妖艶幽玄絵巻

樹々

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妖艶幽玄小巻

9-4

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***



「……つっ! 優しくしてくれ……!」

「見事な突きです。もう少し深ければ、喉を潰されていたでしょうな」

 寝かされた布団の上で、水に浸して絞られた手拭いを首に当ててもらっている。そこは青く変色していた。

 始終呆れ顔の七乃助は、もう一枚の手拭いを桶に浸している。

 腹部も酷いことになっていた。ただの蹴りではない、ねじ込むように叩き込まれている。本気の一撃だった。青く変わった腹にも、冷たい手拭いが当てられる。

 喜一が三郎の布団で眠ってしまったため、紫藤は治療を中断し、代わりに見回りに出てくれた。美祢も一緒だ。俺も行こうとしたけれど、清次郎に止められた。治療が先だ、と。

 変色した首を気にしていた。何でもない、と見栄を張ってみたけれど。布団に倒れ込むと動きたくなくなった。

「こうも噛み付かれるとは……」

「そうなるよう、仕向けておいて何を」

「手加減はすると思うておった」

「する訳がないでしょう。三郎殿の前で、抱こうとなさったのですから」

 グッと、喉を押されて呻いた。

「これ、焼き餅をやくでない」

「我慢して差し上げたのです。尻を蹴り飛ばしてやろうかとも思ったのですぞ」

 今度は腹を叩いてくる。痛みに動けない俺に、遠慮がなかった。

「七乃助……! 止めてくれ!」

 本気で痛かった。膨れっ面の七乃助を見上げながら頼んでみる。元気になったらお仕置きしてやる、と口には出さずに。

「今日はほんに、参っておる。暫く休ませてくれ」

「……あなたは、本当に喜一殿を大切になさっているのですね」

 小さな唇を噛み締めた七乃助を見上げた。小さな体が、ますます小さく見える。

「どういう意味だ?」

「影から解放してやりたい、そうおっしゃっていたから、我慢して差し上げたのです。口付けも……」

 最後は囁きだったけれど。はっきりと聞こえた。

「想像を膨らまされても困るでな。先に言うておくが、松田家に居た頃、俺と喜一は体の関係も持っていた」

「……で、しょうな」

「他に拠り所が無かった。俺も、喜一も。信じられたのは、あいつだけでな。痛みを誤魔化すように、抱き合った」

 最初こそ、仕置きのつもりで抱いた。彼が行ってきた事に対しての、罰として抱いた。

 抱いて初めて、喜一が溜め込んでいた苦しみに気が付いた。

 それからは共に、言葉もなく抱き合うようになった。あいつも拒まなかった。俺の体にしがみ付いていた。



 愛。



 なのかは分からない。ただ、松田家の中で、喜一の存在が俺の救いになっていた。影として側に居る喜一を感じていると、孤独だった心が少しだけ晴れていた。

 松田家を出る時、本当は喜一も連れて行きたかった。だが、俺の側に縛り付けておいては彼のためにはならないと思った。

 彼が自分で考え、どうしたいのかを決めて欲しかった。

 俺は俺の道を。

 喜一は喜一の道を。

 進むべきだと思った。

「ずっと支えてくれたでな。大事にしてやるのは当たり前だ」

「……もし、喜一殿が松田殿を選んだ時は、どうなさるおつもりだったのですか?」

 首に置いていた手拭いを水に浸し、冷たくしてくれながら聞かれた。思わず笑って咳き込んだ。喉が痛くてたまらない。冷たい手拭いに冷やされ、少し落ち着いた。

「三郎を選ぶことは分かっておった」

「何故です?」

「俺も同じであった故な」

 水に浸しているせいか、七乃助の手は冷たい。小さな手を握り締めながら、顔を近づけろと手招きした。素直に近付いてくる。成人しているのに、少し柔らかさを残す頬を揉んだ。

