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第二章 小学生編
※※※(優兎視点)
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最初の印象は『凄く可愛い子』だった。
弟を抱いて、カッコいい兄達に囲まれた儚そうな女の子。
でも、その印象は直ぐに上書きされた。
悪い事には決して屈しない強さ、それにこの世に起こる全ての事象を理解しているのではないかと思うほどの賢さ。
彼女はきっと世間で言う所の『天才』なんだろう。どんなに努力しても無駄な僕とはきっと何もかも違う。
僕はそんな彼女に憧れを抱いていた。その強さが羨ましかったから。
なのに、そんな強い彼女はある時弱さをみせた。男の人が苦手だと。華菜ちゃんがそう僕に教えてくれた時の彼女は震えて怯えていた。
あんなに強かった彼女が見せた弱さ。
その姿が僕には堪らなく可愛くみえた。
彼女の他の面も見てみたい。
そう思う様になって、僕は彼女と一緒に行動するようになった。
彼女と一緒にいると楽しい。辛い事も苦しい事も。これから僕がしなければならない事も全て忘れさせてくれた。
今思えば彼女は僕を無意識の内に守ってくれていたのかもしれない。
昨日の夕方。
鴇さんの通う高校の白熱した体育祭――始終目が離せない体育祭だった―――が終わり、帰宅した白鳥家の家の前にいたのは僕の父様と叔母上だった。
一瞬にして僕に与えられた幸福な時間は霧散して消えた。
父様がずっと僕に言い続けていた言葉が頭の中を支配する。
『優兎の母様は殺されたんだよ。お祖母様に。優兎。私と一緒に敵を討とう』
敵を討つ。…そうだ。
僕は、敵を討つためにお祖母様に付いて日本に来たんだ。
けど…僕の脳内に疑問が過る。
―――本当に、お祖母様は母様を殺したんだろうか。
『優兎、今日の学校は楽しかったかい?』
『優兎、明日は鴇君の所の体育祭だろう?楽しんでおいで』
『優兎…』
そう言って僕の頭を優しく撫でるお祖母様は暖かくて…。そんなお祖母様が母様を殺すなんてそんな事出来るだろうか。
―――何を信じていいのか分からなくなった…。
その日の夜。皆で商店街のお祭りに行った時。
父様の部下らしき人とすれ違った。
誰も気付かない。当り前だ。けれど、僕は知っていた。彼がくれたお菓子に『僕への指示』が入っている事を。本来お菓子が入っている筈の袋の中にナイフが入っている事を。
もう、完全に信じるべき道を見失った。
考えるのも疲れてしまい、嫌になった。だから、僕は父様の指示に従った。
ナイフを持って、お祖母様の部屋へ忍び込み、刺そうとして…。けれど、それを彼女は止めた。
僕の名を呼んでしっかりしろと叫んで。
その瞬間ふと飛んでいた思考が戻り我に返った。
―――僕は一体何をしようとしてたんだろう。
―――誰を刺そうとした…?
―――僕は、…僕は人を殺そうとしたっ!?
人を殺すなんて許されない事だ。だから、母様を殺したお祖母様を父様は『罪人』だと言った。
―――だったら、今僕がやろうとしたことはっ…―――ッ!?
頭の中が真っ白になって、家を飛び出していた。
彼女が追ってきてくれていると知っていながらも、ひたすら走り続ける。
僕は―――僕が怖かった。
途中奏輔さんに呼び留められたけれど、それすら耳に入れたくない程に僕は、僕から逃げたかった。
逃げられないって知ってるのに。
公園へ飛び込むと、そこには父様がいた。
父様は僕に同じセリフだけを言う。
僕は素直にお祖母様に対する疑問を口にした。すると、父様は怒った。
母親への愛を失ったのかと。母への愛はその程度だったのかと。
そんな訳はない。僕は母様が大好きだった。本当に本当に大好きだったっ。
でも、…でもっ!
(でもっ、母様を殺す理由がお祖母様にはないんだよ、父様っ)
少しずつ僕の中で父様への疑問が違和感がパズルのピースみたいに一つになり始めている。
すると父様はそんな僕を宥める様に抱きしめて、僕に言った。助けてくれって、救ってくれって。
僕のただ一人の父様が苦しんでいる。
…父様を助けないと…。
僕の思考がまた停止し始めた、その時。
また彼女の声がした。
瞬間頬に痛みが走り、僕は後ろへ転ぶと同時に頬を叩かれたのだと気付く。
そんな僕を背に庇い、彼女は言った。
子供に人を殺させる親がどこにいると。
父様は彼女が子供な事を馬鹿にするように、鼻で笑うが、彼女は真っ向から父様と対峙した。
凛々しいその姿。けれど…その背中は震えていた。
男が苦手。彼女はそう言っていた。なのに、雨の中で苦手なはずの男である僕を庇い向かい合う彼女の姿は美しくて、戦女神のようで…その強さに目が離せない。
―――綺麗。
そう僕の心が訴える。でもそれ以上に、
―――愛おしい。
震えてでも僕を守ろうとする彼女が愛おしくて堪らなかった。
衝動的に手が伸びる。彼女に触れたい。
だが父様の声で僕の思考は現実に引き戻される。
父様が彼女を嘲笑うが、彼女の手の中に現れたものをみて動きを止め笑みを消した。
あれはお祖母様が日本へ来る際に僕に手渡してくれた母様の指輪。『約束の証』だよ、と。二つで一つの指輪なんだとお祖母様が言っていた。
どこかで落としたんだろう。それを彼女が拾ってくれたんだ。
茫然と彼女の背を見ていると、次の瞬間、もう二度と聞く事はないと思っていた、聞きたくて堪らなかった、優しくて暖かい声が耳に入って来た。
それはもういない、会う事の叶わない―――母様の声だった。
その言葉は僕を守れない事への懺悔のような言葉で、再び僕の脳内は混乱する。
すると、彼女は優しい声で。けれど、厳しい言葉を僕に言った。
「優兎。考えて。自分が信じるべきは誰か」
僕が今一番理解出来ない事を、目を逸らしている事を考えろと彼女は言う。僕は必死に首を振った。
それが分かったら僕はこんなに苦しんでない。でも彼女は更に言う。
「考える事から逃げちゃ駄目。目を逸らしては駄目よ。優兎。貴方は貴方の母親が残した言葉に向き合う義務がある。大丈夫。ちゃんと記憶を巡らせて」
逃げるなと。目を逸らすなと。
そんなの無理だよっ!
