妖艶幽玄奇譚

樹々

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第一幕

奇ノ五十二『カケラ』

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 見上げている天井は、少し低かった。

 重たい布団を被っている俺は、知らない、小柄な侍に見つめられている。

『そう……泣くでない』

 俺なのに、俺とは違う声だった。

 低く、渋い声をしている。

『……どうしても、紫藤殿に見て頂くわけにはまいりませぬか?』

 髷を結っている小柄な侍は泣いていた。小さな手で何度も頬を擦っている。

 その頬に、俺は触れていた。

 俺とは違う、大きな手をして。

『俺は二度……紫藤殿から愛しい者を引き離してしまった。三度目はならぬ』

『されど……!』

『のう、七乃助』

 大きな手で、七乃助と呼んだ侍の頬を撫でた俺は、濡れた手に笑った。

『お前と共に生きられて、まこと楽しかった』

『……これで最後のような言い方はなさいますな!』

『ほんに楽しかった』

 俺の胸に、この小柄な侍への想いが溢れてくる。

 愛しい気持ちと。

 離れてしまう寂しさと。



 たまらない幸福感。



 俺はこの上なく満足していた。

 泣いている、小柄な侍が側に居てくれることに。

『俺は……病で逝ったことにしておけ』

『……空を見上げるなと……何度も……何度も……!!』

『お前が思っているように、恐らく俺は憑かれておる。このまま……連れて逝こう』

 俺は泣いている侍を引き寄せた。首にしがみ付いている小柄な侍は震えている。

『泣かないでおくれ……お七ちゃん』

『松田……殿……!』

『もう……意識が持ちそうにない……』

『松田殿……!』

 小柄な侍が顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになっている顔がたまらなく愛しいと感じている。

 どうしてだろう、知らない侍なのに。

 彼の涙が俺の頬に流れていくのを感じると笑ってしまう。

『侍に……戻れ……お七ちゃん』

『しっかりなされ、松田殿!』

『……そうだな……もし……来世とやらがあるのなら……』

『……松田殿!?』

『もう一度……お前と……』

『…………まつ……どの……!』

 声が遠ざかっていった。

 閉じた瞼は重たくて。

 小柄な侍の声が聞こえなくなった代わりに、誰か別の声を聞いた気がした。

 その声に、俺はどうしても逆らえなくて。

 とても強い何かに惹かれた。



 *……誰だ?



