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第二巻
巻ノ一『目覚めの朝』
しおりを挟む我が身に重みが掛かっている。
息苦しさを覚えつつも、その温かさにほんの少しだけ、安らぎを覚えている自分も居る。
「……ぅん……せいじ……ろう」
耳元に囁くような声。
次いで感じる、腹を撫でていく薄い手の感触。
フッと、意識が覚醒し、目が覚める。
体は正確に、目覚めの時間を刻んでいる。
「……またか」
溜息と共に、自分にしがみ付くように眠っている紫藤蘭丸を見つめた。
寝装束はいつも、半分以上はだけてしまっている。胸元は開かれ、その中に紫藤の細い腕が巻き付くように回されていて。
これはまだ良い方だ。締めていたはずの褌が外れていた時は、何をされていたのかと思うと不安でならないが。きっと彼も覚えていないはず。寝ぼけて触っているようであるから。
肩に埋まる主の顔をそっと見つめた俺は、何となく笑って彼の長い白髪を撫でてやった。
「……おはようございます、紫藤様」
深い夢の中に居る主にそう、囁きながら、傷一つ無い額に軽い口付けを贈る。これが俺にできる、精一杯の戯れだった。
起こさないように彼の腕を外し、体がはみ出さないよう布団の中に戻してやる。木々はずいぶん色づいた。もう、そこまで冬の気配が迫ってきている。
彼が寝ている間に寝装束を脱ぎ捨て、着物へと着替えてしまう。褌を締め直し、気合いを入れると障子を開けて外へ出た。
日の出が遅くなろうとも、体に刻まれた時間の感覚は忘れないものだ。顔を洗いに行く。
この山では井戸が掘れず、近くを流れる川から直接水を引いていた。それを水飲み場に溜め、溢れ出ないよう再び川へと戻す。竹を半分に切って繋げただけの、簡単な作りのため、雨が降ると水が濁ってしまう。
晴れた日にできるけ水瓶へと溜めておくのだが。俺が来る前はそんな手間の掛かることを紫藤がするわけもなく、濁った水を飲んでいたらしい。
ある意味、体が丈夫なのかもしれない。俺が食事を作るようになってからは、日に日に肌艶が良くなっている。
あまり良くなっても困るのだが……。
考えそうになって頭を振った。桶に水を掬い、冷たい水で顔を洗って、今日一日の気合いを入れる。
今日の水は綺麗だ。これなら上手い飯が炊ける。水を汲み、何度か往復して水瓶に溜めた後、早速、朝食作りに取りかかる。
その頃になってようやく、山の東の方から太陽の光が差し込み始めた。
良い天気になりそうだ。
紫藤にひなたぼっこをさせてやろう。
考えると、自然と口元が緩んでしまう俺だった。
***
朝食の準備を整えた俺は、再び床の間へと戻った。手には人肌ほどの温度に温めたお湯の入った桶を持って。
「紫藤様。朝ですよ。起きて下さい」
「……嫌だ」
朝が苦手な紫藤は、いつものように丸まっている。布団にしがみ付き、出て来ようとしない。
毎朝のこと。
「紫藤様。三日後の床を止めてもよろしゅうございますか?」
言えば跳ね起きる。
これもいつものこと。
「お、お主はいつもいつも卑怯ぞ! 七日に一度と決められただけでも、私にとっては地獄と言うに……! それを更に伸ばすと言うか!?」
「おはようございます。さ、顔を洗って下さい。食事の準備も終えております」
喚く主に構わず、桶を差し出した。布団の上ですれば濡れてしまうため、紙を敷いた上で洗わせる。水が冷たいからと、頑なに顔を洗おうとしない紫藤のために考えた譲歩策だ。
「……ちっ。いつかお主から求めてみせようぞ……!」
「左様にございますか。さ、お早く」
「……お主には適わぬ」