僕は君みたいに強くないんだ。賢くもない。例え記憶を巡らせたとしても、僕には無理なんだ。
そう、力の限り叫ぶと、彼女は言った。
「……大丈夫。大丈夫だから…。ねぇ、優兎?貴方の考える事は一つだけなのよ?」
穏やかな声で落ち着けと。大丈夫だからと。伝えてくれる。
僕は一体どうしたいのか、誰を信じたいのか。それだけを問うてきた。
きっと彼女は分かってるんだ。
誰が、一番重い罪を持っているのか。誰が裁かれるべき人なのか。
そして、僕にきちんと自分で事実に辿り着けるように、彼女は促してくれている。道を示してくれている。
僕は見ないふりをしていた。
でも、本当は…答えを知っていたんだ。
父様が母様を殺したと。
お祖母様が僕を助けようとして日本に連れ出してくれたと。
―――知っていたんだ。
そして僕が、僕自身が踏み切れない理由も。
だって、僕にとっては唯一の父親なんだ。だから―――…。
「父様…。一つ聞かせてください」
「なんだ?お前の言う事なら何でも答えてやろう」
「……父様は、彼女の手にある指輪が母様の指輪だと言った。婚約指輪だと。本当に…父様が贈った指輪ですか?」
違うと言って欲しかった。これは婚約指輪なんかじゃないって。偽物だって気付いて欲しかった。
そう一言言ってくれたら、僕はお祖母様を殺して、父様も殺して、自分も死のうと覚悟を決めた…そのつもりだった。
なのに、父様は…。
「勿論だっ。私は妻を愛していたんだから」
そう言って笑った。
僕は急激に脳内が冷めて行くのを感じた。
…父様の言葉は全て嘘だった。全部嘘だった。
一気に嫌悪感が身を支配した。こんな人殺しと同じ血が流れていると言うだけで僕は自分を嫌いになりそうだった。
笑みを浮かべて手を伸ばすその手を払い退けて、僕は彼女を背にかばうように前に出る。
「父様。貴方が本当に母様を愛していたのなら、僕は貴方に従った。例えそれが罪なのだとしても。でも…貴方は母様を愛してすらいなかったのですね」
僕の言葉に必死に言い繕うその姿はもう醜悪の極みだ。
今更言い繕った所で全てが白々しく聞こえるだけだ。
僕は吐き捨てるように叫んだ。
「僕がお祖母様から渡されたこの指輪は婚約指輪ではありませんっ。『婚約指輪に似せて作らせた偽物の指輪』ですっ!!叔父上と母様がお祖母様に『約束の証』として預けた指輪だっ!!僕はその約束の意味が分からなかった。でも…今やっと理解したっ!!これは、この指輪は…お祖母様と母様達が父様と叔母上の罪を明るみにさせる為に交わした『約束』の証なんだっ!!だから、僕にこれを託してくれたっ!!」
叫んだ所為ではぁはぁと息が荒くなる。
するとそんな僕を見て父様は笑いだした。その顔は醜く、恐怖が先立つ。
狂ったように何かを呟き突然僕は父様の片手で首を締め付けられた。
彼女が僕を助けようとするが、蹴り飛ばされてしまう。
僕の事はいい。
だから―――逃げて欲しいっ!
切に願った―――その時。
目の前の顔が何かに殴り飛ばされた。
突然放られて、地面に尻から落ちて急に与えられた酸素に咳き込みながら、父様がもう一発殴り飛ばされるのを茫然と眺める。
眼鏡のブリッジに中指を当て下がった眼鏡を整えて、僕達の側に歩み寄ってくれた、奏輔さんのカッコよさに思わず息を呑んだ。
無事かと問われ頷く。
奏輔さんは、誠さんを呼んだと言っていた。
確かに彼女の父親は来てくれた。その後ろにお祖母様を連れて。
思わず目を見開くと、お祖母様は泣きながら僕を抱きしめた。
「ごめんっ。ごめんよっ!守ってあげられなくてっ。優兎っ、優兎っ」
言葉が出なかった。
ただただ涙が溢れて止まらなくて、僕はお祖母様をきつくきつく抱きしめた。
彼女は奏輔さんとそれを見守ってくれて。奏輔さんに送られて、四人でずぶ濡れで家に帰ると佳織さんに盛大に怒られた。
正直滅茶苦茶怖かった…。
下手すると父様に怒られるより怖かったかもしれない。
でも、それも心配の裏返しだとするなら嬉しい。
お祖母様と二人自宅へ帰って、互いにお風呂で体を温めて、同じベッドで眠った。
眠るまでの間に、お互いの状態を確かめ合い、僕はその日初めて、安らかな気持ちで眠りにつけた。
全部彼女のお陰だ。
……なのに。
お礼を言いたくて彼女、美鈴ちゃんの部屋の前に来たのに、美鈴ちゃんは何故か出て来てくれない。
今日は学校も休みだから、出て来ないのも分からなくはない?
いや、でも。美鈴ちゃんはそんな人じゃない。ノックされたら必ず出て来てくれるはず。
もう一度、部屋のドアをノックすると、
―――ガタンッ。
部屋の中から何かが落ちる音がして、僕は悪いと思いながらも部屋のドアを開けた。
「…ゆぅ…と、く、…」
「美鈴ちゃんっ!?」
ベッドから落ちたであろう彼女に、驚いて慌てて彼女の側に駆け寄る。
「大丈夫っ!?」
抱き起すと、彼女の顔は真っ赤で。その額に手を乗せると焼ける様に熱い。
とにかくベッドへ寝せないと。
抱き上げると、彼女の軽さにまた驚かされた。まるで羽のような軽さだ。
ベッドへ寝せたのに、何故か彼女は起きようとする。
「だ、駄目だよっ、美鈴ちゃんっ!熱があるんだから、寝てないとっ!」
「だい、じょ、ぶ……。ねつなんて、ない、よ」
「そんな真っ赤な顔で説得力ないっ!待っててっ!今鴇さん達を呼んで―――」
「やめてっ!」
走りだそうとした僕を美鈴ちゃんは必死に止めた。
シャツを掴み行かせまいとする。
「おねがい、だから…しらせないで…」
「でもっ!」
「ゆうとくん…おねがい…」
僕は美鈴ちゃんの必死のお願いに頷くしか出来なかった。
せめてと思い、水分と薬を置いて部屋を出た。すると、直ぐに中から鍵がかけられてしまう。
このままでいいんだろうか…?
あんな状態で一人で?