 俺を呼ぶのは。

 俺を求めているのは。



 *……今、そちらに行こう。



 俺は声のする方へ向かって歩いた。



~*~



「……ほら、起きなさい、達也。七海も。朝だぞ」

 揺すられている体。

 ぼんやりしながら瞼を開けたら、青い目をした清次郎の顔が飛び込んでくる。

「おはよう、達也」

「……清兄?」

「七海も、起きてくれ」

 瞼を開けた俺の隣では、まん丸になっている七海が寝ている。その肩を揺すっている清次郎を寝ぼけ眼で見つめた。

 見つめて、あれ、と思いながら起き上がる。重たい瞼を何度も擦って頭を覚ましていく。

「おはよ~清兄……あふっ……いつ帰ってきたんだ~」

「昨晩、遅くにな。紫藤様も戻られているぞ」

「…………すっげー格好で寝てっけど大丈夫か?」

「……いつの間に。紫藤様、お顔がくるしゅうなりますぞ」

 七海を起こすのは俺に託し、うつ伏せのまま丸めた布団に顔を埋めて眠っている紫藤を起こしにいっている。

 広がっている白髪を気にしながら、横向きに丸まっている七海を揺り起こす。

「七海、起きろ。朝だぞ」

「……ぅん」

「起きろ――」

「…………ぅん」

 返事はするけれど、起きる気配はない。無意識に頷いている七海を抱き起こし、ゆさゆさ揺すった。

「起きねぇとまた擽るぞ。すっげー擽るぞ?」

「………………やだ」

「じゃ、起きろ」

 弱々しく首を振った七海は、観念したように瞼を開けた。フラフラしながら目を擦っている。

「おはよう、七海」

「……おはよう……たつや……くん」

「しゃきっとしろって」

 頬を摘んで引き伸ばした。それでも瞼がくっつきそうになっている。よほど眠たいのか俺の手を引き離す余裕もないようだ。

 あんまり強く摘んではいけないので、代わりに両手で包み込んでやる。そのまま軽く押して揉んでやった。

「今日もすっげー遊ぶんだからな! 早く飯食おうぜ!」

「……ぅん……そうだね」

 遊ぶ、という単語に七海の脳が活発化した。ようやくしっかり瞼が開く。俺の手に自分の手を重ね笑っている。

「ドライブだよね?」

「おう! 展望台っていうくらいだからさ、景色すげーと良いな」

「うん!」

 ポンッと七海の頭を叩いた俺は、顔を洗いに行こうと立ち上がりかけたけれど。

 廊下から聞こえるドスドスという足音に浮かしかけた腰を戻した。スパンと開いた障子に身構える。清次郎もまた、抱き起こした紫藤を反射的に庇うように背に回した。

「朝飯は七時つっただろうが! 冷める!」

 腰にはエプロン、右手にフライ返しを持った來夢が怒鳴っている。ジャージ姿の來夢は、フライ返しを俺達に突き付けた。

「五分以内に来い!」

 言うだけいうとまたスパンと障子を閉めてドスドス歩いて行った。

 俺の背中に隠れた七海がそっと出てくる。

「……怖い人なのかな……良い人なのかな」

「両方じゃね?」

 俺の言葉に清次郎が笑った。

「世話好きなお人だと聞いている。さ、紫藤様。達也と七海も起きましたぞ」

 清次郎の腕の中で朦朧としている紫藤の瞼が開く。俺と七海をぼうっと見つめた紫藤は、頷くとまた瞼を閉じてしまった。グラリと傾いている。

「仕方がない。このままお連れしよう」

「まだ寝てた方が良いんじゃね?」

「お前達の側に居たいであろうからな。悪霊退治の間もずっと、気に掛けておられたのだぞ」

 軽々と紫藤を横抱きにした清次郎は先に立って歩いていく。俺と七海も追い掛けた。

「お前達は顔を洗っておいで。ついでにタオルを濡らして持ってきてくれ」

「オッケー。行こうぜ、七海」

「うん」

 走る俺を追いかけてくる七海と一緒に洗面台に行った。ここは現代の造りになっているようで、ちゃんと温かいお湯も出る。増築したのか、改築したのか、古風な民家の中で浮いている。