「お前が死んだと思うた時、俺も取り乱してしまった」

 揉みながら引き寄せた。小さな唇に口付ける。俺の首に当たらないよう、腕を突っぱねた七乃助は、近い距離で見つめてくる。

「喜一殿も同じだと?」

「ああ。影としてのあいつは、俺を想うだろう。俺も影としてのあいつは、欲しいと思う」

「……体も?」

「かもな。綺麗だろう? 抱いたらもっと綺麗に……ぐっ! 痛いぞ、七乃助!」

 腹に容赦のない一撃が入った。情けないことに丸まってしまう。これは内蔵の方もやられていそうだ。治るには数日掛かるだろう。

「あなたが助兵衛だからです!」

「今までは、という話だ!」

 痛む腹を押さえながら、これ以上、刺激されたらたまらないと布団を引き寄せる。濡れてしまうので、腹の手拭いは外へ放った。

「……今は、どうなのです」

 布団に潜り込んだ俺に聞いてくる。顔まで被りながら答えてやった。

「俺の側にはお前が居る。喜一の側には三郎が居る。それが答えだ」

 ふてくされた俺に、溜息をついた七乃助。溜息をつきたいのは俺の方だ。

 思っていた体に、ドサリと七乃助が倒れ込んでくる。当然、腹にも喉にも響いた。

「七乃助……!」

 呻く俺には構わずに、布団を剥がしてくる。引き戻したくても、腹と喉を押さえるのが精一杯だった。

「……ほんにお馬鹿なお人です。一人嫌な役を引き受けて」

「……良いから寝かせてくれ」

「薬を塗るのが先です。打ち身に効く薬を貰ってきております」

 呻く俺を仰向けにさせ、着物を脱がせてくる。布にたっぷり薬を塗りつけ、首と腹に置いている。さらしを取り出し、痛まないよう丁寧に巻いてくれた。

 またつつかれたり、叩かれたりするかもしれないと、身構えていたけれど。治療だけにしてくれるようだ。着物を合わせ、帯を締め直した七乃助が顔を近づけてくる。

 何かするつもりか、警戒した俺の唇に、小さな唇が重なった。割開くように舌が滑り込んでくる。俺の舌に、積極的に絡めてきた。

 応えてやった。舌先を触れ合わせてやる。目を開けたまま七乃助の様子を窺った。彼は興奮しているのか、頬が赤くなっている。

「……んっ……はぁ」

 しっとりと濡れた唇が離れると、下半身が少しざわめいてしまう。赤味を差した七乃助の頬は、なんとも扇情的だった。

「……残念だ。さすがに今、手は出せぬ」

「知っております」

「仕置きのつもりか?」

 俺を煽って、止めるとは。濡れた唇を見つめてしまう。ぐいっと袖で拭った七乃助は、そっぽを向いてしまった。

「……口直しです」

「何?」

 意味が分からなかった。布団を被せられながら見上げたけれど。それ以上、何も言わない。

「どういう意味だ、七乃助」

「さっさと寝て下さい」

 右手が挙がる。また、どちらかを叩こうと言うのか。

 仕方が無く、今は大人しくしておいた。後で絶対、あんあん、鳴かせてやるからな、と思いながら。

 目を閉じると眠った。寝れば体が治すために全力で働き始めるだろう。余計な動きはせず、眠ることに集中した。

「……はよう治して…………だされ」

 呟いた言葉は良く聞き取れなかった。深く静み込ませた意識の中で、どうやって七乃助を抱こうかと考える俺だった。



***



 江戸の町は夜を迎えた。三郎を襲った悪霊の大きさを考えると、力を溜め込み、潜伏している物がまだ居ると考えるべきだろう。

 迂闊だった。三郎の側に付いていてやるべきだった。

 封印の珠を飲み込んだばかりの三郎の体は、三郎自身の霊力まで封じてしまっていた。そのため、力を出すことができなかったのだろう。

 あたしが見てやるべきだった。傷が治ったら、すぐにでも力の使い方を教えてやろう。

 一人見回っていたあたしは、近付く足音に振り向いた。

「よう、姉さん。一人じゃ危ないぜ」

「目が覚めたかい」

「まあね」

 喜一は髪を結んでいた。ニヤニヤと、笑っている。今日一日でずいぶん、別の顔を見た気がする。

「その顔、まだ作る気かい?」

「癖さね。気にしなさんな」

「せっかく良い顔してんだ。まともに笑ってみな」

「こうかい?」

 ニヤリと、嫌らしく笑っている。

「……もう、良いさ。三郎の前だけにこにこしてな」

 肩を竦めて歩いていく。隣に追いついた喜一も一緒になって歩いた。

「姉さんも休みな。旦那達も休んでる。後は俺が見ておくさね」

「どうせ独り身だ。もう少し回って寝るよ」

「お肌に悪いさね」

「あんたに心配される覚えはないよ」

 笑ったあたしは、足を止めた。喜一も一歩進んで止まっている。振り向いた彼の肩をパンッと叩いた。

「三郎、泣かせんじゃないよ」

「……さてね。そうしたいのはやまやまだが、自信はねぇ」

「真ちゃんに足開かなきゃ大丈夫さ」

「あはは! 姉さんも言うねぇ~」

 垂れている目が、少しだけ穏やかになった気がした。作った顔とは違う、別の顔がほんの少しだけ出てくる。

「ま、死ぬのも泣くのも、駄目さね」

 微笑むように笑った顔に、鼓動が一瞬、跳ねてしまう。

「嫌だよ! あんたが男前に見えちまった!」

「……なんだい、そりゃ」

「あ~やだやだ! 鳥肌たっちまったよ」

 我が身を擦りながら足早に歩いていく。

「姉さん?」

「後は任せたよ!」

 小走りに駆けていく。追い掛けてくる気配はなく、部屋を借りている茶屋まで急いだ。宿屋もあるのだが、出稼ぎで来ている大工で埋め尽くされている。そのため二軒の茶屋の二階をあたし達が借り受けていた。