美鈴ちゃんが風邪を引いたのは僕の所為だ。
雨の中を走らせたから。鴇さんの話ではお風呂上りだったらしい。そんな中あんな風に走り回ったら誰だって風邪を引く。
風邪の時は心細かったり、悪夢を見やすかったりする。
なのに、あんな美鈴ちゃんを一人にしていいんだろうか?
でも美鈴ちゃんは知らせるなと言った。お願いだからって。
なら黙っててあげるべきなのかもしれない。
そう思いながらリビングのドアを開けると、そこには珍しく誰の姿もなかった。
そうか。葵さんと棗さんは部活。鴇さんは体育祭の後片付け。誠さんはお祖母様と良子様と一緒に警察へ事情を説明しに行った。
となると残るのは旭と佳織さんだけ。でも佳織さんは昨日の騒ぎの後に、締め切りがと騒いでいたから仕事だろう。
…必然的に誰にも知らされない状況が出来てしまっている。
僕はとりあえず、大丈夫だと言う美鈴ちゃんの言葉を信じて、自室へ戻る事にした。
そして、翌日。
また美鈴ちゃんの部屋の前に行くと、事件は起きていた。
「鈴っ!!ここを開けてっ!!」
「鈴ちゃんっ!!」
一体何が起きたのか。
慌てて、駆け寄ると、棗さんと葵さんが必死にドアノブを回し、ドアを叩いて美鈴ちゃんに呼びかけている。
「ど、どうしたんですかっ!?」
「優兎…。昨日からずっと鈴が出て来ないんだっ」
「えっ!?」
「ドアに鍵がかかってて、昨日は大丈夫って言うから黙認してたんだけど。もう我慢出来ないっ。だって、さっきも中から派手な音が聞こえて」
ドアを破る事は出来る。でも、そんな事したら、ただでさえ男を怖がってる美鈴ちゃんは…。
それが分かるから、二人も強行できないのか。
だったらっ!
僕は急いで佳織さんの部屋に向かった。問答無用でドアを開けて、
「佳織さんっ!」
名を呼ぶ。すると彼女は跳ね起きた。
「優兎?」
隣で寝ていた誠さんも起きる。そうか。今日は誠さんも休みなのか。って今はそんな事どうでもいい。
「美鈴ちゃんが部屋から出て来ないんですっ!それに、中から派手な音がしたって葵さんがっ」
僕が事情を説明した瞬間二人の目の色が変わった。誠さんは携帯を取り出し、佳織さんはパジャマの上からカーディガンを羽織、急ぎ部屋へ駆け出す。
その後ろを慌てて追いかけると、
「美鈴っ!!開けるわよっ!!」
問答無用でドアノブをもぎ取り、穴から腕を通して鍵をあけ、佳織さんは中へ入っていった。
僕達もその後ろを追い掛けると、そこには美鈴ちゃんが床に倒れている。昨日よりも荒い息をして。確実に体調を悪化させて。
「誠さんっ!!車っ!!」
美鈴ちゃんを抱き上げて、廊下へ出る佳織さんは家中に響く声で叫ぶ。
階段を音を立てて駆け下り、玄関で待機していた誠さんと一緒に家を飛び出していった。
「優兎っ!後をお願いっ!」
「多分、直ぐに鴇兄さんが帰ってくると思うからっ!」
「任せてくださいっ!だから、速くっ」
双子の兄たちが頷き後を追いかけて行った。
途端に訪れる沈黙。
「優兎っ!一体どうしたんだいっ?」
「一体何があったのっ!?」
お祖母様と良子様が現れて、僕は事情を説明する。
そう言えば、旭君はっ!?
僕は急ぎ誠さんと佳織さんの部屋に駆け込み、旭君を連れて戻ってくる。
「…これだけの騒ぎだったのに眠ってるとは。大物だねぇ。旭は」
「確かに」
僕、旭君が起きてるの数回しか見た事ないかもしれない。
寝る子は育つと言うけれど、どこまですくすく育つんだろうか?今から少し楽しみだったり…。
それから美鈴ちゃんの現状が分からなくそわそわした僕は旭君を抱っこしたままリビングでお祖母様の淹れたお茶を飲みながらじっと連絡を待っていた。するとその空気を絶つようにチャイムが鳴った。
ドアを開けると、そこには奏輔さんが立っていた。
「よっ。鴇に頼まれて来たんやけど。上がってええか?」
「は、はい。大丈夫だと思いますっ」
奏輔さんなら誰も文句言わないだろう。
中へ促すと彼は勝手知ったるなんとやらで、すたすたとリビングへ向かう。
「祖母さま達。鴇からの伝言や。俺と鴇が話してる所に全力疾走してる双子が丁度通りかかってな。お姫さんが病院へ運ばれた言うの聞いてそのまま一緒に行ってもうたんや」
「まぁ、鴇ならそうだろうねぇ」
「で、こっからが伝言なんやねんけど」
「うん?」
「学校への説明よろしゅう、って言っとったわ」
「…………あ」
そう言えば今日は平日だった。鴇さん達は体育祭の振り替え休日らしいけど、僕達は月曜日の今日は普通に学校だ。
でも…チラリと時計を見たら時間はもう9時半過ぎ。完全に遅刻である。
「……仕方ないわね。こればっかりは」
そう言って、良子様は手を二度叩いた。すると、
「御呼びですか?大奥様」
「金山。私達家族は皆今日はお休みします。その旨を関係各所に連絡を」
「はっ、畏まりましたっ」
突然現れて突然金山さんの姿は消えた。
「あの人は…忍か何かか?」
奏輔さんの呟きに僕は危うく頷きそうになってしまった。
「ほんま謎のお人やで…」
もう一度頷きそうになってしまう。
良子様は普通に金山さんと話してるけど…。
そう言えば佳織さんも美鈴ちゃんも普通に話してたな。対等に。
「…やっぱり、美鈴ちゃんは凄いな…」
僕がぼそりと呟くと、突然頭の上に手が置かれた。
わしわしと撫でられて何だろと疑問に思えば、それは奏輔さんの手で。
「ちょお、良子祖母さま。旭預かっててくれへん?俺、優兎と話したいことあんねん」
「えっ?えっ?」
「ほれ、行くで」
旭君を僕から奪い取り、良子様に渡すと僕の手を引いてリビングを出た。
そのまま問答無用で階段を上り、ついた場所は美鈴ちゃんの部屋の前。
「なんや、これ」
奏輔さんの視線の先には破壊されたドアノブとドア。
「えーっと…佳織さんが…」
「あぁ。皆まで言わんでええ。佳織さん言うただけで納得や」
ドアノブとドアの破片を拾い、奏輔さんは遠慮もせず中へと入った。
い、いいんだろうか?