 急いで顔を洗って、言われた通り濡れたタオルも持って清次郎達が待つ居間に走った。五分以内に行かないとまた怒鳴られそうで。

 走り込んだ俺と七海に、今度はオタマを突き付けた來夢が怒鳴った。

 結局、間に合っても遅れても、怒鳴られた。

「さっさと座れ!」

「んだよも~、いちいち怒鳴んなよな~」

 ビクッと背筋の伸びた七海を庇いながら座布団の上に座った。畳の部屋には横長のちゃぶ台が置かれている。そこに並べられた朝食に、怒鳴られたことは忘れて腹が鳴る。

「すげー、あんた、やるな」

 アツアツの炊きたてのご飯、湯気の出ている味噌汁。

 焼いた鮭に、玉子焼き、ノリまで置いてある。

 急須にお湯を注いだ來夢は、最後にお茶を並べてくれた。

「弟子がやってんのかと思ったぜ」

「弟子なんていねぇよ。あいつら皆、バイトだからな」

「…………は?」

 お茶を配った來夢は、どさりと腰を落としてエプロンを外している。

「俺みてーな若造の弟子になりたいなんておめでたい奴は、あいつぐらいのもんだぜ」

「あいつって…………何でもないです」

 武藤高志のことなのかと、聞きそうになった七海は慌てて俺の背中に隠れている。引っ張られているティシャツを感じながら、静かにドキドキしてしまう。

 心ばかり胸を張った俺は、七海が聞きたかったことを代わりに聞いた。

「あの武藤高志って奴? 弟子だったのか?」

「…………朝から不愉快極まりない名前を出すんじゃねぇよ」

 心底毛嫌いしているのか、声が低くなる。俺の前に置いてあった鮭に手を伸ばし、脅された。

「飯没収すんぞ」

「悪かった! もう言わねぇから」

「……良いだろう。おう、そっちの姉ちゃんみたいな奴もさっさと起きろ。冷めっぞ」

 未だに清次郎の腕の中で眠っている紫藤を姉ちゃん呼ばわりした來夢は、行儀が悪いと怒りはしなかった。

 疲れている様子が、見てとれたからだろう。もともと色白の紫藤の頬は、もっと白くなっているように見える。ひたひたと、清次郎が頬を打っても起きない。

「紫藤様。朝食は召し上がって頂きたいのですが」

 静かな寝息をたてる紫藤は、子供のように熟睡している。

 考え深げに見つめた清次郎は、紫藤の耳元へ唇を寄せた。何か、囁いている。

「……何だと!?」

「おはようございます、紫藤様」

 跳ね起きた紫藤に、にこやかに笑った清次郎は、サッとお茶を差し出している。何度も瞬きを繰り返した紫藤は、清次郎の胸に飛び込んだ。

「茶などどうでも良い! さあ、はよう!」

「朝食を召し上がってからです。さ、せっかく作って頂いたのです。頂きましょう」

「清次郎……!」

「さ、どうぞ」

 何を囁いたのだろう。白かった紫藤の頬に赤味が差している。不思議そうに首を傾げた七海に俺も囁いた。

「何かエッチなこと言ったんだぜ、きっと」

「そうかな?」

「そうだって」

 紫藤が興奮している。澄ました顔をしている清次郎は、朝食が先だと譲らなかった。

 ブツブツ何か文句を言いながらも、紫藤は眠らなかった。チラリチラリと、隣の清次郎を見ては興奮している。

 何を言ったのだろう。気になって仕方がない俺は、パンッと響いた手の音に驚いた。

「食うぞ! 頂きます!」

 横長いちゃぶ台の端に陣取った來夢の掛け声に、俺達も自然に従った。箸を手にし、できたての朝食を頬張っていく。

 見た目を裏切る面倒見の良い來夢の手料理は美味かった。鮭の塩加減も絶妙だ。もりもり食べる俺と七海の前では、まだ紫藤がブツブツ言っている。

「お主はようもそう、普通の顔ができるものよの」

「何のことやら」

「……己……今宵はお主の方から求めさせてやるでな!」

「左様ですか」

 サラリとかわした清次郎は、ブツブツ言うばかりで箸の進まない紫藤の口に、ご飯や鮭を詰め込んでいる。もぐもぐ食べてはブツブツ言う紫藤に笑ってしまう。

「蘭兄と清兄ってさ、離れたことってあんの?」

 ズズッと味噌汁をすすりながら聞いてみた。

 朝見た妙な夢が少し気になって。夢の中の俺は、紫藤と清次郎を二度、引き離してしまったようだが。そんなことがありえるのだろうか。