 喜一と三郎の隣は、今日は紫藤と清次郎が借りている。そのため、あたしは松田と七乃助の隣の部屋になる。夜道を急いでいたあたしは、あっ、と声を出しながら止まった。

「結局、蘭々何で江戸に居るんだろう」

 聞きそびれている。聞きに行こうか、思って止めた。三郎の手当と、見回りで疲れているだろう。明日、聞けば良い。

 茶屋に戻ったあたしは、そっと二階に上がった。奥の部屋に入る。部屋の隅に置かれていた布団を敷くと、着物を脱ぐため帯を解いた。

「……幸せにしてもらうんだよ」

 弟分である三郎を思って呟いた。苦労をしてきた子だ、ようやく巡り会えた想い人と添い遂げて欲しかった。

「あたしも早く、良い男見つけたいね~」

 寝装束に着替えると、布団にくるまった。不覚にも、思い出してしまったのはまだ若い太助の顔で。

 いやいや、それはないだろう、と目を瞑った。良い男に出会えますように、と願いながら眠った。



***



「ほんに怒ってはおらぬな?」

「はい。もう、気にしておりませぬ」

「ほんに、ほんに怒っておらぬな?」

「はい、紫藤様」

 これで何度目だろう。紫藤はしつこいくらいに聞いてくる。疲れているだろうに、床に入らず念押ししてくる。

 まあ、公の場で公表されたのは、かなりの衝撃だったけれど。今日は一日、紫藤は良く働いている。早く寝かせてやりたいのに、彼の方が気にしてなかなか寝ようとしない。

「さ、紫藤様。お早く」

「……うむ」

 ようやく眠る気になったようだ。寝装束に着替えさせ、布団の中に押し込んだ。俺も手早く着替えると、隣に寝転んでしまう。明かりを消された室内は、暗く静かだった。

「……のう、清次郎」

 まだ聞くのだろうか。彼の顔に掛かっている白髪を手でどかしながら身構えた。

「愛とは真不思議よの」

 意外な言葉に耳を傾けた。紫藤は俺の胸元辺りを弄りながらポツリポツリと話している。

「お主は私のことを主として愛しているのかの? それとも、男として愛しておるのかの?」

 暗い中で、紫藤の目を見つめた。そっと滑らかな肌に触れた。

「両方です」

「……両方?」

「初めは主として、大切なお方になりました。今は男としても、離れられないお方だと想うております」

「……そうか!」

 嬉しそうに抱き付かれ、その背中を撫でてやる。首もとに紫藤のおでこを感じながら、密やかに笑った。グリグリと押し付けられ、くすぐったい。

「もし、松田が止めなんだら、本当に喜一の腕を斬り落とすつもりだったのか?」

 俺の腰辺りを撫でたり摘んだりしている紫藤を抱き締めながら、まさか、と首を横へ振った。

「本気で斬り落とす気はありませんでした。それに、必ず松田殿が止めることは分かっておりましたから」

「……何故だ?」

「松田殿と喜一殿の間には、深い絆がありました。松田殿が黙って見ている訳はありますまい」

 そうでなければ、喜一の頼みを聞いたりはしない。松田が止めると思ったから、斬る振りをしただけだ。

 案の定、松田は止めた。見事な返しだった。後のことは松田に任せ見守った。

 喜一の分厚い面を、影としての面を、松田は引き剥がした。その代償に、ずいぶん手痛い二撃を喰らったようだけれど。喜一を影という呪縛から解放してやった。

 松田という男は、懐の大きな人物だった。

「さ、お休み下さいませ。明日もまた、忙しくなりましょう」

「うむ!」

 おでこに軽く口付け、腰をしっかり抱いてやった。俺に体を預けた紫藤はすぐに寝息をたてている。

 鳥になって江戸まで飛び、すぐに三郎の治療に入った。その後、松田の傷が思いの外深いことを俺がそっと告げると、美祢を一人にするのは危険だと一緒に見回りにも出た。

 疲れていたのだろう。ぐっすりと眠ってしまう。きっと、深く意識を沈み込ませているはずだ。

「よう頑張りなさいました。しかと休まれて下され」

 長い白髪を丁寧に梳いた。サラサラと、心地よく揺れた。



***



 サラサラ、サラサラ、指から零れ落ちる綺麗な黒髪。

 いつも冷たい肌。

「……ふふ」

 膝に掛かる重たい頭。穏やかな顔で眠る人。おでこがツルリと出ている。少し垂れている瞳を隠す瞼は、全く力が入っていなかった。

 温かな日の光が降り注いでいる。眠る喜一の顔が眩しくないよう、少し屈むようにしながら日陰を作ってあげている。復旧作業中の江戸も、ずいぶん建て直しが進んでいた。

 ずっと寝ていた僕は、起きた時に喜一が居なくて不安になった。眠っている間に、喜一の気持ちが揺らいでいたらと思うと、寝てなんていられない。

 軋む体を押して外へ出た。眩しい光を感じながら、一歩一歩、歩いた。



 喜一に会いたい。



 重たい足を動かして歩いていた僕は、一人茶屋へ戻ってきていた喜一の姿にホッとした。彼の方は驚いたらしく、僕の姿を確認すると駆け寄ってきてくれた。

 それから誰かが置いていた台の上で、一休みすると言った喜一のために膝を貸している。夜の見回りをしていた喜一は、少し揺すったくらいでは起きなかった。僕の膝の上で、安らいでいる。

 すぐに昨日の事を聞いてみたかったけれど、一人で見回っていた喜一の顔は疲れていたから。

 聞きたい気持ちは抑え込んでいる。今はこうして、僕に甘えてくれる彼を見守った。



 ねぇ、喜一様。



 僕のこと、愛してくれますか?



 ずっとずっと、一緒に居てくれますか?