いや、僕もこの前入ったけど。でもあの時は非常事態だったし。
「優兎。ほら、これ見てみぃ」
手招きされて、足早に奏輔さんの側にいく。
本棚?正しくはボックス棚かな?奏輔さんと同じくらいの高さのある。そこにはびっしりと本らしきものが挟まっていた。
「本?」
「ちゃう。ノートや」
「ノート?」
近寄ろうとすると、奏輔さんが適当に数冊手に取って僕に渡してくれた。
「お姫さんの努力の結晶や」
「努力の…?」
手元に視線を向け、悪いと思いながらもそのノートを開く。そこにはびっしりと美鈴ちゃんの文字が埋め尽くされていた。
「一昨日、優兎は言うてたやろ。お姫さんは努力もせずに何でもやってのける、て。天才や、って。でもそんな事あらへん。お姫さんはな、優兎。これだけの努力をしとるんや。俺らや優兎に見えない場所でこれだけ努力しとるんよ。この棚全てノートや。この意味、分かるか?」
僕はこくりと頷く。
「優兎。お前も努力次第でこうなれるんや。…男なら踏ん張らなあかん。何時までも守られたないやろ?」
僕はもう一度大きく頷く。
「ほんなら、頑張り」
「はいっ!」
力一杯返事すると、奏輔さんは嬉しそうに僕の頭を撫でた。そして、小さく溜息をつく。
「優兎。姫さんらが帰ってきたらもう一悶着あるで。気ぃつけな」
意味が分からず首を傾げていると、奏輔さんは苦笑して、美鈴ちゃんの部屋の掃除を始めた。
僕も釣られて掃除を手伝う。暫くして皆が帰ってくると同時に奏輔さんは帰っていった。
それから一悶着の意味も理解した。
治療を受けた美鈴ちゃんを佳織さんが佳織さんの自室へ寝せた時に事は起きた。
布団をかけられて眠る美鈴ちゃんが魘されだす。
棗さんが彼女に触れようとしたら、佳織さんがそれを止めたのだ。
「棗、さがりなさい」
「え…?」
「今触れたら駄目よ」
「でも…」
「男が触れたら駄目なの」
はっきりと言い切ったセリフに全員が息を呑む。
「……か、さ…、…すけ…たす…」
魘された彼女の声が聞こえる。唸る声と同時に何か呟いている。
「……皆。ここは佳織に任せて出るぞ。私達にはやるべきことがあるだろう」
誠さんの言葉が理解出来ずに首を傾げていると、それに鴇さんが合点がいったと言う様に成程と頷いた。
「そうだな。俺達の可愛い妹と弟をこんな目に合わせた奴らに天誅を下さねぇと。なぁ、葵、棗」
「…うん。そうだね。鴇兄さん。優兎を辛い目にあわせて、鈴ちゃんをこんなズタボロにした報いを受けさせないと」
「優兎。どんな方法で仕返ししたい?あ、鴇兄さん、何か良いアイディアはあるの?」
皆笑顔で怖い事を言っているけれど、なんでだろう。僕は今嬉しい。
鴇さんが僕を弟と言ってくれた事。葵さんが僕の辛い目にあった事に怒ってくれた事。棗さんが僕の意見を聞いてくれた事。
まるで本当に家族みたいに受け入れてくれる事が堪らなく嬉しかった。
佳織さんに美鈴ちゃんを任せ、僕達はリビングへ向かう。
その間にも作戦会議は続き、リビングへ入るとお祖母様達もその会議に参戦し、金山さんまでもが参戦して会議は夜まで続いた。
途中金山さんが美鈴ちゃんの代わりに食事を作ってくれて、それを食べた…んだけど…。皆も言ってたけど、美鈴ちゃんの料理で舌が肥えてしまって美味しいんだけど何か違う感が半端なかった。
夜が更けて未だ作戦会議が続けられている中、僕はスポーツドリンクを持ってこっそりと会議を抜けだした。
佳織さんの部屋のドアをノックすると、「どうぞ」と声が聞こえて、そっとドアを開ける。
「あら。優兎。どうしたの?」
「これを…」
持って来たスポーツドリンクを渡すと佳織さんは優しく微笑み受け取ってくれた。
「美鈴ちゃんは…?」
「…朝よりは熱が下がったけれど、やっぱりまだ高くて…」
美鈴ちゃんがこんなになったのは僕の所為だ。雨の中あんなに走り回させたから…。
罪悪感がぐるぐると胸の内を巡り、僕は思わず腰を折って頭を深く下げた。
「優兎?」
「ごめ――」
「謝罪なら聞かないわよ?」
きっぱりと先手を打たれてしまった。
「貴方が謝るようなことは何一つないし、美鈴は自分の意志で貴方を追った。美鈴がこうなったのは自業自得。だから貴方が私に謝罪する必要はないわ」
「佳織さん…」
「それにね。優兎。私は誠さんにも口を酸っぱくして言ってるんだけど、子供の教育は親の義務よっ。皆も言ってたでしょう?悪いのは全部貴方の父親よっ。貴方じゃないわ」
こんなにはっきり言い切られるとは思わなかった。
美鈴ちゃんが良く言ってたな。ママは教育に厳しいって。本当にそうなんだ…。
ふんっ、と胸を張るその姿が、どこか美鈴ちゃんに重なり、親子だなと何だか面白くて笑えてしまう。
すると、佳織さんは僕から視線を外し眠る美鈴ちゃんへと向けた。
「…子供の教育は親の義務。分かってはいるのに、したくても出来ない時があるのよね…」
自嘲的に笑い、美鈴ちゃんに近寄ると、持っていたタオルで汗を拭いて、額にかかる汗に濡れた髪をそっと寄せる。
佳織さんのその行動を僕は遠くから眺めていた。きっと近寄ったら佳織さんが止めるだろうから。
じっとその行動を眺めていると、
「……っ、いやっ、……たすけ、てっ、…」
美鈴ちゃんが急に声を上げた。かけられた布団を握り、何かから逃げるように頭を左右に振る。
すると、佳織さんは急いでタオルを放り投げ、美鈴ちゃんのその手を握った。
「おか…、さんっ、…たすけ、……やめっ、おかぁ、さぁんっ…」
「『はな』っ。いるわっ。ここにいるっ。お母さんはここにいるからっ。大丈夫…。大丈夫よっ……『はな』」
震えている。佳織さんの声が…。もしかして、泣いているんだろうか…?