「夢の中でさ、二人が別れた事があるみたいな感じだったんだ。俺もなんか俺じゃないみたいな俺でさ。ちっせー侍なんかも居てさ。妙にリアルだったんだよな~」

 泣いていた小柄な侍の涙に触れた感触も覚えている。夢だと分かっているのに、そこが現実のような気がしていた。

「松田って侍になっててさ。七乃助って侍に看取られながら死んだんだ。つか、夢で死ぬって何か変な感じだよな~」

 現実のような気がしても、夢は夢。

 俺は侍ではないし、小柄な侍の顔は見た事もない。

 軽い気持ちで聞いただけなのに、二人は同時に固まった。

「……俺、変なこと言った?」

 静かに見つめる清次郎と、眉間に皺を寄せた紫藤。

 夢の話をしただけなのに、二人の反応が気になった。

「……もしかして、まずい? 悪鬼が何かして……」

「達也」

 俺の言葉を遮った紫藤は、大きな大きな溜め息をついた。

「お主はまだ、分かっておらぬようだ」

「……何が?」

 フルフルと、首を横に振り、長い白髪を揺らした紫藤は、溜め息をついてみせた。

「私と清次郎が離れる? その様なことがあると思うのか?」

「…………ねぇな」

「そうであろう? 大方、この家の雰囲気に飲まれたのであろう」

 はぁ~、とことさら大きな溜め息をついた紫藤は、摘んだ鮭を口に入れている。俺もご飯を口に入れながら苦笑した。

 紫藤と清次郎が別れることなどないだろう。そもそも、紫藤が清次郎を離すはずがない。

 侍屋敷みたいなこの家の造りに、時代劇の内容が夢になって出てきたのだろう。馬鹿な質問をしてしまった。

 紫藤に変わった様子はないし、夢に問題はないようだ。スッキリした俺の目の前で、スッと清次郎が立っている。

「今日の依頼を確認して参ります」

「うむ」

「飯食ってからにしろ」

「申し訳ありませぬ。紫藤様の状態を伝えるよう、上に言われておりましたもので、ご容赦を」

 來夢の言葉を静かに退けた清次郎が出て行った。ご飯の途中に立つなんて珍しい。

 そう思いながら空腹の胃にもりもりご飯を詰め込んでいた俺は、何かに見られている視線に気が付いて振り返った。

「七海? 俺の顔に何か付いてんのか?」

「…………ぇ」

「んなまじまじ見られると、飯食いづれぇし」

 俺の顔を凝視していた七海は、箸を持ったまま固まっていて。茶碗からはみ出したご飯がちゃぶ台に零れている。

「…………ぁっ! な、……何でもない」

「顔赤いけど。昨日、遊び疲れたか? 七海がきついなら、今日はここで遊んでも良いぜ?」

「何でお前が許可してんだよ」

「いいじゃん。作業場には行かないからさ」

 熱が出ているのかもと心配になって、赤い七海の額に手を当てたら仰け反られた。俺の手を避けるように。

「…………七海?」

「ご、ごめん……! だ、だ、だ、大丈夫だから……!」

「すっげーどもってっけど……」

「ぼ……僕…………顔!」

「顔?」

 顔に何か付いたのだろうか。仰け反っている顔に近づいたら仰向けに倒れてしまった。まるで俺が押し倒してしまったみたいで。

「これ、達也。七海に何をする!」

「何もしてねぇよ。……っておい! どこ行くんだよ!」

 仰向けに転がった七海は慌てて立ち上がると走っていく。

「顔……洗ってきます!」

「さっき洗ったし!」

「もう一回……もう一回行ってくる!」

「七海!」

 呼んでも、駆けだした足は止まらなかった。部屋を出て行ってしまう。

 突然のことで、状況がよく飲み込めなかった。俺も、紫藤も、來夢も。

「思春期か?」

 來夢の言葉に、突っ込むこともできない。部屋を出て行った七海が気になって仕方が無かった。いったいどうしたのだろう。

 放っておけなくて追いかけようとした俺は、鳴ったチャイムの音に意識がいく。來夢も音を確認すると立ち上がった。

「誰だ、朝っぱらから」

 ぶつくさ言いながら出ていく來夢に合わせ、俺も出ていこうと腰を浮かしかけたけれど。紫藤がきつそうに眉根を寄せたので止めた。清次郎が戻ってきていない以上、疲れている紫藤を一人にはできない。

