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第一巻
巻ノ三『獣の戯れ』
しおりを挟む人の足音が廊下に響く。
何年振りになるだろう。
家の中に、私以外の生きた人間が居るのは。
ドタバタと聞こえる足音は、私の部屋の前になると少しだけ小さくなる。清次郎が気を遣って緩やかに歩いているためだった。
抜けた腰もなんとか戻った私は、そっと布団を抜け出した。殴られた顔の腫れもずいぶん引いている。障子を開けて廊下に出れば、少し欠けた月が夜空を彩っていた。
清次郎を見つけた晩は、もう少し丸かったと思う。月光が照らす中、彼の瞳は本当に美しかった。
袖に手を通し、見上げていた私のもとへ清次郎が来ていると、教えてくれる。
「何か言っていたか?」
問えば何も、と笑われた。
そうかと応え、手を振って向こうへ行くよう促す。
私にしか見えないモノが、空を飛んで舞っていった。
入れ替わるように清次郎が歩いてくる。
「夕飯の支度が整いました」
「そうか」
「明かりを灯せば良いものを」
「月明かりも良いものだぞ」
二人分の食事を運んだ清次郎は、風呂の準備もできたと膳を置いた。何かの汁に漬け込まれた野菜と、味噌汁、そしてご飯だけの質素な物だが、湯気が出ていることじたい、私には珍しい。
「そば粉がありましたので、明日は蕎麦を打ってみましょう」
「打てるのか?」
「職人のようにはいきませぬが。食うために色々とやってきましたからな」
「ほう、その若さで苦労しておるの」
見たことのない汁に漬け込まれた野菜を頬張ってみた。甘辛く、何と表現すれば良いのかわからない。
「何だ、これは」
「ほうれん草のお浸しです。栄養がありますので、しっかり食って下さい。紫藤様は少し痩せていらっしゃるようですので」
「この細さが魅力なのだろうが。太ってどうする」
とはいえ、面白い味に箸は進んだ。胡座をかいて座る私を困ったように笑いながら見た清次郎は、きっちりと正座をしている。
「足は崩して良いぞ。主と言うても、堅苦しいのはすかぬ」
「しかし……」
「足が見えた方が良い。その引き締まった足をさっさと見せろ」
「……そう言うことをおっしゃらなければ、俺も素直に座れるのですが……」
「良いから崩せ。これは命令だ」
「……時々、子供のようになりますな」
仕方なく足を崩した清次郎。やはり良い筋肉を付けている。
私の視線に溜息をついた彼は、ご飯を勢い良く掻き込み始める。何度見ても豪快だ。時折頬に付く米粒は、どこをどう飛んでいるのだろうか。把握しているのか、一粒摘んでは口に入れている。
「……ほんに可愛いな。お前は」
「またそのような……」
「出て行くな、清次郎」
摘んだ温かいご飯を口に運びながら、切り出した。箸を止めた彼がこちらを見ている。空になった茶碗を受け取り、山盛りに注いでやった。
「人が居るというのも、良いものだ。気まぐれでお主を拾ってみたが。これほど愛しくなるとは思わなんだ」
「……ずっとお一人で?」
「この風貌故な。町中に屋敷を構えた事もあるが、夜這いが酷い。町中に結界を張る訳にもいかぬ故、社共々、山の中に移した」
「けっかい? また珍妙な事をおっしゃられる」
「お主、霊を信じるか」
清次郎の頬に付いていた米粒を、彼に取られる前に摘んだ。自分の口の中に放り込んだ私を呆れたように見ている。
「霊、ですか」
「そうだ。私は霊が見える。見えるだけでなく、払う事も味方にすることもできる」
「なるほど。それで先刻、急にお強くなられたのですな」
納得したように頷き、味噌汁を飲み干している。
「……信じるのか?」
「嘘なのですか?」
「いや、真の事だが……大抵、一度は疑うものだぞ」
「あなたが嘘を得意としているようには見えませぬ故。それに、自分の目で確かめたばかりですから」
だんだん遠慮の無くなった清次郎は、今では三杯目を軽くたいらげる。せめて二杯は食うように、と私の茶碗にも注ぐので、結構大変だった。
「やはり、お主は良い。清次郎! 生涯、私の側に居ろ!」
「さて、そういう事はおなごにおっしゃって下さい」
「おなごよりお主の方が可愛いぞ!」
「目が腐っておいでだ」
飛び掛かろうとするより早く、胸ぐらを掴まれる。引き込まれ、膝に導かれた。
「……今のところ、出ていく予定はございませぬ。飯がたらふく食える間は、ご厄介になります」
「清次郎……」
「お聞かせ願いますか? 把握しておりませんと、あなた様を守れませぬ」
「……膝枕をしてくれたら、話そう」
「まあ、それくらいなら宜しいでしょう」
まさか本当にしてくれるとは思わなかった。足を伸ばした清次郎が、庭先に足を下ろして私を呼んでいる。月光が照らす中、いそいそと彼の硬い膝に頭を乗せた。
「少し、痣になっておいでだ。きちんと冷やしましたか?」
「構わぬ。どうせ暫く人は来ぬ」
「そのけっかいとやらのせいですか?」
「うむ。人を遮断するものだ。建物の周りに貼っておる。行商人が来る時だけ剥がして入れるのだが……それを知っておったのだろうな。あのような下衆に触れられるとは」