諦めように溜息をついた紫藤の背後に回り、長い髪を束ねて持ってやった。顔を洗う間、髪が垂れないよう注意しながら、洗い終わった主に手拭いを差し出す。
大人しく顔を洗った紫藤が立ち上がるのに合わせて、彼の着物をさっと手に取った。寝装束を脱ぎ捨て、両手を広げる彼の腕に着物を通していく。後ろから前を合わせ、帯紐を結ぶ間だけ、自分で抑えてもらう。
微妙に整えながら、帯紐を細い腰に回して結んだ。
「さ、どうぞ」
「うむ」
長い髪はもつれた事は無く、解かずともサラサラしていた。何とも不思議な髪だった。
食事をするのは床の間から二つ隣の部屋にしている。囲炉裏があり、温かいからだ。すでに火を起こしていたので、充分に温まっている。それでも寒がりな紫藤は、いつも丸まるようにして座っている。
「今日、天気も良いようですし、村に冬支度をしに参ってきます」
「……冬支度?」
「ええ。この屋敷を掻き回しましたが、よくもまあ、今まで冬を乗り切っておいでだ。何もありませぬ」
「……何が必要なのだ?」
胡座をかいて座る紫藤は、心底不思議そうに顔を傾けた。
「まずは布団。夏布団ではさすがに寒いでしょう。もっと分厚い布団があります」
「……ほう」
いまいち分かっていないようだ。一年を通して同じ布団を使っていたと言うのだから、本当にこの人はどうやって生活してきたのかと思ってしまう。
「綿を詰め込んだ羽織をご存じでしょうか?」
「知らぬ」
「でしょうな。一枚あればずいぶん違います。後はそうですな、今の内に薪を集めておきたいですし、炭も足りませぬ。雪を掻き出す道具も必要でしょう。運んでもらおうにも、道が塞がれば来れますまい」
「……確かにな。そういえばどうして行商人が来ないのかと待っておったものだが」
「来ないのではなく、来れぬのです。気温が下がれば野菜も腐りにくくなります故、なるべく買い溜めておきましょう」
「お主に任せる」
面倒そうに右手を振った紫藤は、気が進まない様子でご飯を箸で摘んだ。溜息をつきながら口に運んでいる。
「……のう、清次郎」
「なりませぬ」
「まだ何も言ってはおらぬぞ!」
「朝の飯は一日の全てを決めます。さ、無理でも食って下さい」
「……はぁ。朝のお主は口煩くて適わぬ」
ツンツンとご飯をつつく紫藤。今日はまた、やけに渋っている。
自分の茶碗を置いた俺は、そっと主の額に手を当てた。熱ではないらしい。
「どこぞ気分でもお悪いので?」
「あまり食いたくない……」
「では、作り直しましょう。粥に致しますので、しばしお待ちを」
「……要らぬ。すまんが、本当に食えそうにない」
長い睫が伏せられる。もじもじと指を合わせている紫藤は、チラチラと俺を見上げている。怒りはしないかと心配しているようだ。
「せめて味噌汁だけでも飲めませぬか?」
「……それくらいなら」
「吐きそうであれば止めても構いませぬ。少しだけでも飲んで下さい」
「……うむ」
味噌汁腕を掴んだ紫藤は、眉間に皺を寄せながら半分ほど飲んで置いた。それ以上は本当に、無理なようだ。
お茶を差しだし、水分だけでも取らせるよう努めた。確かにどことなく、元気が無いようだ。
「もう少し休まれますか?」
「……いや。私も村に行く」
「……え? しかし……」
「何ぞ胸騒ぎがするでな。行きたくはないが……世話にはなっておる」
渋い顔をする主に、首を傾げながらも頷いた。
食器を片づけ、洗い物を済ませる間、紫藤は縁側に座って着物の袖に腕を通し、空を見上げていた。朝の風は冷たくなっている。中で休んでいた方が良いのでは、と声を掛けたけれど。曖昧に頷いて、動こうとはしなかった。
洗濯物まで済ませたところで、紫藤に金を出してもらい、俺は抜け道の方から先に下に降りておこうと思った。だが、彼は俺の着物の袖を掴んで離さず、一緒に降りると言い張る。