美鈴ちゃんの手を両手できつく握り、己の額にくっつけるその姿はまるで懺悔をしているような…。
安易に踏み入ってはいけない。そう思わせた。
僕は部屋をそっと抜け出し、リビングへ戻る事にする。
美鈴ちゃんは現実でも男に、夢の中ですら何かに怯えていた。
棗さんの話によれば、彼女は一人で寝ると悪夢を見るらしい。
(そんな美鈴ちゃんに風邪を引かせた…。眠らなければ体力は回復しない。でも眠る事で美鈴ちゃんには恐怖が襲ってくる。……僕の所為だ。だから、美鈴ちゃんの風邪が完治したらちゃんと謝る。僕が悪い。でも、それ以上に、父様…いいや、あの男が悪いっ!!)
僕は本腰を入れて、作戦会議に参加しようと決意して階段を駆け下りる。
(待っててっ。美鈴ちゃんっ!僕ちゃんとケリを付けてみせるからっ!それからっ…それから…)
リビングのドアノブに手を乗せて、ピタリと動きを止める。
(…美鈴ちゃんが男を意識するようになれたら、告白しよう。一目惚れだって。可愛いくて、凛々しくて、綺麗で、艶っぽくて、―――とても優しい君が大好きだって、伝えよう)
でも、今はその時ではないから…。
僕は真っ直ぐ前を見据え、勢いよくドアを開けた。
弟を抱いて、カッコいい兄達に囲まれた儚そうな女の子。
でも、その印象は直ぐに上書きされた。
悪い事には決して屈しない強さ、それにこの世に起こる全ての事象を理解しているのではないかと思うほどの賢さ。
彼女はきっと世間で言う所の『天才』なんだろう。どんなに努力しても無駄な僕とはきっと何もかも違う。
僕はそんな彼女に憧れを抱いていた。その強さが羨ましかったから。
なのに、そんな強い彼女はある時弱さをみせた。男の人が苦手だと。華菜ちゃんがそう僕に教えてくれた時の彼女は震えて怯えていた。
あんなに強かった彼女が見せた弱さ。
その姿が僕には堪らなく可愛くみえた。
彼女の他の面も見てみたい。
そう思う様になって、僕は彼女と一緒に行動するようになった。
彼女と一緒にいると楽しい。辛い事も苦しい事も。これから僕がしなければならない事も全て忘れさせてくれた。
今思えば彼女は僕を無意識の内に守ってくれていたのかもしれない。
昨日の夕方。
鴇さんの通う高校の白熱した体育祭――始終目が離せない体育祭だった―――が終わり、帰宅した白鳥家の家の前にいたのは僕の父様と叔母上だった。
一瞬にして僕に与えられた幸福な時間は霧散して消えた。
父様がずっと僕に言い続けていた言葉が頭の中を支配する。
『優兎の母様は殺されたんだよ。お祖母様に。優兎。私と一緒に敵を討とう』
敵を討つ。…そうだ。
僕は、敵を討つためにお祖母様に付いて日本に来たんだ。
けど…僕の脳内に疑問が過る。
―――本当に、お祖母様は母様を殺したんだろうか。
『優兎、今日の学校は楽しかったかい?』
『優兎、明日は鴇君の所の体育祭だろう?楽しんでおいで』
『優兎…』
そう言って僕の頭を優しく撫でるお祖母様は暖かくて…。そんなお祖母様が母様を殺すなんてそんな事出来るだろうか。
―――何を信じていいのか分からなくなった…。
その日の夜。皆で商店街のお祭りに行った時。
父様の部下らしき人とすれ違った。
誰も気付かない。当り前だ。けれど、僕は知っていた。彼がくれたお菓子に『僕への指示』が入っている事を。本来お菓子が入っている筈の袋の中にナイフが入っている事を。
もう、完全に信じるべき道を見失った。
考えるのも疲れてしまい、嫌になった。だから、僕は父様の指示に従った。
ナイフを持って、お祖母様の部屋へ忍び込み、刺そうとして…。けれど、それを彼女は止めた。
僕の名を呼んでしっかりしろと叫んで。
その瞬間ふと飛んでいた思考が戻り我に返った。
―――僕は一体何をしようとしてたんだろう。
―――誰を刺そうとした…?
―――僕は、…僕は人を殺そうとしたっ!?
人を殺すなんて許されない事だ。だから、母様を殺したお祖母様を父様は『罪人』だと言った。
―――だったら、今僕がやろうとしたことはっ…―――ッ!?
頭の中が真っ白になって、家を飛び出していた。
彼女が追ってきてくれていると知っていながらも、ひたすら走り続ける。
僕は―――僕が怖かった。
途中奏輔さんに呼び留められたけれど、それすら耳に入れたくない程に僕は、僕から逃げたかった。
逃げられないって知ってるのに。
公園へ飛び込むと、そこには父様がいた。
父様は僕に同じセリフだけを言う。
僕は素直にお祖母様に対する疑問を口にした。すると、父様は怒った。
母親への愛を失ったのかと。母への愛はその程度だったのかと。
そんな訳はない。僕は母様が大好きだった。本当に本当に大好きだったっ。
でも、…でもっ!
(でもっ、母様を殺す理由がお祖母様にはないんだよ、父様っ)
少しずつ僕の中で父様への疑問が違和感がパズルのピースみたいに一つになり始めている。
すると父様はそんな僕を宥める様に抱きしめて、僕に言った。助けてくれって、救ってくれって。
僕のただ一人の父様が苦しんでいる。
…父様を助けないと…。
僕の思考がまた停止し始めた、その時。
また彼女の声がした。
瞬間頬に痛みが走り、僕は後ろへ転ぶと同時に頬を叩かれたのだと気付く。
そんな僕を背に庇い、彼女は言った。
子供に人を殺させる親がどこにいると。
父様は彼女が子供な事を馬鹿にするように、鼻で笑うが、彼女は真っ向から父様と対峙した。
凛々しいその姿。けれど…その背中は震えていた。
男が苦手。彼女はそう言っていた。なのに、雨の中で苦手なはずの男である僕を庇い向かい合う彼女の姿は美しくて、戦女神のようで…その強さに目が離せない。
―――綺麗。
そう僕の心が訴える。でもそれ以上に、
―――愛おしい。
震えてでも僕を守ろうとする彼女が愛おしくて堪らなかった。
衝動的に手が伸びる。彼女に触れたい。
だが父様の声で僕の思考は現実に引き戻される。
父様が彼女を嘲笑うが、彼女の手の中に現れたものをみて動きを止め笑みを消した。
あれはお祖母様が日本へ来る際に僕に手渡してくれた母様の指輪。『約束の証』だよ、と。二つで一つの指輪なんだとお祖母様が言っていた。
どこかで落としたんだろう。それを彼女が拾ってくれたんだ。
茫然と彼女の背を見ていると、次の瞬間、もう二度と聞く事はないと思っていた、聞きたくて堪らなかった、優しくて暖かい声が耳に入って来た。
それはもういない、会う事の叶わない―――母様の声だった。
その言葉は僕を守れない事への懺悔のような言葉で、再び僕の脳内は混乱する。
すると、彼女は優しい声で。けれど、厳しい言葉を僕に言った。
「優兎。考えて。自分が信じるべきは誰か」
僕が今一番理解出来ない事を、目を逸らしている事を考えろと彼女は言う。僕は必死に首を振った。
それが分かったら僕はこんなに苦しんでない。でも彼女は更に言う。
「考える事から逃げちゃ駄目。目を逸らしては駄目よ。優兎。貴方は貴方の母親が残した言葉に向き合う義務がある。大丈夫。ちゃんと記憶を巡らせて」
逃げるなと。目を逸らすなと。
そんなの無理だよっ!
