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第一幕
奇ノ一『出会い』
しおりを挟む走っても、走っても、奴等は来る。
どうして、俺ばかり。
「ついて来んじゃねぇ!」
怒鳴ったところで、奴らが来るのは分かっている。それでも怒鳴らずにはいられなかった。
着ていた草色のつなぎが汗を含んで濡れている。下に着ていた黒のティシャツは、色が変わって濃くなっている。染めた短い金髪がしっとりと頭に貼り付いた。
流れ落ちた汗が首筋を伝って落ちていく。もう、どれほど走ったのだろう。息が苦しくなってくる。左耳に空けた赤いピアス三つが、幾度も街灯の光に浮かび上がった。
街灯が照らす道をひたすら走っていた俺は、迫ってくる黒い影に目を瞑る。
死んだ人間が見えることは日常だった。
でも、今日は何か違う。
こいつは何か違う気がする。
人の形をしていない。
やばい。
絶対やばい。
何だってこんな日に……!
「……来るんじゃねぇって言ってんだろう!!」
すれ違ったサラリーマンが怪訝な顔をしていた。一人走り、一人怒鳴っている俺に薬でもやっていると思ったのだろう。関わり合いにならないよう道を逸れていく。
慣れっこだ。
誰も信じてくれない。
霊は居るのに。
こんなにはっきりと、この世界に居るのに。
信じちゃくれない。
息苦しくても足を止められなかった。ひたすら前を向いて走っていく。そんな俺をあざ笑うかのように、黒い影はずっと追ってきた。
潰れそうな心臓。
汗だくの体。
疲れて、倒れ込んでしまいたい。
でもそうすれば、奴は俺の体に入るのだろう。また知らない間に、何かしてしまうかもしれない。
「……くそっ!!」
夢中で走っていたせいか、人気の無い山の方へ来ていた。階段を上ると古びた神社がある。神主も居ない寂れた神社。
ここは駄目だ、霊が溜まっている場所がある。方向を変えようとしたら、奴が急に距離を縮めてくる。このままでは本当に体を取られる。
必死に階段を駆け上がった。フラフラよろめく足を気力だけで動かし上っていた俺は、中程まで上がった時、奇妙な感覚に膝をついていた。
ぐらりと、揺れた気がした。
何だと上を見れば、奴が顔を寄せてくる。咄嗟に転がって避けると、階段を駆け上がった。走りすぎて目眩でも起こしたのだろう。
頂上まで出て、違う道を探そうと顔を上げたら。
そこは暗くて。
月明かりを陰らせているものは、俺を追ってきた奴よりももっとでかい奴で。
俺を見つけると、ビリビリとプレッシャーを掛けて威嚇した。走り続け、逃げ続け、恐怖に震えていた足が、とうとうへたりこんでしまった。
終わった。
やっぱり俺は呪われているんだ。
こいつらに憑かれて死ぬ運命だったんだ。
迫ってくる黒い巨大な影を呆然と見つめた俺は、飛び込んできたもう一つの影を視界に捕らえた。
「紫藤様! 人が入って来ております!!」
影は人の言葉を話した。手には木刀を握っている。その木刀が白く光り輝いていく。光の粒子を纏った木刀を振った影は、巨大な影を遠ざけた。
「こちらへ!」
そう言った影は、男だった。二十二、三歳ほどに見える。黒い髪に青い目をしている。キリッとした眉は、精悍な若者、と表されるだろう。
立ち上がろうとして、足が震えてしまった。ずっと走り続けていたせいか、体が動かない。男に腕を掴まれ、引っ張られても立ち上がれなかった。
「……紫藤様!」
「動くでないぞ!」
上から声が降ってくる。見上げたその先に、白い着物を着た、白髪の男が居た。あれも霊だろうか。思わず助けてくれた男の腕を掴んでしまう。
「心配するな。あのお方は生きている」