「下でお待ちしておりますので」
「……嫌だ」
「紫藤様。今日は少し変にございます。何かあるようであれば、教えて下さいませ」
「……のう、清次郎」
俯く紫藤の顔は、良く見えなかった。
「はい?」
主であるけれど、握られていない方の腕で彼の背中を抱いた。肩に顔を乗せた紫藤は、俺の背中を痛いほど抱き締めてくる。
「私が……愛しいか?」
「紫藤様……?」
「のう、愛しいと……言うてくれ……」
しがみ付かれ、抱き返す。
「愛しくない者に、尽くそうなどと思いませぬ。どうなさったのです。何ぞありましたか?」
「……何でもない!」
顔を上げた紫藤は、素早く俺の唇を覆った。不意をつかれ、瞬きする事しかできなかった。
「お主が居ればそれで良い! 他には要らぬ!」
「……紫藤様?」
「さ、行くぞ。さっさと片付ける」
俺用の抜け道へと分け入る紫藤を追って、その腕を掴み上げる。真正面から見つめた。
「隠し事はお止め下さい」
「何でもない」
「ならば俺に、力を下さい」
「……そんなに私の熱い口付けが欲しいか! この初奴め!」
「誤魔化されませぬ!」
肩を掴んで顔を寄せた。視線を合わすまいと、紫藤の目が右へ左へ動く。
「何ぞ見えておいでですな? 麓の村に」
「……な、何も見えてなどおらぬ」
「気分が悪くなるほど、何か起きておいでなのでしょう?」
「……お主は気に病まずとも良い。私一人で終わらせる」
「何故です」
問えば口ごもる。腰を抱き締め、無理矢理口付けた。
「せ、せいじ……ぅん」
舌を触れ合わせ、吸い上げる。
「力を……」
「な、ならぬ……!」
「強情なお方だ……!」
唇を離した俺は、彼の顔を掴んだ。逸らされる視線を追っていく。
「今、ここで力を下さらぬなら、今後一切、抱きませぬ!!」
「……な、何だと!?」
焦った目が俺を捕らえた。その目を見つめ返し、触れるだけの口付けを落とす。額にも、瞼にも、滑らかな頬にも。
「せ、清次郎……」
「同じ世界を見とうございます。俺などでは足手まといにしかなりませぬが……せめてお側に置いて下さい」
また、主一人が危険な目に遭うのは耐えられない。側に居れば壁にはなれる。彼を守る壁に。
「お願い致します」
見つめ続けた俺に、とうとう彼が折れた。
「まったく。強情なのはお主の方だ」
「では」
「私にも、あれが何であるのか、まだ分からぬ。ここ数日、嫌な空気が漂っておるとは感じておったが……」
手を離した俺を真似るように、彼が俺の頬を包み込むように手で触れた。合わさった唇から、熱い舌が滑り込む。
互いに触れ合わせ、じわりと胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼の力が、俺の中へと入ってくる。
しつこく口付けられた俺は、やっと解放してくれた紫藤に苦笑した。
「また、体が熱くなりますな」
「求めたのはお主ぞ」
目元を赤くした彼を見つめながら、きっと俺の目元も熱くなっているだろうな、と疼く体を気持ちで抑え込む。
彼が何を隠そうとしていたのか、それを見るため顔を上げた。
「……これは」
社へと続く道まで走り出る。麓の村まで続く道のその先が、黒い霧のような物で覆われていた。
「昨晩まではなかった。霊とは違う。行ってみらねば、私にも分からぬ」
「……承知」
「清次郎。刀を手放すでないぞ」
「はっ!」
知らず握った刀の感触を確かめる。紫藤から貰った刀は、俺を守るように光り輝いた。
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