僕は君みたいに強くないんだ。賢くもない。例え記憶を巡らせたとしても、僕には無理なんだ。
そう、力の限り叫ぶと、彼女は言った。
「……大丈夫。大丈夫だから…。ねぇ、優兎?貴方の考える事は一つだけなのよ?」
穏やかな声で落ち着けと。大丈夫だからと。伝えてくれる。
僕は一体どうしたいのか、誰を信じたいのか。それだけを問うてきた。
きっと彼女は分かってるんだ。
誰が、一番重い罪を持っているのか。誰が裁かれるべき人なのか。
そして、僕にきちんと自分で事実に辿り着けるように、彼女は促してくれている。道を示してくれている。
僕は見ないふりをしていた。
でも、本当は…答えを知っていたんだ。
父様が母様を殺したと。
お祖母様が僕を助けようとして日本に連れ出してくれたと。
―――知っていたんだ。
そして僕が、僕自身が踏み切れない理由も。
だって、僕にとっては唯一の父親なんだ。だから―――…。
「父様…。一つ聞かせてください」
「なんだ?お前の言う事なら何でも答えてやろう」
「……父様は、彼女の手にある指輪が母様の指輪だと言った。婚約指輪だと。本当に…父様が贈った指輪ですか?」
違うと言って欲しかった。これは婚約指輪なんかじゃないって。偽物だって気付いて欲しかった。
そう一言言ってくれたら、僕はお祖母様を殺して、父様も殺して、自分も死のうと覚悟を決めた…そのつもりだった。
なのに、父様は…。
「勿論だっ。私は妻を愛していたんだから」
そう言って笑った。
僕は急激に脳内が冷めて行くのを感じた。
…父様の言葉は全て嘘だった。全部嘘だった。
一気に嫌悪感が身を支配した。こんな人殺しと同じ血が流れていると言うだけで僕は自分を嫌いになりそうだった。
笑みを浮かべて手を伸ばすその手を払い退けて、僕は彼女を背にかばうように前に出る。
「父様。貴方が本当に母様を愛していたのなら、僕は貴方に従った。例えそれが罪なのだとしても。でも…貴方は母様を愛してすらいなかったのですね」
僕の言葉に必死に言い繕うその姿はもう醜悪の極みだ。
今更言い繕った所で全てが白々しく聞こえるだけだ。
僕は吐き捨てるように叫んだ。
「僕がお祖母様から渡されたこの指輪は婚約指輪ではありませんっ。『婚約指輪に似せて作らせた偽物の指輪』ですっ!!叔父上と母様がお祖母様に『約束の証』として預けた指輪だっ!!僕はその約束の意味が分からなかった。でも…今やっと理解したっ!!これは、この指輪は…お祖母様と母様達が父様と叔母上の罪を明るみにさせる為に交わした『約束』の証なんだっ!!だから、僕にこれを託してくれたっ!!」
叫んだ所為ではぁはぁと息が荒くなる。
するとそんな僕を見て父様は笑いだした。その顔は醜く、恐怖が先立つ。
狂ったように何かを呟き突然僕は父様の片手で首を締め付けられた。
彼女が僕を助けようとするが、蹴り飛ばされてしまう。
僕の事はいい。
だから―――逃げて欲しいっ!
切に願った―――その時。
目の前の顔が何かに殴り飛ばされた。
突然放られて、地面に尻から落ちて急に与えられた酸素に咳き込みながら、父様がもう一発殴り飛ばされるのを茫然と眺める。
眼鏡のブリッジに中指を当て下がった眼鏡を整えて、僕達の側に歩み寄ってくれた、奏輔さんのカッコよさに思わず息を呑んだ。
無事かと問われ頷く。
奏輔さんは、誠さんを呼んだと言っていた。
確かに彼女の父親は来てくれた。その後ろにお祖母様を連れて。
思わず目を見開くと、お祖母様は泣きながら僕を抱きしめた。
「ごめんっ。ごめんよっ!守ってあげられなくてっ。優兎っ、優兎っ」
言葉が出なかった。
ただただ涙が溢れて止まらなくて、僕はお祖母様をきつくきつく抱きしめた。
彼女は奏輔さんとそれを見守ってくれて。奏輔さんに送られて、四人でずぶ濡れで家に帰ると佳織さんに盛大に怒られた。
正直滅茶苦茶怖かった…。
下手すると父様に怒られるより怖かったかもしれない。
でも、それも心配の裏返しだとするなら嬉しい。
お祖母様と二人自宅へ帰って、互いにお風呂で体を温めて、同じベッドで眠った。
眠るまでの間に、お互いの状態を確かめ合い、僕はその日初めて、安らかな気持ちで眠りにつけた。
全部彼女のお陰だ。
……なのに。
お礼を言いたくて彼女、美鈴ちゃんの部屋の前に来たのに、美鈴ちゃんは何故か出て来てくれない。
今日は学校も休みだから、出て来ないのも分からなくはない?
