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第一幕
奇ノ三十六『爽やかな朝』
しおりを挟む頬に当たる風が、気持ち良い。
誰かに撫でられているような、温かい風だ。
「う~ん……」
背伸びをし、眠たい瞼を開けた。高い天井が見える。
「……あれ?」
和室の部屋は、こんなに天井が高かっただろうか。もぞもぞと起き上がった俺に、声が掛かる。
「おはよう、達也君」
広げていた新聞を畳んだ一希は、俺の側まで歩いてくると額に手を当てた。
「体はどうだい? 変化はないかい?」
「……俺?」
「まだ寝ぼけているみたいだね」
鋭い目を緩めて笑った一希は、大股で戻っていく。
ここはリビングだった。俺がいつも座っている場所で眠っていたらしい。紫藤と清次郎が座る場所には、七海も寝かされていた。
夜中に俺の中に居た悪鬼が暴走したことを思い出す。七海の言霊でどうにか押し込み、汗だくの体にシャワーを浴びたところまでは覚えている。
三人でリビングに居て、ゲームをして、そのまま眠ったらしい。
一人起きていたのか、一希が向かいに座っている。
「……大丈夫か?」
「ん?」
「寝てないんだろう?」
「なに、後二日だ」
「……二日?」
紫藤と清次郎は今日の夕方に帰ってくる予定だ。それなのに二日とはどういうことだろう?
「一日、帰るのが遅れるそうだ。もう一つの悪鬼の状況を見に行かれている。悪霊も数体、発生してしまってね」
「……悪鬼のせいか?」
「そう、かもしれないな。メンバー総出で対処しているところだ。それに比べれば、私は楽な方さ」
笑った一希の目の下には、濃い隈ができている。一人で起きているのは大変だろうに。
俺達が寝ている間、ずっと見張っていたのか。
「少し寝て良いぜ。七海が起きてる間だけでもさ」
「そうはいかない。私は任務で来ている。君を置いて寝ることはできない」
濃い隈には似合わず、強い眼差しに見つめられた。
どうやったらこんなに強い男になれるのだろう? 体もきつくなっているはずだし、悪鬼を見て怖いと思った心もあるはずだ。
全部押し込めて、守ってくれている。
俺には無い強さを、一希から感じだ。
「……あんたみたいに強くなれたら良いな」
紫藤は居ないし、七海も寝ているから、少しだけ素直になれた。項垂れた俺を見つめていた一希が笑っている。
「私はまだまださ。清次郎さんに比べれば、未熟もいいところだ」
「清兄?」
「ずっと、長い間ずっと、紫藤様を支え続けている。紫藤様が変わってしまわないよう、心を支え続けるのは並大抵のことではない」
新聞をテーブルに置いた一希は、両手を組み合わせた。物思いにふけるように、テーブルの上にあったマグカップを見つめている。
「特別機関に入ってすぐに、二人にお会いした。そこで紫藤様の、少し特別な姿を見せて頂いた」
「……白い?」
「君たちも見せて頂いたのか。そうだ、白いお姿だ」
思い出しているのだろう、一希の目が緩んでいる。
「信じられないほど美しいお姿だった。二人が死なずに生き続けていることも、容易に信じることができたよ」
「で、惚れた?」
身を乗り出した俺に、苦笑している。
「ああ、想いを寄せた。だが、紫藤様には清次郎さんが必要だ。あの方が居るからこそ、紫藤様が純粋なままでいられるのだからな」
「エッチはしてるぜ?」
純粋、というのはどうだろう? 子供っぽいけれど、体は立派な大人だ。
深く考えずに教えてやれば、一希の顔が仄かに赤くなっている。
「……そ、それでも純粋なお方だ」
「あんたの方がよっぽど純粋だと思うけどさ」
「君は少し、ませているようだね」
ジロリと睨まれ、肩をすくめた。清次郎にもよく言われている。
「……それだけ話せるなら、大丈夫なようだ。紫藤様の帰りが一日遅れると聞いて、動揺するかと思っていたよ」
