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遊戯ノ巻
遊戯ノ一②
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幾度求めただろう。
離れてしまった主を思い、手を伸ばしても、伸ばしても、届かない。
兄は俺を切り捨てた。
仕えるべき主を失った俺を拾った、新しい主の紫藤蘭丸。彼に迷惑を掛けてはならないと、自ら裁かれるために兄のもとへ戻ったというのに。
心はずっと、紫藤を求めていた。
紫藤の側に戻りたいと、求めていた。
打ち付けられた痛みに耐え、生き抜いたのも、彼の言葉があったからだ。
生きて待て。
主がそう、命じてくれた。
その言葉を頼りに、死にかけた体で生き抜いた。
迎えに来てくれた主紫藤と共に、彼の屋敷に戻った俺は、心から安堵した。
俺にはまだ、仕えるべき主が居る。
紫藤が居てくれる。
思うと体が妙に重たくなっていった。疲れが溜まったのかもしれない。振り切るように家事をこなし、以前と同じように紫藤に仕えていたけれど。
重たくて仕方がなくなった。
もう、終わったというのに、どうしてこんなに息苦しい?
紫藤の姿が見えないと、胸が苦しくてたまらなくなった。
日が落ちるとますます、苦しくなる。
家臣の身で、彼に甘えてはいけないのに。
息苦しさに耐えられず、とうとう体が崩れ落ちていた。
あれからどうなったのだろう。
重たい瞼を開いた。気を失ってから、俺はどうしたのだろう? 天井をぼんやり見ていると、綺麗な顔をした主の紫藤が視界に入ってくる。
「……清次郎?」
「紫藤様……?」
「おお、意識が戻ったようだな! 良かった! あの薬はよう、効くの!」
ホッとしたように笑った彼は、俺の額に置いていた手拭いを取り、水に浸して冷たくすると戻してくれる。
障子を見れば、うっすらと明るい。室内に灯されていた蝋燭は、ずいぶん短くなっている。
ということは、夜に向かっているのではなく、朝を迎えたといういことだ。
「申し訳ありませぬ。気絶するなど……」
「こ、これ! 起きるでない! 凄い熱だったのだぞ!」
「しかし……」
「良いから寝ておけ! 起きることは許さぬぞ!」
俺を押し戻した紫藤は、室内を見渡すように視線を流している。
「皆も心配しておったぞ」
「……霊がいらっしゃるのですか?」
「うむ。私一人では何をしたら良いのか分からぬでな。協力してもらった」
俺の頬を一撫でした紫藤を見上げ、見えない霊を見上げた。この屋敷にはあらゆる霊が集まってきているけれど、床の間には入れないはずなのに。
俺を看病するため、入れたのか。だるい頭でぼんやり考える。
紫藤が看病の仕方など知っているはずもなく、着替えさせられた寝装束を着せることも難しいと容易に想像できた。
「紫藤様、ほんにありがとうございました。皆にも礼を述べたいです……力を下さいませぬか?」
「良いぞ。これ、子供は向こうを向いておれ」
子供の霊も居るのか。覆い被さってきた紫藤の唇を受け止め、絡まる舌に目を閉じる。じわりと入り込んでくる力が体を満たしていくのを感じる。
少し多めに入れてもらった俺は、彼が体を起こすと驚いた。
一言、二言、話したことのある霊がたくさん、部屋に浮いている。皆一様に俺を見ていた。
「……主を助けて頂いたそうで。ありがとうございました」
【兄ちゃん、大丈夫?】
「ああ、大丈夫だよ。すぐに下がる」
【あまり無理しなさんな。もう二、三日、寝てたって死にはしないさ。熱からくる風邪は注意が必要だよ】
「ほんに大丈夫ですよ」
声を掛けてくれる霊達に微笑みながら、立ち上がった紫藤を見上げる。
「良いか、清次郎。すぐだ、ほんにすぐ戻ってくる故、起きたまま待っておれよ? 粥を温めてくるでな。さすがに固くなってしもうた」
「粥まで作って頂いていたのですか。申し訳ありませぬ」
「よいな? すぐだからな? 皆、清次郎の話し相手になってやってくれ」
紫藤は何度もすぐに戻ると言った。枕元にあった盆を持ち、足早に出ていく。その後ろ姿を見送りながら、少し首を傾げた。
そんな俺の側に、子供の霊が降りてくる。まだ十に満たない男の子が、寄り添うように枕元に座った。
【兄ちゃん、動いちゃ駄目だよ?】