 おでこに触ったり、髪を指に絡めてみたり、冷たい肌を確かめるように胸にも触れている。僕がどんなに触っても、喜一は起きなかった。

 休ませてあげたいような、早く起きて欲しいような、二人だけの時間が過ぎていく。

「……やだよ、こんな所で寝ちまったのかい?」

 喜一の寝顔を見つめていた僕は、ひょいっと突き出された綺麗な顔を見上げた。

「美祢様」

「起きてて大丈夫なのかい? 三郎」

「はい。紫藤様のおかげでずいぶん体が楽になりました」

 にこりと笑って答えた。喜一の髪を無意識にサラサラ撫でながら。

 僕と喜一を交互に見た美祢は、ポンッと頭を撫でてくる。

「……惚れてるね~」

 しみじみと呟く美祢に笑って頷いた。

「はい」

「あんたも良い顔になってきたよ。うん、こっちの方が可愛い」

 ポンポン、頭を叩かれる。にこにこしながら、何となく喜一の首筋に手を当て撫でてやった。穏やかに眠る顔は変わらない。冷たい肌を温めるように撫でてやる。

「これは参った。ほんに喜一か?」

 少し遠い所から声が掛かる。首にさらしを巻いた松田と、彼に従う小さな七乃助が歩いてくる。一歩近く顔を寄せた松田は、まじまじと眠っている喜一を見つめた。

「……首に手を当てても無反応とは」

「松田様?」

「ふむ。面白い物を見せてやろう。お主等、少し下がっておれ」

 美祢と七乃助を下がらせた松田は、徐に喜一の首に手を伸ばしてくる。

 もう少しで触れる、そう思った時、寝ていたはずの喜一の手が松田の手を掴み、甲を反らすように掴み上げている。

「つっ! これ、喜一!」

「……ん? 何だ、旦那ですかい。言ったでしょう、寝てる時に急所に触れるなって」

 欠伸をしながら手を離し、寝心地を確かめるように僕の膝で頭を移動させている。良い場所に乗ったのか、再び目を閉じて眠ってしまった。

 そろりと、首筋に手を当ててみる。喜一の手は、僕の手に重なるだけだった。

「……えへへ」

「そう、殊更嬉しそうに笑ってくれるな。焼くぞ」

 松田におでこをつつかれても、嬉しくて仕方がない。喜一の首を撫で回した。

「……まったく。見ておられぬな。行くぞ、七乃助」

「承知」

「じゃあね。あんたもゆっくり休むんだよ」

 三人に手を振られ、僕も会釈した。眠っている喜一の顔を見つめ、微笑んでしまう。じわじわと、胸が温かくなってきた。

 サラサラ滑る髪を手で滑らせ遊んでいた僕は、駆け寄ってくる二人の足音に顔を上げた。

「これ、待て松田! 話がある!」

 僕の前を通り過ぎた紫藤。白髪を靡かせ松田の所まで走っていく。

 一方、後ろから走っていた清次郎は、僕達に気付くと足を緩め、寝ている喜一に笑いながら僕に会釈してくれた。にこりと笑って見送った。

 五人になった背中を見つめながら、喜一の頬を撫でさする。

「将軍に呼ばれて来ておったのだ」

「将軍様に? 何故です」

「新しい霊媒師を育てて欲しいと頼まれてな」

 所々、話が漏れ聞こえる。どうやら紫藤は、将軍に呼ばれて江戸まで来たらしい。それで江戸に居たのか。

 五人は話し込み、今から会いに行くかと相談している。

 喜一も起こした方が良いのだろうか。

