妖艶幽玄絵巻

樹々

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妖艶幽玄小巻

8-2

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~*~



 二人きりで飲む酒は進んだ。すっかり暗くなり、明かりを灯した室内で、俺と兄はずっと飲み交わした。

 兄は始終笑顔だった。ずいぶん酔っているのか、時折フラフラと傾いている。俺もそろそろ、限界がきそうだ。

「兄上様。そろそろお止めになられた方が宜しゅうございます」

「まだまだ飲めるぞ~!」

「されど、菊様もお待ちでございましょう。さ、今宵はこの辺で」

 兄より先に潰れる訳にはいかない。その意思だけでなんとか踏み止まっている俺だ。兄を支える腕も、正直震えそうになっている。

 しっかりしなければ。頭を振って意識を保った。俺と造りの似ている兄の顔は、真っ赤だった。

「よし、風呂に入ろうぞ!」

「……はい?」

「行くぞ、清次郎~!」

 フラフラと、兄が立ち上がる。慌てて俺も立ち上がった。ぐらりと揺れそうになる頭をなんとか正面に向け、よたよた歩く兄の背を追う。廊下に控えていた家臣に、風呂に入るから準備しろ、と大声で命令した。

 いつか廊下から庭に転落するのでは、と俺も家臣も気が気ではなく、何度も支えようと腕が上下した。兄は気分良く歩いていく。

 土井家にも風呂はあった。身分の高い者の家にしか風呂はなく、紫藤の屋敷よりもやや広い風呂場に、恐縮しながら入っていく。

 兄は豪快に着物を脱ぎ捨てた。褌も外してしまい、準備されていたお湯を確かめに行っている。木枠で囲まれた風呂は、新しく作ったのだろう、広く立派なものだった。

 紫藤が居なくて良かった、苦笑しながら着物を脱いだ。褌を外した後、手拭いで前を隠しながらそっと入っていく。兄はすでに木の椅子に腰掛け、待っていた。

「昔の様に背中を流してくれ、清次郎」

「はい」

 手拭いは腰に巻いて、背を向けている兄に湯に浸したもう一枚の手拭いを当てた。力強く擦っていく。

 幼い頃、今よりも少し狭い風呂に、二人でよく入った。こうして兄の背中を一生懸命擦っていた。

「痒い所はありませぬか?」

「……ない」

 広い背中を擦っていく。首筋も丁寧に擦った。あまり力を入れすぎると肌が赤くなってしまう。気を付けながら擦った。

 仕上げにお湯をかけてやり、さっぱりさせた。

「さ、宜しいですよ。お湯に浸かられて下さい」

「……私も擦ってやろう」

「いえ、某は自分で……」

 洗うから、続けようとしたけれど。

 振り返った兄の顔が湯煙に隠れたからか。

 その顔が陰って見えたからか。

 言葉を飲み込んだ。

 ひたりと、俺の胸に兄の手が当てられた。確かめるように撫でられる。

 傷を。

 拷問によって残った、深い胸の傷跡を、兄の手がなぞっていった。

「……済まぬ」

 兄の声が震えている。見えないように、着物を着ている時はしっかりと合わせ、隠していた傷跡。酔いが回り、すっかり忘れていた。

「兄上様、どうかお気になさらずに……」

 もはや隠しようがない。酔っていた頭がスッと正気に戻っていくのが分かった。兄を支え、とにかく傷跡から視線を反らせようとしたけれど。

 兄の手が俺の両肩を掴んだ。強く握られる。

「済まなんだ……! 兄として、最も愛しんでいたお前を疑うなどと……! 最も信じなければならなかったお前を……私は信じてやれなんだ……!!」

「兄上様、どうか、どうか……」

 何とか宥めようとするけれど、酔いが回った兄は涙まで溢れさせた。俺の肩を握り締めたまま泣き続ける。

