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第二巻
巻ノ八『侍の休息』
しおりを挟む正座をしたまま、軽く両手を広げた。左右に重ねて置いた札の上に手を翳す。
私の手に、札が吸い込まれていく。掌から吸い込まれた札は、私の中で、私の力を溜め込むだろう。いざという時のために、常に体内に常備していなければ。
以前、山頂に掬った悪霊に力を封じられた時も、一枚でも札を残していれば何とかなったはずだ。
「……やはりどこかに一枚、隠しておくかの」
札を吸い込み終えた私は、前に垂れた白髪を指で弾きながら腕を組む。
あまり清次郎に頼ってばかりもいられない。私の力を与え続けた後、どういう変化が出るのか、正直なところ分からないから。
霊が見える程度であれば、問題はない。
だが、霊の姿を捕らえ、声が聞こえるまで力を注いでしまうと、彼の体に変化が起こるようだ。
私の力を宿した刀と共鳴するという。
刀が打ち震え、私が襲われているのを知らせたという。
そしてまさか、あれほどの大きさの悪霊を斬ってしまうとは。
このまま続け、清次郎の身に何かが起こってからでは遅い。なるべく、私の力だけで片付けていかなければ。これまで通りに。
清次郎には、側に居てもらうだけで良い。
こうして札を体に入れていても彼は、まるで芸のようですな、といって笑うだけであった。何とも懐の深い男である。
「ふむ……他に何ぞ良い手はないものか……」
考え続けていた私は、ハッとして顔を上げた。障子の向こうから流れてくる冷気に負けず、開け放つ。
「……はっ! ふっ!」
「……ぉぉおおぅ……!!」
思わず障子にしがみ付く。腰が砕けそうになりながら見守った。
庭に降りた清次郎が刀を抜き、稽古をしている姿を熱い瞳で見守った。着物の袖を抜き、上半身は露わにしている。吐く息が白く濁っているというのに、彼は真剣な眼差しで刀を振り続ける。
広げられた足。
腰を落とし、目の前の敵を斬るように刀を滑らせる。
青い瞳は何を見ているのだろう。きりりと太い眉が上がっている。
引き締まった上半身は、僅かに汗を噴き出している。
ずいぶん伸びた黒髪を掻き上げた瞬間、私はとうとう崩れ落ちていた。廊下に俯せてしまう。
「…………紫藤様? 紫藤様! どうなされたのです!」
「だ、大事ない……! つ、続けよ!」
「そうはいきませぬ! どこぞお悪いので?」
駆け寄った清次郎が抱き起こしてくれた。仄かに香る汗の匂いに目眩がしてしまう。張りのある胸元に、手を震わせながら触れた。呆れた溜息が頭に降りかかる。
「……はぁ~。また悪い癖が出たのですな。男の裸なんぞにいちいち倒れないで下さい! 心の臓に悪い」
「お主は格別なのだ! 仕方がないではないか!」
「毎夜共に眠っておりましょうに。見飽きるくらいではございませぬか」
「見飽きることなど無いぞ!」
ピンッと張りのある胸に触れていた私は、その手の甲を抓られた。
「もう少し稽古をしておきたいので、間違っても鼻血なんぞ出さないで下さいませ」
「う、煩い! で、出てくるものは仕方がないのだ!」
「ならば見なければ宜しいのです。さ、風邪を引く前に部屋へお戻り下さい」
「嫌だ! ここで見ておる!」
「紫藤様……」
障子にしがみ付いた私に呆れた溜息を零した清次郎は、履いていた草履を一度脱ぎ、部屋の中へと入っていく。すぐに戻ってきた彼の手には、買ったばかりの綿の詰まった羽織が握られていた。それを私の肩に掛けてくれる。
「体が震え始めたら、すぐに戻って下さいね」
「うむ……!」
再び庭に降りた清次郎は、すぐに集中した。巨大な悪霊と対峙して以来、彼はよくこうやって、刀を振っている。それが私を守るためだと自惚れても、罰は当たらないだろう。
温かい羽織に袖を通し、清次郎を見守った。青い瞳は、見えない敵を見据えて、鋭く輝いていた。
***
もうそろそろ、雪が降る頃だ。清次郎のおかげで村人と仲良くなれたため、冬支度は思いの外早く終わっている。できるだけ野菜を保管し、水を溜め込む瓶も増やしている。餅米も仕入れてくれた。
湯に入ってもすぐに冷え込んでしまうこの時期。長い白髪を丁寧に拭いてくれた清次郎は、私の肩に羽織を掛けると頭を下げている。
「では、俺も湯を頂戴してきます」
「うむ」
部屋を出ていった清次郎を見送りながら、腕を組んだ。
清次郎はやはり真面目だ。いくら私が主とはいえ、体も繋げ、心も繋げた今、遠慮などいらないというのに。相変わらず一定の距離を保ち、私を立て続ける。
それが侍の気質なのだと彼は言っていたけれど。もっと砕けた、力を抜いた清次郎が見たい。
たとえば、こんな風に冷え込んだ夜は、ずっと身を寄せ合って語らうとか。
彼の方が我慢できずに飛び込んでくるとか。
一緒に風呂に入るとか。
やってみたいのに。彼は肩の力を抜かない。
「さて、行くかの」
気合いを入れ、立ち上がる。羽織の腰紐をしっかり縛り、部屋を出る。冷たい廊下を足早に歩き、外へ出た。
「……さ、寒い……!!」
顔が凍りそうだ。霜が降りるかもしれない冷え込みよう。
だが、ここで挫けるわけにはいかない。身を縮めながら庭を小走りに駆けていく。
そして用意していた木箱を悴んだ手で掴み、温かそうな湯気を噴き出している格子に近付いた。そっと木箱をその下に置き、格子から中を覗く。
白い湯煙が邪魔だ。これでははっきり見えない。