いや、でも。美鈴ちゃんはそんな人じゃない。ノックされたら必ず出て来てくれるはず。
もう一度、部屋のドアをノックすると、
―――ガタンッ。
部屋の中から何かが落ちる音がして、僕は悪いと思いながらも部屋のドアを開けた。
「…ゆぅ…と、く、…」
「美鈴ちゃんっ!?」
ベッドから落ちたであろう彼女に、驚いて慌てて彼女の側に駆け寄る。
「大丈夫っ!?」
抱き起すと、彼女の顔は真っ赤で。その額に手を乗せると焼ける様に熱い。
とにかくベッドへ寝せないと。
抱き上げると、彼女の軽さにまた驚かされた。まるで羽のような軽さだ。
ベッドへ寝せたのに、何故か彼女は起きようとする。
「だ、駄目だよっ、美鈴ちゃんっ!熱があるんだから、寝てないとっ!」
「だい、じょ、ぶ……。ねつなんて、ない、よ」
「そんな真っ赤な顔で説得力ないっ!待っててっ!今鴇さん達を呼んで―――」
「やめてっ!」
走りだそうとした僕を美鈴ちゃんは必死に止めた。
シャツを掴み行かせまいとする。
「おねがい、だから…しらせないで…」
「でもっ!」
「ゆうとくん…おねがい…」
僕は美鈴ちゃんの必死のお願いに頷くしか出来なかった。
せめてと思い、水分と薬を置いて部屋を出た。すると、直ぐに中から鍵がかけられてしまう。
このままでいいんだろうか…?
あんな状態で一人で?
美鈴ちゃんが風邪を引いたのは僕の所為だ。
雨の中を走らせたから。鴇さんの話ではお風呂上りだったらしい。そんな中あんな風に走り回ったら誰だって風邪を引く。
風邪の時は心細かったり、悪夢を見やすかったりする。
なのに、あんな美鈴ちゃんを一人にしていいんだろうか?
でも美鈴ちゃんは知らせるなと言った。お願いだからって。
なら黙っててあげるべきなのかもしれない。
そう思いながらリビングのドアを開けると、そこには珍しく誰の姿もなかった。
そうか。葵さんと棗さんは部活。鴇さんは体育祭の後片付け。誠さんはお祖母様と良子様と一緒に警察へ事情を説明しに行った。
となると残るのは旭と佳織さんだけ。でも佳織さんは昨日の騒ぎの後に、締め切りがと騒いでいたから仕事だろう。
…必然的に誰にも知らされない状況が出来てしまっている。
僕はとりあえず、大丈夫だと言う美鈴ちゃんの言葉を信じて、自室へ戻る事にした。
そして、翌日。
また美鈴ちゃんの部屋の前に行くと、事件は起きていた。
「鈴っ!!ここを開けてっ!!」
「鈴ちゃんっ!!」
一体何が起きたのか。
慌てて、駆け寄ると、棗さんと葵さんが必死にドアノブを回し、ドアを叩いて美鈴ちゃんに呼びかけている。
「ど、どうしたんですかっ!?」
「優兎…。昨日からずっと鈴が出て来ないんだっ」
「えっ!?」
「ドアに鍵がかかってて、昨日は大丈夫って言うから黙認してたんだけど。もう我慢出来ないっ。だって、さっきも中から派手な音が聞こえて」
ドアを破る事は出来る。でも、そんな事したら、ただでさえ男を怖がってる美鈴ちゃんは…。
それが分かるから、二人も強行できないのか。
だったらっ!
僕は急いで佳織さんの部屋に向かった。問答無用でドアを開けて、
「佳織さんっ!」
名を呼ぶ。すると彼女は跳ね起きた。
「優兎?」
隣で寝ていた誠さんも起きる。そうか。今日は誠さんも休みなのか。って今はそんな事どうでもいい。
「美鈴ちゃんが部屋から出て来ないんですっ!それに、中から派手な音がしたって葵さんがっ」
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その後ろを慌てて追いかけると、
「美鈴っ!!開けるわよっ!!」
問答無用でドアノブをもぎ取り、穴から腕を通して鍵をあけ、佳織さんは中へ入っていった。
僕達もその後ろを追い掛けると、そこには美鈴ちゃんが床に倒れている。昨日よりも荒い息をして。確実に体調を悪化させて。
「誠さんっ!!車っ!!」
美鈴ちゃんを抱き上げて、廊下へ出る佳織さんは家中に響く声で叫ぶ。
階段を音を立てて駆け下り、玄関で待機していた誠さんと一緒に家を飛び出していった。
「優兎っ!後をお願いっ!」
「多分、直ぐに鴇兄さんが帰ってくると思うからっ!」
「任せてくださいっ!だから、速くっ」
双子の兄たちが頷き後を追いかけて行った。
途端に訪れる沈黙。
「優兎っ!一体どうしたんだいっ?」
「一体何があったのっ!?」
お祖母様と良子様が現れて、僕は事情を説明する。
そう言えば、旭君はっ!?
僕は急ぎ誠さんと佳織さんの部屋に駆け込み、旭君を連れて戻ってくる。
「…これだけの騒ぎだったのに眠ってるとは。大物だねぇ。旭は」
「確かに」
僕、旭君が起きてるの数回しか見た事ないかもしれない。
寝る子は育つと言うけれど、どこまですくすく育つんだろうか?今から少し楽しみだったり…。
それから美鈴ちゃんの現状が分からなくそわそわした僕は旭君を抱っこしたままリビングでお祖母様の淹れたお茶を飲みながらじっと連絡を待っていた。するとその空気を絶つようにチャイムが鳴った。
ドアを開けると、そこには奏輔さんが立っていた。
「よっ。鴇に頼まれて来たんやけど。上がってええか?」
「は、はい。大丈夫だと思いますっ」
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「まぁ、鴇ならそうだろうねぇ」
「で、こっからが伝言なんやねんけど」
「うん?」
「学校への説明よろしゅう、って言っとったわ」
「…………あ」
そう言えば今日は平日だった。鴇さん達は体育祭の振り替え休日らしいけど、僕達は月曜日の今日は普通に学校だ。
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「……仕方ないわね。こればっかりは」
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「本?」
「ちゃう。ノートや」
「ノート?」
近寄ろうとすると、奏輔さんが適当に数冊手に取って僕に渡してくれた。
「お姫さんの努力の結晶や」
「努力の…?」
手元に視線を向け、悪いと思いながらもそのノートを開く。そこにはびっしりと美鈴ちゃんの文字が埋め尽くされていた。