「何と愚かな……! 私は己が許せぬ……! どれほどお前を苦しめたのか……!」

 泣き崩れた兄を支えた。

 厳格な兄が、俺の前で全てをさらけ出して泣いている。

 俺が苦しんでいたように、兄もまた、苦しんだのか。今まで、一度もその様な素振りは見せなかったのに。手紙でも、元気にやっていると知らせていたのに。

「お前が死んだと思うた時、体中の力が抜けた……! 恐ろしゅうなった……! 弟はもう、この世には居ないのだと思うと……苦しゅうてたまらなんだ……!」

「兄上様……」

 吐き出すように話し続ける兄をそっと抱き締めた。震えている背中を撫でてやる。

 土井家の当主が、取り乱すことは許されない。

 産まれた時から当主になることが決まっていた兄は、その厳格な武家社会の中で生きてきた。滅多に涙を流すことはなかった。

 己の心は隠し、当主としての顔を持つ。

 その一方で、俺の前では砕けていた兄。本当の兄らしい姿を見せてくれていた。

 今、兄が素顔を見せることができる相手は居るのだろうか?

 思って、一人だけ浮かんだ。

 こうして酒を飲み続け、ようやく枷を外した兄の体を抱き締める。

「兄上様、某は生きておりまする。ご心配めされるな」

「清次郎……!」

「兄上様を想う気持ちは、些かも変わりませぬ。もう一度、清次郎を信じて下さいました。それだけで充分にございます」

「しかし……! 私がお前を信じ、もう一度調べさせていれば、お前がこの様な傷を作ることはなかった……! 私の手で……お前を傷付けた……!!」

 頭を抱え込んだ兄の手に、自分の手を重ねた。全ての枷を外した兄は、感情を表に出している。俺も自分の正直な気持ちを伝えた。

「つろうございました」

「……清次郎」

「ずっと、兄上様に恨まれたままでいるのは、死よりもつろうございました。一言、信じていると言うて下されば、土井家のため、死ぬ覚悟はできておりました」

 兄の手を握り締め、そっと頭から離させた。ユラユラと揺れる黒い瞳を見つめる。兄弟でありながら、目の色は違う俺達。

 この土井家で、兄の側だけが俺の居場所だった。

「何を恨みましょうや? 兄上様だけが、某を守って下さっていたではありませぬか。一時の間です。辛いと思うたのは」

 握った手に力を込める。

「今こうしてまた、家を出た某を弟として接して下さっているではありませぬか。この傷が塞がったように、兄弟の契りももう一度繋ぎとうございます」

「……清次郎! ほんにお前は……!」

 兄の腕に抱き締められていた。嗚咽が耳にかかる。

「済まなんだ……! ほんに済まなんだ! 愚かな兄を許してくれ……!」

「ずっとお慕いしております、兄上様」

 俺も抱き返した。こんな姿、紫藤が見たら鼻息荒く怒鳴られそうだと思うと、少し笑った。

「さ、お早く湯に浸かられて下され。風邪をひかれますよ」

 兄を促すように体を離したけれど。ぐったり寄りかかってくる。

 倒れないよう腕で支えながら顔を確認すると、泣いた跡を残したまま眠っていた。

「……兄上様」

 腕に掛かる重みを受け止め、涙に濡れた顔を引き寄せた手拭いで拭ってやった。それで下を隠してやる。冷えた体に熱いお湯を一度掛け、温めると控えている家臣を呼ぶため声を張り上げた。

「誰か! いらっしゃいませぬか!」

 すぐに家臣が駆けつける。酔っぱらって眠られてしまったことを告げた。

 俺も手伝い、兄の体を拭き上げると着物を着せた。真っ赤になっていたのは酒のせいだと、皆思ったようだ。幸い、赤い顔のおかげで泣いたとは思わないだろう。運ばれていく兄の姿を最後まで見送った。