もどかしく思いながら、背伸びをしてみたり、斜めに見てみたりするけれど、なかなか中の様子は見えなかった。
舌打ちしたくなるのを堪え、格子にしがみ付く。すると外から中へ風が吹き込んだせいか、中の様子が少し見えた。
木製の椅子に腰掛け、ホッと息をついている清次郎が居る。
その顔は緩み、青い瞳が穏やかに笑っている。
一糸纏わぬ姿のまま力を抜いていた清次郎は、滴を落とす黒髪を両手で掻き上げた。濡れている髪は彼の凛々しい顔を隠すことなく頭に留まっている。
湯船に入るため、清次郎が立ち上がった。ふと、私の方を見上げている。
目が合った。
青い瞳がじっと私を見つめている。
「…………紫藤様」
額に手を当てた彼は、深い深い溜息をついた。
「男が男の風呂場なんぞ覗かないで下さい。何が楽しいのかさっぱり分かりませぬ」
「お、お主が……お主が……!」
「俺が?」
そっと大事な部分は隠した清次郎。寒かったのか、湯船に浸かっている。するとまた風向きが変わり、白い湯煙に清次郎の姿が見えなくなった。
仕方が無く、木箱から飛び降りる。
「ゆっくりするが良い。慌てて上がらずとも良いぞ!」
「……紫藤様?」
「良いな!」
一声掛けて、木箱を抱えると部屋に戻った。冷えてしまった体をさすりながら囲炉裏に手を翳す。カタカタ震えた体は、それでも幸せだった。寒さに負けず、確かめに行って良かった。
ちゃんと、息抜きをしているようで安心した。私の世話ばかりしている清次郎は、いつか疲れて倒れるのではないかと心配していた。少しくらい放っておいても平気だと言っているのに、彼は細かに世話を焼く。特に飯に関しては。
風呂場ではのんびりしていたようで良かった。ついでに色気のある姿も見られたことだし、今夜は大収穫だ。
冷たくなった髪も火に近づけていた私は、程なくして上がってきた清次郎の足音を聞いた。髪を拭きながら戻ってきた清次郎は、すぐに私の頬に手を当てた。
「……こんなに冷えて。本当に風邪を引きますよ」
「すまなんだ。もう、せぬから許せ」
「まったく……こんな体の何にそれほど興味をお持ちなのか……」
「全てだ」
清次郎という存在全てが、私を救ってくれる。
外見も中身も、全てが。
「お主の事は何でも知っておきたい故な。ますます色気が出てきたようでなによりだ!」
「紫藤様に比べれば、俺などただの男にございます。侍がお好きなら、江戸に行けばそれこそ腐るほど見られましょうに」
「馬鹿者。侍ではなく、お主が良いのだ! 何故わからぬ!」
振り返り、抱き付こうとした私は、豪快なくしゃみを一つしてしまった。ぶるっと体が震えてしまう。我が身をかき寄せた私に、彼は今日、何度目になるのか、深い溜息をついている。
「だから風邪を引くと申し上げたのです。こんなに冷えてしまっては、湯に入った意味がありませぬ」
「……もう、良いではないか。ぶつくさ煩いぞ」
羽織から袖を抜き、温まっている清次郎に抱き付いた。背中は囲炉裏に、前は清次郎に温めてもらう。腰に腕を巻き付けた私を、彼は離さずに居てくれた。私に抱き付かれたまま、髪を拭き上げている。
片膝をついたままでは足が痛かろうと、もう少し押して尻を着かせた。足を開くように座った彼の間に入り込む。彼の両足が、私を捕まえるように巻き付いた。
そっと見上げれば、彼も見下ろしていて。困ったように笑っている。
「ほんに冷たくなっておいでだ」
私の白髪を手に取り、撫でている。私も彼の黒髪に両手を差し込んだ。風呂場で見たように、彼の髪を両手で掻き上げる。目元が鋭くなり、男前が一段と増した。
「お主、髪を上げても凛々しいの」
「若い頃は結っておったのですが……」
「頭部は剃るなよ! 断じて許さぬ! 結っておる間は凛々しいが、降ろすと切なくなるぞ」
「世の侍に失礼な物言いですな」
苦笑した清次郎は、両腕で私を抱いてくれた。羽織の中に腕を通し、直接熱をくれる。
「もう、覗きなんぞしないで下さいませ。さすがに面食らいました」
「お主は何故、私の裸を覗かぬのだ?」
「覗いて何になるのです?」
「……お主は世の男の敵だの」
この私の裸にこれほど興味の無い男が居ようとは。村の男達でさえ、時々、顔を赤らめてしまうほど、私という存在は魅力的だと言うのに。
だからこそ惹かれるのだろうか。
彼は私の体ではなく、私という人間を想ってくれているから。
「まったく……面白い男だ、清次郎」
「紫藤様ほどではありませぬ」
笑って返され、抱き上げられた。そのまま結界が張られた床の間に運ばれる。この中だけは、霊も入って来られない。
敷かれた布団には、陶器でできた湯たんぽが入れられおり、程良く温めてくれていた。
「もう少し、片づけが残っておりますので。お先に寝て下さい」
「はよう来るのだぞ?」
「承知しております」
掛け布団をしっかり被せられた私は、一礼して出ていく清次郎を見送った。
布団の中に潜り込み、冷えた体を丸める。冷え切った足先は、なかなか温まらなかった。
早く清次郎が来れば良いのに。そうすれば彼の体温で温まることができる。
うつらうつらと夢の世界に入り始めた私は、清次郎が戻ってきた時にはすっかり眠ってしまっていた。
ずっと寒かった体がじわじわと温められたのは、彼のおかげなのだと知るのは翌朝の事だった。
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