「一昨日、優兎は言うてたやろ。お姫さんは努力もせずに何でもやってのける、て。天才や、って。でもそんな事あらへん。お姫さんはな、優兎。これだけの努力をしとるんや。俺らや優兎に見えない場所でこれだけ努力しとるんよ。この棚全てノートや。この意味、分かるか?」
僕はこくりと頷く。
「優兎。お前も努力次第でこうなれるんや。…男なら踏ん張らなあかん。何時までも守られたないやろ?」
僕はもう一度大きく頷く。
「ほんなら、頑張り」
「はいっ!」
力一杯返事すると、奏輔さんは嬉しそうに僕の頭を撫でた。そして、小さく溜息をつく。
「優兎。姫さんらが帰ってきたらもう一悶着あるで。気ぃつけな」
意味が分からず首を傾げていると、奏輔さんは苦笑して、美鈴ちゃんの部屋の掃除を始めた。
僕も釣られて掃除を手伝う。暫くして皆が帰ってくると同時に奏輔さんは帰っていった。
それから一悶着の意味も理解した。
治療を受けた美鈴ちゃんを佳織さんが佳織さんの自室へ寝せた時に事は起きた。
布団をかけられて眠る美鈴ちゃんが魘されだす。
棗さんが彼女に触れようとしたら、佳織さんがそれを止めたのだ。
「棗、さがりなさい」
「え…?」
「今触れたら駄目よ」
「でも…」
「男が触れたら駄目なの」
はっきりと言い切ったセリフに全員が息を呑む。
「……か、さ…、…すけ…たす…」
魘された彼女の声が聞こえる。唸る声と同時に何か呟いている。
「……皆。ここは佳織に任せて出るぞ。私達にはやるべきことがあるだろう」
誠さんの言葉が理解出来ずに首を傾げていると、それに鴇さんが合点がいったと言う様に成程と頷いた。
「そうだな。俺達の可愛い妹と弟をこんな目に合わせた奴らに天誅を下さねぇと。なぁ、葵、棗」
「…うん。そうだね。鴇兄さん。優兎を辛い目にあわせて、鈴ちゃんをこんなズタボロにした報いを受けさせないと」
「優兎。どんな方法で仕返ししたい?あ、鴇兄さん、何か良いアイディアはあるの?」
皆笑顔で怖い事を言っているけれど、なんでだろう。僕は今嬉しい。
鴇さんが僕を弟と言ってくれた事。葵さんが僕の辛い目にあった事に怒ってくれた事。棗さんが僕の意見を聞いてくれた事。
まるで本当に家族みたいに受け入れてくれる事が堪らなく嬉しかった。
佳織さんに美鈴ちゃんを任せ、僕達はリビングへ向かう。
その間にも作戦会議は続き、リビングへ入るとお祖母様達もその会議に参戦し、金山さんまでもが参戦して会議は夜まで続いた。
途中金山さんが美鈴ちゃんの代わりに食事を作ってくれて、それを食べた…んだけど…。皆も言ってたけど、美鈴ちゃんの料理で舌が肥えてしまって美味しいんだけど何か違う感が半端なかった。
夜が更けて未だ作戦会議が続けられている中、僕はスポーツドリンクを持ってこっそりと会議を抜けだした。
佳織さんの部屋のドアをノックすると、「どうぞ」と声が聞こえて、そっとドアを開ける。
「あら。優兎。どうしたの?」
「これを…」
持って来たスポーツドリンクを渡すと佳織さんは優しく微笑み受け取ってくれた。
「美鈴ちゃんは…?」
「…朝よりは熱が下がったけれど、やっぱりまだ高くて…」
美鈴ちゃんがこんなになったのは僕の所為だ。雨の中あんなに走り回させたから…。
罪悪感がぐるぐると胸の内を巡り、僕は思わず腰を折って頭を深く下げた。
「優兎?」
「ごめ――」
「謝罪なら聞かないわよ?」
きっぱりと先手を打たれてしまった。
「貴方が謝るようなことは何一つないし、美鈴は自分の意志で貴方を追った。美鈴がこうなったのは自業自得。だから貴方が私に謝罪する必要はないわ」
「佳織さん…」
「それにね。優兎。私は誠さんにも口を酸っぱくして言ってるんだけど、子供の教育は親の義務よっ。皆も言ってたでしょう?悪いのは全部貴方の父親よっ。貴方じゃないわ」
こんなにはっきり言い切られるとは思わなかった。
美鈴ちゃんが良く言ってたな。ママは教育に厳しいって。本当にそうなんだ…。
ふんっ、と胸を張るその姿が、どこか美鈴ちゃんに重なり、親子だなと何だか面白くて笑えてしまう。
すると、佳織さんは僕から視線を外し眠る美鈴ちゃんへと向けた。
「…子供の教育は親の義務。分かってはいるのに、したくても出来ない時があるのよね…」
自嘲的に笑い、美鈴ちゃんに近寄ると、持っていたタオルで汗を拭いて、額にかかる汗に濡れた髪をそっと寄せる。
佳織さんのその行動を僕は遠くから眺めていた。きっと近寄ったら佳織さんが止めるだろうから。
じっとその行動を眺めていると、
「……っ、いやっ、……たすけ、てっ、…」
美鈴ちゃんが急に声を上げた。かけられた布団を握り、何かから逃げるように頭を左右に振る。
すると、佳織さんは急いでタオルを放り投げ、美鈴ちゃんのその手を握った。
「おか…、さんっ、…たすけ、……やめっ、おかぁ、さぁんっ…」
「『はな』っ。いるわっ。ここにいるっ。お母さんはここにいるからっ。大丈夫…。大丈夫よっ……『はな』」
震えている。佳織さんの声が…。もしかして、泣いているんだろうか…?
美鈴ちゃんの手を両手できつく握り、己の額にくっつけるその姿はまるで懺悔をしているような…。
安易に踏み入ってはいけない。そう思わせた。
僕は部屋をそっと抜け出し、リビングへ戻る事にする。
美鈴ちゃんは現実でも男に、夢の中ですら何かに怯えていた。
棗さんの話によれば、彼女は一人で寝ると悪夢を見るらしい。
(そんな美鈴ちゃんに風邪を引かせた…。眠らなければ体力は回復しない。でも眠る事で美鈴ちゃんには恐怖が襲ってくる。……僕の所為だ。だから、美鈴ちゃんの風邪が完治したらちゃんと謝る。僕が悪い。でも、それ以上に、父様…いいや、あの男が悪いっ!!)
僕は本腰を入れて、作戦会議に参加しようと決意して階段を駆け下りる。
(待っててっ。美鈴ちゃんっ!僕ちゃんとケリを付けてみせるからっ!それからっ…それから…)
リビングのドアノブに手を乗せて、ピタリと動きを止める。
(…美鈴ちゃんが男を意識するようになれたら、告白しよう。一目惚れだって。可愛いくて、凛々しくて、綺麗で、艶っぽくて、―――とても優しい君が大好きだって、伝えよう)
でも、今はその時ではないから…。
僕は真っ直ぐ前を見据え、勢いよくドアを開けた。
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