 会いたくなった。



 無性に会いたくなった。



 後の事は家臣に任せ、俺も手早く体を洗って風呂を後にした。そのまま与えられている部屋まで廊下を急ぐ。

 紫藤が居るはずの部屋に、明かりは見えなかった。障子の前に跪き、声を掛ける。

「清次郎です。入ります」

 一声掛け、障子を開いた。俺以外の者には、ここは空き部屋の様にしか見えないはずだ。結界を通る、独特な感覚を覚えながら通り抜ける。

「おお、清次郎か」

「遅くなりました」

「なに、本を借りておったからの。暇潰しは慣れておる」

 障子を閉め、布団に俯せに寝っ転がる紫藤の側まで歩いた。蝋燭の明かりを頼りに読んでいた本を閉じている。

「どうであった? 久しぶりにゆっくり話したのであろう?」

「はい。紫藤様……」

 布団は二組敷かれていた。

 その内の、紫藤が寝ている布団を捲り、隣に滑り込む。

「清次郎?」

 戸惑う紫藤を転がすように仰向けにした俺は、濡れたように艶やかな唇に口付けた。深く入り込んでいく。

「ぁ……ぁふっ……ん……これ……せいじ……ろう! どうした……?」

 舌を絡め、紫藤の熱に体が火照る。そろりと白い寝装束の襟元に手を滑らせた。

「……愛しんでも……よろしゅうございましょうか」

「それはかまわ…………お、お主……! ここが大変ではないか! 兄と何をしておった!?」

 紫藤の手が俺の熱い所を掴んでいる。その手に俺の手も重ねた。

「風呂に入っておりました」

「……何と!! お主、兄と風呂場で戯れたのか!?」

 確認するように、俺の寝装束の胸元を必死に開いてくる。鼻息の荒い、紫藤の顔を見つめながら、白髪を撫でるように手で触れた。

「兄上は……泣いておられました」

「…………泣くほど攻め立てたのか!? お主……お主は兄を……!?」

 可愛い勘違いに微笑んでしまう。はだけてしまった胸元に、紫藤が顔を寄せては情の名残を探そうとしている。

「紫藤様。俺と兄上は兄弟ですぞ。間違いなどありませぬ。ただ、風呂に入っただけです」

 冷静に言えば、紫藤の目が俺を見つめてくる。軽く頷いてやった。

「……何だ。それをはよう言わぬか。口から心の臓が飛び出すところであったぞ」

 ほうっと安堵の息をつく紫藤を見つめ、胸の奥がじんっとする。

「信じて……下さるのですね」

「清次郎の言葉だからな。しかし何故、その様に腫らして……」

「……紫藤様!」

 愛しい唇を塞いだ。寝装束を脱がせるのももどかしく、裾を開くと褌に手を掛けた。相変わらず緩く締められた褌を外してしまう。

 急いで自分の褌も外した。腫れていたそれが出てくる。紫藤のモノと触れ合うと、彼が少し震えた。

「ん……うん! はぁ……せ、清次郎? どうした?」

「愛しとうございます……」

「構わぬが……ぁあ!」

 舐めた指を紫藤の中に入れた。いきなり二本はきついだろうか。宥めるように唇や頬に口付けながら、はだけた胸元にも顔を寄せた。

 白い肌に栄える胸の突起を唇に含み、柔らかく噛んでやる。舌で吸い上げ、刺激を与えると、後ろが緩んできた。

「……何ぞ……あったか?」

 紫藤が受け入れやすいように足を開いていく。三本目を入れて解しながら、紫藤に覆い被さるように片腕を顔の横に付いた。汗ばんだ額に口付ける。

「……兄上は……俺を信じられなかったことを酷く後悔されておりました」

「……そうであろうな」

「土井家から逃げ続け、もう駄目だと思うた時に……」

