる。
「須賀原さんに……押し倒されたくないから」
 顔がかああっと赤くなっていくのが自分でも分かる。みんなが見て、聞いてるんだ。こんな公開告白、どうにかしてる。
 つま先を見つめて拳をギュッと握ると、須賀原さんの香りに包まれ、長い指先が俺の前髪を、クンと引っ張った。
「それは男を好きになったんじゃなく、俺を好きになった。そう言う事だな。いいだろう。気持ちが聞ければ、体で確かめる必要もない」
「え?」
「俺は別に直太の体を目当てにしてる訳じゃない」
 須賀原さんは優しく微笑んで、引っ張ってた前髪を指先で弾いた。
「須賀原さん……」
 須賀原さんの瞳の光彩がライトで、妖艶に揺れた。
「だが、俺は直太のすべてを欲しいと思っている」
「す、すべて……?」
 動揺する俺に、カラン。来店を告げるベルが鳴り、須賀原さんは、ふっと笑うと、優雅な動作で踵を返した。
「直太、ここ来たからには、プライドを持って仕事をしろ。おまえには俺が付く」
 後ろでリョウさんが、「何勝手に決めてんのよ!」と怒っていたけど、須賀原さんは肩を揺らして笑うだけで、何も答えず、お客さんを迎えるべく俺の背中を、そっと押した。
「ホスト名は、何にするんだ?」
「あ……。じゃあ、ナオ。ナオでいいです」
「いい名前だ」
 グレイスガーデンは、白い世界で青く豪奢に輝いてた。
 ドキドキするのは、これから関係を結んでくだろう須賀原さんを想ってなのか。桃香への、家族への背徳心なんだろうか。
 でもひとつ言えるのは、甘く痺れるように、胸を締め付けてるこの気持ちは、間違いなく須賀原さんへの恋心。
 迷いはあっても、須賀原さんを好きになったこと、後悔したくない。
 俺は須賀原さんを見上げて、満面の笑みをこぼし、須賀原さんも優しそうに微笑んでた。
 


12



 春が着た。
 日差しが柔らかく、鳥が唄い、草花が風に揺れる優しい季節。
 俺のバレーコーチの任期も終わり、新五年生の体育部長にその座を引き継いた。
 須賀原清春。バレーボール監督をしてた彼との接点は、途切れる。
 あの瞳に惹かれ、男同士の肉体関係とはこんなものだ。そう身を持って教えてくれた、須賀原さんとの関わりが終わる。
 ただし、連絡を取り合わなければ、の話。