 でも、もう少しこうしていたい。

 屈み込むと、彼のおでこに僕のおでこを当てた。ひやりと冷たい。

「……まだ二日、我慢しなきゃならねぇさね」

「僕は構いませんよ」

「俺が紫藤の旦那に怒られる」

 クスクス笑った喜一に僕も笑った。彼がゆっくりと体を起こしている。そのまま背伸びをした。

「ふわ~良く寝たさね!」

 肩を解し、僕を振り返る。

「さて、ご主人様のために働きますか」

 台から飛び降りた喜一は、僕を横抱きに抱え上げている。綺麗な顔が近づいた。ニヤリと、少し垂れている瞳が笑っている。

「部屋までお送り致しやしょう」

「……ふふ、ご褒美は何が良いですか?」

「二日後の熱い床」

「では、特別甘い夜を……」

 スルリと冷たい首に両手を伸ばした。傾いてくる顔を見つめながら、重なった唇に胸が熱くなる。

 軽い口付けだった。

 それなのに、体が震えるほど温かい。

 首に回した両腕に力を込めた。

「……夢じゃ……ないんですよね」

 首にしがみ付く僕に笑っている。

「夢じゃねぇさ」

「……ずっと……ずっと……一緒に居てくれますか?」

 怖くて喜一の顔を見ることができなかった。彼の肩に顔を埋めてしまう。

「三郎ちゃん」

 低い声に呼ばれて、恐る恐る顔を上げた。しがみ付いていた首から手を離し、思い切って喜一の顔を見つめた。

 サラリと、彼の黒髪が風に揺れた。垂れている目が、微笑みながら僕を見つめている。

 頬が熱くなっていくのが分かった。胸の奥がギュッと締め付けられるほどに。

 初めて人に感じた、狂おしい感情。

 陰間に居た頃では考えられない、激しい感情に心が震える。

 男は皆、同じに見えた。僕の体を愛しはしても、心まで愛してくれた人はいない。

 僕もずっと、自分の体は道具だと割り切って生きてきた。特別な誰かを想う心を持っていては、生きていくには辛かったから。

 捨てた心が、喜一に出会って新しく芽生えている。

 大きく成長していく。

 止められないほどに。

「喜一様……」

 声が震えるほど、愛しくてたまらない。涙がこみ上げてくる。

「泣かないでおくれよ。三郎ちゃんは笑ってる方が好きさね」

 もう一度口付けてくれた喜一は、五人が話す場には加わらず、茶屋の方へと歩いていく。

 松田に、背を向けて歩いていく。

「……愛」

 囁かれた言葉に顔を上げた。僕のおでこを顎で撫でた喜一はやっぱり微笑んだままで。綺麗な顔を見せてくれている。

 面を外した、本当の喜一を。

「これが、愛って奴さね。ようやく見つけたさね」

「喜一様……」

「離さねぇ。だからそんな顔するな」

 吸い付かれたおでこに、涙が一滴零れてしまう。慌てて拭った僕に笑った喜一は、強い力で抱き込んでくれた。

 サラサラ、サラサラ、僕の顔に彼の黒髪が揺れている。一掴みした僕は、その髪に願うように口付けた。



 ずっと一緒に居られますように。



 黒髪はサラリと揺れながら、僕の指に絡んだ。





小巻九 完

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