「……本当か?」
「ああ」
男は青い瞳を緩めて笑った。俺の頭をポンッと叩いてくる。
紫藤と呼ばれた白髪の男は、手に扇子を持っていた。大きく振り上げると、風が巻き起こる。巨大な影が風に押されて吹き上がる。黒髪の男が俺を庇うように肩を抱いた。
紫藤は空を自在に飛んだ。手にした扇子でもう一度風を起こすと、影が縮んでいく。人の形のようになったところで、右手を影の額のような所に当てた。
すると影が白い光を放ち始める。
「……さあ、逝け。もう、迷うでないぞ」
紫藤がそう言うと、大人しくなった影は光輝きながら掻き消えた。夜空に輝く星達が姿を見せている。
何だったのだろう、今のは。へたりこんだ腰で震えていた背後に、悪寒を感じて振り返る。
俺を追ってきた奴が、まだ残っている。
逃げようとしたけれど、黒髪の男が動いていた。木刀を振り、白髪の男と同じ様に風を巻き起こしている。巻き込まれた影が呻くと、少し縮んだ。
なおも男は走っていく。逃げようとした影を数度、まるで刀を操るように斬っている。その度に、影は縮んだ。
「紫藤様! お願い致します!」
「うむ!」
ふわりと空から降り立った紫藤は、小さく縮んだ影に手を当て、先ほどと同じ様に白い光を放った。影は光となって、消えてしまった。
辺りが星明かりだけに戻った頃には、静かな夜になっていた。俺を追いかけ回した影も、ここに居た巨大な影も、消えた。
何が何だか、全く分からない。まるで映画の世界だ。あり得ない現実に、抜けた腰が戻らない。
「大事ないか、清次郎」
「はい。紫藤様こそ」
黒髪の男は清次郎と呼ばれた。紫藤の側に駆け寄り、体に触れている。笑った紫藤は、俺を見ると黒い瞳を細めた。
綺麗な男だった。女と思われても仕方がないほどに。身長の高い清次郎より、少しだけ低い紫藤は、乱れた白髪を手櫛で掻き上げている。
思わずドキッとした。男なのに色気がある。手にしていた扇子を掌に打ちながら、俺のもとまで歩いてくる。
「紫藤様……」
清次郎の声に手を挙げ制した彼は、俺の目の前に立っている。手にした扇子を閉じ、俺に突き付けた。
「お主、何者ぞ」
言われた意味が分からない。
それより疲れた。
あいつはもう、消えたから大丈夫だろう。
フラリと傾いた体は、冷たい地面に顔を付けていた。閉じた瞼は重たくて、もう一度開くのは無理だった。すぐに眠ってしまう。
「これ、寝るでない!」
「紫藤様。酷く疲れているようです。とりあえず寝かせてやりましょう」
「しかしだな。人間を通れぬよう張った結界に、ずかずか入ってきた男だ。警戒はしておかねばなるまい」
「……そう、悪い者には見えませぬ」
体が浮き上がる。清次郎が抱き上げてくれたようだった。
ゆらゆら揺れた体が不思議と安心できて。
深い眠りに入り込んだ俺は、何か喚いた紫藤の言葉を聞き流して眠った。
***
……誰だ?
何を言っている?
よく聞こえない。
【…………】
……何?
【………………】
分かんねぇよ。
【……………………】
だから……聞こえないって言ってるだろ!
苛立った。誰かが何か、言っている気がするのに聞こえない。何度聞き返しても、言葉にならない何かが俺の中へ入ってこようとしている。
いや、もう、中に居るような気さえした。
内側から聞こえる、何かの声。
【…………………………】
何かは、何かを告げ続けている。
聞こえない何かに苛立つのも疲れた俺は、それに背を向けた。
何かはずっと、囁いていた。
~*~
体が酷く重たい。
気だるい夢のせいだろう。
それに少し寒い。
初夏とはいえ、夜は冷え込むからか。風が冷たい。
まて、何で風を感じているのだろう?