 囁くように話していた俺は、指を引き抜いた。紫藤の足を抱え上げ、広げると繋がった。

「……ん……!」

 まだ、少し狭かったか。無理に入れず、紫藤の呼吸が整うまで待った。力を抜いた紫藤が、もっとこいと合図を送ってくる。体に寄り添うように繋がった。

「……酒を飲んでいるせいか……いつもより熱いの……」

「大事ありませぬか?」

「ああ……お主の熱は……いつも心地良い」

 紫藤から口付けてくれる。ゆるりと動きながら、熱を与え合った。

「……それで、どうした?」

 熱い中を探りながら、紫藤の白髪を撫でていた俺に微笑んでいる。ユラユラ揺れる蝋燭の光に、紫藤の顔も揺れて見えた。

「……もう、駄目だと思うた時に……紫藤様に出会いました」

「あの晩か……」

「はい……迎えが来たと、思うたのです」

 紫藤の細く白い指が俺の頬に当てられた。ツーっとなぞるように滑っていく。

「皮肉なものだ……」

 俺の唇も、指でなぞっていく。顔の形を確かめるように、両手が添えられた。

「お主の兄が、お主を信じ、側に置いていれば、私と出会うことは無かったであろう」

「俺も、そのことを考えておりました」

 緩んだ寝装束がはだけていく。白い肌が蝋燭の光に浮かび上がっている。

 腰を引き寄せ、深く繋がりながら首筋に口付けた。音を立てて吸う俺に笑っている。

「こうして愛しんでもらうことも、無かったということか……」

「はい……兄上に信じてもらえなかった事はとてもつろうございましたが、紫藤様という、心より愛しく想えるお方に出会えました」

 胸に顔を埋めながら愛撫を繰り返す。次第に息が乱れていく紫藤の熱を感じながら、腰を強く抱き、深く突いていく。

「お主が……磔にされておった姿は……はぁっ! ぁっ……ん……今でも……忘れられぬが……!」

 紫藤の両腕が俺の首に回された。彼が感じる場所を何度も突く俺にしがみ付いている。

 中は酷く熱かった。寝装束が汗で濡れていく。

 もっと、紫藤を感じたくて口付けた。すぐに応えてくれる彼を心から愛しいと思う。


『信じるぞ、清次郎』


 今でも心に染みついて残っている。


『私はいつでもお主の味方だ。お主から言葉を聞いた以上、私に迷いは無い』


 俺が一番欲しい言葉を、紫藤はくれた。

 兄から拷問を受け、心も体も、疲れ果てていた。いっそこのまま意識を手放し、死にたいとも思った。

 けれど、死にかけた意識が紫藤と繋がり、彼がくれた強い言葉が、最後の力をくれた。

 兄から欲しかった言葉は、紫藤から与えられた。



 信じる。



 その一言があれば、俺は生きていける。

「ん……ぅん……ぁ……清次郎」

「紫藤様……愛しております」

「……ぅん」

「愛しゅうございます、紫藤様」

 グッと腰を引き付けると中で達した。遅れた紫藤も俺の腹に放っている。ギュッとしがみ付かれ、その温かさに目頭が熱くなった。

 俺もまだ、酔っているらしい。

 紫藤の体を強く抱き締めた。

「……今宵は感傷に浸っておるの、清次郎……」

 紫藤の手が俺の頭を撫でている。肩に埋めていた顔を少し上げた。

「もうしわけ……」

「謝るでない。たまには甘えよ」

 肩に引き戻される。ホッとしながら、紫藤の中から出ると腰を抱き締めた。手拭いを引き寄せると、中に放ってしまったものを掻き出してしまう。紫藤は紫藤で、俺の腹に放ったモノを綺麗に拭き取ってくれた。