「朝飯食ったらもうちょっと寝た方が良いんじゃね?」

「……うむ、そのつもりだ。さすがに日中からずっとでは体がもたぬ故な。今日は夕刻から出ることになっておる」

「そっか。じゃ、帰って来るのは朝方ってことか?」

「清次郎が確認しておるが……おそらくはそうなるであろうな」

 悪霊は夜に活発化するし、一般人に見られてはまずいことを考えると、夜の方が都合が良いのだろう。

 ということは俺達が眠っている間、紫藤は働き、遊びに行っている間に眠るのか。

「大変だな」

「仕事を溜めたからの。今後のことも考え、できるだけ祓っておかねばならぬ。それより昨日、何事も起こらなかったであろうな?」

「大丈夫だって。七海とさ、すっげー食い倒れコース回ったんだぜ! 元隊長に付けられてたのはやだったけどさ、その人が色々連れてってくれたんだ」

「うむ。私も後で清次郎に聞いたでな。あの者なら安心して任せられる」

 特別機関の元隊長、名前も知らないダンディおじさんをよほど信頼しているのだろう。紫藤の顔が和らいだ。お茶を一口飲みながら俺の目を見てくる。

「とはいえ油断はならぬぞ?」

「分かってるって。今日は展望台に行くんだぜ!」

「良いの~。いずれ四人で旅に行くぞ!」

「だな! つか、それだと目立つな~。二人とも立ってるだけで人だかりじゃん」

「清次郎は良い男故な」

 自分の美人さは棚にあげ、清次郎を褒めた紫藤はほうっと息をついている。遠い目をした紫藤に吹き出した。

 吹き出しながら、ふと気付いた。



 今までこんな風に、一日あった出来事を話す相手が居なかったことに。



 気付けばこんなに自然に、話せる相手ができていたことに。



「……どうした?」

 急に俺が黙ったからか、紫藤が見つめてくる。その綺麗な顔を見ながら何でもないと笑った。

「こっちは心配ないからさ。ちゃっちゃと片付けてこいよな」

「うむ。迷える者を救うのが、私の仕事故な」

 真面目くさった顔でそう言った紫藤は、玉子焼きを摘もうとして、玄関から響く怒鳴り声に取り落とした。

「二度と敷居を跨ぐなと言ったはずだ!! 気安く来てんじゃねぇよ!!」

 怒鳴る來夢の声がここまで響く。箸を置いた俺は急いで廊下に飛び出した。長い廊下を走っていく。

 角を曲がれば、顔を真っ赤にして怒鳴っている來夢と、長身のダンディおじさん、そして申し訳なさそうに体を縮めて立っている武藤高志が居る。

 來夢と高志の間に立ったダンディおじさんが、まあまあ、と怒鳴り散らす來夢を宥めている。

「どうしても、君に会いたいと頼まれてね」

「連れ出せ! 一秒でも早く連れていけ!!」

「まあ、そうカッカせずに」

 大人のダンディおじさんの言葉に、來夢はまったく聞く耳を持たなかった。連れていけ、出ていけを繰り返すばかり。

 オロオロしている高志は、どんなに怒鳴られても出て行かない。どうにかして來夢と話そうと身を乗り出しては怒声に負けている。

 何で連れてきたのだろう。角から顔を覗かせていた俺の肩を、紫藤がポンッと叩いた。

「何事ぞ」

「あいつに求婚してたおっさんが来たんだよ。修羅場だ、修羅場!」

「修羅場とな」

 俺を真似するように、紫藤も廊下の角から顔を覗かせている。長い白髪を垂らし、様子を伺う紫藤にダンディおじさんが気付いた。

「お久しぶりです、紫藤さん」

「久しいの。変わりないかの」

「ええ」

 俺も紫藤も、廊下の角から体ごと姿を現した。興奮している來夢がイライラしたように壁を蹴っているのを視界の端に捕らえながら、ダンディおじさんの所まで歩いていく。

 その目の前に、いつの間に玄関から上がったのか、高志が居て。良く見ればちょっと童顔の顔をしている彼の、少しふくよかな手が、紫藤の細く白い手をギュッと握り締めた。

「……美しい」

「言わずとも分かっておる」