「そのひょういとやらで、お強くなられたのでしょう?」
何だか清次郎が優しい。うとうとと閉じかける瞼を必死に開きながら頷いた。
「いつでも捕まる訳ではない。その辺を漂っておる侍の霊を私の体に入らせ、生前の能力を擬似的に引き出すものなのだがな。その際、記憶も流れ込んでくる故、気持ちが悪くなる事が多い」
「……左様で。ならば、あまり使わぬ方が宜しいですな」
「うむ。清次郎が居てくれるのなら、使わずとも済もう……お主は美しく可愛く、そして強い……」
すうっと眠りに誘い込まれる。清次郎が頭を撫でてくれているからだろうか。
長い私の白髪を無骨な指で撫でてくれる。
「おや、眠たいのですか?」
「うむ……」
「このような所で寝ては体を壊します。風呂に入ってからゆっくり休まれて下さい」
「清次郎……」
少し丸まりながら彼の着物を握り締めた。
「そのままのお主で居てくれよ……」
「紫藤様?」
「特異な目で私を見るな……私とて……人だ……」
「紫藤様……」
「人でありたいのだ……」
閉じた瞼は開かなかった。
撫でてくれていた手が止まる。
生まれながらに白髪の赤ん坊であった私は、幼少期から霊の類が見えていた。時折勝手に憑依され、訳が分からぬままに人を傷付けていた事もあった。
今でこそ、自由に力を操れるようにはなったけれど。
人の住む場所に戻る事ができなかった。
清次郎とて、ここに居れば危ないかもしれない。少しだけ置いたら手放そうと、当初は考えていたが。
彼の手が、思いの外気持ち良い。
彼の声が、私を温める。
彼の目は、真っ直ぐに私を見つめてくれる。
私も人なのだと、教えてくれる。
「ここに居てくれ、清次郎」
「……夜這いは無しですよ?」
「……………………うむ」
「長い間ですね。夜這いをしたら即、出て行かせて頂きますからね」
ポンッと私の頭を叩いた清次郎は、首の後ろに腕を通して抱き上げてくれる。
「さて、風呂に入りますか」
「一緒にか?」
「別々にございます。俺は残り湯で構いませぬ」
「共に入れば温かいではないか」
「なりませぬ」
私の背を押した清次郎。押されながら一つだけ確認した。
「怖くは無いのか?」
「何がでございましょう?」
「私も、霊も」
「お馬鹿なお人と、見えないモノを怖がる事はできませぬ故」
「そうか……待て。主を掴まえてお馬鹿とは何だ!」
怒鳴る私に、微笑みながら青い瞳が向けられる。
「放っておけませぬ」
「……清次郎」
「金が溜まったら出ていこうかと思っておりましたが。寂しそうな白い犬に甘えられては、出て行けませぬ」
一目見て、惹かれた青い瞳。
月下に輝く彼の瞳は、恐れもせずに私を見つめている。
「……たまらんぞ、清次郎……!」
「おっと、抱き付かれては困ります」
両手を上げた清次郎は、私の両手をすり抜ける。背後に回り、再び背を押して風呂場へ押されていく。
身長はそれほど差が無いのに、体格で負けている分、私が不利だ。じたばたもがいても、簡単に抑えられてしまった。
「清次郎! ほんの少しくらい主の望みを叶えようという気は無いのか!」
「生憎、俺の仕事は家事でございます。こうして忠実に、こなしておりましょう」
風呂場まで押し切られた私は、温度を調節するからと外へ回った清次郎に歯がみした。
いつかきっと、二人で沈みたい。
そしてあの、真っ直ぐな目を間近に見ながら、人の温度を感じたかった。
「……諦めぬからな!」
着物を脱ぎ捨てた私は、木製の浴槽に張られたお湯にずぶずぶ浸かっていく。近くの川から水を引っ張ってきているとは言え、桶でこれだけの水を溜めてくれたのかと思うと、柄にもなく感謝してしまった。
今までは面倒で、手拭いでさっと体を洗っていただけだったから。ここまで使えるようにしてくれた彼に胸が熱くなる。
「……清次郎!」
壁の向こうに居る彼に呼び掛ける。
「何でございましょう? 少々、熱うございましたか?」
「良い湯だ! ……その、何だ……」
パシャンと湯を弾けさせた私は、格子から顔を覗かせた彼に背を向けた。
「……忝ない!」
「……いいえ。熱かったらおっしゃって下さい」
「うむ」
クスクス笑っている声を聞きながら、真っ赤になった顔をお湯で濡らした。
人が居るのも、良いものだ。
生きている者と話せるのは、良いものだ。
パシャパシャと顔を洗った私は、早々に湯を出た。冷めてしまう前に彼を呼んであげたくて。
急いで上がったというのに。
「体を洗っておりませぬな? そこに手拭いを置いております故、しっかり清めて下さい」
「……ちっ」
「せっかくの美人が台無しです。舌打ちはお控え下さいますよう」
まるで見えているかのように指示を出される。
仕方なく、手拭いを手にした私は、彼に言われた通りに体を洗った。
面倒なのに、それがなんともこそばゆく、楽しいものに思えてしまった私は、知らず鼻歌を歌っていた。
聞こえたのか、クスクスと笑っている清次郎の声がしていた。
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