寝ているなら部屋のはずなのに。
くっつきたがる瞼を押し上げたら、満天の星空だった。昇った月も見える。
「……ちっ。またどっかで寝ちまったか」
家を出て、ふらふらしていたから、そのまま公園のベンチで寝てしまったのかもしれない。重たい体を起こせば、寂れた神社の中だった。
まさかこんな所で寝ていたとは。頭を振って意識をはっきりさせていると、胸の辺りに違和感を覚えた。つなぎのチャックを降ろしてティシャツを捲ってみれば、大きな札が貼ってある。映画の中に出てくるような、知らない文字が書かれた札が。
「誰だよ、オカルトかっつーの」
剥がそうとした手を掴まれる。気配もなく側に居たのは、黒髪の男だった。見覚えがあるのはどうしてだろう? 青い目が俺を見ている。
「それは剥がさない方が良い。お前の魂に、霊が寄ってきている」
「……誰だよ、あんた」
「土井清次郎だ。……紫藤様、目覚めたようです」
清次郎は振り返り、呼び掛けている。パイプ椅子に座っていた男が振り返る。長い白髪を後ろで結んだ男は、女みたいな顔立ちをしている。この男にも見覚えがあった。
紫藤と呼ばれた白髪の男はゆっくり近付いてくると、俺を見下ろした。襟元まで留められたシャツのボタンが息苦しそうに見える。
「……生きている者で、これほど強い霊力を持つ者は久しぶりに見る」
「やはり霊が集まってきておるのは……」
「こ奴のせいであろうな。お主、名は何と言う?」
偉そうな紫藤に眉を潜めた。上から目線が気にくわない。
「あんたこそ誰だよ!」
「私は霊媒師の紫藤蘭丸だ。ほれ、お主も名乗れ!」
腰に手を当て、ますます偉そうだ。誰が名乗るかと顔を背けた俺に、目線を合わせるように清次郎がしゃがみ込む。
「紫藤様は偉そうなお方だが、お前を心配されている。溢れ出ている霊気が、霊だけでなく、彷徨っている悪霊をも呼び寄せているのだ。このまま放っておけば、お前は憑かれて引きずり込まれるぞ」
「清次郎、私は偉そうではなく、偉いのだ!」
白い肌を真っ赤にして怒鳴る紫藤に、清次郎がはいはい、と受け流した。一緒にしゃがみ込んだ紫藤が清次郎の肩を揺さぶっている。
「清次郎! 何故そのわっぱを庇うのだ!? 先ほども私に断りなくこのわっぱを抱き上げよって……!」
「庇っている訳ではありませぬ。目の前で倒れた者がいれば、自然と手が出るものですぞ」
「しかしだな!」
「それよりも紫藤様。ご説明を」
清次郎が紫藤の頬を一撫ですると、暴れていた白い狂犬が大人しくなる。ブツブツ言いながらも俺を見て、肩に乗っていた清次郎の手を自分の方へ引き寄せてから話し始めた。
「いつから見えるようになった?」
「……んだよ、関係ねぇだろう?」
「話せ。お主の命に関わるぞ」
脅すようなその言葉にふいっと顔を背けた。
死ぬなら死ぬで構わない。どうせ生きていたところで何も良いことなど無いのだから。影にとり憑かれて引きずりこまれる前に、自分で死ねば良い。
変な二人に関わり合いになる前に、立ち去ってしまおうと腰を浮かしかけた時、ズキンと胸と腹の間が痛んだ。思わず呻いた俺の背中を清次郎が撫でてくれる。
「急がねばなりますまい」
「……もう一度聞く、お主の名は? いつから見えるようになった?」
ズキン、ズキン、と胸と腹の間が疼く。清次郎の腕に掴まりながら、紫藤の目を見上げた。黒い瞳が俺を見ている。
初めてではないだろうか。
俺に見える影が彼らにも見えている。
霊のことも、信じる信じない以前に、見えているのは。
苦しくなる胸を押さえながら、言葉を押し出した。
「……月影……達也だ。産まれた時から見えてるよ」
「では達也。お主、我らのもとへ来る気はあるか?」
紫藤の手が俺の胸と腹の間に添えられる。光り輝くと、痛みが引いていった。
「……紫藤様? それは……」
「仕方がなかろう」
「……はい!」
どうしてか、清次郎が嬉しそうに笑っている。俺の頭を撫で回した。
「いてーな! 何だよ!」
「元気が出てきて何よりだ。さ、お前も行こう。家は何処だ? 暫く俺達で預かる旨、ご挨拶しなければな」
「……はぁ!? 何だよ、預かるって!」
「お主、今日が産まれた日であろう?」
紫藤の言葉に固まった。親でさえ忘れた誕生日をどうしてこの男が知っているのだろう?
五月五日。
俺が産まれた日で、呪われた日だ。
「……何で……知ってんだよ……」
「知る訳がなかろう」
「は? じゃ、何で……」
「お主の霊力が跳ね上がっておる。霊気が垂れ流し状態故、この辺に住みついておった霊が騒ぎ立てておる。先ほどの悪霊も、急に力を増しおった。お主が近付いたせいであろうな」
ふんぞり返って説明されても、理解はできなかった。
霊力?