「あんたと七海が居るから平気」
眠っている七海を見つめ、一希に向き直った。
「怖いけど、怖くねぇ」
「……そうか。ありがとう」
「こっちこそ」
ニッと笑ってみせた。
一希も笑ってくれる。
大きな体を立たせ、キッチンへ向かっている。
「七海君を起こしてくれ。朝食にしよう。顔も洗っておいで」
「おう!」
パジャマの袖を捲っている一希の背中を見送り、すやすやと眠っている七海の肩を揺さぶった。
俺と同じで、七海も朝は弱い。揺すってもなかなか起きない。
「七海! 起きろ、な~な~み!」
「……ぅん」
「起きねぇと……」
そっと脇に手を添える。
両手で擽ってやった。
「ぶっ……!」
「ほら、ほらほらほら!」
「あは、あはは! やだ……ちょっと……達也君……!」
ソファーの上で悶えた七海が、ずるりと体を滑らせ落ちていく。背中から落ちた彼は、涙目になっていた。
「酷いよ、達也君」
「飯が待ってんだ。急ごうぜ!」
「もう……」
頬を膨らませた彼の手を握って引き起こした。洗面所まで歩いていく。眠たい目を擦る七海を連れて、手早く顔を洗ってしまう。
リビングに戻れば芳ばしいパンの匂いが立ちこめていた。焼きたてのパンが皿に置かれている。匂いに誘われ、テーブルまで歩く足が少し速くなった。
「バターとジャム、蜂蜜、チーズもあるがどうする?」
「俺はバターにチーズ派!」
「僕はジャムです」
「そうか。チーズは少し焼いた方が美味しいな」
そう言って、まだ焼いていないパンにバターを塗り、チーズを乗せてトースターに入れている。焼いていたパンにジャムを塗った一希は、七海の前に置いた。
清次郎に教えられていた俺と七海の好みに合わせたコーヒーも入れてくれる。
程なくして焼けたバターチーズのパンを俺の前に置いてくれた一希は、自分用にもバターを塗っている。三人でテーブルに着くと、手を合わせ食べていく。
「一つ、問題が発生してね」
パンを囓った一希が切り出した。とろけるチーズを伸ばしながら食べていた俺と、苺ジャムを口の端に付けた七海が顔を上げた。
「んだよ、問題って」
「非常に重要な問題だ」
もったいぶった一希は、ブラックコーヒーを一口飲んでいる。
持っていたパンを見つめ、俺達を見つめ、顔をグッと近づけてくる。俺達も思わず顔を寄せた。鋭い一希の目が、ますます鋭くなっている。
大きめの唇が、溜息とともに開いた。
「実は食料が底をつきそうなんだ」
「……は?」
「本来なら今日の夕方、清次郎さんが夕飯の材料とともに帰宅する予定だったからな。冷蔵庫の中味もギリギリ、昼までの分しかないと言う訳だ」
一希はスッと背筋を戻し、パンを囓っている。
「……それってまずいじゃん」
「うん、そうなんだよ」
「どうするんですか?」
「どうしようか」
パンを囓り続ける一希は、問題発生と言いながらも冷静だった。
「何か策があんだろう?」
「まあ、三択だがな」
一枚目を食べ終えた彼は、トースターにパンを入れている。俺も七海もまだ半分も食べていないのに、一口が大きいのだろう。あっと言う間に食べ終えている。
「一つ、七海君に買い出しに行ってもらう」
「七海、この辺、知らねぇよな?」
「うん。地図があれば行けると思うけど」
七海は悪鬼とは関係ないし、霊の姿も見えない。言霊さえ気を付けていれば、買い出しくらいはできるだろうけれど。まだ他の人に力を使ってしまうかもしれないと、怯えている彼を一人行かせるのは心配だった。
「二つ、今から節約して、おかずを減らして、白米を多めにするか」
「ええ――! そりゃないぜ!」
家を出られない俺の楽しみと言えば、清次郎や一希が作ってくれる美味しいご飯だけだ。おかずが減ってしまうのはたまらない。
「なあ、三つ目の選択肢って何だ?」