「……甘えよ、清次郎」

 下の方に丸まっていた掛け布団を引き寄せた紫藤は、ポンポンと俺の背中をあやすように叩いた。

 小さく笑いながら、紫藤の首筋辺りに顔を埋めながら目を瞑った。

 紫藤の手は、俺の髪をくしゃっと撫でていた。



***



 翌朝、日が高く昇る前に発たねばならなかった俺達は、朝の食事だけ兄の世話になった。

 兄はもう、いつもの兄の顔をしていた。酒の名残もない。隣に菊を従え、門まで見送りに出てきてくれた。

「また、いつでも遊びに来い、清次郎」

「はい」

 兄の顔を見つめていた俺は、彼の視線が紫藤へ移っていくのを見守った。

「紫藤様」

「何だ?」

「清次郎を頼みます」

 兄が頭を下げている。菊も共に、紫藤へ頭を下げた。

「弟をどうか」

「無論だ。案ずるな」

 ふんぞり返って応えた紫藤は、パシッと兄の肩を叩いた。

「お主も妻と子を守ってやれ」

「はい」

 強く頷く兄を見つめ、微笑んでしまう。

 二人のやりとりを見守っていた俺は、そろそろ発たなければ、日が暮れる前に宿に着けないと紫藤を促した。

「さ、紫藤様」

「うむ」

「兄上様、菊様、お元気で」

 深く頭を下げた俺は、兄達に別れを告げた。

 人気の無い場所まで歩き、そこで紫藤に鳥になってもらって宿場町まで向かう事になっている。明日には屋敷まで戻っておきたいところだ。

 見守る視線を感じながら歩いた。そっと振り返れば、兄と菊はまだ、門から見つめてくれている。

 両手に握り拳を作った。振り返り、声を張り上げる。

「菊様!!」

 紫藤が驚いたように目を丸めている。なおも声を張り上げた。

「兄上様を宜しくお願い致します!!」

 丁寧に頭を下げた俺に、菊も応えるように下げてくれた。

 それを見て心から安堵した。兄が心を許せる相手はちゃんと側に居る。

 顔を上げた俺は、兄と菊を一度見つめると、少し先に歩いていた紫藤に追いついた。

「なに、また会いに行けば良い。いつでも連れてきてやるぞ」

「はい」

 紫藤の隣に並びながら笑った。紫藤も笑っている。

 二人でのんびりと歩いた。



***



 宿場町で一泊し、屋敷に戻れたのは夕刻だった。一度麓の村に寄って、帰って来ている事は告げた。屋敷には常に結界が張っているため、俺達が居るのか居ないのか、分からないためだった。

 村に入ると、いつも目が行ってしまう。俺が魂だけの存在になって、弱っていた時にずっと、守ってくれた紅葉のご神木。

 俺を守るために力を使い果たした紅葉の木は枯れてしまった。

 その枯れた木の根元から、小さな木が一本、生えてきた。紫藤が言うには、その小さな木から、強い力を感じるらしい。成長も早く、スクスクと伸びている。

 ご神木が残した木だろうと、村人は大事に育てている。枯れてしまった所はなるべく切り落とし、小さな木の成長を促している。

 この木が再び村を守ってくれたらと、願わずにはいられない。ある程度成長したら、紫藤が力を与えることになっている。

 紫藤が村人と話し終えた後、俺も小さな木から離れた。彼と一緒に屋敷に戻るため、山道に入る。

 屋敷に戻る頃には、すっかり日は暮れてしまった。暗い中、部屋に入ると蝋燭に火を点けた。室内がぼうっと浮かび上がる。四隅に置くと、ようやく紫藤の顔がはっきり見えた。

「何かお作りしましょう」

「そうだの。簡単で良い」

「はい」

 立ち上がり、台所へ急いだ。火を起こし、米を取り出すと準備に掛かる。作り置きは無いので、とにかくご飯を焚いた。味噌汁も作る。後は漬け物を切って出そう。お腹を満たすことが先だ。

 明日はたっぷり、色々と食べてもらう、そう計画しながら炊けたご飯をよそい、味噌汁も注ぐと、盆に乗せて運んだ。足早に歩いていた俺は、廊下に座っている紫藤を見つけた。

「……ふむ。そうか。難儀よの。暫しゆっくりして行くが良い」

 霊と話しているのだろう。時折頷いている。足音を消すと、ゆっくり近付いた。

「ん? ああ、あれは私の清次郎だ。一緒に住んでおる。普段は見えぬでな。私が力を与えた時だけ見える」

 紹介されているようだった。盆を置き、紫藤が見ていた方角を見てみる。誰が居るのだろう?