「す、須賀原さん……早く……」
 息が出来なくて、言葉が詰まる。須賀原さんの香りが、俺を抱きしめてる。
「早く……?」
「お願い……です……もう……もう……っ!」
「だから、なんだ? ハッキリ言え」
 須賀原さんの吐息が首筋に触れる。
「あ…………」
「答えろ」
「早く……いか……行かないと、遅刻してしまいます……っ!」
 ここはグレイスガーデン、従業員控え室。
 俺は今日から、このホストクラブでバイトとして働く。
 でも須賀原さんに抱きすくめられた俺は、身動きひとつ取れやしない。初日から遅刻っていうのは、マズイ。
「なんで、この店で働こうするんだ……この店には近寄るな。そう言ったはずだ」
 ぎゅうう。須賀原さんの腕に力が強くなり、すっぽりと覆われるようにして抱かれた俺の呼吸が乱れた。
「ん……ここの……時給……破格で、勉強……時間、いっぱい……取れる、から、です……ちょっと……須賀原さん……苦し…離して」
 ふわり。須賀原さん腕の力が緩んで優しく抱きしめられる。
 俺は、呼吸困難には悩まされることがなくなったことに、安堵のため息を付いた。
 でも俺が須賀原さんの腕の中から逃れようと身じろぎすると、腕に力が込められて、また身動きが取れなくなる。
 「苦しい」俺がそう訴えると、腕の力が緩められて、また優しい抱擁に変わる。
 これを一体、何回繰り返したんだろう。
 このままだと、本当に遅刻してしまう。
「須賀原さん、離して下さい」
「ハグならしてもいい。そう言ったのは直太、お前だ」
「と、時と場所を選んで下さい……っ!」
 バタン。ロッカーを閉める音が、後ろで大きく鳴り響いた。……あれはわざと大きな音を立ててる。
 ゴホン。ゴホン。わざとらしい咳も聞こえる。
 須賀原さんに抱きしめられて、周りが見えない。けど、確実にこの従業員控え室には、他のホスト達が居る。そして存在をアピールしてる。
「ちょっとぉ。いい加減に従業員控え室でイチャつくの、やめてくんないかしら」
 とうとうリョウさんの尖った声が聞こえた。
 須賀原さんの笑いを含んだ声が、頬に触れる厚い胸板を通して響く。
「別に構わないだろう。恋人同士だ」
「呆れた。恋人同士って言っても、キスもしないんでしょう?」
「それでも恋人だ」
 ぎゅう。須賀原さんの腕に力がこもった。
「く……苦しい」
 なんとかしないと、俺は圧迫死してしまうかもしれない。
 以前、須賀原さんは俺の気持ちーー須賀原さんが好きだ、と言う気持ちが聞ければいい。そう言ったクセに、俺を押し倒し、襲ってくる。という事をしてくれた。
 須賀原さんは元々ノーマルの俺に不安を抱いてるようで、男同士の性行為を用いて、ゲイの道。恋人として想いを通わしたいのかもしれない。
 でも驚いた俺はその時に、ポツリと思わずこう言ってしまった。
「抱きしめ合う以外は、まだ無理」
 それを聞いた須賀原さんはしばらく固まったまま、動かなくなった。
 それからだ、須賀原さんは俺を押し倒すこともなく、ただ優しく抱きしめて、甘い言葉を囁いてくれるだけの優しい関係を築いてくれてる。好きな人に抱きしめられて、興奮したり、安らげたり。それはとても幸せなことだと知った。
 俺が須賀原さんに欲情しないと言えば、嘘になる。須賀原さんも、自分が欲情してる事を隠して、俺を抱きしめてるのにも気づいてる。
 須賀原さんは、今の俺たちの関係に満足してないんだろうなあ。
 今の状況に陥って、俺はそう思う。
「あんたたちも早くしないと、遅刻するわよ」
 リョウさんや、他のホスト達がスタスタと通り過ぎる気配がして、従業員控え室のドアが閉まる音がする。
 須賀原さんの緩んだ優しい抱擁の中、従業員控え室を見渡すと、俺たちふたりだけ。
 俺はそっと須賀原さんを見つめた。光彩の綺麗な瞳、彫りの深い顔立ち。綺麗に整った形のいい唇。
「俺たちも行こう」
 俺は背伸びして、何か言おうとしてた須賀原さんの唇を、唇で塞いだ。
 唇を押し当てるだけのキス。俺が須賀原さんのことが好きだという、精一杯の意思表示。
 須賀原さんは、驚いたように俺を見つめた。
「続きはないのか?」
 俺の意思表示は、伝わってるのかな。
「遅刻してしまうから、そんなものはないよ」
「冷たいな」
 くすり笑うと、須賀原さんは啄むようなキスを俺の額に落した。
「ん」
「それは礼だ。気にするな」
 須賀原さんは無理やり、関係を推し進めようとしない。そう言いたいのかな。
 須賀原さんはするりと腕をほどいて、俺の体を自由にした。
「さあ、行くぞ、ただし他のホストのヘルプには絶対に付くな。俺のそばに居ろ」
「俺にそんな自由があると思う?」
「俺が文句を言わせないポジションについてやるから、直太は俺のそばに居れば、それでいい」
 不敵に笑う須賀原さんと一緒に従業員控え室のドアを開ける。
 青く幻想的に照らされる、白い世界『グレイスガーデン』俺はバイトとしてだけど、この店で働く。
 俺は須賀原さんとつながりのあるものが、ひとつでも欲しい。
 監督とコーチ、その関係が終った今、恋人として過ごす時間以外でも、そばに居たい。
 だからこのグレイスガーデンで働く。
 もう俺、自分でもゲイじゃないかと思ってしまうし。
 仕事が終わったら、須賀原さんにそれをちゃんと伝えよう。
 そして、明日は須賀原さんを家に呼んで、家族みんなと過ごそう。
 俺は須賀原さんと付き合ってる。
 そんな事、桃香には言えないけど……。
 
 まずはひとつずつ。



(おわり)
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