 ふんぞり返る紫藤の手をなおも強く握った高志は、その手を引いた。紫藤の白髪が流れた時には、高志の胸に抱き締められていた。

「俺の……俺のお嫁さんになって下さい!」

「こ、これ! 放さぬか!」

 ガッシリした体ではないけれど、肩幅が広い高志の胸に、紫藤はスッポリ納まってしまった。両腕ごと抱き締められ、抜け出せずにもがいている。

 俺に助けを求めるように、紫藤の手が宙を掻いている。

「おっさん、関口さんが好きなんじゃねぇのかよ!」

「俺は……俺はこの人に一目惚れしてしまった……! どうか……どうか俺の想いを受け取って下さい!」

「く……苦しいぞ! せ……清次郎!」

 完全に抱き込まれた紫藤を助けるため、高志の上着を引っ張るけれど外れない。危機迫るものを感じた俺は、股間を蹴り飛ばしてやろうと足に力を込めた時だった。

 もの凄い寒気を感じて振り返る。

 まるで悪鬼に迫られているかのような寒気を感じた俺は、あまりに怖くて一歩後ろへ下がった。

「……何をされているのでしょうか」

「お……お主! はよう放せ!」

 背中を見せている高志は気付いていない。

 俺も紫藤も、必死になって高志を引き離そうとするけれど外れない。

 温和な清次郎の青い瞳が、鋭く、鋭く、尖っている。

「俺のお嫁さんになってくれるまで放しません!」

「馬鹿なことを申すでない! 命を落とすぞ!?」

「あなたと一緒なら命を落としてもかまわ…………!?」

 いつ、距離を詰めたのか、全く分からなかった。

 清次郎の手が、紫藤を抱き締めている高志の腕を掴み、後ろに捻り上げている。素早く引き離し、廊下に膝を付かせた。

「いた……いたたた……!」

「我が主にあまりに失礼な言動。許せませぬ」

 低い清次郎の声に、俺と紫藤が青冷めた。高志の手を捻る力はますます強くなっているのか、痛いと言うことすらできずにいる。息をつめた高志の顔が俺達以上に青冷めた。

「もう良い! 放してやれ、清次郎!」

「………………」

「これ、清次郎! 一般人に本気になってはならぬ!」

 清次郎の腕に紫藤が抱きつくと、ようやく力を抜いている。解放された高志が廊下に倒れ込んだ。腕がピクピク震えている。

 骨が折れていないかとおそるおそる確かめたけれど、不自然に曲がってはいなかった。ギリギリのところで加減されていた。

 ほうっと安心した俺の隣では、清次郎が紫藤の長い白髪を整え、寝巻き代わりの浴衣を整えている。

 その青い瞳は、まだ鋭く尖っている。

「何も、されてはおりますまいな?」

「大事ない。いささか驚いたがな」

「ほんに?」

「案ずるな」

 笑って見せる紫藤に、清次郎の青い目は鋭いまま戻らない。呻く高志から遠ざけるように紫藤を連れていく。

 殺気だっている清次郎の肩を、ポンッと気軽に叩いたのはダンディおじさんだった。

「惚れやすい人みたいで。俺から言い聞かせておきます」

「……次があれば、容赦はしませぬぞ」

「言い聞かせます」

 ダンディおじさんの目を真っ直ぐに見つめた清次郎は、大きく息を吸うと吐き出した。気持ちを落ち着かせるように。

 一度、青い目を閉じた清次郎は、次に開いた時にはいつもの温和な瞳に戻している。呻く高志を静かに見つめ、声を掛けた。

「このお方は俺の大切な主です。申し訳ありませぬが、お気持ちはなかったことに」

「……せめて、遠くから見守ることは許して下さい!」

 正座した高志は、必死になって頭を下げている。紫藤を背に庇った清次郎は、眉間に皺を寄せている。

「されど……」

「想うだけにします! ですから!」

「お前……心変わりしたのか?」

 頭を下げる高志に、來夢の声が重なった。

 さっきまで自分に好きだ、結婚して欲しいと言っていた高志が、紫藤に一目惚れしてしまったのが気に食わないかもしれない。怒鳴り散らす來夢の真っ赤な顔を想像しながら振り返った俺は。