 悪鬼によって、ここに居た霊達は全て連れて行かれてしまった。馴染み深い顔は、もう居ない。紫藤の話によれば、悪鬼を滅したことで、捕らわれていた霊達は全て成仏しているだろう、ということだった。

 霊は一つのことに執着して、この世に残ってしまっている。その未練を無理矢理断ち切られた霊達は、成仏するしかないのだと言う。

 屋敷に戻ってきた時、ここには一人の霊も居なかった。少し寂しそうな顔をした紫藤を慰めながら過ごしていたけれど。

 一人、彷徨う霊が屋敷に迷い込んできた。幼子だった。

 二人目もやってきた。少し、年輩の女性だった。

 一人、また一人と、増えてきた。

 ここは以前のように、彷徨う霊達の憩いの場になっている。

「紫藤様、俺もお会いしとうございます」

「……ならぬ」

「……どうしてです?」

「これ、娘。清次郎は私の清次郎ぞ! その様にくっつくでない!」

 どうやら、俺のどこかに憑いているらしい。生憎、紫藤に力を貰わない限り見えない。何処に居るのだろうと、首を巡らせた時だった。

「これ、清次郎! 娘と口付けなどと……!」

 叫んだ紫藤が飛び込んでくる。ドサリと廊下に押し倒されていた。

「し、紫藤様?」

「娘! 清次郎は渡さぬぞ!」

 しっかりと胸に抱き留められてしまった。何が何だか分からない。顔に掛かる白髪に首を傾げた。

「……ふむ、分かれば良い。そうだぞ! 私と清次郎は相思相愛なのだ!」

 どうやら新しく迷い込んだ霊は娘らしい。紫藤の目が遠くを見たので、離れたようだ。

「紫藤様、もう、宜しいでしょうか」

「うむ。危うく唇を奪われるところであったぞ!」

「左様で」

 霊に触れることは出来ない、ということはすっかり忘れているようだが。話しは合わせておいた。

 二人で起き上がり、冷めない内に飯を食ってしまう。ご飯だけは二杯、食べさせておいた。味噌汁を飲み干す紫藤をしっかり見守り、俺も食べ終えた。

 お腹が満腹になった後、今から水を溜めるのは時間が掛かるため、お湯を沸かして体を拭くことにした。結界を張った部屋に入り、まずは紫藤の体を拭いていく。髪を持ってもらいながら、綺麗に拭き上げた。

 次に自分も拭いてしまおうと、着物を脱ぎ捨て、ふと思い出した。隠していた傷跡を見た時の兄の顔。

 傷を付けたのは兄で。これは、信じてくれなかった兄の名残。

 けれど。



 紫藤との絆を深めた傷跡でもある。



 兄を恨む心など、何処にも無い。



「どうした?」

 手を休めた俺を心配そうに見つめている。寝装束を身に纏っている紫藤に、何でもないと首を横へ振った。

「さ、体が冷えぬうちにお休み下さいませ」

「お主もな」

「はい」

 手早く体を拭いて、寝装束に着替えると紫藤の隣に寝転んだ。すぐに腕が絡んでくる。俺も腰を抱き締めた。

 温かな体だ。無条件で俺を信じてくれる人。

 だからこそ、俺もこの人のためなら何でもできる。

「お休みなさいませ、紫藤様」

「うむ」

 額に軽く口付けた。満足そうに笑った紫藤は、俺の胸元に顔を寄せると目を閉じた。意識を沈み込ませているのが分かる。フッと力を抜いた体を抱き締めた。

 心地良い寝息を聞いているうちに、俺もまた、深い眠りへと入った。

 その眠りは、とてもとても、安らかだった。





小巻八 完

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