「動く?」
寝ているのに、動くとは。それほど寝相が悪かったのだろうか。
ますます首を傾げた俺に、小五郎が苦笑しながら教えてくれた。
【意識が朦朧としていたせいであろうな、紫藤殿を探して動き回ってな。少しの間縛っていたせいで、ほれ、跡が残っておろう?】
言われて自分の腕を見てみれば。赤い擦り傷がある。かなり強い力で引っ張ったようだ。
ぼうっとした頭で記憶を探る。そう言えば、夢うつつで紫藤の名を呼んでいたような気がする。
呼んでも、呼んでも、紫藤が居なくて。不安でたまらなくなった。彼の側に居なければ、俺はまた、主を失ってしまうのではないかと思って。
がむしゃらに探していると、温かい手が触れてくれた。大丈夫だ、ここに居る、と何度も背中をさすってくれた。
俺はまだ、侍で居られる。
抱き締めた温もりに、すがっていた。
「……そのようなことが」
【その体に受けた傷は、心も病んでおる。この際だ、紫藤殿に甘えても良かろう】
「しかし、主に甘えるなど……」
【紫藤殿はそれを求めておいでだ。お主が独り苦しんでおるのを見ているのは我らでも辛い。紫藤殿にはなおさらだ】
「田上様……」
戦国を生きた武将は、俺に諭すように話してくれた。
主に甘える。
今までの俺には、考えたことのないことだった。兄である孝明も、俺を側には置いても、甘えさせてくれる存在ではなかった。
いや、一度だけ。
子供の頃、同じ様に高熱を出してしまった時、あの時は確か……。
「清次郎! 清次郎! 起きておるか! 戻ったぞ!」
【紫藤様、その様に走られてはまた滑りますよ!】
「分かっておる! だが…………おおぅ!?」
ガシャッと何かが落ちた音がする。気怠い体を起こし、部屋から顔を突き出せば、紫藤が尻餅をついていた。中に憑かせた霊と話している。その足下には、茶碗からこぼれたお粥が散乱していた。
【だから言わんこっちゃないんですよ】
「す、済まぬ……」
【もう一度運びますよ。廊下も拭いておかなければ】
中に女性の霊を憑かせたのだろう、紫藤はしずしずと廊下を戻っていく。その後ろ姿を見送りながら、大人しく布団に戻った。
皆に見守られながら待っていると、今度はしずしずと歩いて戻ってきた紫藤が照れたように笑いながら側に座った。
「零してしもうた。食っておれ、拭いてくるでな」
「俺がします故」
「馬鹿者! 今日一日くらい、ゆっくり休め! 廊下を拭いたら、私も食うでな」
【清次郎様はそれを食べて、薬を飲んで下さいね】
「忝ない」
紫藤を操った霊は、またしずしずと歩いていく。言われた通りに温められたばかりのお粥を手にした俺は、ゆっくり冷ましながら口に運んだ。
良い塩加減だ。今度、彼女に料理を習いたい。看病してくれたお礼に、美味い物を作ってやりたかった。
時折、咳き込みながら、熱いお粥を口に運ぶ。程なくして戻ってきた紫藤は、体から霊を出しながら側に座った。減っていた茶碗の中身に安堵している。
「食欲があるのなら、大丈夫なのだな?」
【ええ。それほど咳も出ていませんし、やはり心の方が疲れておいでなのでしょう】
「清次郎。今日はとことん、甘えるのだぞ? 後で膝枕をしてやるでな!」
自分もお粥を食べ始めた紫藤。先に終わった茶碗を置きながら、そんな彼を見つめた。
甘えても良い。
幼い頃、たった一度だけ言われた事がある。
父でもなく、母でもなく、それを言ってくれたのは。
「……清次郎? どうした? 熱かったか!?」
食べる手を止めた紫藤が、慌てて俺を胸に抱いた。ポンポンと背中を叩いてくれる。
溢れ出た涙が、彼の着物に吸い込まれていく。
「……少し、思い出しただけにございます」
「何をだ?」
彼の肩に額を乗せながら、細い腰を抱いた。
遠い記憶が溢れてくる。
十歳だったあの日も、俺は高熱を出し、寝込んでいた。
母は父に連れられ、屋敷を離れていた晩のことだ。義母が看てくれるはずはなく、屋敷で働いていた者達は廊下でヒソヒソと話していたのを覚えている。
このまま死んでくれたら、跡継ぎの心労は無くなるのに、と。
誰も看てくれる人は居なかった。額は燃えるように熱く、体中が痛かった。布団が酷く重たく感じ、それ以上に孤独に押し潰されそうで。
そんな俺のもとへたった一人、来てくれた人が居た。