 この上なく嬉しそうに笑っている來夢に面食らった。

「そうか! お前、そいつにしたのか!」

「……めっちゃ嬉しそうだな」

「そうか! んだよ、早く言えよ!」

 ドタドタ歩いた來夢は、正座している高志の肩をバンバン叩いている。しゃがみ込むと、グッと親指を立てて見せた。

「また戻って来いよ!」

「…………良いんですか?」

「難しい仕事がきたからな。お前の手を借りたい」

 顔を蹴り飛ばしたことは無かったことになったのだろか。

 呆気に取られた俺達のことを全く気にしていない來夢は、あんなに毛嫌いしていた高志の肩を抱いている。

「朝飯食っていけよ!」

「い、良いんですか!? 上がっても!?」

「おう! 伊達も食って行くか?」

「俺はもう、食べて来たから。コーヒーをご馳走してくれるなら上がらせてもらうよ」

 さりげなく会話に入ったダンディおじさんを俺は思い切り振り返った。視線が合うと、片目を瞑ってみせている。

 ハッとなった俺は、未だに紫藤を庇っている清次郎に突進した。

「ダンさん! あの人の名前! 伊達何!?」

「どうした、達也。顔が真っ赤だぞ?」

「んなことよりあの人の名前!」

 ダンディおじさんを指差す俺に首を傾げながらも、開きかけた清次郎の唇に人差し指が当てられる。俺の肩越しに腕を伸ばしたダンディおじさんは、優雅な動きで清次郎の言葉を封じた。

「簡単に教えては面白くないので」

「秘密にされているのですか?」

「ええ。達也君達にはダンディおじさんで通してもらいます。な?」

 俺の肩を抱いたダンディおじさん、こと伊達に腕を振り回す。

「やだ! 教えてくれよ!」

「だ~め。良いじゃないか、伊達さんと呼んでくれ」

「……清兄! 頼む! 蘭兄も!」

「……ふむ。面白そう故、このままにするぞ、清次郎」

「承知」

 紫藤が決めたことは、清次郎も決めたことになる。背中から伊達に抱き付かれた俺は、もがもがもがいたけれど誰も教えてくれなかった。

「くっそ~~!」

「ま、そのうちな」

 わしゃっと頭を撫でられ、頬をパンパンに張った時だった。

 耳から頭へ、猛烈な耳鳴りが鳴ったのは。思わず両手で耳を塞いでしまうほど、強烈な音に紫藤も、清次郎も、伊達も、顔を引き締めている。

 機嫌良く高志の肩を抱いていた來夢も、眉間に深い縦皺を寄せて顔を上げている。

「……んだよ、この音は!」

 耳鳴りは二度、鳴った。清次郎が音に負けず走り出している。その背中に伊達が続いた。

「達也、離れるでないぞ!」

「お、おう!」

 俺の手を握った紫藤に守られ二人の後を追い掛けた。まさか悪鬼の仕業なのだろうか。それならどうして、離れた場所から音が鳴る?