悪霊?
そんな言葉聞いたことがない。
やっぱりこいつも、俺を馬鹿にしたいだけらしい。
睨み上げれば、頭を叩かれた。
「生意気なわっぱよの。良いか、恐らく今のお主の体が、最も霊力が盛んな時に差し掛かっておる。このままでは悪霊を活性化させ、お主自身も気にやられる」
「……だったらどうしろってんだよ!」
「私の家に置いてやる。感謝せい!」
「……するかバーカ!!」
怒鳴って紫藤を突き飛ばす。尻餅をついた彼が怒鳴る中、胸に貼られた札を剥ぎ取りながら走った。
思い出した。あの二人は俺を追ってきた影をやった奴らだ。関われば危ない。
変な二人から離れた方が良いと、寂れた神社の階段を駆け下りようとしたけれど。
ざわざわと騒ぐ音に背筋が凍る。木々がざわめき、次々と黒い影を噴き出してくる。
「……んだよ……俺についてくんなっつってんだろう!!」
人の顔が幾つも浮かんだ。俺の方へと寄ってくる。何か言いたそうに口を開いては迫ってきた。
死んだ人間だった。影が無い。
俺に詰め寄る彼らに、頭を抱えて蹲る。
どうして俺ばかり。
何で俺の所に来る?
蹲った俺の側に、紫藤が寄った。
「その者は声までは聞けぬ。何ぞあるのなら私の所へ来い。話しくらいは聞いてやろう」
霊達が一斉に紫藤を振り返る。わらわらと群れた彼らに、腕を組んだ紫藤が何度も頷いた。
「お主等の気持ちはよう分かる。そ奴は連れていく故、静かに過ごせ。ただし、悪霊として彷徨う前に、心穏やかに逝くのだぞ?」
詰め寄る霊に全く動じていなかった。俺が捨てた札を拾い、額に当ててくる。ペタリと貼り付いた。
「何すんだよ!」
「お主の垂れ流しておる霊気のせいで、皆が困っておるのだ! 悪霊がここへ寄ってきておる!」
「だからって何だよ、この紙!!」
「札だ、馬鹿者が!」
「んだと!? やんのか!?」
「はい、そこまでです」
俺と紫藤の間に割って入った清次郎は、額に貼られた札をティシャツを引っ張って胸に貼り直してくる。
「これで少しは溢れている霊気を閉じ込めておける。家に着くまで我慢してくれ」
「…………行くなんて言ってねぇ……」
「お前が心配なのだ。ついて来てくれ」
くしゃっと短い金髪を撫でられる。
真っ直ぐな青い瞳が、微笑みながら見つめていて。
そっぽを向いても、見つめられているのが分かるほど、熱い瞳だった。
……負けた。
なんとなく、この男には逆らえない。
「……わーったよ。行けば良いんだろ、行けばよ……」
「そうか! 紫藤様、良かったですね!」
にこりと笑った清次郎に、紫藤がふんぞり返っている。
「清次郎が心配だと言う故、仕方なく入れてやるのだぞ! 清次郎の言うことはきちんと聞くように!」
「……あんたムカツク!!」
「お主程ではあるまいて!」
鼻息荒く言い放った紫藤は、ふいっとそっぽを向いて歩いていく。自分の荷物をまとめるように、パイプ椅子の方へと向かっていった。
その背中に霊達が寄っている。何か話しているのか、わらわら群れていた。
「……ちっ。うぜー」
「そう言うな。俺は驚いているんだぞ?」
ポンッと頭を叩かれる。見上げれば、青い瞳が笑っていた。
「紫藤様の家に、俺以外の者が泊まったことなど無いのだからな」
「……は?」
「心からお前を心配しているようだ」
肩を叩いた清次郎は、紫藤が四苦八苦しながらパイプ椅子を畳もうとしている側に駆け寄っている。紫藤の代わりにパイプ椅子を畳むと、手早く荷物をまとめ始めた。
紫藤蘭丸。
土井清次郎。
変わった二人だ。
でも、俺が見ている世界を彼らも見ている。
俺を追ってきた影を知っている。
そして、闘う方法も知っている。
「……ま、飯食わせてもらうか」
胡座をかいたまま空を見上げた。
チカチカと瞬く星達は、降ってきそうなほど輝いていた。
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