ようやく一枚目のパンを食べ終えた俺は、二枚目のパンにバターと蜂蜜を塗っている一希に訊ねた。彼は俺のためにともう一枚焼いてくれている。二枚目は俺も蜂蜜希望なので、先にバターだけ塗ってくれている。
「三つ目は……」
「三つ目は?」
俺と七海が見つめる中で、一希はクスッと笑った。
「出前を取るかだな」
「それだ!!」
「僕が買い出しに行っても……」
「馬鹿! 出前だぞ! ラーメンとか、ピザとか、中華とか!」
この辺で美味しい店はどこだろう。昼はピザが食べたい。ついでに肉まんとか、カレーまんとかも食べたい。
「なあ、一希さん! どんなのがあるんだ?」
「……すっごい嬉しそう」
「何かワクワクしねぇか?」
美味しい手料理も良いけれど、たまに食べる出前も好きだ。
出前が届くまでのドキドキ感も重要だ。
「この辺ではピザが美味しいらしいぞ。夜は栄養面も考えて私の手料理で我慢してもらうが、今日と明日の昼は出前にしよう」
「一希さんの手料理も好きだぜ?」
「ありがとう」
本心だった。彼が作る料理も美味いものばかりだ。
ただ、出前のドキドキ感を味わいたい。今日と明日、届く楽しみが増えた。
「俺チーズたっぷりピザが良い!」
「ちょうど広告が入っていたんだ。ほら」
隠していたのだろう、俺が読まない新聞の下から広告を出している。七海と二人で見てみれば、色とりどりのピザが載っている。基本ベースにトッピングも出来るらしい。
パンを食べたばかりなのに腹が減ってきた。今から昼が待ち遠しい。
「チーズ増量な!」
「僕、ソーセージが良いな」
「色々と頼んでみよう。食べ比べてみるのも……」
「【なんだか楽しそうだね、兄さん】」
にこにこと笑っていた一希の顔が、ほわんと緩んだ。急に出てきた克二は、俺の手にある広告を見てクスッと笑った。
「【心配ないみたいだね。清次郎さんが冷蔵庫の中味を心配していたんだ】」
「なんとか明日まで食いつなげるさ。いよいよの時は夜も出前になるがな」
「【そう、伝えておくよ。達也君、七海君、元気?】」
「つか、なんか微妙だから二人で話すの止めてくれ。気味わりぃし」
一希の表情がコロコロ変わるので、妙に落ち着かない。どっちが一希で、どっちが克二なのか、時々分からなくなる。
「【じゃ、兄さん、暫く黙っててね。紫藤さんと清次郎さんが心配してるんだ。顔を見て来てくれって頼まれたんだよ】」
「それでこっちに来たのか」
「【そう。電話だと分からないからね。……兄さんが居るから、大丈夫かな?】」
頬杖をついた一希の顔が微笑んでいる。
やっぱり奇妙だった。
一希は頬杖をついたりしないだろう。
ぞわっと背筋に鳥肌をたてながらも頷いた。
「ああ。蘭兄達に伝えてくれ。元気にしてるって」
「僕も。北条さんと一緒に達也君を守るから」
珍しく強い口調になった七海を振り返る。七海は一希の目を見つめていた。にこにこと笑った一希の顔は、本人の意思とは関係なく緩んでいる。
「【心配ないって伝えておくね。じゃ、またね……ちゅっ】」
瞼を閉じ、唇を窄め、キスを飛ばした一希の顔に、俺は思い切り仰け反った。隣の七海がビクッと硬直している。
当の本人一希は、キス顔から瞬時に鋭い目と真面目な顔に戻り、俺達と視線が合うと俯せに項垂れた。
「……す、すまない!」
大きな体を丸めた一希は、恥ずかしそうに小さくなった。キス顔を見られたのがよほど堪えたのだろう。フルフル、フルフル、肩が震えている。
七海と顔を見合わせると、ブッと吹き出した。
「気にすんなよ! 良いキス顔だったぜ!」
「……言わないでくれ」
ますます小さくなった一希は、暫く復活できなかった。
そんな純情な一希の存在は、俺たちを安心させてくれていた。
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