 廊下を走った俺達は、七海を呼ぶ清次郎の声にやっと追いついた。

 刀が並べられている部屋の中で、一本の刀の側に倒れている七海が居る。清次郎の腕に抱かれた七海の顔は蒼白で、意識を失っていた。

「……七海!!」

 叫んだ俺は、七海の側に駆け寄った。口を開いたまま意識がない七海は、頬を叩いても目を開けない。

 強烈な耳鳴りは七海の言霊だった。何を願ったのだろう。よほど大きな願いを言わなければ、あんな音は出ないはずだ。

「蘭兄! 七海が……七海が!」

「落ち着け! 今、力を吸ってみるでな!」

 紫藤の白い手が七海の額に当てられた。淡い、緑色の光に照らされた七海の顔に、赤味が戻ってくる。

 心配でたまらなくて、七海の小さな手を握った。数十分前、様子がおかしかった七海を一人にしなければ良かった。追いかけて悩みを聞いてやれば良かった。

 自分の体が震えているのを感じる。このまま七海の意識が戻らなかったらどうしよう。

 怖くて、怖くて。

 七海の手を強く握り締めた時だった。

 閉じていた瞼が震え、開いていく。手を翳していた紫藤を見上げ、手を握っている俺を見つめた七海は小首を傾げた。

「……どうしたの?」

「どうしたのじゃねぇよ!! すっげー心配したんだぞ!! 何の言霊使ったんだよ!」

「……言霊を……僕が?」

 驚いたように目を開いた七海は、紫藤を見つめている。短い黒髪を撫でてやった紫藤は頷いた。

「確かに、力の波動を感じた。覚えておらぬのか?」

「……分かんない」

「……ふむ」

 何度も七海の頭を撫でた紫藤は、最後にポンッと俺の頭を叩いた。

「大事ないようだ」

「でも……!」

「力は吸った。悪鬼とは違う故、心配ないであろう。七海が何か願ったとしても、七海の言霊だ。怖いかの?」

 紫藤に聞かれ、腑に落ちないまでも首を横に振るしかなかった。

「怖くはねぇけど……」

「ならば良いではないか。七海も無事だった故な」

 諭すように言われ、渋々頷いた。七海が無事なら、それで良いけれど。

 耳鳴りは強烈だった。きっと大きな願いをしたはずなのに、七海は覚えていないと言う。表情を見る限り、嘘をついている顔はしていなかった。

 本当に大丈夫なのだろうか。考え込んでいた俺は、ポンッと肩を叩かれた。

「ま、君が猛烈に心配していることはよく伝わっていると思うから。今度は無茶しないと思うよ」

「んだよ、それ……」

 口を尖らせた俺に、片目を瞑った伊達は、俺の手を指差した。その手はまだ、七海の手を握ったままで。

「…………!」

「七海君、達也君はとてもとても、とーっても、心配してるから。ね?」

「……はい。ごめんね、達也君。僕、何かしたんだよね?」

「大丈夫、きっとキス……むぐっ」

「余計なことばっか言ってんじゃねぇぞ!?」

 野放しにはできない伊達の口を手で塞いだ俺は、やな予感をバシバシ感じた。絶対面白がって何か言う。きっと言う。

 必死になって彼の口を押さえた俺は、そのまま彼と倒れ込んでいた。俺の手に押さえられながらクスクス笑っている伊達は心底楽しそうだ。

「やな性格!」

「これ、達也。世話になる者に何をしておる」

 紫藤に抱えられた俺は、そのまま七海の隣に下ろされた。少し涙を溜めた七海の目に見つめられ、伊達にからかわれた事も忘れて硬直してしまう。

「……怒ってる?」

「お、怒ってるわけじゃねぇよ! ただ、心配しただけだって」

「本当?」

「……んなすぐ泣くな! お前が無事なら、いいんだよ」

 わしゃっと黒髪を撫でてやった。手の甲で滲んだ涙を拭った七海が、顔を上げている。泣いたからか、頬が少し赤くなっている。もともと赤い唇が、にこりと笑った。

「良かった! 覚えてないけど、気を付ける!」

「そうだぞ! 心配させんなよな?」

「うん!」

 笑ってくれた七海に、俺も笑い返した視界の端っこに伊達の顔が映っていて。

 からかいたそうに笑っていたけれど、何も言わないでいてくれた。

 七海の手が、俺のティシャツを握っていたからか。

 その手が震えていたからか。

 視界の端っこに映っている伊達に後で何か言われるだろうことを承知の上で七海を胸に抱き締めた。

「……無事で良かった」

「た……達也君?」

「ほんっと良かった」

 七海を抱き締めた俺に伊達は、「あ・と・で」と声に出さずに言うと、優雅に片目を瞑った。

 俺は舌を思い切り出して応えてやった。

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