お手伝いの者達が引き留める手を振り切り、寝込んでいた俺の側に、兄孝明が来てくれた。誰も看病していなかったのを酷く怒り、兄自らが額に冷たい手拭いを置いてくれた。
その時だ。
生涯、この人に付いて行こうと誓ったのは。
『甘えてよいぞ、清次郎。母は違えど、お前は私の弟だ。苦しい時は頼って良い』
その晩、兄は寝ずに看病してくれた。噴き出す汗を拭い、泣いてしまった俺を宥め、側に居てくれた。
俺の体に流れる血は、異国の血。
その現実を受け止め、体を鍛えた。自分の力で生き抜けるように、兄の役に立てるように。
俺に家督は要らない。兄が望む事を叶えるため、兄の役に立つため。
生きてきた。
「……清次郎?」
遠慮がちに頭を撫でられる。昔の思い出に涙するなど、心が折れている証拠だ。
こんな事ではいけない。
俺を信じ、側に置いてくれた紫藤のために、強くならなければ。
「……何でもありませぬ。すぐに止まります」
「お主は我慢しすぎる! 侍とて人だ! 吐き出さねばならぬこともあろう」
導く様に膝に乗せられる。頭を乗せると、また、髪を撫でてくれた。これではいつもと逆だ。
「のう、清次郎」
俺の髪をさわさわと撫でながら、紫藤が少し言葉を詰まらせる。目元を擦って涙を拭うと見上げた。俺を見下ろした紫藤は、ゴクッと一度、唾を飲み込んで口を開いた。
「ここを、お主の帰る家と思うてはくれまいか?」
「……家……でございますか?」
「そうだ。私と、お主と、霊達の帰る場所だ。故に、貧乏侍という肩書きは捨てよ。お主はもう、私の物だ。誰にも否は言わせぬ。紫藤蘭丸の、忠実な侍清次郎だ」
屈み込んだ紫藤に口付けられる。受け止めながら、まじまじと主を見上げた。
「……紫藤蘭丸様の……侍清次郎」
「そうだ」
強く頷いた紫藤を見上げ、胸の奥に詰まっていた何かが落ちていった気がした。
彼には家名がある訳ではない。幕府のお抱え霊媒師であり、侍ではないけれど。
兄とは叶えられなかった、侍としての俺の血を、欲してくれるのか。
この命を捧げ、一生を仕える主として。
ここが、俺の帰る家。
じわりと胸の奥が熱くなり、知らず知らずに笑っていた。
「……俺は厳しいですぞ? 飯は必ず食って頂きます」
「そこが難点だがの。一日くらい食わずとも死なぬと言うのに」
「なりませぬ。紫藤様には逞しくなって頂きます」
「……やれやれだ」
苦笑した紫藤が俺の頭を膝から降ろし、布団に戻した。そのまま自分も一緒になって寝転んでいる。腕を伸ばして手拭いを桶に浸した彼は、絞って俺の額に乗せた。
「今日は一日、ごろごろするぞ」
「紫藤様はいつもごろごろされております」
「お主も一緒にごろごろする日だ。良いな?」
「……承知」
乗せられた冷たい手拭いを気持ちよく感じながら、抱き寄せられた細い腕に素直に従った。霊達が笑いながら床の間から出ていく。最後に残った小五郎が、俺を優しい眼差しで見つめながら浮かんでいく。
【屋敷は我らが見張っておこう】
「忝うございます」
【侍の休日だ。よう、休まれよ】
「……はい」
全ての霊が出ていくと、床の間は静かになった。
ついでに紫藤も静かになっている。
俺を胸に抱いたまま、すやすやと眠ってしまった。慣れない看病をして疲れたのだろう。温くなった手拭いを自分で桶に浸すと絞って額に置いた。
紫藤を布団の中に引き下ろし、肩まで被せてやった。俺の腰を掴んで離さない彼を見つめていると、苦しくてたまらなかった体が、ずいぶん楽になった。
帰る家が、ある。
ここが、俺の帰る場所。
侍清次郎が、生きる場所だ。
いつか、もう少し時を置いて兄に会いに行こう。兄弟の契りは無くなってしまったけれど、友として、会いに行こう。
彼が掛けてくれた愛情は、偽物ではなかったはずだから。
ただ、俺よりも、奈津を愛した心が上回ってしまっただけのこと。俺を失ってでも、奈津を想っただけのことだ。
それを止めることはできなかった。
「……紫藤様……」
眠る主の長い白髪を撫でた。
「この命、お預け致しまする」
誓いの口付けを、眠る紫藤の唇に落とした。
心なしか微笑んだように笑った紫藤は、応えるように俺の背中を抱いていた。
遊戯ノ一 完
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